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スミス&ジョーンズ運動の場合

 新大陸アメリカで、後に『キリストの教会』と呼ばれるようになる私達の群れの先駆的働きをした初期指導者にアブナー・ジョーンズ(Abner Jones/1742-1841)とエライアス・スミス(Elias Smith/1772-1844)の二人がいます。この二人は、共に当時のバプテスト教会に属していながら、その中で改革を起こしていった人達でした。

 興味深いのは、彼らの運動が先に見たオケリー運動と時を全く同じくしながら、全く別の地域で(オケリーやグイリーの運動は主にバージニア州やノースカロライナ州を中心に、スミス&ジョーンズ運動はニューイングランドを中心に)生れたという点です。両運動の間には相互連絡があったわけでもないのに、その立場においては非常に似通った点を多く持っていました。

 公同の教会、天上の普遍的教会が完全であるのに対して、地上の教会、いかなる教団教派も完全ではありません。その二つを混同してしまう時、様々な厄介な問題が生れます。初代教会を見ても、そこには様々な問題がありました。中には「それでも教会か!」と言いたくなるようなものもあります(Tコリント書5〜6章など参照)。地上の教会は一つの生き物ですから、生きている間は人間と同じように成長もしますが、同様に怪我をしたり病に倒れたりしてしまう時もあります。そういう時に、体に薬や治療が必要なように、キリストの体である教会にも真理の御言による治療が必要です。教会の歴史を見ると、教会の犯した過ち、失敗など数限りなくありますが、神様はその都度、器を備え、お立てになって当時の教会内で改革改善を行なわせました。それは、これからも同じでしょう。

 それでは、当時のバプテスト教会の中で、スミスやジョーンズが抱えていた疑問は何だったのでしょうか?1790年代に、ジョーンズは自らの内に押さえ切れない3つの疑問が起こってきたと告白しています。それは、「自分が果たしてこのまま“バプテスト教会”信者でいいのだろうか?」という鬼気迫る問いかけだったようです。彼が抱いた疑問は:

 (1)に関しては、ジョーンズが聖書だけを最終的・絶対的権威としていた事を伺わせます。彼は聖書だけに訴え、人間的考えに振り回されない聖書そのものの主張を大切にしました。だからこそ、彼は「バプテスト教会」という名称にこだわったのです。「名は体を表わす」と言われる如く、教会の名前もやれ“バプテスト”とか“メソジスト”とか、“ルーテル”だとかがいいのだろうか?、彼は真剣にそのことに取り組んで、聖書に立ち返り、自分なりの結論に至りました。

 (2)についての問題は、ある意味で非常に難しい点ですが、救いの問題で避けては通れない神学です。カルビン主義神学とは、スイスの宗教改革者ジョン・カルビン(Jean Calvin/1509-1564)の名前にちなんでそう呼ばれています。彼は人間が本質的には悪であると考え、その人間の側から救いに関しては全く何も為し得ず、神様の一方的な働きなしには救いはあり得ないと考えました。後にカルビンの流れにある教会指導者達は、彼の教えを体系化し、一つの神学を作り上げていきました。それがカルビン主義神学と呼ばれるものです。その中で特にジョーンズが疑問に思ったのは、カルビン主義神学の予定説でした。極論すると、それは神様が誰が救われ救われないか、全て前もって予定しておられるという主張です。その極論をまともに受けると、さらにもう一つの極論が生れます。それは、教会が伝道しなくてもよいという極論です。前もって誰が救われ救われないか、すでに予定されているわけですから、伝道無用なわけです。

 ジョーンズ自身が疑問に思い、私達自身も改めて取り組んでいる点が(3)の組織についての問題です。当時の(今もそうですが)バプテスト教会内には、各地域ごとに諸教会の連帯を強めるための地域協会がありました。バプテスト教会は、正式には各個教会の独立性を認めていました。各教会の独立性が認められながらも、連盟のような形で“バプテスト教会”という群れを形成していたわけです。しかし、現実には協会が教会を支配しているところがあったようです。ジョーンズはバプテスト教会内にある「本音と建前」に気付いて悩み、苦しみました。「これでいいのだろうか? 果してこのままで本当にいいのだろうか?」これらの矛盾点に嫌気がさしたジョーンズは、ついにバプテスト教会を自ら脱会しています。

 彼にその決心を決定付けたのがエライアス・スミスの存在でした。彼もバプテスト教会内にありながら、ジョーンズと全く同じ意見を持っていたのです。自分の考えが決して一人よがりではないことを発見したジョーンズは、スミスより一足早く、バプテスト教会を自らの意志で脱会しました。主イエス・キリスト以外、何人にも、又、人為的如何なる組織からも束縛されない、一人の独立したキリスト者、伝道者として歩む決心をしたのです。

 今や、視点は違うのかもしれませんが、私達も「これでいいのだろうか?果してこのままで本当にいいのだろうか?」という問いかけを持って、『キリストの教会』内の“組織”の問題に取り組んでいます。私自身『キリストの教会』純粋培養人間ですから、教団組織内の不自由さは正確には分かりませんが、教団組織にはやはり不自由さが付きまといます。そして、スミス&ジョーンズのように組織を持たない事が聖書的、最も素晴らしい事のように育てられ、教えられてきたのが『キリストの教会』です。しかし、私はあえて言いたい。「私達は組織に見切りをつけたと同時に、秩序まで失ってしまったのではないか?」と。教団組織がなくても教会秩序は保てます。しかし、秩序なくして教団組織も機能しないし、教団組織のない教会も群れとして機能しません。私達は、『キリストの教会』の先駆者達が、教団組織で純粋培養された人達であった事、又、そういう中から組織の不自由さを訴えた人々であった事を覚えたいものです。同時に、私達の群れの中で、「組織を持たない組織」という変なプライドがいつのまにか組織だけでなく秩序をも失う原因になっていることを謙虚に認めるべきです。その事に気付いているのかいないのかが、今後の私達の歩みを大きく左右します。

