トップページへ戻る

新しい時代意識描いた演劇
原爆展物語創造の教訓と展望
             現実を描く燃える意欲   2010年3月31日付

 劇団はぐるま座の『峠三吉・原爆展物語』下関初演は1200人が観劇し、大きな反響を呼んでいる。本紙では、舞台に立った劇団はぐるま座の俳優に集まってもらい、本紙記者も含めて座談会を開き、この作品の創造から上演に至るまでの教訓と、今後の文化・芸術運動の展望について論議した。
 司会 下関初演を終えて、非常に強い反響が返ってきている。まず作品評価として、観劇した人人の感想意見の特徴から出してほしい。
  非常に深いところで感動が語られている。関東から駆けつけた郵便労働者は、「自分は労働運動の衰退を嘆き、若い人たちに労働運動はこうあるべきだと説教をしてきたが、それは甘えだったと思う。もっと実際から学ばないといけないと感じた」と現実を見つめ直すと同時に展望が開けたという印象だ。
  鹿児島から見に来た人は、「鹿児島でも大規模な空襲があったが、錦江湾のど真ん中に米軍基地を作って日本を占領するために、あれだけ1d爆弾を落として皆殺しをやったんだとはっきりわかった」と語っていた。「この芝居は作りものではなく、自分たちが体験してきたそのものの真実だ」といい、すぐ消える感動ではなく、現実の生活と関わる深いところで感情が動いている。
  被爆体験、空襲体験、戦地体験、そして戦争にかり出された親や兄弟の遺骨すら帰ってこなかった経験などが新鮮な怒りをもって、刻銘に思い起こされている。「真珠湾攻撃もアメリカははじめから日本を待ちかまえていた」「なぜ天皇が戦争をやめるといわなかったのかがやっとわかった!」といって改めて台本を読んでいる元従軍看護婦や遺族の人など、凄惨な戦争体験と「なぜこんなデタラメな社会になったのか」という、疑問とが繋がって激しい反応になっている。アンケートでも、「死なないための行動をしなければいけない」「戦争体験者が真実を語れば日本が変わる」「沈黙を破らなければ日本は変わらない」など自分の使命感を重ねてセリフが綴られている。
  福岡からきた20代の若者は、「いわゆる普通のお芝居ではなく、自分たちの生活との間に垣根がなかった。知らないことをたくさん教えてもらえて、ものすごい新鮮だった。こんなものは見たことがない」と語っていた。
  「重厚な内容だが、終わってみると明るく将来に展望が見える劇だった」と語られている。下関のある自営業者も、「原爆だから暗い話かと思ったが、明るかった。こんな劇ならどんどん誘いたい」といって広島の知人に宣伝してくれている。「半信半疑で見にいった」という若い人が、「元気をもらうと同時に、今の社会にものすごい怒りが沸いてきた。核密約を結んでいた佐藤栄作がノーベル平和賞を受けていたり、戦後社会にはウソがはびこっている。演劇でこんなに感動するとは思わなかった」と語っていた。また、「真実を伝えていけば、人の心を動かし、国を動かすこともできる気がした」「米軍に国を奪われて六五年たつが、一つ一つの松明を集めて灯台にするということに展望を感じた」「人人の中に入って真実を掘り起こして教えてくれるスタッフの活動に感動した」とキャラバン隊の活動に展望を感じている意見も多かった。
  文化人のところでは衝撃が走っている。これまで演劇という分野で、あれだけの幅広い層の市民が一堂に集まったことがない。それも小学生も含めて子どもがたくさんおり、それが開演中、微動だにせず呼吸を一つにして集中して見入っている。「そんなことがあるのか、信じられない」といった感じだ。
  広島から見に来た人は、「現実の広島、長崎、沖縄、戦地体験者の声が、生の声として聞けてすごく勉強になった。全国各地で国のことを憂えてあれだけの人が発言をしていることに目が開かされた。もう自分の懐ばかり考えている政治家は必要ない。こうやって手帳を片手にもって全国を訪ね歩いて聞いた声の方が真実だし、人を動かす内容をもっている」と衝撃を語っていた。そして「10年かけて様変わりさせてきて、もう10年たったらもっと変わる」というところに、「自分たちががんばらなければと感じた」といっていた。
  この劇は原爆展運動10年の経験を描いているが、観る側は戦争体験や戦後の人生を思い起こし、なぜ日本がこれだけデタラメになったのかということを考えている。そして、一人一人の大衆の中に社会を変える力があるし、その力を引き出していったスタッフの活動が新鮮さをもって受け止められている。

