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320万人が殺された第二次大戦
沖縄戦と全国空襲パネルより
              国内は空襲、戦地では餓死    2006年8月2日付

 天皇のA級戦犯の靖国合祀にかかわる発言メモの報道につづき、「真珠湾攻撃は東条が天皇の意志に反してやった」とか「憲法に先立って戦争放棄をいったのは天皇だった」など、「天皇は平和主義者だった」といった歴史の事実をねじ曲げるキャンペーンをマスコミが展開している。今年は、敗戦から61年目を迎える。マスコミの天皇キャンペーンともあわせて、戦後61年たった日本社会がどうしてこんな社会になったのか、第二次世界大戦はなんだったのかから考えなければならないという世論が高まっている。下関原爆展事務局が編集した、原爆と峠三吉の詩原爆展追加パネル集『沖縄戦と全国空襲』の戦争体験者の証言にもとづいて考えてみたい。

 中国との戦争ですでに敗北
 1945(昭和20)年に日本は戦争に負けたが、この戦争では日本はすでに1931(昭和6)年の満州事変で中国への侵略戦争をはじめ、その後1937(昭和12)年の日中戦争で中国に対する全面的な侵略戦争を展開する。下関市の宮崎宗夫氏は「兵隊になると同時に昭和12年7月に日中戦争が勃発した。私は支那方面艦隊司令部で上海にいた。そして、杭州湾、広東湾、海南島などの上陸作戦に参加した。実戦に参加したのは、南京の攻撃作戦だった。南京虐殺をしたとかしないとかが話題になっているが、私は事実をこの目で見た。揚子江で遡行作戦をやったが、南京に近づいたとき、河が上流から真っ黒になっていた。ゴミがいっぱい流れていると思ったがそれは人間だった。非常に憤りを感じた。それが、今でも目に浮かぶ」と証言している。
 また、大分県の宇都宮六男氏は「日中戦争に突入するときには軍部は“2年でけりをつける”と豪語していた。確かに要点奪取は、簡単にできた。いままでの戦争はそれで勝てていた。だが、中国の八路軍との戦争は要点奪取だけでは勝てなかった。日本軍の方が武器ははるかによかったが、さんざんにやられた。要点と要点の間の鉄道を破壊する。食糧も、武器・弾薬も補給できなくなる。太平洋戦争でアメリカに負けたというが、その前に中国でさんざんにやられている。それが日本の敗戦を決定的にした」と語る。
 さらに1941(昭和16)年からは、インドシナ(現在のベトナム)、フィリピン、タイ、ビルマ、マレーシア、インドネシアへと侵略を広げ、同時にこれらの国を植民地として支配していたアメリカ、イギリス、フランス、オランダなどとも戦争し、最終段階ではソ連も参戦した。
 下関市の歩兵経験者は「昭和16年の11月船に乗り、タイに着いたのが12月8日。下っ端にはわからなかったがそれが大東亜戦争だった。タイとマレー半島のイギリス領に敵前上陸し、ジャングルの中をシンガポールまで歩いた」、同じく下関市の経験者は「昭和17年に海軍に入隊した。最初に行ったサイパンの沖では、やっと着いて上陸している間に、護衛してきた薬を積んだ船が、アメリカの潜水艦にやられて沈んでしまった。海軍は1年しかもたないとわかっていた。戦地に行けば死ぬことはわかりきっていた。それでも戦友を送り出すしかなかった」と語っている。
 下関市の宮崎宗夫氏は「日本は、フィリピンのミンダナオ島、ボルネオ島、トラカル島など石油が出るところを優先的に占領していった。その後インドネシアのスラバヤ沖海戦に参加し、米英蘭豪と第1回の海戦をおこない、日本が圧倒的に勝った。それから昭和17年6月のミッドウェーの海戦に参加した。この作戦の暗号が全部敵に解読されていた。米軍は日本軍を待ちかまえていて日本の海軍は全滅してしまった。それからラバウルを基地にしてガダルカナル島の争奪戦に参加したが、非常に悲惨なたたかいだった。陸軍部隊の約1万の兵隊が飢えで死んでいった。生き地獄のようだった。大本営発表は“勝った、勝った”だったが、陸軍も海軍も連戦連敗だった」と語っている。別の下関市の経験者も、「ガダルカナルの海戦で日本軍は壊滅したが、アメリカは沈没し海に投げ出された兵隊にむかって機銃掃射をして皆殺しした。硫黄島付近では1隻の船に200人の兵隊を乗せて10数隻で移動しているところへグラマンが機銃掃射し、助かったのは1隻だけだった。その1隻に80機のグラマンが集中攻撃してきた。真珠湾攻撃のとき、日本を北上して真珠湾にむかったが、すでにアメリカは日本が攻撃に来ることを知っていて、カナダの沖で潜水艦を2隻沈めていた。そんなことは戦後かくしてきた」と語っている。

