心臓に爆弾を抱えても

ネイチャー2004年8月5日号
「Heart-stopping action」より

 ドメニコ・フィオラバンティは、2000年に開催されたシドニー五輪において、男子100m・200m平泳ぎで二つの金メダルを獲得したイタリアの水泳選手です。しかし2004年のアテネ五輪に、彼は選手として出場しません。それどころか、2004年にはプールで泳ぐことすらありませんでした。
 2004年1月、27歳のフィオラバンティは、遺伝性の心臓疾患「肥大性心筋症(hypertrophic cardiomyopathy、HCM)」であると診断されました。そしてイタリアの法律により、彼はオリンピックを含めた競技会への出場を禁止されてしまったのです。

 2003年6月、サッカーのコンフェデレーションズ・カップ準決勝において、カメルーンのマルク-ヴィヴィアン・フォエ選手がコロンビアとの試合中に亡くなりました。また、2004年1月にも、ポルトガルのサッカーチームのベンフィカに所属するハンガリー人選手、ミクロシュ・フェヘルが試合中に亡くなっています。
 フィオラバンティと同じ肥大性心筋症であった彼らは、いずれもテレビカメラの前で、突然に命を落としました。フィオラバンティは、自分も競技を続けていればいつか彼らと同じ運命を辿ることになるかもしれないことを知っています。それでも彼の家族らは、診断により直ちに競技への出場を禁ずるイタリアの法律は厳しすぎるとして、彼が競技に出場できるように、少なくとも競技に出場するかどうかを自分で選択できるようにすべきだと訴えています。




 30歳未満での突然死の主要因となっている肥大性心筋症は、心臓筋細胞の基礎的構成成分である筋線維分節(筋節)の内部に異常なタンパク質が蓄積することによって起こります。とくに左心室周辺で細胞が異常に膨張して筋肉が厚くなりすぎるため、心臓の拍動が不規則となり、いずれ完全に止まってしまう危険が出てきます。
 世界の人々のうち、およそ0.1〜0.2%の人が肥大性心筋症であり、毎年そのうちのおよそ1%が亡くなっています。肥大性心筋症であるとの自覚が無い人でも、過剰の運動が突然死の原因となると考えられています。

 肥大性心筋症は、超音波エコー検査などによる診断が可能で、薬や外科手術による治療法もあります。しかし、患者の突然死のリスクがどれくらいあるのか、ということを判断するのは依然として難しいのです。
 フィオラバンティの場合、症状は比較的軽いとみられています。しかし、だからといって突然死のリスクも小さいのか、ということになると、専門家でも判断できないのです。ともあれ、イタリアの法律では、症状が軽かろうが重かろうが、肥大性心筋症であると診断されれば競技への出場が許されません。

 肥大性心筋症の遺伝子診断についても研究が進められています。フィオラバンティは、遺伝子診断によって突然死のリスクが大きい人と小さい人を判別できるようになることを望んでいます。そうなれば、(彼のように?)リスクの小さい人は競技への出場が認められるかもしれません。




 他の国ではあまり例がないことですが、イタリアでは、競技会に出場するスポーツ選手は適性診断書を一年にいちど提出することが法により義務付けられています。その検査項目として、心電図と、家族の病履歴があります。心臓疾患が疑われた場合は、超音波エコー検査で心臓と弁を調べ、筋肉の厚みと心室・心房の大きさを診断します。この検査で異常が見つかれば、リスクが低いと考えられているアーチェリーなどの競技を除き、そのスポーツ選手は自動的に失格扱いとなります。もしも何らかの手段でこの検査をパスしたスポーツ選手が試合中に死亡した場合、診断書にサインした医師の責任が問われることになります。

 イタリアでは、こうしたシステムによって、確かにスポーツ選手の突然死が防止されているようではあります。1979年から1996年にかけての状況を調査したところ、有望なスポーツ選手およそ34000人のうち、肥大性心筋症と診断されて失格扱いになったのは22人でした。そして検査をすりぬけ、肥大性心筋症がもとで死亡したスポーツ選手は1人だけでした。

