ロックンロール 武将列伝


2003年06月03日
上杉謙信(1530~1578)


このページは、私の趣味的興味対象でもある戦国時代の武将の生きざまを
ロックンロール的視点からご紹介しようという知らない人には全く面白くも何ともないコーナーです。

えらく久々になってしまった「ロックンロール 武将列伝」ですが、
今回は、戦国武将の中でも超メジャーにして、もっとも軍略に優れた、ご存知「上杉謙信」です。

「上杉謙信」というと、誰もが宿敵:武田信玄との戦いを思い起こすと思いますが、
まさしく、この「上杉謙信」こそ、三度のメシより戦が好きという、武闘派中の武闘派です。
「上杉謙信」は、元々、越後守護代:長尾家に生れ、当初、家督は兄が継いだのですが、家臣団の争いにより、
1548年には長尾家当主にまつりあげ、ここから「謙信」の戦いの歴史が始まって行くわけです。
1552年には相模の北条氏に追われた関東管領・上杉憲政をかくまい、1561年には、その憲政から正式に関東管領職と上杉姓を譲られ、
「上杉謙信」という名が誕生するわけです(正確には政虎、のち輝虎と改称、入道して謙信)。
そして、1553年には、武田信玄に追われた北信濃の村上氏・高梨氏らから救援要請をうけ、信濃・川中島に出兵。
以後5回に渡る川中島の合戦を繰り広げることになります。また、毎年のように関東にも出陣し、北条氏との戦いも継続していきます。
さらに、宿敵:武田信玄が没すると、越中から能登に勢力を延ばし、織田信長と衝突。
1577年には織田軍を加賀で打ち破っることにも成功します。
しかし、1578年、春日山城内で急死してしまいます。
天下統一を目論んでいた信長にとって、信玄と「謙信」の死が好材料となったことは言うまでもありません。
「上杉謙信」は禅を修め、真言宗にも帰依し、とくに戦いの神「毘沙門天」への信仰が厚かったことは有名ですよね。
「謙信」のように軍略という秀でた才を持つと、信仰に走るのでしょうかね?
ロックの世界にもプレイに熱く、信仰心が深いギタリストがいますよね?
そう!カルロス・サンタナです!
攻撃的なラテン・グルーヴに始まり、数年前のグラミー受賞まで、紆余曲折はあったものの、
常にギターを抱えて戦いつづけるその姿は、ある種、武将的な姿を映し出しているようにも思いませんか?
信仰心を抜きにすれば、ジェフ・ベックもこの手のギター武闘派の代表でしょうね。




2002年11月13日
大谷吉継(1559~1600)


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今回の武将は、みなさんからのご要望も多かった戦国一義に厚い「大谷吉継」です。

「大谷吉継」を語る上で、最もクローズアップされるのは、ご存知のように石田三成に加勢し、関ヶ原に散ったことですが、
この「大谷吉継」、頭角を現すのは秀吉と柴田勝家が戦った賎ヶ岳の合戦。
俗に賎ヶ岳の七本槍と呼ばれるメンツには入っていませんが、
豊臣政権でのその後の待遇をみれば、その功績の大きさがうかがえます(越前敦賀城主:五万七千石)。
そんな「吉継」ですが、朝鮮出兵中に癩病が判明。
第一線からは身をひきますが、豊臣政権の中枢として立場は変わらず、このときに石田三成とも親しくなっていきます。
秀吉の死後、徳川家康の勢力拡大に異議を唱えていた豊臣政権の重臣たちの反発が関ヶ原の戦いを生んだのは周知のことですが、
その首謀者はご存知のように三成です。
「吉継」は、はやまる三成を説得し、挙兵をやめさせようとしましたが、
三成の意志の堅さに最終的には三成と運命をともにすることを決断するわけです。
関ヶ原の合戦に備えるさまざまな策略には、「吉継」の意見が反映されているといいます。
しかし、ある意味「吉継」の予想通り、三成(名目上は毛利輝元)率いる西軍は、善戦空しく敗戦。
「吉継」も小早川秀秋の離反を契機に、その地で最期を迎えることになったのです。

「大谷吉継」を戦国史的に見ると、やはり義の武将ということになると思いますが、
ある意味、その後の大坂の陣で豊臣方に加わった武将のように、死場所を求めていたのではないかとも思います。
混沌とした時代を生き抜いた末、選んだ方向は自虐的な道。
どこか、ジム・モリソンを思い浮かべてしまいますが、奇才は、そんな時代に生まれてくるのかもしれません。




2002年10月06日
本多忠勝(1548~1610)


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今回の武将は、「家康に過ぎたるものがふたつあり、
唐の頭に本多平八」という歌でも有名な徳川家康の重鎮にして猛将として名高い「本多忠勝」です。