 死んでゆく戦友達・南方でも敗戦の連続
 南方での無謀な作戦で悲惨な目にあった体験者も多い。広島市の傷痍軍人は「昭和16年から5年8カ月もの間戦地を歩いた。中国から輸送船でマレー戦に参加し、タイから上ってマレー国境にむかった。その後、南方のニューギニアに行き、日本がどんどん負けて遊兵状態となった」、上関町の戦争体験者は「フィリピンのミンダナオ島にいたが、食うや食わずで何度も自害を考えたが死に切れなかった。島では蛇や草木を食べて生きのび、米軍の捕虜になった」という。
 下関市の池田節夫氏は「私は昭和19年中国の最前線に送られた。ミッドウェー海戦以来、日本海軍は負け続け、米軍の潜水艦が近海にうようよしていて、やられる危険性があるというので、黄海の陸づたいに13日もかかって上海に着いた。湖南省の長沙というところに駐屯していたが、ある夜、米軍機が曳光弾を放って攻撃してきた。米軍のB29の編隊がやってきて、下関と同じくらいの規模の25万都市を1夜にして焼け野原にしたことを目の前で見た。米軍の空襲はここだけではない。南京大虐殺など日本軍が中国を侵略したことばかりいわれるが、アメリカも中国を占領しようとしてひどいことをしていた」と語っている。 
 またフィリピンのマニラ戦経験者も「米軍は海からの艦砲射撃、空からの空爆、迫撃砲などあらゆる手段を使ってマニラの都市を焼け野原にして上陸した。マニラ住民を虐殺したのは、米軍の方だ」、別のマニラ戦体験者も「昭和19年9月、マニラ大空襲があって船はみなやられた。昭和20年1月米軍がマニラを占領してから、米軍は爆撃ではげ山にしたり、火を放って山ごと焼き払った」と証言している。
 下関市の小松博氏は「昭和19年1月に召集で下関から出て、スマトラ島(今のインドネシア)に派遣された。もうその当時は、外地に兵隊を送るといってもまともな鉄砲がなく、飛び立つ日本の飛行機もない。制海権も制空権もない。スマトラのニコバル・アンダマン諸島に日本軍の基地があったが、当時はもう飛行機2機しかなかった。そこにアメリカは雨だれのように砲撃し、島の形が変わるほど何日も爆弾を撃った。1番ひどい目にあったのは現地の住民ではないか」「私が“日本が負ける”とはっきり思ったのは、シンガポールに渡ったときで、日本兵の大部隊が中国の北部の方からなんと徒歩でやって来たのを見たときだ。武器も身なりもみすぼらしいものだった。昭和19年9月に東条内閣が退陣したとき、“戦争は終わるんじゃないか”といううわさが流れたほどだ。上の方の者はわかっていたと思う」と語り、呉市の佐々木忠孝氏は「兵器がまったくなく、その1方で部隊がどんどん編成され、丸腰のまま宇品港から出された。アメリカに“どうぞ殺してください”といわんばかりのやり方だ。竹槍と手裏剣の練習という幼稚な訓練ばかりで、とても戦争などできる状態ではなかった。しかし“最後の1人まで戦え”という号令だけは聞こえてきていた」と語る。

 天皇が戦争継続を指示
 昭和20年2月、近衛文麿は天皇に「このまま戦争を継続すれば敗北は必至。米英は国体改革までいたらず。恐るべきは共産革命」との上奏文を提出した。しかし天皇は戦争終結には「もう1度戦果を挙げてからでないとなかなか話は難しい」と答え、戦争を続行させた。もし、このとき天皇の決断で戦争終結しておれば、その後の本土空襲も沖縄戦も広島、長崎への原爆投下も避けられた。だが、そうしなかった。
 その背景についてパネルではつぎのように解説している。「1944年の時期には、ソ連軍がドイツ軍を撃破して、ヨーロッパをつぎつぎに解放し、王室なども倒している。中国では共産党が指導する抗日戦争が勝利している。人民の革命を恐れるのは相当なものだ。そのなかでかれらの関心は、天皇を中心とする支配階級の地位をいかに守るかだけだった。そのためには、中国やソ連の影響を排除して、米英に降服しなければならないと考えている。米英は天皇を保護し利用するという方針であることを知っている。そのためには、日本人民がさんざんな打撃を受け、立ち上がれないようになった方が都合がよいと考えたことは疑いない。近衛が東京空襲の前に“空襲でやられた方が終戦に都合がいい”といった記録がある」
 「日米開戦は近衛内閣が準備し決定したものだ。いざ開戦のときは近衛は逃げて東条内閣に変えた。そのときのいいぐさは“負けたときは天皇に傷がつく”というもので、天皇を保護して軍部に責任をかぶせるというアメリカの方向と一致している」