 経験した事ない集中度 演じる側も実感

 G 舞台をやっていても、上滑っていたらわかるものだが、客席との関係で安心感があり、一つ一つを落ち着いて演じることができた。「自分の覚悟を迫られた」という感想があったが、舞台に立っていても、客席が静まりかえって、これまで経験したことのない集中度だった。日銀原爆展で下関の被爆者があいさつする場面のあと、客席から拍手が起こったり、長崎の場面になると長崎からきた被爆者たちが「うん、うん」頷いているのが聞こえる。
  朗読でも一語一語語るたびに、客席から息づかいも含めて恐いくらい反応が跳ね返ってくる。舞台と客席との間に垣根がなく、観客と呼吸を共にしながら演じていったという感覚だった。カーテンコールで花束を手渡してくれた被爆者の方は、「自分たちの思いを描いてくれたし、知らなかった戦地や空襲、沖縄まで全部やってくれたのがよかった」といわれていた。
  舞台で劇が進行しているが、客席でもドラマが進行している。それぞれの個別の経験と重ねて、認識が深まりながら進行している。実際の被爆者や体験者が舞台に登ってしゃべってくれているという印象になっている。だから集中するし、緊張感も高い。人人を結びつけ、深く考えさせ、行動に駆り立て、日本を変えていく。そういう力をもった演劇であることが証明された。
 司会 それを芸術路線から見たらどうだろうか。はぐるま座の歴史的な経験ともつなげてみると新旧の葛藤があるのではないか。
 B 沖縄場面の改訂は一番のヤマ場だった。改定前の沖縄場面は先行してつくっていた『燃え上がる沖縄』という小作品をそのまま取り入れたものだが、米軍車両を燃やしたコザ暴動を最大のヤマ場にして、虐げられてきたホステスがビール瓶を投げながら泣き叫ぶというドラマ仕立てだった。「演劇的」に泣き所、笑いどころをつくって満足するというつくり芝居だった。
  その大衆観、ドラマ観が演技にあらわれて、セリフの行間にある人人の感情にも分け入らず、外面的にわめき立てる演技になっていた。その軽薄さを広島の現地稽古で市民の方方から指摘され、その論議のなかで自分たち自身が「劇中の登場人物のように生きているのか」ということが問われた。この教訓は、はぐるま座の五八年の歴史総括にも関わる問題だと思う。
 I 昔からリアリズムといい、現実が唯一の源泉だといってきたが、いままで一度もそれをやったことがなかったということがわかった。これまでは台本から演技もすべて自己表現の枠内だった。この劇は、実際に存在している人たちを描くわけで、本当の被爆者の語り口も含め、形の問題ではなく、自分たちが本当の被爆者たちの思いを代弁できるのかということが否応なく問われた。
 G 遊びの芸術か、現実を動かす芸術かの違いだ。下関の第一回実行委員会で実行委員さんから「無念に亡くなった人たちの気持ちを本気で演じて欲しい」と叱咤されたが、これまでの自己充足演技では描けない。「それらしく」ではなく、そのものを描くことが求められた。私から出発するのか、大衆の側から出発するのかの違いだったと思う。
  演じる側もこの沖縄場面にしがみついて「これこそが俺たちの演劇だ」と感情込めて演じるし、見る側からも「沖縄場面が一番よい」「あとは報告書だ」「座談会のようで芝居でない」というのが出ていた。だが沖縄の現実の真実は、沖縄戦によって米軍支配がつづいてきたという問題だ。その米軍支配の枠の中で、泣いたり笑ったりして満足という描き方だった。そこを「沖縄戦の仇を討つくらいの覚悟でやらないと、今度は沖縄に原爆が飛んでくる」と変えた。そこが一番抜き差しならない沖縄の現実だ。
  そもそもそこに挑んだのが原爆展キャラバン隊の沖縄行動だった。しかし、劇にするときに現実から離れて「遊び」の方へいき、「これこそが芸術だ」というのがある。しかし、大衆は生活の糧になる芸術を求めている。苦しい現実を忘れて芝居を楽しみ、そして暗い現実に戻っていく、そういう娯楽が芸術ではない。
  そこで、「もうちょっとオブラートに包んだらどうか」とか、核心部分を遠回しにいったり、そこはかとなく感じさせるとか、当たり障りなくやる方がよく幅広いものだというものが蔓延してきた。文化人のなかで今度の劇を「政治的だ」という意見があるが、体験者は「私たちの経験そのものだ」といっている。現状に安住するのか、大衆とともにこれを変えていく立場に立つかどうかであり、ちょっとした違いではない。
  「私にはわかるが、一般の人たちにはわからない」という文化人もいた。そして、劇場にきてその雰囲気に度肝を抜かれている。要するに大衆が理解していることを、文化人や自称「進歩派」の方がわかっていない。

