地球の大気に酸素という成分が入ったこと、それは両刃の剣だったと言えます。
酸素のおかげで、生きるのに大きなエネルギーを必要とする複雑な高等生物が進化することができました。
しかし同時に酸素は、生物にとって毒にもなりうるのです。酸素呼吸という能力は、ミトコンドリアというものを手に入れることによって獲得できた能力だといわれ、大きなエネルギーを得られますが、生物は同時に酸素から身を守る能力を身に付ける必要に迫られることになりました。
酸素というのは、本来はとても安定した物質なのですが、ラジカル化と呼ばれる不完全な還元を受けやすく、非常に強い酸化力を持つ活性酸素となります。
細胞内で、活性酸素は遺伝子に悪影響を及ぼしたり、機能障害を引き起こしたりすることがあります。それは細胞死を招いたり、加齢を早めたりすることにつながります。
ミトコンドリアは、真核生物の細胞の中で呼吸をつかさどり、細胞の動力源として機能しています。ミトコンドリア利用はとても効率の良いエネルギー獲得法なのですが、それ以上に、呼吸の場をそこに限定することで、細胞の他の部分を酸素から守るという意味合いが大きいとも考えられています。
今からおよそ10億年前、最初の多細胞生物が出現したころ、大気中の酸素濃度は現在よりずっと低かったはずですが、それで生命に害を及ぼす危険性があるほどの活性酸素が発生するには十分な濃度でした。
それでも、当時の生物は循環システムも未発達でしたので、呼吸をミトコンドリアに任せておけば、組織の酸素要求量が満たされると同時に、細胞内の酸素濃度を低くして活性酸素の発生を防ぐことも可能になります。
しかし地球大気の酸素濃度が上昇し、それに伴う進化によって生物が高等で複雑になってくると、もっとしっかりと酸素から身を守る必要性が出てきました。
空気呼吸をする生物では、主に血中の二酸化炭素濃度によって酸素の摂取量が制御されています。周りの空気の酸素濃度が大きく変化することはあまり無いので、これは理にかなった方法です。
しかし水中で呼吸する生物の場合は、酸素の摂取量は周囲の酸素濃度に応じて変化することになります。通常、水中の酸素濃度は空中のおよそ30分の1しかなく、少し消費されただけでも局所的な酸素濃度は著しく減少します。一方、水中の二酸化炭素濃度は炭酸水素塩の緩衝作用により、おおよそ一定に保たれています。
海洋生物の多くはoxyregulation、すなわち、環境が変動しても呼吸や代謝の能力を一定に保って生きています。しかし原始的な種の中には、oxyconformity、すなわち、周囲環境の酸素濃度に応じて酸素摂取量を変えられるものが存在します。
海洋の無脊椎動物には、自ら代謝速度を遅くすることによって、酸素が欠乏しても生き抜くことができるものが存在します。
理由はよく分かっていないのですが、学名をArctica islandica(下の追記参照) というハマグリに似た二枚貝はわざわざ酸素の足りない沈殿物の中にもぐりこむ性質を持っています。そして心拍数を通常の10分の1にまで減らし、エネルギー消費を減らした状態で、220年も生き抜くことができるといわれています。
沈殿物の中から這い出してくると、Arctica islandicaの細胞内のミトコンドリアは呼吸を活発に始めます。そうして活性酸素が発生するようになると、酸化防止剤となる酵素が出現するのだと考えられています。Arctica islandicaはわざわざ酸素の欠乏した泥風呂に入ることで、ストレスに対する防衛力を強化しているのかもしれません。
酸素濃度が減少しても耐えて生き抜くためには、環境に応じて酸素摂取量を変えられる方が確かに有利です。しかしこうした生き方にはエネルギー的な限界があり、あまり活発な生き方はできないようです。
環境によらず呼吸の能力を一定に保つことで、エネルギーや酸素が豊富な環境において、生物はエネルギー的な限界を打ち破って繁栄することに成功しました。しかし、喜んでばかりもいられません。
こうして発展した脊椎動物の場合、酸素が欠乏すると、細胞ストレス反応として逆に活性酸素の発生が誘発されるといいます。人間も例外ではなく、例えば脳卒中患者の虚血性脳障害というのは、脳に局所的な酸素欠乏が起こることによって活性酸素が発生するためだとされています。
魚よりも高等な生物では、酸欠のミトコンドリアで活性酸素が発生すると、それがアラームとして働き、細胞エネルギーバランスを整える反応が起こります。哺乳類では、血液を酸欠になった領域に導入するために血管を拡張させる働きが起こります。
下等生物の細胞内で酸素量を抑制していたミトコンドリアは、魚類などにおいては、代謝を促進する働きをしています。そしてより高等な生物では、ミトコンドリアにおける活性酸素の発生さえも、酸素の減少による組織の損傷を防ぐ上で役立っています。
しかしそうした防衛策でも組織の損傷を防げないとなると、ミトコンドリアは自身を含む細胞全体を破壊してしまいます。
生物が生きてゆく上で欠かすことのできない酸素ですが、実は酸素から身を守るのも、簡単なことではないのです。
※ 2003年8月13日追記
ocean quahog(学名Arctica islandica)を当初「ホンビノスガイ」と訳していましたが、本来「ホンビノスガイ」と呼ばれるのは学名Mercenaria mercenariaという貝であるとのご指摘をいただきました。これら二種類は、成長速度や生息域に差異があり生物学的には別種であるものの、外見が酷似しているために混同されることが多いようです。
正確を期すため、Arctica islandicaの正式な和名が分かるまで学名表示にさせていただきます。
※ 2004年7月19日追記
ocean quahog(学名Arctica islandica)の和名としては、「アイスランドガイ」という名称が使われているとの情報をいただきました。