「本多忠勝」が武勇に優れた武将として有名なのは、
なんといっても、生涯57回の戦において刀傷をひとつも受けなかったとされていることでしょう。
また、家康の初陣から関ヶ原の合戦まで常に家康とともに行動し、家康躍進の功労者でもあります。
姉川の合戦に於いては、苦戦する信長・家康連合軍の中、単身朝倉軍に挑み、
それを救おうとした家康軍の猛攻を促し、結果的に信長軍の反撃を誘ったという逸話も残ってたりします。
さらに、関ヶ原の戦後処理の際、親戚関係にあった真田親子の助命を願い出て、
「助命なくは殿(家康)と一戦つかまつる」と啖呵を切ったとも言われています。
つまり、戦国時代の主従関係において、自分の力量を認めさせ、その力量を最大限発揮したのが、この「本多忠勝」と言えるでしょう。
どうです? かっこよくないですか?
武将のアイデンティティの主張の仕方にもいろいろあるわけですよ。
ストーンズがミックだけでは成立しないように、
家康も「本多忠勝」ナシでは、大成しなかったのかもしれません。

ロック同様、人と人の出会いの奇蹟が歴史を作っていくのですよ。
バンドの中の自己主張の奇蹟、それが、すばらしい音楽を生んで行くんですよね。




2002年08月14日
古田織部(1543~1615)


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今回の武将は、茶人大名として名を馳せ、織部焼きにその名を残す「古田織部」です。

「古田織部」という人物は、戦国武将の中ではどちらかというとマイナーな存在ですが、
信長・秀吉・家康・秀忠という戦国から江戸時代への流れを作った武将に仕えた、言わば戦国時代の生き証人的存在の人物です。
また、一方では、千利休が完成させた町人好みの侘びの茶道を武人好みの様式に改良した人物として知られています。
織部焼きという焼ものを知っている人も多いでしょう。
「古田織部」の茶の湯は、利休の侘びの精神を継承しながらも、自由な精神による茶の湯。
表面に即興的な絵を施した奇妙にゆがんだ茶碗や向付は、
一定の形式にとらわれていた当時の日本人の価値観を一変させたものと言われています。
このへんのマインドは、まさにロックンロールですよね。
既成概念に対する新たな視点と異なった発想は、常に新しいものを生む。そして、その発想は、新しい価値観を生む。
そんな創作意識を「古田織部」は、教えてくれています。
ちなみに、「古田織部」の様式は「織部好み」と呼ばれ、
茶の湯文化に関連する、建築、造園、料理、製紙などのあらゆる職人技術、産業領域にも影響を与えています。
そして、その代表的産物である織部焼はいまでは日本全国の料亭や各家庭にまで普及し、
また織部が茶室の造営に発揮した感覚は、今日の日本人の住宅様式の中に生きているというわけです。

既成概念に対する新たな視点と異なった発想、
ロックンロールが忘れてはならない概念を「古田織部」は教えてくれています。





2002年08月06日
後藤又兵衛(1560~1615)


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第4回を数えた今回の武将は、戦国後期を槍一筋で生き抜いた豪傑「後藤又兵衛」です。

もともと「後藤又兵衛」は黒田官兵衛(如水)の家臣として、その武名を上げたわけですが、
関ヶ原の合戦後、如水の跡を継いだ長政とそりが合わず、
自分から黒田家を飛び出して浪人したという変わり種です。
もちろん、武勇に優れた豪傑として知られていた「又兵衛」ですから、登用したいという大名は多かったわけですが、
「又兵衛」はかたくなに浪人をつづけ、大坂の陣になって、初めて大坂城の門をくぐるんです。
しかし、夏の陣に至って、そこで戦死。
「又兵衛」は、最後まで戦うことに固執した武将だったのです。

戦国時代も末期になると、戦いそのものより政治工作が戦いのウエイトを占めるようになっていましたが、
「又兵衛」のような武闘派は、最後まで自分の腕で人生を切り開こうとしていたんですね。
だから、「又兵衛」は、ある意味、武将としての死場所を大坂城に求めたのだと思います。
それは、武士の華たる死場所。自分が最も栄えるところで「又兵衛」は、最期を迎えたかったのだと思います。

死んでいった多くのロック・ミュージシャンは、その最盛期にこの世を去っていますよね。
もちろん、それを望んだわけではないけれど、
クリエイティヴィティとプレッシャーの中で孤独に戦うミュージシャンは、
どこかで死場所を意識しているのかもしれないと思いませんか?
その昔、デヴィッド・ボウイは言ってましたよね。
「ステージの上で殺されたい」と、、、。




2002年07月24日
山中鹿介(1544~1578)


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ロックンロール武将列伝第3回は、
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」という言葉に象徴される戦国一の不屈者「山中鹿介(鹿之介)」です。

