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(5)戦前日本にやってきた宣教師

   a. 宣教協会経由の宣教師達

 日本の『キリストの教会』は、その殆どがアメリカの宣教師達によって建てられました。戦後50年以上経ちましたが、日本人だけの働きで生まれた教会は本当に僅かしかありません。その事を思う時、私達がどれだけ宣教師の先生方に負っているかが分かりますし、逆に私達がまだ本当の意味で自立出来ていない事をも裏付けているのです。

 前回まで、アメリカ本土で起こった事柄を見ました。私達の信仰のルーツを考える上で、それは避けて通る事は出来ません。又、群れにある過剰な組織アレルギーの根が何だったのかについても幾つか触れてきました。それは、バプテスマという神学的問題、さらにそれに携わった宣教協会という組織を巡って起こった騒動でした。そういう騒動の中にあっても、宣教師達が世界中に派遣されて行きました。戦前、日本にやってきた『キリストの教会』の宣教師は合計で85名にもなります。この数は他の教派教団と比べてもかなり多い数になります。

 『キリストの教会』の宣教師が最初に来日したのは1883年(明治16年)10月19日の事でした。来日したのはジョージ・T・スミス宣教師夫妻とチャールズ・E・ガルスト宣教師夫妻でした。この二家族は共に「海外キリスト教宣教協会」(FCMS)という機関を通して派遣されてきました。当時40才だったスミスは来日前に約10年間アメリカでの牧会経験を経て、その有能さを認められて宣教師に任命されました。ガルスト(当時30才)はもともと陸軍士官学校出身の大尉で191センチの巨漢の持ち主でした。彼は当初アフリカ伝道を志していましたが、宣教協会の勧めで、日本に来ることになりました。

 この二家族を日本に派遣したFCMSという宣教協会は1875年に結成されています。以前見たように、そういう動きを聖書的とは見ずに反対する立場もありましたが、それから世紀が変わるまでの25年間、『キリストの教会』は宣教活動の全盛期を迎えました。そういう時代的流れに乗って、スミス夫妻とガルスト夫妻は来日したのです。

 彼らは横浜で約7ケ月間日本語を学び、日本のどこに宣教すベきかについて研究しました。その頃、人口3600万の日本に145人の宣教師がいましたが、彼らは条約港ないし大都市の外人居留地に集まっていました。欧化主義によって西洋的なものを何でも受け入れようとした都会に留まる事は、ある意味ですぐに伝道活動出来るし、反感を受ける事も少なく、当時の宣教師たちには少なからず魅力的だったはずです。しかし、彼らはその地を選びませんでした。『キリストの教会』は、アメリカの開拓地を中心に勢力を伸ばした群れですが、そういう開拓精神も働いたのでしょう。彼らは宣教地として、当時は鉄道すら通っていなかった秋田を選びまいた。

 当時東北農村は日本の中でも最も貧しい地方であり、子女の人身売買も稀れでなかったそうです。NHK連続テレビ小説「おしん」の世界を思い描いて頂ければ、少なからず当時の様子が想像出来るでしょう。そういう田舎での伝道がどれほど困難なものであったか、想像するに余りあります。スミスは主として秋田市内、若いガルストは県下や周辺地域を伝道して回りました。病弱だったスミス夫人は二か月後着任しましたが、翌春に次女を出産した時に、天に召されました。

 当時を振り返り、ガルスト夫人は次のような手記を残しています。「個人生活について云えば、正直なところ、他の宣教師たちから遠く離れた辺地での孤独と欠乏の生活、絶えずその珍らしげにまつわる日本人の間での、ノミ・蚊の多い日本家屋の生活は決して楽しいものではなかった。さらにわれわれの心を痛めたのは、人々の道徳心の低いことのほか、至る所に見る貧困家庭のことであった」。

 当時、地主は不当に高所得をあげ、小作農が経費に追いやられていました。そこでガルストが考え出したのが「単税論」です。単税(シソグル・タックス)論というのは、地主に対する課税を訴えるもので、今日の私達には当たり前ですが、当時としては画期的なアイデアでした。岩波小辞典の『社会思想』を見ると、そこにガルストが紹介されています。