 日本の『キリストの教会』は今過渡期にあります。後継者の問題、牧師・伝道者養成の問題。各個教会の独立性と教会協力の問題。上げていけばきりがありません。ただ、「所詮、地上の教会には問題が付き物だ!」と脱帽し諦めてしまうのか、それとも、もう一度御言に問い掛け、御言に立って「問題があるからこそ、神様に助けを求めて、天上の教会に迎えて頂くために、地上の教会でも備えよう!」と自らを奮い立たせるのか。そのことが今の私達に、今の日本の『キリストの教会』に投げかけられている問いかけであろうと思います。教会に求められるのは表面的体制や組織だけではありません。教団組織を持たなければ、持たないなりにどのような弱点があり、それをどのように補っていけばいいのか、真剣に祈りつつ取り組んでいく姿勢が求められています。私達が様々な問題にどのようにして取り組もうとしているのか、その態度が問われます。

 「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ」(ホセア6:6)。この聖書の御言を、しっかりと受け止め、どのような形、表面的現われであれえ、神様がまず私達の動機や態度を見ておられることを覚えたいものです。主の喜ばれる事が自らの喜びになる事程、素晴らしい事はないのですから…。

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(4) バートン・W・ストーンの場合、その1

 今回は、米国にて私達の『キリストの教会』という群れを生み出した先駆者の一人、バートン・W・ストーン(Barton Warren Stone/1772−1844)という人物を見ながら、組織について考えてみたいと思います。

 彼が信仰を持ち、育んでいった教会は、長老教会でした。以前見たメソジスト教会が監督によって統制されているのに対し、長老教会はシノドと呼ばれる機関(複数の長老達によって構成)を通して属する全教会を管轄下に治める強力な教団組織を持っていました。そういう意味では、教団組織を持たない単立の『キリストの教会』を生み出す最も大きな問題提起をしてくれたのが、ストーンの属した長老教会と言う事が出来ます。ストーンは長老教会内で牧師の資格を取り、ケンタッキー州を中心にいくつかの教会を任せられた人物です。

 その彼が長老教会を去らねばならなかった理由は、一重に組織の強力、且つ強引な決定権にありました。それを二つの事例から見てみます。一つは牧師採用試験の問題、もう一つは教会の働き、牧師の働きに対するシノド/教団組織の執拗なまでの介入・ちょっかいです。今回は前者について見ていきます。

 まず一つは、献身者が牧師となる際の採用試験の問題です。私が恵み教会に牧師として招聘を受けた時、それは当時の牧師であられた岸本大樹師を中心に恵み教会の世話人会(役員会)が私を次期牧師にと推薦して下さった事で起こりました。当時の記録によると、世話人会の推薦は総会での承認を経て、招聘の手紙が私の手元に届きました。言うなれば、恵み教会は“池田基宣”という私個人を知らなかったにも関わらず (留学前に、一度、恵み教会で説教した事はあるものの)、世話人会の推薦を信じ、私を受け入れて下さいました。そこには、何か教団が定めた明確な招聘試験や基準があったわけではなく、ただメンバーが神様の次に信頼している世話人会を全面的に信用して決まった事でした。現存する日本の教団・教派の多くがそのような基準や牧師資格取得の試験を行っていますし、ストーンが属した長老教会も厳格な採用試験があったわけです。仮に、日本の4年制大学卒業資格や社会経験など、牧師として受け入れる上での教団基準のようなものがあれば、私は今こうして恵み教会で奉仕することはなかったでしょう。又、その旨申し出ても、その基準に合わずに失格となり、牧師になれなかった事でしょう。私自身の場合、恵み教会の祈りと期待の込められた招きに、夫婦で真剣に考え祈り、その招きを拝受致しました。そして1992年の7月に按手を受けて、牧師として正式に恵み教会に迎え入れられました。それから5年以上が経ちましたが、私の能力や手腕はさて置き、このような形で今も恵み教会にお仕え出来る事を神様に感謝している次第です。

 ストーンが属した長老教会は、そういう採用試験や基準が厳密な程しっかりしている教会でした。良く言えばそうですが、悪く言えば融通が利かない群れでもあったわけです。日本の『キリストの教会』はその逆で、とかく融通は利くものの、利きすぎて基本的な基準や方針すら見失ってしまっている場合がありますが…。去年流行ったルーズ・ソックスはもはや時代遅れらしいですが、『キリストの教会』のルーズさは未だに全盛期です。理由は簡単、自らのあり方を検証する制度も機会もないからです。ストーンの場合、見事牧師採用試験をパスしたわけですが、順風満帆にいったかというと、そうでもなかった。当時、説教できるようになるためには、長老教会が指定した神学を学び、あくまでも長老教会風にアレンジされた聖書教理・神学を取得しなければなりませんでした。つまり、その学びは聖書のみではなく、余計なもの(もちろん有用なものもあったでしょうが)があった。少なくともストーンにはそのように感じられたようです。それはちょうど、一生懸命料理している妻の横で、やれ「塩が足りない」とか、やれ「まだ出来ないのか、早くしろ」とわめき立てる夫がいるようなものです(こう書きながら、自分のやったことの怖さが分かりました。愛する妻よ。もう余計な事は致しません。お許しを!)。

