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2.【『キリストの教会』と組織】

(1) 組織とは何なのか?

 私たちがこの地上で属する教会、『キリストの教会』には幾つかの際立った特徴があります。その一つは明らかにこの群れが中央集権的な組織を持たないという点です。ローマ・カトリック教会はバチカンのヨハネ・パウロU世という現ローマ法皇の下に統一体としてまとめられています。ローマ・カトリック教会は、1980年時にここ日本だけでも74万8千人の信者を有していたと言われます(「世界キリスト教百科事典」)が、その一人一人が神の代弁者であり地上の首位者なる法皇の権威下にあるわけです。それ程大規模でなくても、日本のキリスト教界には様々な教団・教派が現存しています。日本基督教団、ルーテル教会、フリー・メソジスト教団、日本イエス・キリスト教団、同盟教団など…。そして、その殆どの群れが中央集権的な組織を持ち、群れ全体の繋がりを補い、支えようと奮闘しています。

 そのような教会とは対照的に、『キリストの教会』は組織がないというのが定番でした。又、そのことを誇りとし、一つの警告のように世に掲げてきたようにも思います。しかし、私は組織があっても全ての問題が解決しないのと同じように、単に組織がないということが必ずしもベストではないということを言っておきたいのです。

 組織がないということは、確かに私たちに恵みを与えますが、それと同時にそこには弱点や見落としがちな落とし穴があるのも事実です。その幾つかの具体的な例を3つ程上げましょう。

 一つは2年前の阪神淡路大震災が起こった時の例です。組織を持つ教団・教派は、あの1月17日の地震発生後、すぐに震災対策委員会とか、復興支援基金とかを形成し、敏速に被災教会の被害状況を把握して行動に移る事が出来ました。当然の事ですが、そのような組織を持たない私たちは、個々の教会が孤立無縁状態の中で奮闘しなければなりませんでした。そういう非常事態の中で諸教会の中からも誰かが責任を持って義援金を受け付ける窓口を開き、被災教会を助けてほしいという希望もありました。しかし、“『キリストの教会』には組織はない”という大義名分がありますから、その時誰も、あるいはどの機関も躊躇して、責任を持ってその任を引き受けようとはしなかったのです。結果的に大阪聖書学院同窓会が窓口となり、その任にあたる事になりました。その働きを組織と呼ぶかどうか議論のあるところでしょうが、関係者・関係団体を援助するというのが組織本来の務めでもありますから、そういう意味では同窓会の働きも組織と呼べるのです。あの時、任にあたって下さった方々に今でも感謝に絶えませんが、それにしても、その時の手際の悪さは、改めて『キリストの教会』と組織の関係について再検証の必要を感じました。

 もう一つの例は、実際にある教会で起こった悲惨な事件です。O教会の前任牧師は人間として、クリスチャンとして、ましてや神の器である牧師として、あってはならない事件を引き起こし、それが教会員に発覚して罷免されました。同時にその事件とは直接関係のなかった二人の協力牧師も引責ということで牧師の任から退き、又、退けられました。その時のO教会員一人一人の驚愕、痛み、苦しみ、そして怒りは私たちの想像を絶するものがあります。ある者は教会を去り、別の教団に移っていきました。又、ある者は罷免された前任牧師に導かれ、信仰に入り、バプテスマされたことが許せず、信仰の道からも離れていきました。同時に、そういう悩める一教会を同じ群れとしての他教会がただ指をしゃぶっているだけで何もすることができない、本当にして上げなければならないことが何も出来ない、あるいは何もしようとしないジレンマが私たち牧師間にはありましたし、又O教会も救いの手を差し伸べてくれない『キリストの教会』という自ら属する群れに不信感を持ってしまったようです。阪神大震災と同時に霊的な大震災を経験したこのO教会は、それでも残された方々で必死に耐え、将来を模索しながら、神様の導きを求めておられます。

 単立であるという教会運営を持つ『キリストの教会』は、その単立性故に、他教会の独自なあり方を尊重し、内政干渉は極力しないというメリットを持ちます。しかし、同時にそのメリットは時として本当に助けを求めている教会に対して、それが一つの大きな壁となってしまい、デメリットをもたらしてしまうことがあるのだということを目の当たりにしたのです。ここでも、いわゆる内政干渉と教会協力の見分け方が問題とされているわけです。その二つを混同してはいけません。単立同士であっても必要な場合は教会間の協力・援助があるべきではないのか、というのが私の個人的な考えです。