「・・・彼は伝道のかたわら単税論、土地国有論について多数の論文を新聞雑誌に寄稿、さらに単行本を自費出版し、単税太郎と自称し、日本文字をよく書く」。

 明治25年末に、スミスはFCMS本部に呼ばれて帰米してしまいます。一方、ガルストは、FCMS本部の方針変更により、秋田に帰らず東京駐在となり、監督的・巡回指導的任務につきました。

 明治31年(1898年)夏、ガルストは北海道へ、秋には他の宣教師をつれて福島、仙台地方、11月下旬には茨城県の太田へ伝道に赴きましたが、その時にかかった感冒がもとで、12月28日天に召されました。46才でした。日本人牧師が病床を訪ねた時、「私は半生の微力を致したが、一つの独立教会を見ずして去るのが残念だ」と語ったそうです。夫人が「何か遺言はありませんか」と尋ねたところ、「私の生涯が私の遺言だ」との答えが返ってきました。その墓は、今も青山墓地に残っています。

 簡単に、宣教協会経由で来日した宣教師の代表、スミス、及びガルストの働きを述べましたが、彼らはあくまでも本部の決定に忠実でした。しかし、ガスルトの歩みを見て分かるように、ガルストの意思とは反対に本部が東京に行けと言えば、彼はただそうするしかありませんでした。陸軍出身の彼の体には、命令への絶対服従という体質が染み込んでいたのでしょう。それを不自由と感じるか、それとも目的達成の手段と取るかは、人によっても教会によっても様々でしょう。一つ言える事は、ガスルトがそういう宣教手段や組織うんぬん固執することなく、むしろあくまでも宣教師としての「宣教の情熱」に燃やされていたという点です。私にはガルストの病床の言葉が心の奥底に突き刺さります。「私は半生の微力を致したが、一つの独立教会を見ずして去るのが残念だ」。

 恵み教会の中から、将来新たな独立教会が生まれる日が来るでしょうか。私はその日が来てほしいと願い、日々祈りつつ、その事を視野に入れた伝道牧会を目指しています。5年、10年先を見ると同時に、その先をも見据えた信仰生活、伝道牧会が求められます。

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   b. 独立宣教師達、その1

 前回、宣教協会という組織経由で日本にやってきた宣教師達(ガルストやスミス)をご紹介致しましたが、今回から2回に分けて、独自に独立した働きを担った宣教師を紹介していきたいと思います。今回は主に関東を中心に働いた宣教師を二組紹介します。ロドゥスカ・ウィリック宣教師とウィリアム・カニングハム宣教師です。

 オーストラリアで働いていた宣教師を両親に持つベル・ベネット(Belle Bennett)という女性がいました。彼女は、日本への宣教師となるべく備えていましたが、その矢先の1889年、乗っていた船が事故にあい、水死してしまいました。彼女が在学していたドレイク大学の学生達は、彼女の志を無駄にしてはいけないと、$4000の寄付金を集め、彼女に代わる日本への宣教師を探しました。

 その招きに答えたのがロドゥスカ・ウィリック(Loduska J. Wirick/〜1914)でした。彼女は1890年の夏、初来日しています。ベネットを惜しんで集められた宣教資金は海外キリスト教宣教協会(FCMS/いわゆる組織)によって管理され、ウィリックに送られていましたが、5年後にそれも途絶え、彼女は日本における私達の群れで最初の独立宣教師となりました。

 彼女は「オリエントのナイチンゲール」と呼ばれるようになります。それは、彼女が特にロシアとの戦争で心身共に傷ついた兵士達の世話をし、日本に連れ帰る働きをしていたからです。そんな彼女にも試練が訪れました。報告を兼ねて母国アメリカに帰っている時、健康診断を受けた彼女は、自分がガンに冒されている事を告げられるのです。普通ならそこで挫折するか、日本に戻る事を断念するのでしょうが、彼女の場合は違いました。自分が不治の病に冒されている事を知った彼女は、自分に残された時間が僅かだと悟り、真っ先に年老いた母親のいる家族と面会し、この世での別れを告げて、やり遂げなければならない主のための御業が残っていると言って、日本に戻ったのでした。そして、1914年4月30日、天に召されていきました。ウィリックの墓には、ヘブライ書11:4の御言が刻まれています。「[ウィリック]は死にましたが、信仰によってまだ語っています」。彼女の墓は、今でも東京の豊島区にある染井墓地に残されています。