 ストーンに与えられたトピックは「三位一体」というテーマでした。これは父なる神、子なるキリスト、そして聖霊という三つの位格が現れ方は違うけれども本質的に一体であり、唯一なる神を示すとする神学用語です。その言葉そのものこそ、聖書には出てきませんが、確かに聖書が主張する大切な神学です。ところが、ストーンはどうしてもこの「三位一体」が分からなかったようです。というより、どんな神学書の説明も彼にはピンと来ず、返って困惑する始末でした。彼自身、聖書そのものを学ぶ上では何ら問題を持ちませんでしたが、人が作り出した神学に接する時、彼はそこに問題を感じ、困難さを覚えたようです。それまで、彼は聖書の教えそのものに十分満足していましたが、神学書の世界に入り、聖書がかえって分からなくなったと告白しています。

 幸いな事に、ストーンの採用試験の際、彼が抱えた疑問点への質問は出されませんでしたので、彼は見事パスしました。ただし、これは牧師になるための第一段階です。長老教会(他の群れでもそうですが)では、この採用試験にパスした者は説教する事を許されます。しかし、それは必ずしも牧師になったことを意味するのではありません。牧師になるためには、さらに上級試験に合格し、按手を受けなければなりません。ジェームズ・オケリーの時に見たように、按手を受けていなければ、説教は出来ても聖礼典(聖餐やバプテスマ、結婚式など)を施行することは出来なかったのです。

 上級試験に際して、志願者に求められたのは、長老教会の公式文書「ウエストミンスター信仰告白文」を受け入れる意思を諮問委員会の前で告白する事でした。「あなたはウエストミンスター信仰告白文を聖書の中で教えられている組織的教理を含んでいるものとして受け入れ、採用しますか?」この質問に対して、ストーンは次のように答えています。「はい。それが神の御言と一致している限り、受け入れます」。正式には、志願者は「Yes」「No」のいずれかを述べるだけでよかったのに、ストーンはそこに自分の確信をも付け足したのです。彼はこの試験に合格し、1798年10月4 日に按手を受けた後、長老教会の正式な牧師に就任しています。この経験は、後々ストーンの歩みに大きな宿題を残したようです。それは聖書の絶対的権威の問題と、いつも肝心なところで口出しする組織力へのおぼろげな疑問です。後に彼が長老教会から離れていく際、牧師就任時のこれらの経験が、彼の“聖書のみの精神”、並びに“教団組織を廃止した単立教会の確立”を推し進めていく原動力になったのは明らかです。

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(5) バートン・W・ストーンの場合、その2

 前回は、ストーンが抱えた牧師採用試験の問題から、ストーンがどのようにして組織に対する反感を心に植え付けていったか、その過程をご紹介しました。今回は、教会や牧師の働きに対する長老教会の介入について見ていきます。それに触れたら、なぜストーンが組織を持つ事に反対していったのか分かって頂けるでしょう。

 長老教会内で牧師の資格を得たストーンは、福音宣教と祈りの人でした。パイオニア精神に後押しされて、時間を惜しむかのように様々な働きをしています。当時のストーンのような教会指導者達の働きに触れると、文明化された現代に生き、便利に働いている自分がまだまだ彼らの足元にも及ばない事に気付かされます。それ程、ストーンは忙しく、しかし情熱を持って、一人でも多くの魂の救いを求める伝道者でした。

 彼は二つの教会で牧会する傍ら、福音宣教のためなら積極的に様々な働きに関与していくタイプの伝道者でした。特に彼は超教派的な働きにも率先して参加し、アメリカ教会史上重要なリバイバル(信仰復興)集会指導者として名を残すほどの有名人です。ただし、彼のそういう牧会伝道スタイルを快く思わない者が当時の長老教会内にいたのです。

 ストーンが長老教会内で抱えたもう一つの問題は、彼の牧会活動、伝道活動に、教団組織が何かと言っては注文をつけて、彼の働きを妨げようとした点にあります。

 私も恵み教会の牧師である傍ら、地域の超教派の牧師会や近放伝のような働きにも参加し、又、出来る範囲内で協力しています。超教派ですから、それはもう様々な教団・教派から様々な牧師達が集まります。特に阪神地区の牧師会(阪神宣教祈祷会)は、各教団・教派のアイデンティティーを尊重しながら、ただ祈る事と宣教という二点においては心を一つにして協力していこうとする教会協力の働きですから、毎年12月に行う「阪神クリスマス・フェスティバル」を中心に、率先して参加しています。それに関して、教会からは牧会を疎かにしない範囲内であればよいという理解も頂いて、感謝に絶えません。又、他の姉妹教会からもとやかく言われないのも幸いです(ただ知らないだけなのかもしれませんが…)。もちろん、牧師の主たる働きは自らが委ねられている教会の牧会伝道ですから、対外的な働きが主になってはいけません。そういう兆候があるのであれば、信徒は躊躇することなく正直にその思いを牧師に進言すべきですし、是非そうしてほしいと牧師の私自身願っています。ただ、そういう話し合い、相互理解なしに、一方的に「これはいいけれども、あれは行けない」と言われるとすればどうでしょう。誰しもいい気はしないはずです。

 ストーンが関わった働きは、ケインリッジ・リバイバル集会(1801年8月に行われる)として主だったアメリカ教会史書の中でも紹介されています。この集会で回心した者の数は500人から1000人いたと言われます。当初、長老教会はこの働きを静観していました。ところが、次第に反対色を強くし、しまいにはストーンの同労牧師の資格を剥奪してしまいました。理由は、その集会の特異性(集会中倒れるとか踊り出すとかの異常現象があった)と、ある種の期待はずれがあるようです。

