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沖縄変える力と展望見出す
『原爆展物語』第2次公演
              読谷等で地域ぐるみの取組    2011年6月29日付

 【はぐるま座通信】 具志川高校全校鑑賞を皮切りに始まった劇団はぐるま座『峠三吉・原爆展物語』第2次沖縄県公演(主催/各地実行委員会)が、24日には読谷村文化センター、25日は本部町立中央公民館、26日はうるま市民芸術劇場でおこなわれた。各会場には小・中学生の子どもと訪れた親子連れや友人と連れ立った高校生、職場や地域から駆けつけた人人や戦争体験世代など幅広い層の人人が訪れた。終演後には「勇気をもらった」「力をもらった」と高揚して口口に語っていく姿がどの会場でも続き、「沖縄から声を上げ、全国が団結して立ち上がろう」と行動意欲に満ち満ちた感想が多く語られた。
 
 震災重ね全国と絆

 沖縄戦慰霊の日を前後して準備されてきた今回の公演は、米軍基地の拡張、強化や近隣国との緊張を煽る動きのなかで、沖縄戦をはじめ戦争体験をくぐってきた人人の現在の戦争政治に対する激しい警鐘とともに、沖縄や日本の現状について激しく語り合われ、戦争体験を語り継ぎ「死なないためのたたかいを命がけでやらなければならない」と力のこもったとりくみが展開されてきた。
 また東日本大震災や福島原発事故、その後の復興を巡って戦争体験と重ねて真剣に語り合われた。「福島原発で強制避難させられている人たちを見ると、66年前の沖縄戦で収容所に入れられ強制的に土地が接収されて基地にとられた体験と重なる」(読谷村、80代男性)、「東日本大震災と戦争が重なってくる。復興をめぐる政府のやり方に疑問を感じていた。なぜ復興税なのか。国が原発をつくり、事故を起こしても東電を保護して国民に負担させる。国の政治はいつもそうだ。かつての戦争もだれが起こしたのか、その責任をとっていない。ホワイトビーチに原潜が当然のように入るが、現在の沖縄の問題もあの戦争から始まって六六年間その状況が継続している」(うるま市、自治会関係者)、「米軍に払っている思いやり予算と住宅をすべて被災した人たちのために使うべきだ」と各地で語られた。
 実行委員には沖縄戦体験者をはじめ戦争体験者、遺児、退職教師、自治会長、老人クラブ、文化関係者、主婦、教師、PTA、青年団、商店主など全県で219人が連名。各実行委員長を沖縄戦体験者や退職教師が担い、それに呼応して現役世代やPTAがとりくみに参加してきた。
 読谷村、本部町、うるま市公演では実行委員長がそれぞれ開演挨拶をした。
 読谷村遺族会長である照屋勝男氏は、「広島、長崎の原爆で全世界で初めての原爆犠牲者になった日本。あれから66年経ち、東日本大震災と福島原発事故が起こった」ことにふれ、このような時期に読谷村で公演すること、前日は慰霊の日であることを感慨深げに語った。また、沖縄戦当時五歳であり、父がフィリピン海溝で戦死したこと、「鉄の暴風」といわれた沖縄戦で約30万人の尊い生命が奪われたとのべた。続けて、「生き残った遺族も年年高齢化し今年で県平均93歳、子どもたち遺児も72歳になっている。二度と戦争をしてはいけない。二度と遺族をつくってはならない。二度と遺児を増やしてはならない。平和な沖縄・平和な読谷をとり戻すために」とりくんできたことを力を込めて語った。
 本部町の上間一弘氏(温新会会長)は、おりしも台風五号の接近のなか、「沖縄戦は鉄の暴風といわれ3カ月間も続いた。今公演を待ちわびていたかのような台風到来で、これも公演のバック演出効果、天候も味方している」と話し、実行委員会は本部町、今帰仁村が一緒になって四十数名で会合を重ねてきたこと、「戦争体験者が少なくなり戦争の風化が危惧されるなか、戦時体験者はもとより若い世代、児童を含め一人でも多くの人たちに見てもらいたいとの強い願い」でとりくんできたとのべた。そして、「戦後日本は世界でも目覚ましい発展を遂げたものの、戦争の足音が徐徐に近づいてくるのを感じずにはいられない。この公演を通じ、戦争はなぜ起こったか、実体はどうであったかを今一度考え、話し合う機会としたい」と語った。
 うるま市の伊計光義氏(文化協会顧問)は、沖縄戦から66年だが、「米軍普天間基地の辺野古移設問題やオスプレイ配備の問題、先島の自衛隊基地拡張の動きなど、私たち戦争体験者は戦争の足音が近づいていることを感じずにはいられない。あの戦争と重なってくる」と話した。そして、「観劇を通じてともに考えていく好機としたい」と締めくくった。
 開演すると、舞台の進行とともに客席と舞台がうちとけた雰囲気となり、沖縄場面ではひときわ親しみ深い共感の空気が流れ、沖縄戦の体験が語られると涙を拭う姿も多く見られた。後半では一言も聞き漏らすまいと真剣に見入り、広島の平和公園の場面が終わると各所で拍手が起こった。原爆展スタッフが10年間の活動を振り返って語り合うエピローグ、そして峠三吉の『墓標』が朗読されて幕が下りると熱い拍手が鳴り響いた。
 終演後は晴れやかな表情で高揚して「勇気をもらった」「全国で頑張ってほしい」と劇団員に語りかけ、固い握手を交わして会場を後にする人人で沸いた。
 
