死海の岩だらけの岸には、もうどこへも出航することができない船着場が、水面から3メートル以上のところに浮かんでいる。もはや死海を望むことさえできない場所に、数十年前の汀線を示す標識があったりもする。
死海は、イスラエルとヨルダンの国境に位置する非常に塩分の高い湖であり、地球上で最も低い場所でもある。さらに、その湖面標高は年々低下しており、過去50年にわたって水位は30メートルほども下がった。最近ではその低下が加速しており、平均して1年に1.2メートルも下がっている。それにともなって表面積も、過去100年でおよそ3分の1に縮小した。
死海は砂漠地域にあり、流入する水量よりも蒸発する水量のほうが大きい。かつてはヨルダン川から年間13億立方メートルの淡水が流入していたが、今では1億立方メートルにも満たなくなっており、その水も大部分が流出した農業用水と廃水である。
ヨルダン川の水は、イスラエル、シリア、ヨルダン王国が飲用水や農業用水として消費している。また死海の南端で、イスラエルのDead Sea Works社とヨルダンのArab Potash Company社が、カリウムやマグネシウムを抽出する目的でミネラルに富む水を蒸発させていることも問題視されている。
何らかの対策を取らなければ、死海は縮小を続けるだろう。世界銀行は、180キロメートルに及ぶ導水路を建設して死海を復活させるという案を検討している。紅海の海水を、水路や配管路によって、水面が400メートル低い死海まで運ぶのである。さらに水力発電を行って脱塩プラントを動かし、周辺住民に飲用水を供給する。その生産量は、現在のイスラエルでの飲用水消費量の半分近い、年間8億5千万立方メートルにもなるという。
紅海―死海導水路という概念は1664年から存在する。当時、ドイツのイエズス会士学者であったAthanasius Kircherが、地域の輸送水路ネットワークの一部として構想した。
以来、似たような計画が復活しては消えてゆくことの繰り返しだったが、とくに1973年のエネルギー危機後には、イスラエルが地中海と死海をつなぐ水路での水力発電所建設を構想していた。
しかし近年では、距離的に近い地中海―死海導水路よりも、紅海―死海導水路のほうが優勢である。それは主にヨルダンの致命的な飲用水不足が理由であるが、加えて、イスラエルとヨルダンとパレスチナ自治政府が協力して「平和の導水路」を建設したいとの要望も無視できない。3つの政府は共通の目的のもとに計画を立案し、2005年に実現可能性と環境への影響についての調査を世界銀行に依頼した。この計画は、イスラエルとヨルダンとパレスチナ自治政府が公式に協力して計画に取り組む唯一の場となりうるのである。
一方で環境問題の専門家たちは、あまりいい顔をしていない。「地球の友」中東支部は、建設に数十億ドルを要する導水路の環境影響を懸念している。取水管は、紅海のアカバ湾から最高で年間20億立方メートルの水を取り込むが、それは紅海のおよそ1000種におよぶ魚類や、サンゴ礁をつくる110種のサンゴに未知の悪影響を及ぼしかねない。そして導水路は、希少なガゼルやハイラックス(イワダヌキ)、ノウサギの生息地であるアラバ渓谷を通る。アラバ渓谷はまた地震の多い場所であり、導水路が破損する危険性が高い。
環境問題の専門家たちは、費用がかさむばかりか有害と予測されるこの計画は不要であり、イスラエルとヨルダンは水源保護によりヨルダン川の水量を回復させるべきだと声高に主張している。
死海の水が消えたあとに残る、堆積物がむき出しになった土地は、あまりに塩分が多くて生える植物もほとんどない不毛の地である。
かつては死海の岸沿いに淡水の湧き水がオアシスを作り、ヤシの木やその他の植物が育っていたが、湧き水の出口は現在の岸に沿った泥質地帯に移動してしまった。環境問題の専門家たちは、オアシスの減少が、サハラ砂漠を横断する前にこの地にとどまり体力を蓄える渡り鳥たちに悪影響を及ぼすことを懸念している。また淡水の浸入によって堆積物の塩の層が溶かされ、地面に大きな穴があくというシンクホール現象がおよそ3000も発生し、道路や橋が被害を受けている。
死海が完全に消えてしまうことはおそらくない……もともと水深が400メートル以上あるらしい上に、表面積が小さくなれば塩分濃度が高まって蒸発が遅くなるためである。しかしこのままでは、死海の水面は現在の標高マイナス423メートルからさらに100〜150メートル下がるかもしれないと言われている。
生態系にさらなるダメージを与える危険性を別にすれば、導水路はヨルダン王国にとって福音となる可能性がある。
ヨルダンは世界で最も淡水資源に乏しい国のひとつである。ペルシア湾岸諸国はもっと水に乏しいが、産出する石油を使って発電し、海水脱塩を行うことができる。ヨルダンには水だけでなく石油もない。紅海―死海導水路の脱塩プラントは、ヨルダンが渇望している飲用水を供給してくれる。
脱塩プラントのおかげで、パレスチナ人たちにも上水を供給できるようになるかもしれない。パレスチナの水源は、ヨルダン川西岸地区(その一部は死海に接している)の地下にある山地地下水層と、海水と汚水でひどく汚染された海岸滞水層に限られている。
パレスチナ人は、1967年以降、ヨルダン川流域を利用することができず、死海の北西岸を開発することも許されていない。紅海―死海導水路計画でパレスチナとイスラエルが協力することは、国際協力の足がかりであり、大きな業績であると言える。