 当初長老教会はそのような超教派的な働きを通して、長老教会に寝返る他教派牧師(バプテスト教会やメソジスト教会)が出るだろう(いわゆる、“羊泥棒”ならぬ“羊飼い泥棒”)と期待していたようですが、待てど暮らせどその兆候が見られないので、堪忍袋の尾が切れたようです。所詮そのような目でしかリバイバル集会伝道の働きを見ていませんでしたから、上からクレームが来るのも時間の問題だったのかもしれません。

 ストーンの場合、そう言われて、「はい、そうですか。分かりました」と引き下がる人間ではなかったのです。“御国のために”と思いやっている事を、“長老教会のために”という狭い視野でしか見られない長老教会指導者達に、彼は早速抗議しました。しかし、上層部は、抗議したストーンや賛同牧師らの牧師職を一時保留にし、挙句の果てに永久免職処分にしたのです。それは、ストーンらがもはや長老教会内で講壇に立つことはおろか、牧師としての務めを行えないことを意味しました。組織のある教会では、それが出来るわけです。正統的な理由があれば、それも妥当でしょう。しかし、自己保身のために他者や弱い立場の者を犠牲にする形で組織的決断が下される場合もあります。検察の入り得ない聖域だった大蔵省の中から官僚接待で何人もの逮捕者がを出ましたが、あんなもの逮捕者だけが接待を受けていたとは到底考えられません。ほとんどの上層官僚が受けていたはずです。それでも関与者全員を逮捕せずに、数名の犠牲(?)で済ませたのは、大蔵省という看板を守るためでしょう。内容は違いますが、ストーンの身にも同じような処分が下されたわけです。

 実際のところ、長老教会側に言わせればそれは正当な判断によるのであり、ストーン側にとっては長老教会の自己保身と嫉妬故に自分達が犠牲にされたという思いが強かったでしょう。処分されたストーン側はその後、仲間で新たな長老会を作りますが、すぐにその組織体にとてもユニークな形で終止符を打ちました。それは、長老会あるいは長老教会という名前の終焉であり、それを「遺言状」の形で書き記しました。そこには(1)クリスチャンの一致という基本概念、(2)聖書の絶対的権威、(3)各個教会の自治権などについて明記されています。特に(2)と(3)は、彼の組織への立場が如実に現れています。

 ストーンは「人間的信条や教会政治形態の採用」が教会内に分裂や分派的精神を促してしまうものがあると考えました。ですから、彼にとってそういうものから成り立っていた長老教会に属することは、明らかに新約聖書の教会から逸脱すると思えたのです。さらに、他のいかなる教団・教派同様、長老教会内では、各教会が説教者を招聘したり、独自の教会組織を運営していくことはまず考えられない事であったのに、ストーンは聖書だけに従い、独立した教会が独立した福音宣教、教会運営に携わるべきだと考えました。そこには徹底した「教団組織はいらない」という信念がありました。人の主義・主張、立場というものは、その人が受けた影響や経験によって大きく左右されます。ストーンの受けた苦い経験から考えると、彼が教団組織を持たず、ただ頭なるキリストだけを掲げ、御言に従って単立の独立した教会を理想化したことは十分理解できる事でしょう。そういう時、人は得てして時計の振り子のように一つの極端からもう一つの極端に走ってしまいます。それが人間の限界なのでしょう。

 では、次回は教団組織を否定し、各個教会の独立を掲げたストーンが具体的にどのように行動し、単立の弱さを補おうとしたのか、それらの点について触れていこうと思います。

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Eバートン・W・ストーンの場合、その3

 教団組織を持つ教会には統制はありますが、個人の自由が失われがちです。逆に教団組織を持たない教会は、自由ではありますが、その自由が群れ全体から“統制”の二文字をなくしてしまいがちです。私達の群れ『キリストの教会』は、教団組織を持たないわけですから、私達はその良さと弱点の両方を把握し、良い部分をさらに研ぎ澄まし、弱点を補う努力を惜しまない姿勢が求められています。長老教会という教団組織の殻から抜け出したストーンという人物は、単に教団組織から脱皮を図っただけでなく、その失われやすいものをどのようにして補うかをも具体的に考え、且つ実行した人でした。今回は、教団組織を捨てその恩寵と弊害の中にありながら、ストーンがどのような試みをしたのか、見たいと思います。

 クリスチャンは皆主イエス・キリストにある信仰という本質的な部分で一致しています。それは教派・教団を超え、主の恵みと憐れみ故に私達に与えられているものです。しかし、その信仰の現れ方は教団・教派様々で、そういうものが一つの基準となって、群れを特定する基準になっているのではないでしょうか。では、私達の群れがどういう点で特徴付けられるかというと、それはおそらく“バプテスマ(浸礼)”と“週毎の聖餐”でしょう。ただ、この際立った二つの特徴は復帰運動が起こった初期にはまだ定まっておらず、発展途上段階にありました。仮にそれが定まっていたとしても、ストーンはそういうもので自らの群れを特徴付けはしなかったでしょう。ストーンはクリスチャンとして重要なのは、クリスチャン生活や礼拝のごく一部であるバプテスマや聖餐といったようなものだけではなく、その人の生活の全て、クリスチャンとしての生き様の全てであると考えました。だからと言ってストーンは聖礼典を疎かにしたわけではありません。その証拠に、彼は群れの牧師には按手を授け続け、その重要性を示しました。