 何十年居座る気か 各地の感想交流会で基地撤去論議に

 また各地の感想交流会では、戦争体験をはじめ「行動していきたい」と激しく語られた。
 うるま市公演後の感想交流会では、戦争体験者の男性が、「小学五年のとき古宇利島で牧草刈りをしたとき、米軍艦船が座礁していた。そこに機体を揺らして明らかに正常な飛び方でない日本の飛行機が飛んできて突っ込んでいったが、すぐに軍艦から雨嵐のような銃撃がやられ、瞬く間に海の中に落ちていった。本土から片道燃料で来た飛行機だった。あの飛行機を救い上げて遺族に渡してあげたいとずっと思ってきたが、劇を観てその意をますます強くした」と語った。
 30代の女性は、「市史編纂の仕事にかかわり始めて戦争のことなども聞く機会があったが劇を観て知らないことの方が多いことを知った。広島、長崎の体験も隠され、語られていないことの方が多いのだと思った。もっと知っていかないといけない」と話した。
 本部町の退職教師の男性は、「舞台が与えた影響は大きい。今から波紋が大きく広がるだろう。1人1人がこれではいけない、立ち上がろうとなり、子や孫たちにも話していくだろう。沖縄にはこれだけの米軍基地がある。普天間も黙っていたら動かない。沖縄県民が声を上げ、全国の人たちと一緒になってやらないといけない。力を与えてくれた。全国に広めてほしい」と語った。
 50代の母親は、「心揺さぶられる感動だった。鳩ぽっぽがいつのまにかサギになったり、かんかんがくがくだったりで、沖縄はアメとムチで自分自身諦めの心境になっていたときに観劇し、諦めてはいけない、声を上げること、どれだけ弾圧されても行動すること、それをやらないと平和は実現しないということをはっきりと思った。そして自分の思っていることを広げていくために実行委員になり、紙芝居などをおこなってきた。舞台を観て、また新たな感動、大きな勇気をもらった」と時折涙を流しながら強い口調で話した。
 別の50代の母親は、これから先のことを子どもたちと一緒に考えていきたいととりくみに参加し、子どもたちも真剣に観ていたと喜びを語り、「これからも継続したつながりをお願いしたい」とのべた。
 県内では、普天間基地の辺野古移設やオスプレイ配備の問題、北部の国頭村安波区への普天間基地代替基地誘致、先島の自衛隊基地拡張などが狙われている。うるま市のホワイトビーチに原潜が頻繁に入り、嘉手納基地を結ぶ軍用道路の建設がされている。戦争体験者からは「また戦争に向かおうとしている」と危機感が語られ、子どもを持つ親世代からも「ハリアーパッド建設を阻止した国頭村がそんなことを望むわけがない。舞台の台詞の“あと何十年居座るつもりかねぇ”ってその通りよ」(本部町、母親)、「大人しくしているが決して沖縄の人は諦めているわけではない。基地撤去までたたかう気持ちは今も燃えている」(読谷村、自治会関係者)と語られた。そして、今回の公演がその力を励ますものとなり、地域や学校を巻き込んだものに発展していった。
 
 

