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売町政治か郷土愛の政治か
上関町議選・自爆に進む「反対」候補
               推進派だけで選挙やる作戦     2006年1月14日付

 中国電力の原発計画浮上から24年、上関町をめぐる政治構造は大きな激変をしている。中電が推進派と「反対派」の両方の幹部を使って町民同士を争わせ、分断し、無力にしながら、町民が住めない町にしてきた売町政治の仕掛けがすっかり暴露された。2月12日に迫った町議選挙は、表面上あらわれている候補者の顔ぶれを見ると、反対町民にとって票のもっていきどころがないのが悩みとなっている。中電はいまや町民を選挙から排除して、町内の推進派だけで選挙をやろうというのである。中電管理下にある上関の選挙は、奇妙キテレツなことでは全国の先端を行くという点で「名物もの」であるが、今度も最先端の「市場原理主義選挙」にいどんでいるようである。だが町の主人公はだれがどう騒ごうと町民である。反対できた町民も推進できた町民も、大多数の町民のなかでは、この24年の、町民をだまして町を売り飛ばす推進の売町政治に決着をつけて、郷土愛に立った町民団結を回復し、町民の主権を回復し、町の正常化を実現しなければならないという世論がうっ積したものとなっている。町議選は、候補間の争いに町民が応援団になるという構図は崩壊し、中電の全支配構造と町民大衆の大激突となっている。

  異様な選挙戦の様相 説明必要な「反対」候補団
 選挙戦の様相は異様なものとなっている。いま一番の話題は、「反対派」候補の信頼が崩壊していることである。その一番は、室津の故河本広正氏の後継として反対派から出ていた外村勉氏が推進派に鞍替えして出ようとしていることである。
 「反対派」候補で見ると、祝島からは、県や推進派の要求にこたえて漁協合併を認め、漁業権を放棄した山戸貞夫氏が、はじめは息子を出すといっていたが、本人自身が乗り出すことになっている。町の合併を先どりして平生町の住民になっている清水氏。自分の選挙母体が、推進派柏原氏の町長選挙や推進派の西氏の町議選挙をとりくんだ岩木基展氏。白井田からは蒲井の上杉氏が高齢で引退して補欠選で出た村田喜代子氏。室津からは元高校教師の平岡氏の五氏。「日共」修正主義の小柳氏は高齢のために辞退といわれているが不明なところも。同党のメンツがかかるが、後継と目された部分も推進派の選挙をとりくんだりして、具合が悪い。
 推進派では、室津が乱立で、外村氏が参入し、佐々木議長、西、井上氏の現職に加えて若手漁民の小浜哲也氏の声が上がっている。白井田も篠川、吉崎氏の現職に加えて右田氏も復活の名のりを上げ「仁義なきたたかい」に。四代は共有地地代の横領疑惑をかかえた山谷氏、戸津は浜田氏が死去したあと名のりは上がるが人が踊らず、浜田組という話もあるが、「金を使いすぎる」とかいう心配もあってまとまっていない模様。上関は、加納、神崎氏の選挙違反辞職を受けて、岩木和美氏に加えて、加納辞職町長、大西組合長、若手漁民の声がある。加納氏となると、推反の両岩木氏に、室津の西氏、祝島の山戸氏、そして町長の柏原氏を合わせ一族独占態勢がすすむことになる。

 祝島の合併合意や外村氏の転向にも疑問
 外村氏は、河本氏の後継者として票をもらい議員になってきた。その途上で、自己破産者になって自堕落ぶりを暴露したが、恥も外聞も捨てて議員の椅子にしがみついてメシを食ってきた。結局、反対派の票を集めたのは自分のもうけのためであったが、金のためなら推進派がよいという結論になった。信頼は捨てたわけであるから、あと票を集めるのは金しかないと見られるが、もらうのは好きだが出すのは嫌いというわけで、その末路が注目されている。
 町民が心配しているのは、外村氏が反対派事務局のような位置で選挙をとりくんでおり、この選挙名簿が推進派、中電側に渡ったことである。これは中電得意の、全国ネットを使った脅し買収の術を駆使させるもので、「隠れ反対派」といわれながら選挙に協力してきた人人を集中砲火にさらすことになる。「人の道を外れたことをやる男」との憤激が渦巻くゆえんである。
 そして最大の問題が、祝島の山戸氏である。山戸氏は1994年の漁業権書き換えで、四代田ノ浦の共同漁業権を放棄し、環境調査に道を開いた。今度も、県が要求する漁協合併に合意する決議を上げた。漁協を解散するわけであり、法人として独立した交渉権を投げ出すことであり、漁協権を実質上放棄することを意味する。しかも漁業交渉を無効とする裁判も合併と同時にとり下げることを明らかにした。そして選挙に出るわけだが、反対派の票をもらうのか推進派から票をもらうのかわからない。
 岩木氏も「今度は推進派から出るのだろう」と町民のなかでは話もされていたが、「反対派」の看板で出る。
 町民にとっては、これまで原発に反対するために中電、推進派の圧力にも負けずにかれらの票を集めてきたが、反対票をもらって推進するというのでは、詐欺にあったことになる。アメリカ型の市場原理主義で、「だまされたものの自己責任」というのではたまったものではない。
 以上の「反対派」候補は、反対派として町民に認められるためには、議員団の連帯責任として、これらの問題について態度を表明しなければならない。とくに祝島の合併合意、裁判とり下げについて、撤回するというのなら反対派として認められるだろうが、現状追認というのでは推進派の票を頼みにしているとしか理解できなくなる。
 外村氏の転向についても、「反対派」候補団としてはどういう態度をとり、「あれは個人の好きであって、議員団があれこれいう筋合いはない」というのか、自分もそうする可能性を残すのか、町民に説明してもらわなければならない。これをズルンといくというのであれば、反対派として認められないことになる。
 