 ストーンは非常にユニークなあり方でクリスチャンを定義しています。彼は二つ点からクリスチャンを定義しますが、第一点として、彼は本当のクリスチャンは「自らクリスチャンであると告白する人」だと言いました。いわゆる自称クリスチャンです。しかし、これだけでは何の確証もしるしもないので、二番目としてストーンは「クリスチャンらしく生きる者」が本物のクリスチャンであると考えました。「自らをクリスチャンとして告白し、クリスチャンらしく生きる」とは、何か曖昧で、ピンとこない定義のように思えるかもしれませんが、これがストーンにとって群れを特徴ならしめるものでした。

 では、その特徴は何か。それは彼の生き様を見れば分かります。長老教会から離れ、独自に牧会伝道し始めたストーンを一言で言い表すとすると、それは彼が“霞の上の仙人”、あるいは“世捨て人”的人物であったと言う事が出来ます。そう言うと聞こえが悪いかもしれませんが、彼はこの生き様を貫き通したという点で徹底していました。「組織の命令がなければ動けないのではなく、そういうものがなくとも、本物のクリスチャンであれば、いざという時、必要な時、一人でも教会でも動くはずだ!」その信念に則って生き抜いたのがストーンです。そういう意味で、彼は口も達者でしたが、その生き様も達者でした。有言実行の指導者です。ストーンを“霞の上の仙人”、あるいは“世捨て人”として描くのは、彼の一貫した信念によります。

 彼は、この地上での歩みがあくまでも神の与えられる直接支配に従う事であると理解していたようです。つまり、それはこの世の価値観に自分を合わせて生きるのではなく、むしろ、この世では寄留者(ヘブライ書11:13; Tペトロ書 2:11 参照)として、神様の支配への忠誠心を持って生きるという意味です。ストーンにとって神様の支配はすでにこの世で完成しているものであり、だからこそクリスチャン各位がそのように生きる事が真のクリスチャン、真の教会(何々派というような教派・教団の枠を超えた)をもたらすこととなると確信していたのです。ストーンはこの世からの分離を信徒に訴え、極力不必要な持ち物を控えるように勧めました。未亡人や孤児の面倒を見て、貧しい者や飢え乾いている者に仕え、奴隷を持っていたら教育して自立できるようにしてから解放するように教えました。1800年代初頭、黒人を教育したり自立させる事はまずなかったのに、ストーンはそういう刷新的な事をいち早く実行していました。

 教団組織がなくとも、その人が本当にキリストの思いを持っているのであれば、人々の徳を高める様々な働きが出来ることをストーンは自ら実証して見せました。月毎に出版したストーンの「クリスチャン・メッセンジャー」誌には、次のような言葉が残っています。「クリスチャンは誰も自分のために生きているのではない。自己のためではなく、偉大なる主ご自身のために生きるのである。…忠実な主の僕として、『主よ、あなたは私に何をお望みですか?』と尋ね、それが分かると飛び去る如くすぐにそれを実行する者。富であれ、労力であれ、名声であれ、払うべき犠牲がどれほど大きくても、それを実行する者がクリスチャンである」。

 真に高貴な発言ですが、有言実行のストーンは、自らの生き様を通してそれを示していきました。長老教会を去った後、彼は自発的に今までもらっていた牧師への謝礼を放棄し、自ら貧者への道を選びました。それは、さながらマタイ伝19:21の主の言葉をそのまま実行に移したようでした。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。1841年に、ストーンは次のように言っています。「地上の事で思い煩うな。又、興味を注がれるな。この世に調子を合わせるな。ここではあなた方の繋がる場所はなく、あなたは寄留者・巡礼者として、よりよき故郷を求めているのだ」。さらに、ストーンはこの世の政治はそれが民主主義であれ何であれ、全てそれは悪魔的で不合法なものであると考えました。ですから、クリスチャンとしてそのような政治活動に加わる事は、納税や市民法を守る事以外は、投票も含めて一切関与してはならないというのがストーンの考えでした。

 ストーンのような人物は現代社会では生きていけません。又、現代に生きる私達もその時代のその価値観で生きていく事は到底出来ません。近代化と文明化の波は当時と現代を大きく分断しているかのようです。しかし、ストーンは彼の生まれ育ったその時代に、聖書信仰を掲げ、無垢なまでに単純で純粋な生活に徹しようとしたという点において、少なくともその時代の『キリストの教会』を組織的あり方から逸脱し、それに変わりそれを補う生き様を示し得た人物として賞賛に値するのではないでしょうか。ストーンにはそれだけの熱意と行動力があったのです。

 彼の命がけでクリスチャンとして生きようとする姿から、私達が学ぶべき点は大きいのではないかと思います。近代化され、価値観の多様化する社会の中にあって、私達も同じような熱意と行動力を持って、この時代に適した教会のあり方、クリスチャンとしての生き方を真剣に模索していかなくてはなりません。今の時代のそういう取り組みがあって初めて、次の世代に私達のこの地上における教会、『キリストの教会』をバトンタッチすることができるのです。少なくとも私個人はストーンという人物からそういった事柄を大いに学ばされています。

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Fアレキサンダー・キャンベルの場合 その1

 『キリストの教会』と組織を考えるにあたって、今回は初期指導者の最後としてアレキサンダー・キャンベル(Alexander Campbell, 1788-1866)という人物に焦点を絞ります。今まで見てきた指導者と比較して教会内外の知名度や影響力の大きさ等から言えば、キャンベル程『キリストの教会』形成に貢献した指導者はいません。同時に、影響力を持つが故に彼程“組織”の扱い方について両極端に揺れ動いた人物もいないかもしれません。群れの成長や社会的風潮などを考慮しながら、3回に分けてキャンベルを見ていきます。今回はその1回目として、キャンベルの魅力や人となりを紹介致します。