イスラエルは使用する水のおよそ3分の1をガリラヤ湖から取水し、残りのほとんどを地下水層に頼っている。さらに、年間およそ1億6500万立方メートルの海水およびかん水を脱塩処理しており、これは国の年間消費量である18億立方メートルのおよそ9%に相当する。
2008年、米国、フランス、スウェーデンを含む8カ国から1670万米ドルの援助金が与えられたことで、世界銀行は紅海―死海導水路建設の実現可能性と、社会や環境への影響について、調査計画を開始した。18ヶ月にわたって発表されてきた中間報告において、導水路の最適ルート(最有力はヨルダン領を通るルート)、その形態(水路、トンネル、配管路またはそれらの組み合わせ)、紅海の取水口の種類、ポンプ所・脱塩プラント・水力発電所の位置、淡水化された水の配分といった要素が検討されている。
また最近、世界銀行は二つの研究を開始し、導水路が紅海および死海の両方に与える影響について調べている。昨年10月、「地球の友」中東支部からの圧力を受け、世界銀行は英国、ヨルダン、イスラエルの専門家による「代替案の検討」も開始した。これは、トルコから水を引く配管路の建設、ヨルダン川の流れの回復など、他の選択肢を探るものである。
ひとつ重要な要素となるのが、地震のリスクである。活発な地震帯である死海断層がアラバ渓谷に沿って走っており、そこは二枚の地殻構造プレートの境界となっている。研究の結果、計画の進行中に大きな地震が発生し、ポンプ所や脱塩プラントが被害を受けるリスクは高いとみられている。
一方で、断層の位置を確認することが可能であれば、導水路や付帯施設を補強したり可動性を持たせたりすることで、被害を事前に防止できるはずだという意見もある。
世界銀行はまた、計画のほかの危険性についても調査している。例えば、アカバ湾から水をくみ上げれば潮流が変わり、サンゴや海草に悪影響が及ぶことが考えられる。導水路から海水が漏れ出し、地下水が汚染されるかもしれない。アラバ渓谷の野生生物や考古学的な場所、古代の住居や水路、貯水池、銅精錬所、墓地などに害が及ぶ危険性もある。
なおアラバ渓谷の生態系をおびやかす要素として、イスラエルの不動産億万長者が導水路沿いに「valley of peace」というラスベガスのような都市の建設を計画していることも挙げられる。
死海という名ではあっても、そこには高度好塩性古細菌や、耐塩性のある単細胞緑藻のドナリエラなど、さまざまな微生物が生息している。ドナリエラは、1992年に雨が多く降って湖面が2メートル上がったときのように、塩分が少し薄まると繁茂するという。新しい導水路ができれば死海の塩分が薄まり、ドナリエラが繁茂することになるかもしれない。
塩分濃度の低い水の流入は、死海に藻類の異常発生を引き起こすと考えられるが、ヨルダン川から死海に流れ込むリン酸肥料が加わることでさらにひどくなることが予測される。さらに、異常発生したドナリエラを餌として高度好塩性古細菌が増え、死海が赤く変色するかもしれない。
しかし、それが問題となるかどうかは意見の分かれるところである。水位が下がるのと、赤くなるのと、どちらが問題だろうか。
一方、死海に化学的変化が起こることで、水面が白く変色する可能性も指摘されている。現在、死海は石膏(硫酸カルシウムの一形態)で過飽和状態になっているが、それは反応速度があまりに遅すぎてなかなか沈殿しないためである。しかし紅海の水には死海の10倍の硫酸塩が含まれているため、紅海の水が脱塩プラントから排水されたかん水として死海に送り込まれれば反応が速くなり、石膏が白い結晶となって析出するだろう。長い時間がたつうちに、石膏は死海の底に沈むのか、あるいは結晶化して水面近くに漂い続け、死海を乳白色に変えるのかは分からない。水面にできた石膏の薄膜で反射率が増し、蒸発を遅らせるのか、あるいは凝集した石膏が死海の中で光を散乱させ、水温を上昇させて蒸発を早めることになるのかも分かっていない。
Dead Sea Works社とArab Potash Company社の蒸発池は、死海の運命を握る重要な要素である。Dead Sea Works社は、会社の蒸発池は1977年に干上がってしまった死海の南端地域の保全に役立っており、さらに雇用などの面でも地元に貢献していると主張している。
しかし「地球の友」中東支部は、費用とエネルギーを余計に要するものの、蒸発させる水はずっと少なくてすむ「膜分離法」すなわち死海の水に高圧をかけてミネラル分を抽出する方法への転換を要求している。
「地球の友」中東支部の調査によれば、この地域の国々は年間4億ないし6億立方メートルの水をヨルダン川に返すことが可能であるという。トイレをコンポスト式またはバキューム式に変えたり、トイレの洗浄水をシャワー水の雑排水リサイクルにするなどの方法で、費用は脱塩処理を行うよりも少なくて済むという。また「地球の友」中東支部は、もっと持続可能な農業を行うことによる水の節約も可能だと主張する。
結局のところ、最も導水路建設の原動力となりそうなのは、脱塩処理された淡水への需要だろう。政治的にかなりの緊張状態にある三国とはいえ、協力し合う必要がある問題である。
しかし当面のところ、未来がどうなるかは不透明なままである。
何も手を打たなければ、死海の状況はさらに悪化するだろう。しかし紅海―死海導水路には深刻なリスクが伴う。
死海の縮小を止めようとするには、悪い状況とより悪い状況のどちらを選ばなければならないが、しかし現実として、何が悪くて何がより悪いのかもはっきりしていないのである。