中国の武術の起源は古く、その内容や形式は常に時代とともに変化し、時代時代で武術の特色も異る。同時に、武術の形式と発展という果てしなく長い過程では、軍事武術と民間武術の二分化が起り、また技撃的要素と健身的(トレーニング)要素とが依存・盛衰するという矛盾も一貫して存在していた。つまり、武術は特殊な文化の一形態であり、その発展の整史も複雑である。ただし、比較的はっきりしている点は、古代において金属兵器が戦争で主要な地位を占めていたことを考えると、武芸の祉会的価値は、第一にそれが戦や社会の衝突の中で、どれほど護身と殺傷効果があるかによって決まった。このため武芸の中心は自ずと実戦にすぐ使用できる兵器が中心となった。兵術の発展と変遷も、武器の形式の変遷と相互に影響を与え合い、密切な関係をもつ。この認識に基づき、歴代中日両国の刀剣術の交流活動の研究を、まず刀剣器の交流から着手することにする。
一般に、すでに周、春秋、から我が国で作られた刀剣などの兵器が日本に伝わったとされ、日本ではたびたび周、秦の古剣に似た銅剣が発掘されたという。その中には日本製のもあり、又、中国伝来のものもある。このことは中日両国人民の交流の早い時期に、刀剣兵器はすでに文化伝授と、心を結ぶ媒体の一つであったことの反映である。
 
 漢代になると、中国製の各種短兵器、特に鉄製の環首大刀(図二(2)参照)が大量に日本に流入し、日本の短兵器形式の発展に深い影響を与えた。
 
 環首大刀は西漢初期におこり、剣の基本形の上に発展して新式の短兵器である。漢代の鉄製環首大刀は、形が軽便で鍛造に優れ、実戦用の効果が大きかったため、日本の武士たちに格別人気があった。一九六四年、日本の大和櫟東大寺山の古い墓の中から、東漢中平年間(一八四〜八九年)に中国で作られた鉄製環首刀が一振り発見された。刀身には「百煉にして精剛、上は星宿に応じ、下は不祥をひらく開く」などの金字の銘文が刻まれている。刀の形、銘文のスタイルおよび刀質は、一九七四年に中国山東省倉山で出土した、東漢永初六年(一一二年)の鉄製環首刀と基本的には同じである。双方とも何度も加熱、鍛練をくり返し、表面に浸炭のある、良質な鉄を含んだ刀の工芸品である(1)。
 
 中平刀は殉葬品として日本の古墳から出土したが、これは墓の主が深くこの刀を愛していた証拠でもあり、また漢代の刀が日本に伝ったことの動かぬ物証でもある。『日本武器概説』の著者である未久雅准氏によれば、日本各地から多くの漢刀や漢刀を模倣した日本製の刀剣が出土しているという。氏は当時の日本の武士が用いた武器は「特に朝鮮半島を通って大陸より伝わってきた」(2)と考えている。
 漢刀が日本に大量に流入したことは、日本刀の製作に非常に大きな影響を与えた。日本古代の兵器史に関する著作に見える日本の古い刀の多くに漢刀の特長がはっきり見られる。『中国兵器史稿』の著者である周緯も、漢刀の模造晶は日本の随所にみられ、「数十器を収蔵している者も稀ではない」と述べている。
 