 舞台の内容を抜粋した紙芝居が公演開催地の小・中・高校や学童クラブ、公民館、自治会や老人クラブ、婦人会やPTA、職場、各種の会合や地域の催しなど、糸満市から今帰仁村まで全島で合計120回以上おこなわれた。とくに、教育関係者から「平和学習で沖縄戦のことだけやってきたが、それだけでは限界がある。もっと戦争の構造的なことを教えないといけないと思っていた」と共通して語られ、戦争の全体像と真実を伝えていくものとして意識的に紙芝居がとりくまれた。
 本部町では、読み聞かせの母親たちが学校の朝の読み聞かせの時間をはじめ、市場や公民館、地域の行事などにも積極的に参加して渾身の力を込めて迫真の紙芝居をおこなった。同時に「原爆と戦争展」が、各地の小・中・高校や公民館、博物館、海の駅、ショッピングセンターなどでとりくまれた。
 また、戦争をくぐり、土地斗争、復帰斗争をたたかった経験を持つ人たちが牽引力となってとりくみの柱となった。うるま市公演実行委員長の伊計氏は、「沖青協の代表として全国日青協大会に参加し、沖縄復帰運動に連帯する60枚もの日の丸の寄せ書きを持ち帰り、それが復帰斗争の旗印になった。小学校へのジェット機墜落事故が起きたとき、中学生たちが黙黙と動いて近所のおばあたちを運び出し、位牌を持ち出していたことは鮮明に焼きついている」と話した。
 師範学校を出た兄が沖縄戦で戦死し、母、妹と自分は兵庫空襲を体験して逃げ惑う日日だったという男性は、「昭和21年に沖縄に帰り、父が兄の遺骨を捜しに島尻に行ったがなにも見つからなかった。琉大在学中、米軍演習のため夜電気を消せとの米民政府の灯火管制令が全民家に出されたとき、仲間たちと学内のすべての教室の電気をつけた。米軍用地として土地を強制的に取り上げる土地収用令が1953年に交付された。それに基づく伊佐浜の土地取り上げに対し、学生として土地斗争もたたかった。プラカードに初めてヤンキーゴーホームと書き処分された第二次琉大事件にもかかわった」と話した。
 続けて、「直接米軍とのたたかいであり、もっとも鋭く激しかった。本当の沖縄のたたかいは土地斗争であり、反米の力ある斗争だった。当時は、教壇にひめゆりの生き残りやシベリア帰りの人たちが立っていて、みずからの体験を含め平和教育には相当な力が入っていた」とのべた。各地の実行委員会では、「がんばろう」や「沖縄を返せ」の歌を遠足先で大声で合唱していたことなども語られた。
 そして、第1・2次琉大事件や土地斗争、島ぐるみ斗争などが原水禁運動とつながって力強い大運動になっていったこと、復帰後の教育運動は組合運動で形骸化していったこと、現在の基地問題や戦争のきな臭さのなかでもう一度あのころのような島ぐるみの運動をやらなければならないと全身全霊で訴えた。
 読谷村では、とりくみ中盤に「福島原発事故があったなかで、刺激するようなものは自粛するべき」と「原爆と戦争展」開催に待ったがかかり、実行委員に名前を出すことにも難色が示された。だが、戦争体験世代が迫力を持って活動を開始し、「平和の問題は安保の問題だ。こちらが多数派だとやらないといけない」と積年の思いを共有しながら一軒一軒足を運び、村内の幅広い層が賛同して80名の人人が実行委員となった。「原爆と戦争展」も小・中学校で開催され、中学校では原爆展を成功させる沖縄の会の被爆者を招いての平和学習も同時におこなわれた。
 読谷村のPTAの父親は、「若い米兵が“日本人は平和ボケしている。だから自分たちが守ってやっている”といっていた。基地内ではクーラーつけっ放しで本国に帰ったりしている。こん畜生、今に見ていろという気持ちだ」と話した。

 市民生活切捨ても横行 万事が米軍優先

 うるま市では、4年前の2市2町の合併後、総合庁舎や中央公民館の建設など箱物ありきが進行し、学校統廃合問題や市民の生活手段であるバス路線の廃止など市民生活切り捨てが横行。市民の平均所得は100万円、税収は全国ワースト四に入り(ともに公務員を除く金額)、市民のなかでは第2の夕張になると懸念されている。昨年は子どもたちをめぐるいじめや暴力事件が起き社会問題となるなかで、毎回の実行委員会は「本音が語れる場所」としてこれからの街づくりと国のあり方について真剣な論議が交わされ、みんなの力でなんとか変えていきたいと切実に語り合われた。
 ある自治会関係者は、「米軍の脱走兵が出てくるので危険だということで自警団がつくられたのが自治会の起こりだ。基地があるために軍用地主がいて米軍目当ての住宅を建てて潤っている人もいるが、基地がなくなれば自分たちの力で復興できる。昨年亡くなった戦争体験者が、満州に行かされ南方に送られ、だまされて振り回されてきたと語っていた」と話し、「沖縄戦は必要なかったのか」と感慨深く語り実行委員会に参加した。
 本部町の父親は、「給食センターに勤めているが給食費の納付が年年厳しくなっている。親の責任ではなく、全国的に見て沖縄は就職口が少なく、とくに本部、今帰仁は経済状態が厳しい。米軍基地の補助金が出るところは給食費の無料もしくは第3子から無料を実施しているが、基地があるところには金があって、基地がないところにはお金がないというのはおかしい。基地内で働く人たちの雇用や土地代で生計を立てているなど、沖縄は長年米軍基地の補助金によってぬるま湯につからされて来た。だが基地があるために戦争になれば沖縄は攻撃の標的となり、第2の広島、長崎になりかねない」と語り、学校へ紙芝居の上演を働きかけ、実現していった。


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