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あまり知られぬ2万体の遺骨
長崎市筑後町の東本願寺
               平和祈念像より大切    2009年5月18日付

 長崎市内では、6月14日から西洋館で開幕される第5回長崎「原爆と戦争展」に向けて市民のなかで準備が進められている。長崎では「原爆」といえば平和公園というが、東本願寺長崎教務所に、原爆犠牲者2万体の遺骨が眠っていることはあまり知られていない。帰らなかった肉親がそこに眠っている。とすれば、長崎ではもっとも大事な場所となる。ローマ人のような格好をした、力道山の銅像が平和公園のシンボルとされているが、そういう意味不明のもの以上に、大切にされなければならないのは当然である。長崎では、これまで語ることのできなかった被爆体験を語り伝えるとともに、体験者のなかで今も被爆の残像が蘇る市内各所に慰霊碑や説明板を設置するなどして、末永く後世に伝えていくことが切実に願われている。
 筑後町にある東本願寺長崎教務所には、原爆の犠牲となった2万体ともいわれる遺骨が安置されている。そこには、「非核非戦」と書かれた慰霊碑(1999年建立)が建てられ、この遺骨のゆえんについて紹介されている。
 関係者によれば、昭和20年、長崎の爆心地周辺は焼きつくされ、爆風に吹き飛ばされた瓦礫に混じって、悪臭鼻をつく屍が、道路の脇や川底などに夏日にさらされてるいるいと横たわっていた。市民がまだ行方不明となった家族を捜し回っている最中に、進駐してきた米軍は、爆心地そばの浦上川沿いに海兵隊の飛行場をつくる計画を立て、遺骨が散らばっている町をブルドーザーで整地を始めたという。
 こうした惨状を憂えた市民の手によって遺骨収集が始まった。昭和21年3月からは西坂(現在の26聖人の碑のある場所)にあった東本願寺長崎説教所(当時)の仏教婦人会を中心に、市内外からも市民が参加して長崎駅あたりから大橋、住吉にいたるまで遺骨を丹念に拾い集めたという。
 「水を求めて川の中に打ち重なったままの死体、あるいは半分は腐って半分は白骨になった者など途方もない数」であった。「廃材を集めてはできる限りは荼毘に付す。食べ物に窮して痩せた体で荷車を引き、そして急きょ仮設した教務所に集めるという毎日の作業でした。そのうち復員してきた僧侶も加わります。現在平和祈念像が建っている丘にあった長崎刑務所では、窓に向かって寄りかかったまま息絶えた白骨の群を見ました。作業が終わるころには秋風が吹いていた」。
 当時、父親が遺骨収集に参加したという寺の住職は、「冬の寒い時期だったが、お年寄りも浦上川に腰まで浸かって“長い間、冷たい思いをさせてごめんなさいね”といいながら骨を拾っていたと聞いている。食べ物もなく本当に生活が苦しい時期だったが、なにを置いてもやらなければいけないという使命感があった」と語る。
 集めた遺骨を市の収容施設に引き取ってもらおうにも、そこも膨大な遺骨の山で手つかずの状態。その後も噂を聞いた人人によって持ち込まれた遺骨も加わって、さらに遺骨は増えていき、置き場に困って大浦にあった妙行寺が預ることになった。ところが、数カ月も水に浸かっていた遺骨でもあり、お寺も被害を受けていたため雨漏りで床が抜けたりするため、現在の教務所に仮安置の場所を設け、26個の木箱に納めて保管することになったのだという。
 当時を知る男性は、「ずっと後になって市から受けとりの申し出もあったが、それは市が管理している無縁仏の納骨堂に加えるというもので闇に葬るようなもの。それならば、この事実を広く伝えた方がいいということで独自に碑を建てることになった」と語る。

 キリスト教別格扱い供養塔もない 原爆の被害者
 終戦当時、長崎駅を降りて目の前に位置する西坂にあった教務所は、進駐してきたGHQ(占領軍司令部)の政策によって代替地への移転を迫られ、その場所は市有地となり昭和37年、豊臣秀吉の禁教令によって処刑されたキリスト教信者(26聖人)殉教の地としてカトリックの公式巡礼地とされた。行政も巻き込んで西坂に記念碑、記念館、記念聖堂(教会)が建てられ、現在、記念碑は市の管理に移り、「聖人」の遺骨が安置されているという記念館(イエズス会所有)は税金免除の特典を受けている。
 市民のなかでは「26聖人が処刑された場所はさらに山奥であり、実際には場所が違うのに、長崎のイメージをキリスト色にするために1番めだつ場所に建てた。平和公園にも力道山の銅像があるだけで慰霊碑はなく、市民は原爆犠牲者をお参りする場所もない」「なぜ、原爆被害者の供養塔もないのにキリスト教だけ別格扱いなのか」と語られている。教務所では、現在も月命日に当たる9日に、2度と原爆、戦争をくり返さないことを誓う場として原爆災死者の法要をおこなっているが、これも報じられることはない。「もっと公に知らせてもらいたい」と、関係者は願っている。
 被爆2世の男性は、「長崎には被爆遺構が少なく、ほとんどが戦後に壊されてきた。本島市長時代に、平和公園周辺の被爆建物は壊されて緑の芝生に覆われ当時の面影はなくなった。浦上天主堂は、広島の原爆ドームのような被爆資料だったが、保存するべきだという市民の要望を蹴ってカトリックは取り壊した。保存を求めていた田川市長(当時)も、アメリカから帰って急に取り壊しに同意した。背後にアメリカの意図が必ずあると思う。だから原爆に関して長崎は広島に遅れをとった」と憤慨して語る。
 三菱製鋼所で被爆した婦人は、「当時の製鋼所では各地から集められた動員学徒も合わせて数百人もの人が被爆死している。私もそこで被爆して鉄骨の下敷きになり腰が立たなくなった。父親がリヤカーで迎えに来てくれたが、周辺では動員学徒の子どもたちが黒こげになったり、首がもげたり、浦上川に積み重なるようにして死んでいた。それから以降は、製鋼所からなんの連絡もなく、どれだけの人が亡くなったのかさえ把握できていない。体験集もなければ、慰霊碑もない。今は長崎新聞ビルが建っている。だが、私たちはあそこを通るたびに死んでいった人たちの姿を思い出す」と話した。
 700人の死者を出してほぼ全滅となった坂本山王自治会では一昨年、「坂本町民原爆殉難の碑」を再建した。被爆倒壊した山王神社の鳥居の柱を譲り受けて1952年に建てられた碑が台風で木の下敷きとなって倒れたからだ。
 自治会役員の男性は、「何度も資料館に掛け合って補助を要請したが、“被爆したもの”には金を出すが、慰霊碑などには補助は出せないといわれ、町民からの寄付を募って建て直した。慰霊碑があっても“原爆”とあるだけでその時の状況について知らせるものがないので、これも寄付金で当時の町民の手記を抜粋した説明板も設置した。長崎では原爆を伝える慰霊碑や説明板などが少なすぎる。だから、“祈りの長崎”といわれるのではないかと思う。ただの慰霊ではなく、事実を知らせて後世に原爆の惨劇を伝えるのが被爆地の責務だと感じている」と語った。

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