 古代中国の刀剣は、主に民間ルートで日本へ伝わったことは疑いないが、しかし場合によっては両国間の正式な往来を通じ、日本へ入ったものもある。『三国志』魏志の記載によれば、古代日本の耶馬台国の女王、卑弥呼が、魏の明帝曹睿の景初二年(二三八年)に、大夫の難丹米らを中国へ親善使節として遣わした。魏の明帝はこの友好使節たちを手厚くもてなしたうえ、珍しい送り物を贈ったが、その中には「五尺の刀二口」が含まれていた。その後、両国は使者を何度も交換したが、魏国の日本へのみやげ品の中には、必ず刀剣があった。この事実は三国時代、中国製の刀は依然として日本の人々に珍重されていたことを物語っている。日本の九州熊本県玉名郡蘭水町江田船山古墳から、かって漢文銘の刻まれた日本大刀が発掘され、日本の学者により五世紀中頃の遺物であると認定された。これはほぼ中国の南北朝時代にあたる(3)。この刀の発見は、中国刀剣の日本に対する影響は、三国時代以降もひき続いていることを証明している。日本の考古学者、小野勝年先生は、有名な正倉院の中には、多くの古代中国の刀剣が今なお保存されており、「献上物帳」には、「唐式大刀」「唐刀」などの名目(4)が記されていると述べている。これらのことから、歴代、中国の刀剣が日本に影響を与えた期間は非常に長く、少なくとも唐代まで、中国の刀剣が日本に引き続き入ってきたことが立証されよう。
 
 魏晋南北朝時代、大陸は打ち続く戦火に加え、統治階級の無慈悲な搾取と圧迫により、多数の勤労人民が祖国を逃れ、海を渡って日本へ移住した。日本の文献の記録によれば、当時、これら日本へ移住した中国人は、日本の為政者によってその技術に応じ各種の「べ部」に編入された。例えば、「石作り部」「土師部」「陶作部」の類で、いわゆる「部民」となったのである。武器を作れる者は、弓削り、矢作り、楯などの部に編入された。この外、日本の為政者は次々と人を大陸に派遣し、優秀な職人を招請したので、多くの中国人が招かれて日本に移り住んだ(5)。彼ら中国の職人たちの移住にょって、発達した中国の冶金精練技術と刀剣鋳造技術も日本に伝わり、これが日本刀の刀剣製造業に刺激を与えたであろうことは想像にかたくない。
 
 日本人民は外来文化の吸収に巧みで、向上心の強いことで有名な民族である。長期にわたって中国の先進的経験の学び、自己の創造的な労働を組み合わせた結果、日本の刀剣鍛造技術は急速な進歩をし、ついに中国を追い抜き凌ぐようになった。中国の春秋戦国時代の青銅花紋剣や、特に春秋末期に起って両漢に発達をとげた鋼鉄花紋剣刀は、かって比類なき鋭利さと精致さで世界に冠たる名剣として知られる。考古学の発掘では地下深く千年もの長い歳月眠っていても、まるで新品のように絢爛として刀の刃が目を奪い、国内外の人々に感嘆の溜息をつかせたものである。しかし歴代統治階級の無視と圧迫をうけ、この先進技術は唐宋以後、次第に衰退していく。これと反対に日本の花紋刀が頭角を現し、大いに異彩を放ち、「数百年来遠東屈指の坐を占める」(6)ととなった。
 
ほぼ唐代以後、日本刀は中国に輸出され始め、時代とともに輸出量も増大し、中国の刀剣に対する影響も日ごとに比重を増した。
 
『来史・日本伝』の記載によれば、早くも宋の太宗雍煕二年(九八五年)には、日本の名僧「然が来朝の礼遇に報いるべく、弟子の喜因を遣わして表敬訪問させている。喜因が宋室に贈った献上品の中には日本製の「鉄の刀」があった。実際には宋代、日本の刀剣は民間貿易を通じ絶え間なく中国に流入しており、中国の人々から「宝刀」の誉れを授かっていた。宋代の有名な文学者である欧陽修が詠んだ『日本刀歌』をみてみよう。
 

 
 昆夷の道遠くして複び通せず、
 世に伝わる切玉、誰をか窮め能わん。
 宝刀近く日本国に出で、
 買を越えてこれを滄海の東に得る。
 魚皮の装貼、香木の鞘、
 黄白に閑として雑わる(真)鍮と鋼。
 百金にて好事の手に伝え入り、
 侃服せば以て妖を凶けしむべし(7)。