 日本全土焼き払う・敗戦が明確な段階で
 昭和19年のサイパン陥落で、米軍はマリアナ基地から日本本土空襲が可能になり、昭和20年3月10日の東京空襲を皮切りに大阪、名古屋など大都市から中小都市あわせて67都市の市街地を焼き払う無差別殺りく・焦土作戦を強行する。そして昭和20年4月に米軍55万人、戦艦1500隻が沖縄県民の無差別大虐殺をおこなう。
 下関市の小西博氏は「昭和20年4月1日、アメリカの大機動部隊が沖縄を包囲して爆弾の雨をふらせ、上陸作戦を開始して大きな犠牲を出していた。このとき、戦艦大和に出撃命令が出た。“海上特攻”と命名され、“生きては帰れんぞ”といい渡された。片道の石油しか積まなかった。豊後水道にさしかかるころには、すでに米軍の偵察機に発見され、種子島のところでアメリカの航空機500機以上が襲いかかって爆弾や魚雷の雨をふらせた。護衛艦もなく、迎え撃つ飛行機も1機も飛ばなかった。沈没して油と炎が漂う中をたくさんの日本兵が必死で泳いで助けを求めていた。米軍機が海上に浮かんでいる1」人1人を狙って機銃で撃ってきた。あれは人間のやることではない」と証言している。
 下関市の猿渡克己氏は「昭和19年の9月ごろ“南方に行く”という命令が出た。シンガポールに集結し、ジャワからニューギニアに行くことになった。舟艇で夜間に走り、昼間は島に上がって敵の攻撃をかわしながらの航海で、カイ諸島に上陸した。しかし島に食糧を運んでくる舟艇はことごとくアメリカ軍の爆撃にあって撃沈され、食糧は届かなかった。パパイヤやバナナの木の幹を食べたり、トカゲ、蛇、蛙をつかまえて食べるなどして命をつないでいたが、多くの戦友が栄養失調でなくなった」と語っている。
 東京空襲での死者10万人、それ以外の都市空襲での死者計8万人。広島原爆での死者24万7000人、長崎原爆での死者15万人。沖縄戦での死者18万7000人。中国戦線での戦死者71万人。南方では131万7100人もの日本人がこの戦争で殺された。大多数は敗戦間際のほぼ1年間で犠牲になっている。
 米軍の無差別空襲のなかで、不思議なことに皇居は攻撃対象からはずされ、三菱重工広島造船所や長崎造船所は広島、長崎の原爆投下でも被害はなく、下関空襲でも三菱や軍は無傷であった。

 ち密な米国戦略が背景
 パネルのなかでは、アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」の内容が紹介されている。「日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。
 三菱財閥統帥の岩崎小弥太の発言もパネル集で紹介されている。昭和16年12月に「在来我が三菱と事業において相提携するものに幾多の英米人あり。彼らは今日まで我らの友人として同一の利害に終始してきた。今や不幸にして干戈を交える両国籍に分属した。……が、旧誼はこれによっては滅すべきではない」とのべ、敗戦後には「(日本の敗戦は)必ずしも不幸な事ばかりではない。われわれは今後愉快に仕事ができると思うからである」と発言している。
 三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。
 こうして1945(昭和20)年までの15年戦争で、日本の人民大衆は320万人以上が殺され、日本の都市の大部分は焼け野原となり、親兄弟、息子を殺され、家屋敷、家財道具を空襲で焼き払われて失い、塗炭の苦しみを味わった。だがこの戦争で、三井、三菱などひとにぎりの独占資本はボロもうけし、天皇を頭とする支配階級はアメリカによりすがり、アメリカの日本占領支配の下請機関となって生きのびた。そして戦後61年たった今、世界でもまれにみるアメリカの従属国家となっている。

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