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溢れる被爆市民の頑強な思い
広島・廿日市原爆と戦争展開幕
             岩国市民のたたかいに熱い連帯     2008年1月18日付

 広島県廿日市市のはつかいち美術ギャラリー(廿日市市役所併設)で16日、「廿日市・原爆と戦争展」(主催・原爆展を成功させる広島の会)が開幕した。原爆と戦争展は、在日米軍再編や日本全土への迎撃ミサイル配備、自衛隊の米軍への給油活動再開などが強行されるなか、アメリカの原爆投下による凄惨な被爆体験、これまで語ることのできなかった戦地体験の真実を語り継ぎ、その思いを結んで、戦争を阻止する力強い運動を、被爆地から発信していくものとして多くの市民の共感を集めている。とくに、隣接する岩国市で国の押しつける米軍艦載機部隊の移転をめぐって岩国市民の歴史的な反撃がはじまっていることへの関心も強く、被爆地・広島の市民、県民の二度と原水爆戦争を許さぬという頑強な思いが語り合われている。

 核戦争阻止の力を発信 意欲に満ちた開幕式
 開幕日の午前10時からは、主催する広島の会や市民など約30人が集まって開幕式がおこなわれた。
 主催者あいさつに立った重力敬三・原爆展を成功させる広島の会会長は、「いま隣の岩国市では米軍基地問題を争点にして市長選がはじまろうとしている。基地容認派市長の当選は阻止しなければなりません。これは岩国だけの問題ではなく、日本全国への影響が広がる。そのためにも今日からはじまる原爆と戦争展は、おおいにアピールする重大な意義を持っている。皆様とともに大成功させたい」と呼びかけた。
 来賓として眞野勝弘・廿日市市長は、「私は市政を運営するための柱として、第1に平和の重みと大切さを基調とする市政を確立することを約束した。市政運営、まちづくりのうえではすべて平和が起点にならなくてはならない」とのべ、「峠三吉の詩には“人間の世のある限り平和を返せ”とあるが、原爆は広島を一瞬にして廃虚と化し、多くの人人が爆撃によって苦しみをおわれた。いまなお世界に核兵器が存在し、いつ原爆の恐ろしさがくり返されるかわからない。この惨禍、痛ましさは語り継がなければいけない」とあいさつした。
 地元の被爆者を代表して妹尾治人氏は、当時、市内中心部の雑古場町で建物疎開中に被爆し、同じ場所に動員されていた8400人のうち8割が瞬時に命を奪われたことを語り、「あれから63年になり、世界中が原爆の恐怖を知っていても核兵器をなくす動きは一向に見えてこない。今朝も新聞に被爆直後の写真が1面にあり、ミサイルを撃ち落とす迎撃ミサイルを配備したことを喜ぶようなニュースが出ていたが、天に向かってつばを吐くようなもの。岩国上空で核ミサイルを撃ち落とせば、その死の灰は広島はもちろん日本中に降りかかる。腹の立つようなことばかりだが、戦争・原爆について忘れ去られたらいけない。孫子の世代まで語り継いでいきたい」と決意をのべた。
 同じく被爆者の山崎政雄氏は、「廿日市では5回目の原爆展となり、1人でも多くの人に見てもらうよう奮斗したい」とのべた。