 先に見たストーンは生粋のアメリカ人で、アメリカ国内の長老教会で信仰を持ち、独自の教会へと導かれました。アレキサンダー・キャンベルはもともとアメリカ人ではなく、父親のトーマス・キャンベルと一緒にアメリカに移住してきたアイルランド人です。父トーマスは長老教会の牧師でしたが、分裂に分裂を重ねるその姿に見切りをつけてアメリカに渡り、自らの信念で聖書的教会を新天地に求めていきました。彼が残した「宣言と訴告」という文書は『キリストの教会』のアイデンティティーを示す一つの重要な資料です。その息子アレキサンダーも父親の後を追うようにアメリカに渡り、父親と同じ立場を取って、ある意味で父親以上の働きを担っていく事になります。

 先にアレキサンダーには知名度と大きな影響力があったという点に触れましたが、なぜそうだったのか、いくつかの点を紹介しておきます。まず、アレキサンダーは自他共に認める才能があったということが言えるでしょう。アレキサンダーの伝記によると、彼は3、4歳にしてすでにギリシャ語やラテン語を身につけ、毎日ギリシャ語で新約聖書を15節づつ(約2時間)、ヘブライ語で旧約聖書を10節づつ(約1時間)、毎日少なくとも3時間は聖書の御言に浸っていたようです。今も歴史資料として残されている彼の書斎は、窓が天井にしかなく、外から邪魔されないように、集中して学びが出来る設計になっていました。ですから、彼は突然訪れたその場で説教を頼まれる機会が多かったようですが、いつもそれだけの備えが出来ていましたから、いつでも御言からメッセージを分かち合う事が出来たそうです。私など一つや二つぐらいならなんとか…と思いますが、とても同じようには出来ないでしょう。語学的センスだけでなく、その適応能力や状況判断などの賜物がないと、なかなか同じようには出来ないでしょう。

 それからもう一つ、彼が大富豪であったという事です。「牧師がお金持ち?」と不思議がるでしょうが、ストーンの時にも見たように、当時牧師の務めは今日のような有給制度ではありませんでしたので、牧師も仕事を持って家族を養っていました。キャンベルも牧師以外の顔を紹介すると、彼は生涯農夫でもありました。たまたま結婚した娘マーガレット・ブラウンの父が大農場主で(キャンベルに下心があったとは思いませんが…)、キャンベルがそれを引き継ぐ事になりました。バージニア州のベサニーには、彼の屋敷が残っていますが、その敷地内に今では「ベサニー大学」が建っています。大学が建つくらいの土地所有者でもあったわけです。彼の屋敷は当時の基準からすると、富豪にしか許されない透明ガラス張りの窓があり、時のアメリカ大統領や政府高官らが宿泊した家でもありました。キャンベル自身政治家への道は選びませんでしたが、バージニア州での彼の発言は政治をも左右する程大きかったのです。

 当然キャンベルは無報酬で説教しました。ストーン同様、彼も教会のための奉仕は全て無報酬で行ないました。ただし、キャンベルの場合は資産がありましたから必要なかったといった方がいいかもしれません。ストーンは必要だったけれども信念で受け取らなかった(その弊害も沢山あったわけですが…)。反面、キャンベルは必要なかったし、自分の信念とも反するので受け取らなかった、という事でしょう。私達は何事においても、表面的なものだけで判断せずに、その背後にある状況や現実もしっかりと見据えなければ正しい判断は出来ません。

 それから、女性の方々には特に興味深い話しを一つ。キャンベルは妻マーガレットをこよなく愛しますが、彼女は二人の娘を産んだ後、36歳の若さで召されてしまいます。その時マーガレットは遺言として、家族ぐるみで交友を深めていた独身女性セリナ・バックウェルと再婚するようにアレキサンダーに言い残します。幼い子供の世話や家事などがありますから、アレキサンダーはその遺言通りセリナと再婚しますが、彼は亡きマーガレットを思い、彼女との結婚記念日を毎年祝ったそうです。セリナの気持ちを考えると複雑です。今日アレキサンダー宛に書かれた手紙のコレクションが残されていますが、不思議な事にセリナの手紙は残っているのに、前妻マーガレットのものは一通も残っていません。上記の状況を考えると、「誰が燃やしてしまったのだろう?」と想像してしまいます。

 最後に、財と能力に長けたキャンベルにはそれを生かす場が備えられていました。ある意味で時代が彼のような人物を作り出したのかもしれません。当時テレビやラジオのまだなかった時代に、人々が楽しみにしていたものに公開討論会がありました。キャンベルは生涯を通して6回の討論会を大観衆の前で行なっています。あるテーマについて立場の違う二人が主張し合うこのエンターテイメントは、審判や裁判官がいて勝ち負けを決めるわけではなく、聴衆一人一人にその判断が委ねられていました。公開討論会終了後に起こった現象は、大半がキャンベルを指示し、彼の属する『キリストの教会』(キャンベル自身はこの群れを「ディサイプル」と呼ぶ事を好んだ)に転入していきました。それはキャンベル自身考えてもいなかった事で、それに味をしめた彼は、当初尻込みしていた討論会にも率先して参加するようになっていきます。しかし、群れが大きくなればなるだけ、キャンベルはもっと群れを一つにまとめられないものだろうかと考え、「組織」という言葉を使い始めるようになります。それ以前は、長老教会やバプテスト教会内で組織の弊害に自らも苦しみ、戦ってきましたから、教団組織のようなものに断固反対していた彼ですが、群れの成長と共に微妙に考え方が変わっていくのです。その転機となるのが、1830です。

 次回から二回に分けて、1830年以前のキャンベルの考え方がどうだったのかを見て、次にそれ以降彼の考え方がどのように変わっていったのか、その要因は何だったのか、そしてそれに対する評価を試みたいと思います。