 次の時代担う人民描く 現実との関係で燃え

 F 時代意識の違いだと思う。新しい時代精神を描きあげ、時代を前に動かしていくのが芸術であって、旧世界に安住するというのは芸術のうちに入らない。ルネッサンスもそうだ。中世とたたかいブルジョア革命に先行したブルジョアジーの革命的な芸術だ。時代意識として、現実の中で支配者の側に滅亡を見てとり、たたかう人民の側に発展する未来を見て取る。そういう高い精神が必要だ。徹底的に現実の真実を描いていく、つまり現実のなかの人民大衆の真実を描いていく、それは歴史を発展させる原動力としての人民大衆を描いていくということだ。現実の中に机を置いて、この現実のなかで抜き差しならない葛藤を、歴史的社会的な骨格を持って描いていく。その燃えるがごとき意欲性があるかないかが分かれ道だ。
 E 今度の芝居でも役者が確信をもってやっていることで迫力があり、「明るい」という印象を与えていた。そこで役者が現実との関係で燃えて格斗しながら演じていることが、見ている人の切実な思いと響き合って進むから一体感があった。これは、一般の商業劇団ができることではない。
  この作品では、支配階級がいかにみすぼらしく、それと対比して人民はいかに偉大かを描いているから「明るい」となっている。第二次大戦では、アメリカは単独占領のためにあれだけ人殺しをし、天皇、財閥をはじめとする日本支配層は、自分の地位を守るためにその皆殺しをつづけさせ、国民を裏切ってアメリカに売り飛ばした。だから少ない米軍で植民地支配をやってきたことと、日本の支配勢力が自力で統治する権限も能力も投げ捨てたという関係だ。現実に、政治家はろくなものはおらず、マスコミにしろ、教育や学問にしても各分野で末期症状だ。もう人民をだませなくなっている。大きく歴史的に見たとき、支配する側の崩壊があり、たたかう人民の側に未来がある。こういうときに、支配の枠内におさまって滅亡していくのか、次の時代を担う人民の側を代表するのかの違いがある。
  福田主幹が文芸論のなかで、「新しい時代の到来は、つねに、革命的な文学・芸術の先行をともなっている。それは古い形式に執着する古くさい保守主義者や、新しがっている偽善的紳士・淑女諸君の度肝を抜いて立ち現れてくる。それは常識主義のおっとりした知性面をひきむいてあらわれてくる」といっている。
  はぐるま座でも70年代の『明日への誓い』以降、現代と向き合った作品が生まれなかったが、根底に大衆不信の敗北主義があった。歴史を動かしていく側に自分たちが立たず、いつまでも人の文句をいっているというものだ。
  反修決起以後も英雄像が描けないという問題がずっとあった。生産活動をやり、現在の歴史をつくっている人民大衆が主人公だというのがなく、支配の枠の中で「きつい」「苦しい」と自分の不平不満をいうだけ。それ以後の作品を振り返ってみても、経済要求に政治をくっつけたり、苦しく辛いから立ち上がろうという被害者物語になっている。
  反響のなかで戦争体験者が語る真実とともに、それを語るように働きかけていったスタッフの活動に共感が大きかった。国政から地方政治までオール与党時代になっている。そのなかで、とことん人民に奉仕する思想で、大衆を手助けし、大衆の先頭に立って真の敵と真正面からたたかって社会を進歩発展させていく、そういう新鮮な政治勢力がひじょうに求められていることを示した。
 D 「はぐるま座は有能な劇作家を追い出して、劇ができるわけがない」という者がいた。結果は、そんな「有能」者がいたときは作品はできず、いなくなったら新作が2つできた。東京崇拝、滅亡する反動勢力にこびを売るブルジョア、インチキ芸術路線だった。
 借金まみれで劇場型の豪華な会館をつくって新しい作品は一つもできなかったが、それを解体して、倉庫をビニールで囲った稽古場で、『動けば雷電の如く』と『原爆展物語』の二つの劇ができた。
 H 戦後の演劇史から見ても、叙事詩的演劇として内容上も構成上もこれほど首尾一貫して描いた作品は他にはないと思う。戦後の芸術運動は、ソ連などの権威で輸入物の政治主義で始まり、それが剥落して「遊び」の方向へ流れるなかで雲散霧消してしまう。具体的な大衆を歴史的・社会的にとらえて描いた作品は、演劇史上でも新機軸であることは疑いない。