 しかしながら、イタリアのこのシステムは完璧なものではありません。例えばこの検査では、不整脈原性右室心筋症(arrhythmogenic right ventricular cardiomyopathy)と呼ばれる別の致死性心臓疾患を発見しづらいのです。また、何ごともなく競技を続けることが可能かもしれない、フィオラバンティのような選手まで失格扱いにするのはやりすぎではないかという意見もあります。
 それでも、スポーツマンの突然死がイタリアでは確実に防止されていると専門家は評価しています。




 肥大性心筋症の診断には誤診も多く、不確実な診断が下されるケースも少なくありません。その一つの理由として、スポーツ選手の心臓には肥大性心筋症の徴候に似た変化が現れる場合があることが挙げられます。こうした誤診は、遺伝子診断が確立されれば防ぐことができるかもしれません。心筋の中でも、横紋筋のタンパク質をコードする12の遺伝子の変異が肥大性心筋症を引き起こすとされています。2004年5月にアメリカで開始された初めての商業的遺伝子検査は、8つの遺伝子の変異を検出するもので、肥大性心筋症の75%を検出できるものと考えられています。

 しかし、この遺伝子診断の有効性に疑問を抱く専門家もいます。肥大性心筋症の25%を見逃してしまうということだけでなく、疾患を引き起こす遺伝子変異は、まだ発見されていないだけで他にも存在するかもしれないからです。その上、これらの遺伝子変異と突然死のリスクとの関連性はいまだ明らかになっていません。
 それに、3000ドルという費用は、若いスポーツ選手には荷が重い金額です。心電図や超音波エコー検査にかかる費用でさえ、高すぎると感じている人が多いのです。それでも、オリンピック選手などに限定して検査を実施できる可能性はあるかもしれません。




 診断に関する医学的な問題が解決したとしても、政府側とスポーツ選手側の考え方の相違といった問題が残ります。専門医師らの間でよく議論対象となるエピソードがあります。
 17歳の優秀なバスケットボール選手、ニコラス・ナップは、イリノイ州のノースウェスタン大学でスポーツ奨学金を受けていました。しかし1994年、試合の終了後に彼の心臓は止まってしまったのです。幸い蘇生に成功したものの、彼は肥大性心筋症であると診断されました。その結果、大学側は、彼に奨学金を出し続けながらも、医学的な見地から大学対抗試合への出場を禁じる決定を下しました。一方でナップは、たとえ命の危険があろうとも、試合に出るかどうかは自分が決めることだと主張しました。
 この対立は法廷で争われ、結局は大学側の主張が支持されました。しかしナップは、大学側から禁止されなかった別の試合に出場しました。最初の心停止から3年後、ナップは相次ぐ頻拍性型不整脈(心拍が異常に速く不規則になる不整脈)に苦しめられることになりました。

 ナップのことがあって以来、アメリカでは疾患を持つ選手が競技会に出場するのが難しくなっています。しかし10年経っても、法で正式に規則が定められることはなく、ただガイドラインがあるだけです。米国心臓協会(The American Heart Association)は、全力疾走のように心臓への負担が大きい運動は避けることを勧めると同時に、病状によって可能なスポーツも人それぞれに違うとしています。
 肥大性心筋症患者が水泳をすることについては、「おそらく認めてよい」とされていますが、オリンピック級の選手に対してこのガイドラインが適用できるかどうかには疑問が残ります。

 しかし、やはり競技に参加するかどうかを肥大性心筋症患者であるスポーツ選手本人に決めさせるべきではないと主張する専門家もいます。スポーツの最中に亡くなった肥大性心筋症患者の年齢統計をとったところ、中央値はあまりに若い、17歳でした。

 国が倫理的問題に取り組んでいる間にも、科学は進展してゆきます。遺伝子診断の精度が向上したり、心臓の検査費用が下がったりすれば、少なくとも現在よりは適切なリスク評価ができるようになるでしょう。
 しかしそのような希望は、フィオラバンティにとってはあまり意味のないものです。彼はすでに、自らの選手生命があまりに早い終幕を迎えたことを受け入れたといいます。他の国に、これからも水泳を続けられるイタリア以外の国に移ることも考えましたが、やはり自分の国から離れるのは耐えられなかったのです。アテネ五輪が終わったら、彼は水泳選手としてではなく、トレーナーとしての新たな人生を開始することになるでしょう。







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