 戦前、私達の群れの宣教師の中で、組織から離れて独立した働きを最も顕著に示したのは、ウィリアム・カニングハム(W.D.Cunningham/1864〜1936)宣教師夫妻でした。ウィリアムは群れの神学校(ベタニア大学)で学んだ後、優秀な牧師として主にカナダで牧会していました。宣教の熱意に燃えた人でしたが、日本への宣教師募集を知り、すぐに海外キリスト教宣教協会にアピールしました。そして、前回紹介したガルスト宣教師夫妻と共に働くことが決まったわけです。

 ところが、そんな彼に悪夢が訪れました。ポリオにかかってしまい、彼の体左半分が感染してしまいました。回復はしたものの、後遺症のため、左半分が自由に動かないハンデを負ってしまいました。彼は回復したのだから自分を日本に宣教師として送ってほしいと宣教協会に訴えましたが、彼の健康状態を留意した協会側は、様子を見るため一年待つように言います。彼は待ちました。待機期間を終えたカニングハムへの協会側の対応は、「もう少し待て」でした。その期間を終えてさらにアピールしましたが、又「待て」の返事でした。そういうやり取りが何度か繰り返された後、協会側は最終決断をし、「あなたは身体上ハンデを負っている以上、宣教師にはむいていないから諦めなさい」という通達を行いました。彼の心には「どうして?」という思いが去来した事でしょう。しかし、彼はその葛藤の中から一つの結論へと至りました。「神様と宣教協会は同じものではない。神様は人間が作り上げたいかなる協会や組織よりも偉大なお方であり、その神様が私を召されたのだから、宣教協会なしで、私自身が応えることが出来るのだ。私は日本に行く。神様の召命を無視する事は出来ないし、これ以上待つ事も出来ない」。これがカニングハム宣教師が独立で日本にやって来た経緯でした。

 カニングハム夫妻は、ウィリアムが37歳であった1901年9月12日、ついに来日し、すぐに英語を教えて生計を立てました。但し、独立宣教師であったからといって、無一文からの出発であったわけではありません。その時点で、土地建物を所有出来るだけの蓄えがありました。又、自分達以外に3名の女性宣教師が働きに加わりました。その働きは後に四谷ミッションと呼ばれるようになり、今日に至っています。

 カニングハムは営業運営面でその手腕を発揮しました。彼の独立宣教は群れの中でも最も多くのサポートを得た働きとなりました。1926年の時点で、四谷ミッションは$77,235.60の支出をしています。彼は母国アメリカの諸教会(宣教協会にではなく)に直接献金のアピールを行い、毎年$165,000が必要だと訴えました。今日の価値から言うと、その額はゆうに100万ドル(1億円)を超えるでしょう。その資金を用い、彼は一人年間$50,000で日本人牧師(他教派から転会してきた人達)や宣教師を雇い、10万ドルの土地を購入し、1万5千ドルの建物や必要な家具・機材をそろえました。雇われた宣教師達の中には、田辺で長年働かれ、召されたビビアン・レモン宣教師もいました。雇われ牧師達は毎週月曜日にカニングハムの許に集められ、それぞれの働きに関する詳細な報告が義務づけられていました。1922年の時点で、四谷ミッションは6つの教会、8つの伝道所、二箇所で伝道者を養成するクラスを持っていました。又、韓国への宣教のために、そこで訓練を受けた韓国人伝道者を派遣しました。それは『キリストの教会』による韓国宣教の最初の試みであったと言われていますし、その働きは大きな成功を収め、今現在人口の4割がクリスチャンという韓国の宗教事情に多大な影響を及ぼした事でしょう。

 ここで二つの点に注目したいと思います。一つはカニングハムの独立宣教が成功した点についてです。彼の働きは、英語で“Direct Support Mission”(直接援助ミッション)とか“Independent Mission”(独立ミッション)とか“Faith Mission”(信仰ミッション)という風に呼ばれ、現在に引き継がれています。宣教協会のような組織に頼らずに、直接教会からサポートしてもらう独立した働き、又、人間の組織に頼らない神様への信仰だけを大切にする働きという意味です。彼のアピールがそれ程成功を収めたのは、ちょうどアメリカの『キリストの教会』内で組織の問題がクローズアップされ、その危険性がある意味で最大限に認識されていたという背景があったからです。宣教協会という組織に失望した人々は、宣教そのものに失望したわけではなかったので、新たな海外福音宣教の可能性を求めていました。そういう時にカニングハムが現れたわけです。まさにグッドタイミングです。もともと宣教の熱意を持ったクリスチャン達は、「これなら安心して自分達の献金を主の御業のために委ねる事が出来る」と思ったのです。