 世代こえた交流広がる
 会場には、被爆者、戦争体験者を中心に、親子連れや主婦、学生、教師など2日間で約320人が訪れ、痛切な戦争体験を語り合いながら被爆者や戦争体験者、若い世代の交流が広がっている。今日の米軍再編問題をはじめ、アメリカの植民地として戦争政治が継続されていることへの深い怒りとともに、2度とくり返させぬために行動を求める切実な思いが語られている。
 父親が海軍としてソロモン諸島で戦死した80代の男性は、「父は骨さえ帰ってこなかった。私も兵隊として東京周辺にいたが、昼間からグラマンが機銃掃射で狙い撃ちをしてくるような手も足も出ない状況で、広島と同じように焼け野原にされた。外地では武器も食料もなく、1銭5厘で集められた兵隊はゴミのように殺されていった…」と声をつまらせた。「戦後の日本はすべてがアメリカ中心でいくらいっても聞き入れない。これまでは生きるためと思ってきたが、このまま政治を見ていると将来に大きな禍根を残すことになる。米軍基地は本国に持って帰らせるべきだ」とかみ殺すように語った。
 小学生のときに被爆した廿日市在住の男性は、「日本を戦争へおびき出したのはアメリカの経済封鎖だ。それによって壊滅した日本が、今度は弱小国に経済封鎖をかけて、先制攻撃を挑発していること自体がおかしい。そして国内では、戦争に協力するものには金をやると露骨にやっている。これを許して通すわけにはいかない。たとえ雑草を食ってでも、日本は独立しなければいけない」と語気強く語った。
 「私たちは“米軍が来れば青酸カリを飲んで自決せよ”とまで教えられていたが、戦後は手のひらを返して米軍ウエルカムになった。広島でも、県庁前道路はマッカーサー来訪のためにつくられ平和大通りも朝鮮戦争のときに米軍の滑走路として使えるように幅100bに整備された。日本にはそういう高速道路がいくつもある。あれだけの目にあわされておきながら、戦争に負ければ次の日から歓迎する国は他にはない。私たちの世代はみなその悔しさを抱えている。
 岩国も戦後は空爆の穴だらけになり、飛行場建設や朝鮮戦争で戦死した兵士の死体処理に日本人を動員していた。その米軍に市民が怒るのは当然。また国民を犠牲にしようとする自民党政府は痛い目にあわせないといけない。私たちは死ぬのは怖くないし、アメリカのために殺されるなら命がけでやらないといけないと思っている」と声を荒らげて語った。
 衛生兵として被爆者の救護にあたった男性は、浜田の陸軍病院から救援のために広島に入り、宇品港に集められた被災者を毎日のように似島へ運搬した経験を語った。
 「8月12日から1週間、1日に5、6000人もの被災者が集められ、宇品線の軍用ホームは死体の山だった。焼き玉エンジンの漁船ではとても間尺に合わず、乗りきらない遺体は海に捨てていた。薬がなくてデンプンを塗っていたが、すごい数のハエが卵を産み、生きている人間にウジがわいた。白神神社の前には市電が骨組みだけになり、中でも外でも男女の判別もつかない黒こげの死体が転がっていた」とかみしめるように語った。
 隣の夫人も、「当時は女子商の生徒で偶然に休暇だったから助かった。市内に動員されていた同級生15人はみんな死んだ。戦後、兵隊さんは“お前たちが悪いからこんな目にあった”といじめていたが、すべて国の責任だ。戦後60年たって、政治家は私欲ばかりで国民は食っていけず、いいたいこともいえなくなっている。これからは、黙っていないで伝えていかないといけない」と語った。

 岩国市長選の動向注目
 爆心地から800bの県農業会の事務所で被爆した男性は「事務所には10人の同僚がいたが全員死んだ。あの建物全体で生き残ったのは私1人だった…これを見ると思い出す」と語った。
 「アメリカはさんざんな人殺しをやっていつも美辞麗句でごまかすが、自国の利益第1の国。私はいまだにアメリカには行く気もしない。まして米軍基地の問題は、騒音など小さな問題ではない。米軍が広島を狙ったのも“軍都”という口実をつけるように、日本が戦時に巻き込まれたら基地のある岩国が真先に狙われるだろう。若い人たちは目先のことだけでなく、将来を見据えて運動してほしい」と話し、連絡先を記していった。
 長周新聞の号外を熱心に読んでいた被爆2世の婦人は、「岩国問題はよそごとではない。戦争でも、国民をダマすだけダマして戦争に駆り立てて殺したが、いまもアメリカに尽くすという形でくり返している。日本軍に協力しなければ非国民で処罰され戦争に引き込まれたように、米軍に協力しないと処罰される時代になった。アメリカは兵隊を日本に養わせておきながら、主人のような顔をしている。これだけの犠牲を無駄にしない政治をさせないといけない。岩国市長選の結果は、全国に第2、第3の岩国をつくることになる。広島もがんばるので、ぜひ反対を貫いてほしい」と思いを語った。
 会場には、米軍再編を特集した「広島周辺を核基地にする屈辱」パネルや「米軍再編をめぐる岩国市民の声」も貼り出され、米軍基地の実情や岩国市長選を報道した長周新聞本紙も置かれ、参観者の多くが強い関心を持って持ち帰っている。
 「原爆と戦争展」は、20日(日)まで開催され、19日と20日の午後1時からは、フィリピン戦での従軍看護婦の体験者と、沖縄特攻作戦体験者が体験を語る。

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