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Gアレキサンダー・キャンベルの場合 その2

 アレキサンダー・キャンベルの生まれ故郷アイルランドは皆さんの記憶にどのような形で残っているでしょうか。おそらく、内紛の絶えない地域という答えが圧倒的に多いのではないでしょうか。新聞・テレビを通してIRA(アイルランド共和軍/反英武力活動を行なう北アイルランドのカトリック系過激派組織)という言葉を聞いたことのある方も多いでしょう。メディアの伝えるニュースだけを聞いたり見たりすると、「どうしてクリスチャン同士が?」と思いますが、その根は深く宗教改革の時代までさかのぼります。アイルランドは、宗教という名の下に、特にカトリック教会とプロテスタント教会の間で、争いが絶えず、争いが定着化してしまった悲しい国です。

 アレキサンダー・キャンベルが生まれ育った時代のアイルランドも十分その片鱗を覗かせていました。もともと彼がアイルランドで属していた群れの正式名称は、「反自治都市宣誓分離派長老教会」と言います。非常に長い、聞いただけではどのような群れか分からない教会です。同じ長老教会でありながら、それは4つの分派に分かれ、アレキサンダーが属していた群れはその中でも最も厳格で保守的な群れでした。同じ長老教会のクリスチャンでありながら、属する群れが違うだけで交わりも制限され、其々が独自の歩みを続けるしかない状況下にあったわけです。そのような分派主義は、特に聖餐に預かる際、多くの問題をもたらしていました。

 私達の『キリストの教会』では毎週聖餐を取ります。クリスチャンであれば、『キリストの教会』のメンバーでなくても聖餐に預かって頂いています。教団によっては陪餐会員制度(会員の中で聖餐に預かる会員と預からない会員を分ける制度)を設けている教会もありますし、ローマ・カトリック教会では今でもプロテスタント信者がミサに預かる事は許されていません。そういうものからすると、『キリストの教会』のあり方は進歩的に映るかもしれませんが、新約聖書を見る限り、後者の方が異質であり、教会の発展によって便宜上作り出されたものです。

 キャンベルの時代はどちらかというと、後者に属していたわけで、陪餐会員は聖餐に預かるための証明書のようなものを所持していなければなりませんでした。聖餐の時には必ずその証明書を持参して、提示してから長老たちの監視の下、聖餐が持たれていました。もちろん、其々の群れに属する信者が自分の群れの中で行われる聖餐に預かるわけです。他の長老教会メンバーには預かる資格はありません。アレキサンダー(実はその父トーマス・キャンベルも同じ事をしている)は、そのような分派主義による聖餐のあり方、クリスチャン同士の交わりのあり方が許されていいのか悩んでいました。1809年の春、ついにアレキサンダーは陪餐資格がありながら、あえて聖餐に預かりませんでした。それは彼が少なくとも精神的な意味でそのような分派主義と決裂した事を物語っています。

 組織の恐ろしさはここにあります。組織が決めた事がドミノ倒しのように隅々まで行き渡り、個人の自由とか平等性とかいうものがなくなっていきます。さらに恐ろしい事は、目に見える表面的なものだけにかかわらず、そういう統一性が精神的なものにも浸透してしまう事です。ただ、後者は別に組織の有無にかかわりなく生まれ得ます。それが『キリストの教会』内にもあるかもしれない“組織のない組織”であって、私達の精神文化を大きく左右しているのです。キャンベルを例にその点を見ていきましょう。

 アメリカに渡ったキャンベルは、米国長老教会からも受け入れられず、その代わりバプテスト教会に歓迎されます。しかし、それも長続きせずキャンベルは1823年には独自の単立教会を始めています。この年から1830年までの7年間、キャンベルは「クリスチャン・バプテスト」という定期刊行誌を出版しています。それは非常に攻撃的で、排他的色合いの強い文章がキャンベルの手によって書かれました。その中でキャンベルが向けた攻撃の矛先は3つあると言われています。

  1. 見せ掛けの聖職者(牧師)がいることについて。
  2. 聖書によって権威付けられていない教団組織に対して。
  3. 聖書ではなく信条を交わりのテストとする事に対して。

 これらの点は、キャンベルが長老教会で抱えてきた点であると同じに、バプテスト教会の中でも抱えた問題でした。その経験は、先程上記した教団組織の恐ろしさや危険性をキャンベルに植え付けた事でしょう。キャンベルは組織ではなく、「初代教会への復帰」を掲げました。ただし、皮肉にもそれは教団組織を持たないにしても、同じ排他的色合いを持っていました。彼の残した記事の行間から匂ってくるのは、「我々だけがクリスチャンだ」という立場で、新約聖書の教会を取り戻そうとする努力は大切だったものの、自分と同じように聖書を理解しない者への態度は非常に厳しい側面を持っていました。この「クリスチャン・バプテスト」を書いていた7年間は、キャンベルにとって“聖書への復帰”を強調するあまり、時に悲観的で、攻撃的で、排他的、かつ原理主義的時代であったと言うことができます。彼が「クリスチャン・バプテスト」誌1823年8月号に書いた記事に次のような下りが出てきます。

 「…[教会]は、宣教協会や聖書協会、教育協会などに1セントであれ祈りであれ、捧げてはならない。そうでなければ、教会はその栄光を奪われ、人の作り出したものを神の知恵以上に賞賛することになるだろう。」