この「山中鹿介」は、戦国中期の山陰の雄:尼子国久の重鎮で、
毛利元就の富田城攻略で破れ去った主君尼子の再興に一生を捧げた忠義の武将です。
国久の次男:勝久を還俗させての出雲進出、信長との協力態勢を作っての因幡攻略など、
その行動は、つねに尼子氏再興に注がれたわけですが、
この行動に、武将としての強い信念(それは、打倒毛利ということかもしれませんが)を感じるのは、私だけではないでしょう。
天下が、信長対反信長という形勢をせいしている中、
この「山中鹿介」は、己の信念だけで、この乱世を生き抜いていきます(最後は、宿敵毛利に殺害されますが)。
この不屈の精神、そして、時流に流されない行動に、ロックンロールを感じませんか?
ともすれば、流行を追いかけがちな昨今の音楽シーンにもこういう野太い野郎がいてもいいですよね。
でも、ロックの歴史には、そんな不屈の精神と時流に流されないすばらしくクレイジーな輩がおります。
そう! ニール・ヤングです。
もちろん、「山中鹿介」のような忠義心というものを感じることはありませんが、
ニール・ヤングが示すマインドというのは、かっこたる自分の意志を反映しています。

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」。
ロックンロールも常に何らかの戦いの音楽かもしれませんね。




2002年07月15日
藤堂高虎(1556-1630)


このページは、私の趣味的興味対象でもある戦国時代の武将の生きざまをロックンロール的視点からご紹介しようという
知らない人には全く面白くも何ともないコーナーです。

ロックンロール武将列伝第2回は、
外様大名ながら、日光東照宮では、家康像のとなりにその像が置かれているという徳川幕府成立の功労者「藤堂高虎」です。

この「藤堂高虎」、戦国時代、最も有名なことといえば、とにかく主を変えまくったこと。
つまり、あっちこっちの戦国大名・武将に仕えては、去っていったということです。
有名なところでは、浅井長政、磯野員昌、織田信澄、羽柴秀長、羽柴秀吉、徳川家康といったところ。
言ってみれば、世渡り上手とも言えないでもないですが、もしかしたら、武将の自我に走るのではなく、
その時代その時代にもっとも適した場所に身をゆだねていたということもできるでしょう。
ちなみに、この「藤堂高虎」には、大きな武勲はありません。つまり司令官ではないわけです。
そんな性格が、最終的には家康の参謀的存在になっていったわけです。言わば、名脇役といったところでしょう。
江戸時代に入り、多くの外様大名が失脚していく中、藤堂家は幕末まで、その家紋を守り通しています。

ロックの世界にもいますよね、そういう感じの名脇役。
多くのバンドを渡り歩きながら、常にそのバンドに影響を与えている人、
そう! ジョン・ウェットンなんてその最たる例かもしれません。
己の志向を拡大して主張するより、チームが生み出す志向を高めるために動くこと、
それは、単に管理されるということではなく、自分のテリトリーをどこにどのように作るかということです。
「藤堂高虎」は、自己の考えを家康に投影したのかもしれません。
ただ演奏がうまいだけじゃロックンロールの道は開けないんですよ。
「藤堂高虎」のような人物がいると、そのバンドは成功に近づけるのかもしれませんね。




2002年07月08日
明智光秀(1528?-1582)

このページは、私の趣味的興味対象でもある戦国時代の武将の生きざまをロックンロール的視点からご紹介しようという
知らない人には全く面白くも何ともないコーナーです。
第1回に登場するのは、戦国時代最大の悪役として有名な「明智光秀」。
ご存知のように、「明智光秀」は織田信長を討った人物として悪名が高いわけですが、
その本能寺の変を含んだ彼のさまざまな行動に、私はロックンロールを感じてしまいます。
室町最後の将軍となる足利義昭を信長に引合せ、上洛のダンドリをしたのは光秀ですし、
比叡山焼き討ちに最後まで反対したのも光秀でした。
光秀は、時の実力者を利用して、自分の夢見る社会を作ろうとしていたのではないかと私は思います。
戦国という時代を将軍や信長を使って終わらせたい。そんな気持ちが、最終的に暴走を始めた信長に待ったのではないでしょうか?
事実、光秀に関して出世欲とか領地拡大といった論評は、あまり聴かれません。
光秀は、戦国時代を終わらせるために行動した武将なのかもいれません。
ちなみに、“光秀天海説”という光秀生存説があります。
これは、徳川家康のブレーンとして活躍した天海という僧侶(日光東照宮を建てた人)が、実は光秀だという説なんですが、
最終的に戦国を終わらした家康に力を貸したというところに、私は光秀のロマンを感じます。
まっ、ひとつの夢を追いかけることもロックンロールのマインドですよ。ちなみに“光秀天海説”、信憑性は低いようです。