 数字の上から言えば、カニングハムの働きも確かに、そういうアメリカ人クリスチャン達の期待に応えました。四谷ミッションの働きはすぐに開花し、毎年20〜40名がバプテスマの恵みに預かり、1904年5月(来日約3年後)には教会堂第一号が建てられ、日本人による説教が行われるようになりました。それらの詳細内容は、「Tokyo Mission」というニュースレターでアメリカのサポート教会に報告されています。

 カニングハムの働きを積極的に評価すれば神様の導きとして素晴らしい事だと言えますが、冷静に見れば、時代の悪戯だったと言うことも出来るのです。四谷ミッションを経済的に支えたアメリカ人の宣教の熱意は、すぐに結果を求める気質に直結しています。結果の出た四谷ミッションには多大なサポートが集まりましたが、現在の日本のようになかなか結果が得られない地域にはアメリカからのサポートは集まりにくいのです。時代の悪戯とはそういうものです。今という時代に生きる私達は、その当時の亡霊を追い求めるのではなく、新たな切り口を見出さなければなりません。

 もう一つの点は、宣教協会からある意味で捨てられたにもかかわらず、カニングハムがおそらく無意識的に組織体のボスになってしまったという皮肉です。彼は名実共に四谷ミッションのドンでした。全ての人事権、決定権が彼の手中にあったのです。かつて宣教協会に宣教師不適格の烙印を押され、拒否された経験を持っていたにもかかわらず、カニングハムは、四谷ミッションで働くジョン・チェイス(John Chase)という宣教師を自ら解雇した事がありました。それは、1934年の出来事でした。その頃、全世界が恐慌で苦しんでいる時期で、四谷ミッションへの援助も最盛期の3分の2まで減っていました。それは雇用している牧師や宣教師へのサラリー低下となってあらわれたのです。チェイスは自分の生活費が足りないとカニングハムに訴えましたが、彼はその訴えを無視したのでした。それならばと、チェイスも「Tokyo Mission」誌を使って、アメリカの諸教会にその事を訴えました。怒ったカニングハムは、チェイスを呼び出し、クビにしたのです。カニングハムとチェイスの場合では沢山違いはあるでしょうが、カニングハムはかつて宣教協会によって自分にされたことをチェイスにしてしまったのです。レモン宣教師は、1934年、他の二人の女性宣教師(グレース・ファーナムとルース・スクノバー)と共に、カニングハム宣教師の許を離れ、馬橋で働く事になります(田辺での働きは戦後)。その原因がこの事件だったと言われています。

 以上の事から、私達は何を学ぶことが出来るでしょうか。ここに私達は組織の持つ恐ろしさと、独立という名の下に利己主義に走る恐ろしさの両方を見る思いがいたします。組織があれば全てうまくいくわけではなく、組織がなければ全てうまくいくわけでもないのです。その両方に良さと悪さがある。問題は組織の有無にあるのではなく、関わりを持つ人間の動機にあるのです。組織がその頂点に立つ頭一つでどうにでもなるように、個々人も抱く動機次第でどうにでもなるのです。ここには人と人との繋がりというよりは、まず神ご自身とその人の個人的な関わり方が問われています。主と御言の御前でどれだけ自らを吟味出来るか、にかかっています。これは人事ではないのです。私達一人一人に問われている問題なのです。

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   c. 独立宣教師達、その2

 前回は、組織と全く関わりを持たない独立宣教師の内、主に関東の宣教師達を紹介しましたが、今回は関西版です。私達関西に住む者にとっては、自分達の教会のルーツに直結しますので、興味深いのではないかと思います。