 最後に、私たちの群れに残された神学校・大阪聖書学院(以下OBSと呼ぶ)を上げましょう。“残された”と言ったのは、OBS以外にも以前東京に「東京聖書学院」という『キリストの教会』の神学校があったからです。無楽器の『キリストの教会』も独自の神学校(彼らは「伝道学院」と呼んでいますが…)を持っています。OBSは将来諸教会に仕え、あるいは新たに教会を開拓する牧師・伝道者を訓練教育する機関です。又、そのために有給の教師と職員がいて成り立っています。ただし、神学校はあくまでも学校です。しかも、神学校は“神”という接頭語がつく分、神様に仕え、教会に仕える学校です。そういう意味で神学校はクリスチャンの集まりでありながら、教会ではありません。又、神学校のために教会があるのでもありません。そうではなく、教会のために神学校があるのです。それはOBSだけでなく、いかなる神学校にも言えることです。ですから、私たちの教会も期待を込めてOBSに毎月献金を捧げています。それは、上記した目的のためにさらに学院が用いられるようにという私たち教会の期待感の現われでもあります。ですから、私たちは神学校にもそういう私たちの期待感を喜んで汲み取ってもらいたいのと同時に、ますますそれに答えられる機関となるよう絶えず過去の検証と将来への展望を持って、努力して頂きたいのです。

 私たちも一人一人がどのような動機で教会の一般会計から献金を捧げるのか、ただ単に捧げればそれでよいというものでもないでしょう。私たち自身が心底関心と注意を持って学院を見つめていく必要があります。神学校は一教会でやれない事はありませんが、現状をみても分かる通り、アメリカ・日本を問わず、諸教会の経済的協力なしには運営できません。これは明らかに教会協力の働きの一つです。つまり、そこには組織がなければ成り立っていけないし、又、そのことを否定する必要もないのです。同時に、そのような組織が諸教会と今までどのような関わり方をしてきたのか、その関わり方は現状維持でいいのか、今後の方向性として何を目指すべきなのか、等が当然議論されていかなければなりません。そういう状況の中で、“組織を持たない『キリストの教会』”と“現存するある種の組織”との狭間で、私たちはジレンマ状態に陥ってきました。人によっては、『キリストの教会』は“組織のない組織”を持っていると言ったりしますが、私個人はそんなのん気な語呂合わせ遊びをする余裕などありません。これが私たちの置かれている現実です。

 それでは、いったい組織とはそもそも何なのでしょうか。世の中には万人共通して使う事のできる便利なものがあります。辞典や辞書の類です。広辞苑第4版によると、組織とは「社会(家族、村落、ギルド、教会、会社、政党、階級、国家など)を構成する各要素が結合して有機的な働きを有する統一体。又、その構成の仕方」であるとなっています。平たく言うと、人が複数いて何か共通の営みをする場合、そこには必ず何らかの組織があるということです。小学館概要国語大辞典では、「一定の目標があり、成員の地位と役割と相互関係が決められているような人々の集合体。また、それを組み立てる事。広義には一定の機能を持ちつつ、全体として結合を保っているもの」が組織であり、経済組織、行政組織、社会組織などがあると指摘しています。宗教的な意味合いにおいて、組織とは宗派、教派、門派的組織体(denomination)を意味するようです。

 ただ、歴史的に『キリストの教会』は宗派や教派といったような称号・名称を毛嫌いしてきました。それにはそれなりの理由、歴史的背景があります。そのことを理解しようとする努力なしに、ただ“『キリストの教会』は組織を持たない”では、説得力がないし、又、どんなにそれを主張しても空回りで終わってしまうでしょう。ここでも「何なのか?」ではなく、「なぜそうなのか?」という問いかけが大切になってきます。

 次は、聖書の中で組織はどのように捉えられているのか、又、初代教会の組織に関する考え方はどうだったのか、といった点を考えてみましょう。

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(2) 新約聖書が示す教会組織像

 教会はキリストの体です(Tコリント11:27; エフェソ1:23等)。それは復活なさったキリストが昇天なさって、公生涯のような形で私たちと関わって下さらない以上、それに代わるものとして用意されたものです。私たちは人であられたイエス様を直接は知りませんが、教会を通してそのお方の臨在や性質、本質といったものを体験することが出来ます。

