湿っぽくて寒くて狭い中に押し込まれ、小さな窓から暗がりを覗き込むことしかできない状態で何時間も過ごす、というのはまるで拷問のように思えるかもしれません。しかし世の中には、これを至福の一時と感じている人間もいます。
優れた潜航能力を持つ潜水艦の登場により、深海に生息する軟らかいゼラチン状生物の研究がようやく可能になりました。そう、三人乗りの小さな潜水艦で海面下数千メートルの深海に潜航し、不思議な生物たちを観察できる時間は、海洋生物学者たちにとってこの上なく貴重なのです。
刺胞動物(cnidarian)と呼ばれるクラゲの仲間、有櫛動物(ctenophore)と呼ばれるクシクラゲの仲間、その他にもゼラチン状の身体を持つ様々な生物や、あるいは幼生の類……海にはそのような生物たちにあふれています。しかし、潜水艦が登場するまで、こうした生物たちは謎に包まれていました。研究する手段が無かったのです。
潜水艦に乗り込むことができる、ごく一部の幸運な海洋生物学者たちが、こうした謎を次々と解明しつつあります。クラゲたちの生態は、全てが驚きの連続です。
かつて考えられていた以上に、ゼラチン状生物たちは海の生態系において大きな役割を果たしているらしいことが分かってきました。例えば炭素循環、すなわち炭素が海面近くと海底のあいだを循環するしくみについて、これまで不明とされていた部分はこうした生物たちによって埋められるのではないかと考えられるようになってきています。
クラゲを水族館で見るのは楽しいものですが、海水浴中に刺されるのは困ります。
また、春や秋にクラゲが大発生すると、漁業に悪影響を及ぼします。クラゲが魚のエサとなるプランクトンや、あるいは稚魚まで食い尽くしてしまうからです。
タンカーなどがバラスト水として積み込んだ海水にはクラゲも入り込んでいます。バラスト水を別の場所で排出すると、クラゲもその場所に移動してしまうことになり、現地の生態系を破壊する恐れがあります。
また、冷却水として使われていた海水のパイプがクラゲで詰まり、原子力発電所が機能停止した、という事件もありました。
それでも、大洋の生態学を研究する海洋生物学者たちは、クラゲのような生物をあまり重要視してきませんでした。それは、研究方法の主流が、網を引いて、中に入っていた生物を解析する、というものだったためです。
網の中に、ゼラチン状の生物が原形をとどめたまま入っていることはほとんどありません。多くの場合、網の目でトコロテンのように切り刻まれ、ぬるぬるした汚物のようになってしまっています。デリケートなゼラチン状生物たちを採集することは容易ではなく、そのために、クラゲたちは海洋生物学研究における謎の部分として取り残されてしまったわけです。
1980年代あたりから、海洋生物学の研究に潜水艦が利用されるようになると、ようやく研究者たちも不思議なゼラチン状生物たちの世界を垣間見ることができるようになりました。それでも、まだまだ分からないことだらけの状態です。
研究用の潜水艦の潜航能力はせいぜい海面下1000メートル程度ですから、もっと深い海の研究を行うことはできません。海の深さというのは、全体を平均すると4000メートル程度であるといわれています。また、太平洋のマリアナ海溝には、深さ11000メートルに及ぶ部分もあります。
しかし一方で、例えば海面下1000メートルまで潜航可能な潜水艦で調査を行うとなると、バッテリー寿命の問題などのために、一気に1000メートルまで潜ってしまうのが普通です。したがって、例えば海面下500メートルあたりに生息する生物については、逆に見逃してしまうケースが多いようです。
日本には、海面下6500メートルまで潜航可能という、有人探査用潜水艦としては世界最高の「しんかい6500」があります。海洋生物学の研究のために、「しんかい6500」を利用できるというのは、とても幸運なことと言えます。しかし、乗り心地は最悪です。
潜航可能時間はおよそ8時間、そのあいだ、研究者と操縦士と副操縦士の三人で、4.5立方メートルという狭い空間に詰め込まれたままで過ごさなければなりません。湿っぽくて寒くて、脚を伸ばすことすら満足にできない状態がずっと続くのです。
海面下2000メートルを過ぎると潜水艦内の気温も摂氏2度以下になってしまうので、乗組員は低体温症を防ぐため、特殊なスーツを着込んでいます。暖房はありません。バッテリー節約のためと、可燃性ガスのタンクに引火するのを防ぐため、というのがその理由です。
窓の外をのぞき見るのも容易ではありません。可視窓は3つありますが、どれもせいぜいグレープフルーツくらいの大きさしかありません。大きくすると、水圧に耐えられないためです。
「しんかい6500」は年に60回ほど潜航を行いますが、著名な研究者といえども利用のチャンスは年に一度あればいい方です。したがって、貴重な8時間をフル活用しなければなりません。
ある研究者が、いわゆる生理現象を抑えるために使っているという裏技は、前日の夜にウオッカを飲んで自らを脱水状態にしておく、というものだそうです。食事の時間も惜しいので、血糖値を保つために飴をなめながら観測作業を行います。
脱水状態の身体で飴をなめつつ、小さな窓に額をくっつけ、操縦士に方向を指示し、ロボットアームを操縦して試料を採取し、ビデオ撮影を行う、というのが作業の実態です。これは生易しいことではありません。
「しんかい6500」は小型潜水艦とはいえ、本体だけで25.8トンの重量があります。そんな機体を下手に動かせば、近くにいる軟らかいゼラチン状生物など、たやすくバラバラにされてしまいます。せっかく発見した珍しい生物が目の前で砕けてしまうのを見るのは、研究者にとって何より辛いことに違いありません。
深海のクラゲを何とか捕まえることができたとしても、それを地上に持ち帰るのはまた一苦労です。容器に入れておいても、デリケートなクラゲは温度変化や振動ですぐにくずれてしまいます。