 日本に関わりを持った独立宣教師の中で、特に大阪との関わりが深いのが、M.B.マデン宣教師(Milton B. Maden)でした。マデン氏はカンザス州トペカ商科大学卒業後、鉄道会社に勤めていましたが、宣教師を志してベサニー大学(アレキサンダー・キャンベルが始めた学校)に入学し、結婚後1895年(明治29年)に来日しました。ちなみにマデン夫人も夫と同じ会社からベサニーに入学しています。二人はしばらく東京で日本語を勉強し、1896年5月に、福島地区最初の宣教師として赴任し、福島教会を起こし、翌1897年8月には仙台に移り仙台教会を起こしました。又、巡回伝道者として全国を駆け回りました。1911年には大阪に転任し、夫人は天王寺と木津川に幼稚園を開設しました。

 海外キリスト教宣教協会(FCMS)経由での来日でしたから、当初はFCMSという組織の支援と指示で派遣されてきた宣教師でした。マデン宣教師はアメリカ人にしては背が低い方で、よく日本人に間違われたそうです。私自身はマデン氏に直接お会いした事はありませんが、日本語もマスターし、勢力的に福音宣教のために働く方であったと言われています。鹿児島の宣教師マーク・マクセイ宣教師によると、マデン婦人は文章力に長けた方で、日本を紹介した英文の中で、彼女のもの程美しいものはないそうです。群れの週間雑誌「Lookout」誌に数多くの記事を書くと同時に、10冊の本を出版しています。その中で最も有名なものは「桜花咲く地にて」(In the Land of Cherry Blossoms)です。

 マデン宣教師を日本に派遣したFCMSは、当時独裁的になっていました。同協会にたらい回しにされた挙句、協会本部の資金不足から帰国を命じられたマデン宣教師は、ついに1914年、同宣教協会を脱退する決心をしました。一時アメリカに帰国したマデン氏は、1919年、独立宣教師として再来日しています。そして、働きの地として落ち着いたのが、大阪でした。今の天満橋のあたりです。賃貸契約でその地の建物を使い、教会活動と幼稚園を開始しましたが、この建物は1934年の室戸台風で使い物にならなくなります。マデン氏は平地となった土地を所有者から買い取ろうとしましたが、所有者が手放さなかったため、現在の大阪聖書学院が建っている旭区の土地を購入しました。

 マデン夫妻は聖書学院を始めたいというビジョンを持っていたので、その地が拠点となり今日に至っているわけです。マデン夫妻がそのために招いたのがハロルド・コール宣教師で、コール氏は1937年4月からクラスを教え始めました。コール氏は太平洋戦争のため1941年5月から1947年3月まで日本を離れる事になりますが、戦後日本に戻り、大阪聖書学院再建の働きを始めています。

 その間、空爆で建物が破壊された旭区の土地を守ったのが、菅野弘氏でした。菅野氏は元陸軍大佐だった方ですが、焼け野原となった土地に丸太小屋を建てて、宣教師が帰るまで、その土地を守って下さいました。仮に菅野氏がいなければ、あの土地は失われていただろうと言われています。マデン氏はアメリカで送還資金として$4000の献金を集め、その資金で現在のクラーク・ハウス(前学院長マーチン・クラーク氏が住まわれた家)が建てられました。

 戦後、コール宣教師に続き、ジョージ・ベックマン宣教師夫妻(1948年)、マーチン・クラーク宣教師夫妻(1950年)、レイ・ミングス宣教師夫妻(1951年)などが来日し、現在の大阪聖書学院で教え、地域教会形成のために働いています。私達の関西にある教会の基礎はこのような形で作られ、今に至っているのです。

 マデン氏で特筆すべきは、マデン宣教師が独立宣教師として大阪の地に戻る決心をしたのは、普通なら定年を迎え、隠居生活を送る60歳代に入ってからであったという点です。モーセも80歳にして神の召命を受け、イスラエルの民を出エジプトさせる指導者として立てられました。ヨハネも年老いてから、福音書や書簡、黙示録を書きました。彼の願いはただ人々が「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるため」(ヨハネ伝20:31)でした。使徒ヨハネは年を取ると共に、伝道に疲れたのではなく、ますます伝道の熱意に満たされていたのです。マデン氏も同じような情熱を持っておられた事でしょう。そういう一人一人の神の器がいて下さったからこそ、今の自分があることを覚えたいものです。

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