教会ドック『キリストの教会』再考

池田基宣(宝塚 恵みキリストの教会牧師)

※この論考についてご意見・ご感想がありましたら、池田基宣氏
 m_hikeda@ybb.ne.jp
 の方へ、直接お送りいただくことができます。


目 次

  1. イントロダクション
  2. 『キリストの教会』と組織
(1) 組織とは何なのか?
(2) 新約聖書が示す教会組織像
(3) 初期指導者達の立場
(4) 組織アレルギーを引き起こした二大事件
(5) 戦前日本にやってきた宣教師
     a. 宣教協会経由の宣教師達
     b. 独立宣教師達、その1
     c. 独立宣教師達、その2
(6) まとめ


【イントロダクション】

 私達の人間の体は、年を取って、40年、50年、60年と使い続けるうちに、様々な部分が弱くなり、場合によってはガタがきてしまいます。ですから、節目節目に体の各部分を調べ、早期発見・早期治療するために、人間ドックがあり、利用する事が勧められています。自分の体を調べてもらい、人によっては異常の有無が分かるだけでも安心して、精神的負担が減ります。異常が分かれば、それに対して適切な治療が施せます。頭痛の時に正露丸、腹痛の時にバッファリンでは意味がありません。異常の本質を見抜き、それに適した治療や薬が必要です。言い換えると、何が悪いか、どこが弱っているのかが分からなければ、適切な治療は施せないのです。

 同じような事は、クリスチャンの群れ=教会にも言えるのではないでしょうか。教会も、各個教会であれ、群れ全体であれ、年月がかさみ、世代が移り変わり、時代が変われば変わるだけ、どうしても弱ってしまう部分、あるいは偏ってしまう部分が出てしまいます。使徒パウロはその書簡のほとんどでクリスチャンのことを“聖徒”と呼びます。私達は、キリストの義によって聖められたのですから、そう呼ばれても当然です。しかし、同時に、肉の体を抱えている私達は、この地上ではどうしても人間としての弱さをも抱えてしまいます。Uペトロ3:18では、「わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい[原文では“成長し続けなさい”]」と言われています。つまり、クリスチャンでありながらも弱さを抱え、成長し続けているからこそ、教会も時に自らを吟味検討する必要があるのです。それを私は“人間ドック”ならぬ、“教会ドック”と呼びたいのです。

 ここで私は“教会”という表現を使っていますが、教会には大きく分けて二種類あることを覚えて頂きたい。

ともすれば、私達はこの二つの教会を混同してしまったり、その違いを混乱してしまったりしがちですが、この二つの教会には類似点と相違点がありますので、十分注意して下さい。天上の教会は、ある意味で人間の許容範囲を遥かに超えた、まさに神聖な領域です。そういう意味で、天上の教会、普遍的な教会、公同の教会はすでに完成された教会と言う事も出来ます(マタイ16:18エペソ1:22-23等)。片や地上の教会は、どのような群れであれ、まだ未完成な教会であり、完成された普遍的教会を目指している教会です。聖書にも「コリントにある神の教会」(Tコリント1:2,Uコリント1:1),「ガラテヤの諸教会」(ガラテヤ1:2),「テサロニケ人の教会」(Tテサロニケ1:1)など、地上の教会が沢山出てきます。ですから、私が“教会ドック”と言う時の“教会”とは、前者の普遍的な教会ではなく、あくまでもこの地上における教会を意味します。又、私達が属している群れが『キリストの教会』である以上、特にその群れを指していることを覚えて頂きたい。

 このシリーズの中で、キリストの教会『キリストの教会』(鍵括弧付きのキリストの教会)という二つを使い分けしたいと思いますが、キリストの教会は普遍的・公同の教会を、『キリストの教会』は私達がこの地上で属している自分達の群れを指していると理解して下さい。この使い分けは、姉妹教会である大東キリストの教会伝道者織田昭氏が著書「『キリストの教会』について」の中で最初に使い始めてから、私達の間に定着してしまった用法です。くどい程言いますが、キリストの教会と『キリストの教会』を決して混同して考えないで下さい。その二つは切り離して考えなければなりません。

 “教会ドック”とは「『キリストの教会』ドック」を意味するのであって、「キリストの教会ドック」を意味するのではありません。その区別が出来た時、初めて『キリストの教会』の中にある良さも悪さも、この群れが時代と共にどのように変化してきたのかも分かるでしょう。同時に、この群れの中にも普遍的キリストの教会にしかない貴重な要素・霊的財産がある事に気づくでしょう。このシリーズを始める一番大きなねらいはそこにあります。

 では、私達はその“教会ドック”をどのよにして行なえばいいのでしょうか。何に照らし合わせて、『キリストの教会』を検証すればいいのでしょう。それは、もちろん聖書です。それなしで、私達は検証はおろか、何もすることは出来ません。又、その聖書理解を支え、補うために『キリストの教会』という群れの歴史的歩みをも大いに参照しましょう。群れとしての歩みの中で、いったい何があったのか、『キリストの教会』的聖書解釈や独自の主張(教会組織やバプテスマ理解など)がなぜ生れたのか、歴史的に群れの事を学ぶのも非常に大切です。その時、私達は歴史上“何が起こったか”だけに留まるのではなく、“なぜそういうことが起こったのか”という深い領域まで目を向けましょう。そうするならば、私達は自分の属する『キリストの教会』という群れのアイデンティテイーをおぼろげながらも捕らえられるはずです。自分という人間を本当に理解するためには過去にさかのぼることが必要です。『キリストの教会』の歴史から学ぶことについても同じことが言えるのです。

 このテーマを一教会で取り組むのはあまりにも無謀かもしれません。又、メンバーの方にとっては退屈な内容になってしまうかもしれません。しかし、戦後50年経って、過渡期と世代交代に差し掛かっている今、これをしなければ、日本の『キリストの教会』は駄目になってしまいます。私達は普遍的キリストの教会に属するクリスチャンですが、この地上では『キリストの教会』に属しています。私達はその両方に責任があるはずです。普遍的教会に属していれば、それでいいというような問題ではありません。又、この地上における『キリストの教会』を大切に出来なくて、どうして普遍的キリストの教会を大切にできるでしょう。主イエスは言われました。「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(ルカ16:10)。

 牧師として私が教会に望むのは、この教会が世界に目を向けられるようになってほしいということです。考え方が狭くなって、自分達さえ良ければそれでよいといったような内にしか目の行かない風でなく、いつも回りで何が起こり、教会がそれとどう関わっていけるのか、絶えず外側にも目を向けられる群れであってほしい、その意識改革のためにも私は牧師として教会に召されているのです。『キリストの教会』ドックに取り組むというのは、実に外側に目を向ける作業の第一歩であることを覚えましょう。次から、『キリストの教会』と組織について触れていきたいと思います。

 私達の間では、『キリストの教会』には組織がないというのが定番です。新約聖書を見る限り、初代教会には諸教会を包括する中央集権的な組織は見受けられなかったから、というのが良く聞く理由です。しかし、それがなぜなのか、どういう過程を経てそうなったのか、そう教えた宣教師が育った当時の米国で何が起こっていたのかを知っている人、しっかり答えられる人は少ないのです。共に考え、祈り、主の導きを求めて参りましょう。

《目次へ》《次頁へ》