 戦争と立向う思想路線 歴史的なテーマ描く

  この『原爆展物語』は創造、普及活動にも、また観客にもすごく認識改造を要求している。「舞台に集中し、ひじょうに疲れたが、これから進むべき進路がわかった」などの反応がある。大衆に迎合していないと思う。演じる方も改造を要求されるし、普及する側も大葛藤だ。それは現体制の枠のなかで小さな幸せを求めるというのが衝突する。第二次大戦に始まる戦後の社会の基本構造を直視し、しかも大多数の人民大衆の側に立って、支配の枠組みそのものを突き破って新しい社会をつくるという高い姿勢が問われている。
  商業主義が蔓延するなかで、「ウソを書くのが芸術だ」と公然といわれている。坂本龍馬が良い例だが「小説ですよ」といって平気でウソを書いて奨励している。「ウソでなければ売れませんよ」という調子だから腐敗がすさまじい。そのなかでのリアリズムはものすごく斬新だし、生命力がある。
  戦後65年、大恐慌が進行し、戦争が接近するなかで、それに立ち向かってたたかいぬく思想路線を描いている。戦前の共産党は、敵の弾圧もあるが、戦争が苛烈になる重大な時期に壊滅して役割を果たせなかった。それと今がよく似ている。オバマ政府誕生から、民主党が与党になり、革新勢力はどんどん与党化していく。社民党の福島は原発も米軍再編も一生懸命やる。「日共」修正主義集団は、オバマ万歳をどこよりも熱心にやる。自治労や日教組も連合傘下の労働組合も閣僚を出す与党だ。どんどん旗を降ろしていく。
 これが戦前の特徴だ。ここで「大衆とともに」の政治勢力が唯一勝利していく。そういう歴史的なテーマだ。
 D 人民が歴史を創造する主人公であり、したがって人民に奉仕する思想で、謙虚に大衆のなかに入り、意見を聞いて、欺まんを暴いて、みんなを行動に立ち上がらせていくなら、誰も潰すことができない。そういう人民大衆を手助けする政治勢力を大結集していったら日本の展望があるというテーマだ。この劇の公演活動を通じて人人の役に立つ芸術運動を巻き起こすこと、平和のためにたたかう活動者集団が結集し、現実に日本を変えていく力を結集することが劇のテーマだ。この作品を、山口県内をはじめ広島、長崎、沖縄で大成功させ、全国展開することが待ち望まれている。
 司会 それでは今日はこのへんで。

 

トップページへ戻る