 
 詩の意味は、中国古代の伝説で「玉を切ること泥を割る如し」といわれた昆吾の剣は、とうに失われてどこにいったか判らない(8)。しかしわずかに海を隔てた日本でその名に恥じぬ真の宝刀が造られた。詩人の讃美から、我々は日本刀の鋳造の面で優れているばかりでなく、装飾もきわめて精致であるため、「好事」家が金に糸目をつけず買い求め、争って身につけ威力を誇示しようとしたことを想像できる。「百金」は決してオーバーな表現ではない(9)。
 
 日本の「宇治拾遺物語」に「太刀十腰(ふり)をもって質とせば、唐人(末代の中国人を指す)より六七千匹の物を借りることができる」(10)。とある。当時の日本刀が実に高価であったことが十分にうかがえる。そして正にこのために、日本刀はついに対中貿易の主要輸出品日の一つとなり、宋朝だけでなく、元代でもそうであった(11)。

 明代に至り、日本刀の制作は精巧の極致に至り、名声は遠くにまで鳴り響いた。文献記録と、今日まで伝わる実物をみると、明代の日本刀は一般に刀身が長く、刀は紙のように薄く、比類なく鋭利で、握って振るととてもよく手になじむ。力を込めて刺撃すれば強敵なものをも切断できて、刀の形から観察すれば、日本刀が漢代の環首大刀の長所をとり入れ発展させたことがすぐに判る。幅や長さともに刺殺技により有利に改良されている。中国の短兵器が唐宋以来、整形が次第に雑になり刀身が増々厚く重くなっていったのに較べ、日本刀は外観上も実用的価値からも、確かに優れている。
 
長期間の情報交流と、倭寇侵略の実戦的験証によって、日本刀の優越性は明代の多くの軍事家、武術家、料学家および文学者たちの注目を集めた。
 
武芸に造旨の深い明代の政治家、唐順之はかって一振りの日本刀を手に入れ、世によく知られている「日本刀の歌」をしたためた。この讃歌に次の一節がある。
                                                                                                               

 客あり我に日本刀を贈る、
 魚鬚を鞘を作る青緑の縄
 重重の碧海を浮て渡来す、
 身上の龍文は藻行を雑う。
 悵然と刀を揚げ四顧を起こせば、
 白日高高、天は冏冏
 毛髪凛冽と(震え上がる)鶏皮(鳥肌)を生じ、
 坐せば炎蒸の日、方に永きを失う。
 道を開けば倭夷に初めて鋳して成し、
 幾歳、深井に埋蔵し投つ。
 日に陶し月を煉して大気尽き、
 一片の礎氷と清冷を闘う(12)。



 唐順之の描写で目の前に霜降りの冷たい光が骨を刺すような日本刀が浮かんでくるようであり、思わず毛肌が立って来て、炎蒸のたちまち鎮まる感を禁じ得ない。深井に埋蔵するというのは勿論、真実のほどは判らないが、しかし出色の刀剣は鍛煉に長時間を費やすのが常で、しかも特殊な処理を加えて始めて成功するもので、この点については中国の古籍でも記録が少なくない。清初の学者屈大均によれば、日本刀の刀身にはあやしい光を放つ色々な模様の刀文が浮き出されている。有名なものに龍寅細紋、螺施花紋、芝朝雪花紋などがある(13)。唐順之の詩にいう「身上の龍文は藻行を雑う」とは、恐らく「龍虎細紋」の一種であろう。彼の入手した刀剣はこれからすると確かに抜群の逸品であったようだ。
 
 唐順之のあと、劇作家の揚顕祖も「倭王刀子の歌」という詩をかいている。「倭王」が鋳造したと伝えられる一振りの日本刀を称えたものである。この外、明代の武術研究家である程宗猷は「(日本刀)は精巧で強靭な鍛錬がなされ、軽く便利で、鞘や把などどれも理にかなった製法で、他の刀の及ぶところでない。かつ磨きあげれば光り照くこと目を射るようで、思わず寒気をもよおさせる(15))といっている。傑出した科学者である宋応星も、「倭国の刀は棟の幅二分に及ばず、手の指の上に架けても傾かない。どんな焼き入れ方法を用いているか判らぬが、中囲にはまだ伝わっていない」とか「倭夷の刀剣は百煉精純にして、日のあたる檐下に置けば、満室を旭らし輝す者なり」撃と述べている。
 