 キリストなき後、初代クリスチャン達は信仰の共同体を形作っていきました。それが、キリストを頭とする教会です。初代教会のあり様を私たちは新約聖書から知ることが出来ますが、それはあくまでも部分的、限定的なものであることを覚えたいものです。確かに、使徒言行録やパウロ書簡を見る限り、当時の教会のあり方や問題点などかなり詳しく描写されていますが、それら以外にも初代教会には様々な側面があっただろうと思われます。そういう中で、私たちに聖書、特に新約聖書27巻が今日まで残されているというのは、一重に神様の導きと支え、御旨によるとしか言いようがありません。

 与えられた新約聖書から、当時の教会の様を描き出し、今日の信仰者に適用していく作業は非常に大切です。同時に内容次第ではそれが非常に骨の折れる仕事になる場合もあります。釈義家が苦労するのは、聖書のどの部分が普遍的(どの時代のどの文化圏の人にも当てはまる)なのか、どの部分が文化的(時代も文化も限定される)なのかを見極めることです。私は新約聖書が描く教会組織もそのような難しいテーマの一つであるということを、正直に告白します。その謙虚さを持って、聖書そのものが語る教会組織とは何なのか、出来るだけ色眼鏡を取り除いて純粋に眺めてみたいものです。

 まず、新約聖書に出てくる教会像やパウロ書簡の教会規定を見る限り、当時の教会には、今日存在するような、いわゆる中央集権的な組織はありませんでした。それは、教会が生まれて、その教勢を伸ばしていく中で生まれてきた便宜的な手段であったのです。初代教会は各個教会がそれぞれその群れを自治し、完全に独立した形で交わりを持っていました。ただし、状況によっては諸教会の代表が集まり、諸教会に勧告を出したり、協力を求めることもあったのです。

 使徒言行録15章を見ると、その一例が出てきます。俗に言うエルサレム会議が開かれ、旧約律法を異邦人クリスチャンにも強要すべきかどうかが話されました。しかも、かなり激しい論調で。ただ、この会合も定期的に持っていたというよりは、必要に応じて開かれたようです。私は定期的に持たれる役員会や牧師会、その他様々な会議の必要性を否定する気は毛頭ありませんが、会議が続きすぎると、人は懐疑的になってしまうようです。

 必要に応じて起こった様々な協力的な働きは新約聖書の中に他にも出てきます。飢饉で苦しむエルサレムのクリスチャン達のために、マケドニアの諸教会が協力して援助物資をパウロに託した話もあります(使徒20:1-6; ロマ15:25以下;Uコリント8:3以下)。 これら美しい兄弟愛の働きは必要に応じて、状況に応じて生まれています。必要に応じてですが、その必要が生じた際は敏速、且つ適切に行動が起こされました。さらに、大切な点は聖書が最終最善の組織はこの世のいかなる組織の中にもないと断言している点です。聖書に言わせれば、民主主義にも限界があります。冷戦終結後、私たちは回りで起こっている様々な社会現象からこの事を教えられています。

 では、最も優れた組織は何かというと、聖書はそれを“神の国”であると言います。思い起こせば、イエス様が公生涯で最初に言われた言葉もこの言葉でした。“神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。”(マルコ1:15)“神の国”とは“神の支配”という意味です。「支配」というと、何か窮屈そうな感じですが、完全な愛をお持ちの神に包まれる支配を垣間見た者は、この言葉の意味深さが分かるはずです。この“神の支配”に頭として君臨するのは御子イエス・キリストです(コロサイ1:18)。それは目に見えない意味での公同の教会でも、目に見える地上の教会でも同じ事です。 但し、頭なるキリストはこの地上で教会を建て上げようとしているクリスチャンの群れに、教会を管理するための権限を与えておられます。それは、教会の長老であり、牧師、監督です使徒20:17-28; エフェソ4:11; Tテモテ3:1; テトス1:5など)。ですから、教会とは単なる烏合の衆ではなく、秩序を必要とする集まりです。そこには自ずとある種の組織が必要になってきます。いかなる分野であれ、人が集まるところには必ず組織と呼べるような秩序があるものです。教会もクリスチャンという人々の集まりですから、そこには組織があるのです。そういう意味で聖書は決して組織を否定しているのではなく、この地上にキリストの体なる教会を建て上げ、管理するために、少なくとも各教会には組織が必要だし、諸教会間にあっても、必要に応じて組織が必要であるということを言っているのです。