また、身体が軟らかすぎること以外にも、もう一つ問題があります。クラゲが発光性のプランクトンを餌として食べた場合、それが胃の中で光ると、今度はクラゲを餌とする生物に見つかりやすくなってしまいます。それを防ぐために、胃のまわりを赤や黒の色素で隠しているクラゲが多いのですが、どうやらこの色素は潜水艦のライトのような強い光に照らされると毒性物質に変わってしまうらしいのです。苦労して捕まえた赤いクラゲをビデオで撮影しようとした際に、誤って強い光を当ててしまったところ、そのクラゲは自らの胃を身体から吐き出し、みるみるうちに自己崩壊してしまった、という失敗談もあります。
このようなゼラチン状生物は現在2000種程度が確認されていますが、調査を行うたびに新種が見つかっており、まだまだ発見されていない種がいくつあるのかも分かりません。
また、海洋生物全体に占めるゼラチン状生物の割合はどれほどであるのだろうか、という謎も残されています。網を使った調査が主流だった頃は、1%か2%程度だろうと考えられていました。しかし、もしかすると本当は50%を越えているかもしれません。少なくとも、海における炭素循環で大きな役割を果たしていることは間違いありません。
潜水艦を使った研究により、クラゲの餌のとり方についても少しずつ分かってきました。従来は、クラゲはただ漂っているだけで、たまたまそばにやって来た生物を餌にしているのだと考えられていました。しかし現在では、夜の闇にまぎれて浮上し、水面近くにいるプランクトンやオキアミ類をたっぷり食べてから再び深海に戻り、食べたものを消化する、というクラゲもいることが知られています。また、他のゼラチン状生物をかじり取って食べることのできるものもいます。
クラゲたちが互いを食べあっているのであれば、それが海の食物連鎖とどのように関わりあっているのでしょうか。クラゲたちの持つ有機物質が食物連鎖の中で果たす役割を解明するための研究が進められています。
こうしたゼラチン状生物たちは、体表から直接に海水に含まれる栄養分を取り込む能力を持っているのかもしれない、とも考えられています。つまりクラゲたちは、植物と同じように自ら有機物質を生み出すことが可能であり、餌が無くても海水に栄養分がたくさん含まれていれば成長できるのかもしれません。
海の生態系における「炭素循環」には大きな謎とされている部分がいろいろとありますが、それらを解明する鍵を握っているのがクラゲたち、ゼラチン状生物であるのかもしれません。
例えば、深い海の底にいる生物の栄養素となる、有機物質の供給源は何なのか、という問題はまだ謎のままです。最有力候補は「マリンスノー」、つまり、小さなプランクトン、魚のフン、生物の死骸などが雪のように海底に降ってくるものです。しかし、それだけでは全ての生物を養うには量的に足りず、計算が合いません。この不足部分を埋めるのがクラゲたちではないかと考えられています。
海中にたくさんいるクラゲたちが、他の生物を餌としなくても海中の炭素を栄養として活用することができるのであれば、そのクラゲの死骸は深海の生態系における大きな有機物質供給源となります。また、人間の体から垢が落ちるのと同じように、生きているクラゲの身体からも表面の粘質がはがれ落ちることがありますし、餌をとらえるために自ら分泌した粘液が海中に残されることもあります。こうした残骸は、水中に沈んでゆくにつれて水圧で圧縮され、速く沈むようになります。そして有機物たっぷりの、人間の拳くらいの塊になって沈み、深海の底に打ち付けられます。この塊に含まれる炭素は、海底に到達する炭素の大部分を占めるのではないかと考えられています。
ゼラチン状生物は、他の生物たちと意外なほど密接な関係を持って生きています。以前から、網を使った調査で、クラゲたちと深い関わりを持つ甲殻類がいることは知られていました。しかし、どのような関係を築いているのか、潜水艦で観察できるようになるまでは謎でした。実はその甲殻類は、クラゲの上に乗って生活していたのです。
考えてみれば、クラゲはさまざまな生物の隠れ家と餌場になります。生物はクラゲに身を隠し、クラゲをかじって餌にします。ある種の甲殻類は、クシクラゲの身体の上で子育てをしていることが観察されました。また、白いゼリーで作った袋のような大きなクラゲには、必ずといっていいほどある種の甲殻類が1、2匹住みついていることが確認されています。クラゲと甲殻類がこのような関係を築いている理由、そして広い海の中で互いに相手をどのように見つけ出しているのか、といったことは分かっていません。まだ、クラゲたちの不思議な世界については、そのごく一部が分かるようになってきた段階に過ぎないのです。
まだ解明されていない謎を解くために、クラゲの研究者たちは、もっと自由に海中を動き回ることができる潜水艦が必要だと訴えています。ほとんどの潜水艦は、海底に到着してから作業を行うような設計になっているのです。従来の潜水艦の可視窓は下向きに取り付けられている場合が多く、また浮力を調整する能力を持つ機体も少ないので、生物を追跡するのが困難なのです。
現在アメリカでは、こうした海洋研究の意義や新しい潜水艦の必要性が検討されています。将来的には、無人潜水艦に搭載されたビデオカメラを通じて多くの研究が行われることになるでしょう。無人潜水艦は、有人のものより安価で、小型化・単純化が可能で潜水時間も長くすることができるので、より多くのデータを集めることができるはずです。しかし研究者たちは、やはり自ら潜水艦に搭乗しての研究が必要だと主張しています。人間の目に勝るものはありません。カメラでは遠近感が把握できないことがよくありますし、自分が観察したい対象にすぐさま焦点を合わせるわけにもいきません。脚がしびれても、寒くて凍えそうでも、研究者は自ら観察したいと望んでいるのです。