 これら明代の著作にときおり見える言葉には、倭寇が沿海の人々に災難をもたらしたため「倭夷」などの蔑称を用いてはいるものの、表面的な紛争の中にも、明代の人々が日本人民の卓越した技量に村する敬意を読み取ることができよう。
 
 日本刀は中国の軍人、民間の幅広い愛顧を得たため、明代の日中貿易で日本側は「日本刀の輸出が首位を占める(17)」ことになった。当時、日本刀剣の中国への流入ルートは、主に二つあり、その一つが日本王室の明朝廷に対する貢献であった。明初、明の太祖は海寇の侵入と胡惟庸の日本への通内の罪にかんがみ、日本の朝貢品を一切受諾せず、海禁策を実行した。建文帝三年(一四〇一年)まで、日本は日中貿易を復活させようと使節を派
遣して友好の意を示し、「貢献品」も献じたが、その中に「剣十振り、腰刀一本」(18)も含まれていた。これ以後、献上品の刀は増々多くなり、確かな統計ではないが日本の足利朝の各将軍が明の英宗前の各皇帝に献じた刀の合計は一千二百余本ともいわれる。これら優れた日本兵器は明朝「御林軍(近衛軍)」専用として納められたもので、その遺品は今日なお目にすることができる。


                                                   
                   図一(1)                    図一(2)

(1) 明代に伝わった日本「長刀」。程宗猷『単刀法選』より模写。程氏曰く「倭刀を以て式とせば、刀は三尺八寸、肥は一尺二寸、長さ削ち五尺あり」という。
(2)明の朝廷軍所用の日本刀。周緯『中国兵器史稿』により模写。

 二番日のルートは「勘合貿易」である。明成祖に始まり、日本商人が「朝献」の名目で経常的に「私物を携え」貿易を行った。「私物」の中では依然として刀剣が多かったが、明政府は再三これに制限を加え、一回の「入朝」刀剣数量が「三千本を越えぬこと」とし、かつ勘合貿易は「十年に一回」と規定した。しかし日本刀の輸出は昔から莫大な利益を得られ、「日本刀の値一本八百文或は一貫文、明土に携えれば別ち五貫文」(20)という具合であった。このため長い間、日本の商船は勘合制度を守らず、持参する刀剣も増えこそすれ減らなかった。記録によれば、第四次勘合貿易船は三万本、第六次は三万六千本の刀を持ってきている。記録に見えるだけでも十一回の勘合船の入港で、中国に抽出された日本刀は合計二十万本余りとされ、驚くべき数字である(21)。
 
 明代このように大量に日本可が流入した以外に、政府は模造にも力を注ぎ、太祖洪武年間には「軍器局」制作の各種の刀の中に「倭滾刀」という名目がみえる。明の武宗正徳年間、智臣江彬が「兵杖局」に命じて「倭腰刀一万二千本、長柄倭滾刀二千本」(22)を作らせた。嘉靖年間、倭寇の被害が激しさをきわめ、戚継光、兪大猷らの提唱推薦で、日本式の長刀、腰刀が中国軍の主要装備の一つになった。このような大量の使用に日本からの輸入だけで足りるはずがなく、主体は中国自身の製造に頼らねばならない。兵器史家の周緯は、中国兵器史上、明代の武器は日本刀の使用と模造で一大特色をなすと述べている(23)この論断は歴史的事実と確かに一致している。
 
 以上から、明代は大量の日本刀を輸入、模造した点で、日本人が漢刀を使用、模倣した漢代と好対照であるのが判かるであろう。これは中日両国の刀剣兵器が過去、互いに影響し合い、刺激を与えつつ発展してきたことを証明している。



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