(使徒20:17-28) パウロはミレトスからエフェソに人をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。長老たちが集まって来たとき、パウロはこう話した。「アジア州に来た最初の日以来、わたしがあなたがたと共にどのように過ごしてきたかは、よくご存じです。すなわち、自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、また、ユダヤ人の数々の陰謀によってこの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主にお仕えしてきました。役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました。神に対する悔い改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、ユダヤ人にもギリシア人にも力強く証ししてきたのです。そして今、わたしは、”霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りとおし、また、主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわたしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝えたのです。だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたしには責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。(Act.20:17-28) [戻る]
組織に関して考えさせられるのは、如何なる形であれ、組織を持つか持たないかの問題ではなく、むしろどういう人物が組織を持つべき、あるいは組織などいらないと言うのかが問題のように思えます。

 次に、『キリストの教会』の歴史を眺めながら、その点に注意して組織の問題を考えてみましょう。

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(3) 初期指導者達の立場

 これから、『キリストの教会』の起こりを見て、どのような背景から“『キリストの教会』に組織はない。組織はいらない”という立場が生れたのかを見ていきたいと思います。それによって、この群れの立場は原則とみなすべきなのか、時代と共に変わり得る伝統とみなすべきなのか、全くの虚構なのか判断する手助けとなるでしょう。

 私は『キリストの教会』の誕生の次第を話す時、この群れが“パッチワーク教会”だと言ってきました。ご存知の通り、パッチワークは色彩豊かな様々な柄の端切を縫い合わせて作ります。見る側の価値観にもよりますが、組み合わせ次第で美しく見えたり、独特の味を出したり、あるいは全くアンバランスな作品になってしまいます。『キリストの教会』という群れも、アメリカで存在し始めた当初からそういうパッチワーク的な要素を持っていました。

 アメリカで生れた『キリストの教会』という群れは、別名“復帰運動”とも呼ばれます。この群れが既成の人間的産物や伝統、束縛から脱却し、自由な立場で聖書そのもの、特に新約聖書に記された姿に帰ろうとした点で、復帰運動はアメリカにおける宗教改革であったという事も出来ます。この群れの母体になった既存の教会にはメソジスト教会、バプテスト教会、そして長老教会の三つの群れが関わっています。まさにパッチワークです。最近、日本の政党で反自民の旗手として生れた政党が、まさにパッチワーク政党でしたが、案の定(?)1997年末ついに分党してしまいました。もともと数の原理だけで集まっていた集団ですから、ある意味でこうなることは目に見えていたでしょう。やはり短命で終わってしまいました。

 では『キリストの教会』の歴史はどうかというと、群れが生れて何度かの分裂を繰り返していますが、それでも群れとして200年近くの歴史を持つに至りました。日本の某政党がたった数年で解散したことを考えると、同じパッチワーク的集まりでも、様々であることが分かるでしょう。まあ、政党と教会を同列において考える事はできませんが、様々な違った背景を持った教会指導者達が集まったにも関わらず、その中から群れとしてその特徴を磨かれ、その立場を継承するクリスチャン達が生れてきたということは一見の価値のある事でしょう。つまり、それだけのものが、普遍的なものが確かにこの群れの中にもある事を証明しているからです。ある意味で、どの教団教派に属していても通用するようなものが、『キリストの教会』という群れにはあるという事です。

 同時に、私達はこの群れの歴史を振り返る時に、メソジスト教会、バプテスト教会、長老教会という諸教団教派から出てきた指導者達が、なぜその群れから追い出されたのか、あるいはそこを離れなければならなかったのか、という点にも注目したいと思います。特に組織という事を考える時、それぞれの指導者が不思議にも組織に対して否定的な態度を取らざるを得なかった背景や状況など注意して見ていきましょう。

 次から、それぞれメソジスト教会、バプテスト教会、長老教会から離れていった復帰運動初期指導者達が、どのようないきさつからそのような歩みを辿るようになったのかを見て、彼らの組織に対する考えや対応を見ていきたいと思います。そのトップバッターとして、メソジスト教会の元指導者であり、後に『キリストの教会』に合流していった群れの母体を作ったジェームズ・オケリー(James O'Kelley/1735-1826)について見ていきます。

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