 1820年代、キャンベルにとってあらゆる協会(協力の会)が組織でした。上記の言葉がこの時代のキャンベルの立場を明確に言い表しています。この攻撃的で排他的な一面は、復帰運動初期指導者達の間でも評価が分かれます。キャンベルはストーンとは握手して、互いに同じ群れであると表明することになりますが、エライヤス・スミスやアブナー・ジョーンズとは犬猿の仲と言っていい程、互いに中傷し合っています。スミスやジョーンズに言わせたら、キャンベルは排他主義者でクリスチャン律法主義者でしかありませんでした。それ程、当時のキャンベルは保守的だったのです。しかし、その彼も1830年を境に考え方を少しづつ変えていきます。特に組織の位置付けについて…。次回はその点を見ていきたいと思います。

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Gアレキサンダー・キャンベルの場合、その3

 クリスマスにつきものなのは、クリスマス・ツリーです。欧米では各家庭でツリーを飾ることが習慣となっており、しかも本物の木を使って見事なデコレーションを行います。日本では各家庭でツリーを飾るというよりも、デパートや商店街が煌びやかなツリーをかざし、客の足を食い止めようとします。いずれにしても、クリスマス・ツリーはクリスマスの到来を私達に意識付けてくれるでしょう。

 私は以前クリスマス・ツリーなどクリスチャンが飾るべきではないと思っていました。なぜか。クリスマスの本当のメッセージはそんなものではないと考えていたからです。根が暗い私は、イエス様の示された貧しき姿にかこつけて、単にロマンチックな一面を強調するやり方についていけなかった、ある意味で一つの極端に走っていました。そんなロマンチックのかけらもない男が、ある時変化を遂げました。原因は女です。そういうと変に聞こえるかもしれませんが、家内との出会いと結婚、子育てという共同作業が今までの私の頑固一徹なあり方を正し、今までの自分とは別人にしてしまいました。その変化を一番知っていて、喜んでいる(?)のは家内かもしれません。我が家でもこの時期になると、偽物ですが小さなツリーを飾るようになりました。

 何の話かお迷いでしょう。私が言いたのは、人の主義主張は、時と場合によって移り変わるものであるということです。そういう意味で、アレキサンダー・キャンベルほど、組織の問題で考え方を方向転換した指導者は復帰運動の中に後にも先にもいません。

 前回、1830年頃まで、アレキサンダー・キャンベルという指導者が非常に保守的な立場を貫き、いかなる組織的働きをも否定したというところまで触れました。1820年代、キャンベルにとって宣教師協会だろうが、聖書協会だろうが、各個教会の自治権を侵害し、上位に立とうとするいかなる協会もあってはならないことでした。ところが、1830年代から、少しづつですが、キャンベルの発言に変化が見え始めます。それまでのキャンベルは、悲観的で攻撃的、非常に批判的な人物でしたが、この頃を境に、より積極的、楽観的人物になっていきます。そこには、生まれたての『キリストの教会』(キャンベル自身はディサイプル −“主の弟子”の意味− というグループ名を好んだ)が、短時間の内に急速に成長し、全米でも有数の教会になっていた事、又、アメリカという国自体がこの世の方向性が良い方向に向かっていると楽観視していた事(その夢は南北戦争でもろくも崩れ去る)などが挙げられます。1820年代、キャンベルはいかなる宣教教会も間違っていると言いました。

 ところが1830年代になると、「ある種の協力が必要だ」といい始め、1840年には「何らかの教会協力が必要だ」と唱え始めます。そして、1849年、群れの中で最初の国家規模の宣教協会であった「米国キリスト教宣教協会」が組織された時、アレキサンダー・キャンベルは自ら初代会長になったのでした。1820年代までのキャンベルを知るものにとっては、これは一大変化でありました。この協会には全米の内11の州から100の教会が協力し、156名に代表がオハイオ州のシンシナティーに集まりました。協会の目的は、「米国、ならびに 諸外国の地で福音に触れたことのない乏しい地域に福音の拡張を生み出すこと」でした。

 このように、1830年代を境に、キャンベルという人は組織に関しては全く異なる立場を取っています。今も組織を好まない指導者は1830年以前のキャンベルに言及し、組織を率先して持とうとする指導者は1830年以降のキャンベルに言及します。両者とも「キャンベルがこう言っていたから」と、彼の生前の実績と影響力から共にキャンベルの書いたものを用いるわけですが、この点に関してキャンベルは全くといっていい程価値がない。というよりも、発言する資格もありません。少なくとも1830年を境にした彼の極端な変化には、私個人はついていけません。組織を持ちたがる場合もそうでない場合も、聖書から各々主張しますが、聖書からは明確にすることのできない部分があるため、群れの中で最も強い影響力を持っていたキャンベルに頼ろうとしたのです。しかし、キャンベルがしたことは混乱と不信感を生み出しただけです。

 『キリストの教会』は、その群れが生まれたアメリカでさえ、当初からこの問題を抱えました。群れの顔ぶれも変わらず、社会情勢も変わらず、過ごしていけたのなら、変化する必要はありません。しかし、私達はどんな人でも、教会でも、世界第二位のGDPを誇っていた日本でも、状況次第でいとも簡単に変わってしまう事を知っています。永遠に変わらないもの、それはキリストの恵みであり、神の御言だけなのです。その恵みと御言に生かされながらも、それを其々の時代や状況に生かそうとする時、自ずと様々な違いが目に見える形で出てきてしまう。それは誰しも想像できるはずです。しかし、その違いを受け入れられない、許せない感情的シコリというものが、必ずクリスチャンの世界にもあるのです。それはキャンベルの時代にもあり、今も形を変えて私達の中にあるでしょう。その現実から目をそらさず、弱さを抱えたままの自分を認め、主の前に悔い改め、主の支えと導きをひたすら求めたいものです。

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