 町民排除狙う中電 「小泉圧勝」の二番煎じ
 今度の選挙の不思議きわまることは、「反対派」議員団候補の側から、反対派町民の票を拒絶しようとしていることである。推進派から当選するほどの票をもらう当てがあるとは思えず、いわば大負けするために出る、自爆作戦を選択していることである。裏でどんないいことがあるのか、アホなのか、厚かましいだけなのか、真相は説明してもらわなければわからない。
 中電の作戦としては、「反対派」議員が転向し大負けしたことをもって、選挙で「反対派惨敗」「推進派圧勝」の格好をつくりたがっていると思われる。有権者の25%しか得票がなかったのに、「小泉圧勝」とやっている二番煎じである。選挙では、反対の町民を、キリシタン弾圧のように踏み絵をさせて、得意の全国ネットを使い、各個撃破の集中砲火でつぶそうという作戦のようである。町を支配し原発を好きなようにするには、議員などは簡単にとりこめるが、いついかなる選挙をやっても4割は崩れない町民を、今度の機会になんとか崩したいのであろう。
 中電側に渡った反対派名簿はその武器となるが、しかし実際は、このような名簿はずっとまえからつつぬけになっており、集中砲火も町民にとっては、今度はじめて味わうようなものではない。第一、いうことを聞かぬものを村八分にしようにも、推進派できた人人の大多数がだまされたといって怒っており、踊るものは少数となった。少数になった推進派の方が自分で自分を村八分にする結果になりかねない。力関係は変わっているのである。
 推進派候補側は、「反対派」候補の自爆・崩壊という情勢を見て、有利と色めき立っているむきがある。上関の推進派は、「反対派」幹部の裏切りが頼りで、自分らでは推進の功績はまるでなく、金を配ったりどんちゃん騒ぎをしているグータラ集団である。いわば人のために働かないで自分がもうけるという主義であり、反対派がつぶれればもうけるとみなすわけである。しかし新しく立つものがほとんどいないように、町民の方を見ると踊るものがいなくなったことに青ざめざるをえないという局面にある。それを心配する側からは「無投票」の声もある。これも町民を恐れるもう一種類の日和見主義集団なのである。
 上関の選挙構図は、反対の町民を排除し、さらに推進できてだまされたと怒る多くの人人も投票のしようがないようにしている。中電から見れば「オレの金力、権力に逆らうなどもってのほか」という調子であるが、とうとう町民不参加の選挙をあみだし、推進派だけがやる選挙にしてしまおうというわけである。
 上関町の政治は、原発を中心に対立している。ところが選挙の候補者の構図は一つも対立していない。町民にとっていまの推進派候補と「反対派」候補のどっちが勝つかは、二の次の問題となっている。しかし選挙はやはり町民の意志を示す場となる。中電の推反候補を使った政治支配構図にたいする町民の対決になっているのである。この支配に従わないという町民の論議を強め、だれが見ても選挙自体が不信任されたとわかるような結果にすること、それがこの金力、権力の政治構造を打ち壊す力を結集することになる。

  町潰す政治との対決 選挙を巡る対決点
 町民が参加しない選挙は選挙として成り立たないということである。だれがどういおうと町の主人公は町民である。漁民がわずかな補償金をもらったとはいえ、その漁民をはじめすべての町民は中電の世話になって生活などしていない。上関では、この選挙を町民団結回復の機会にすること、大衆的な斗争の力を結集するならば、この中電支配を打ち壊すことにつながる。
 このため第一にはっきりさせなければならないことは、中電と町民のあいだの選挙をめぐる対立点を鮮明にすることである。
 町民がみな心を痛めていることは、24年たって町がすっかりつぶれてしまうということである。集落として成り立たなくなっていくのである。中電側は、原発を推進したら町がすばらしく繁栄するといってきたが、振興どころか、人口は県内のどこの町より激減してしまった。若者も子どもも住めないが、年寄りも住めない町になってしまっているのである。
 上関の漁民は、なにがしかの補償金をもらったが、漁協が原発推進の目的で運営され、協同組合としての機能が奪われた結果、安い魚価、高い油や資材などでさんざんにしぼりとられ、24年通算したら家が建つほどの損害となっている。
 漁業の衰退が商工業など町全体を衰退させてきた。人口は24年まえに6942人いたのが、いまでは4043人。そのうえに、国や県は、早くに農協を解散させ、いまでは漁協も合併・解散させた。商工会も、町自体も合併解散に追いこもうとしている。24年さんざん破壊してきて、町自体をなくそうとしているのである。上関における地方生活つぶしというのは、小泉構造改革の先端を行くものである。小泉がとなえる市場原理とは資本の好き勝手原理であり、上関は中電原理主義でもっとも先行しているのである。上関をモデルにして小泉が構造改革をやっているようなものである。
 24年の原発推進の政治は、地域振興どころか町をつぶすものであり、町の売り飛ばしであった。中電が、縄文時代の昔からの歴史がある上関町を二束三文で買い占め、推進派町政が超安売りで売り飛ばすというものである。中電は、原発のために上関町で人が住めないようにすることがだれの目にもはっきりとした。
 「だから原発を急いで金が入ったら振興する」というものではない。いままでも原発の交付金はたくさん入ったし、国や県はそうとうに優遇して予算をつけた。しかし寂れる一方となった。その政治は、買収をし町を売り飛ばすためであり、中電支配のその政治は原発ができたらますます露骨になるほかない。
 推進派町政は、町民の財産を売り飛ばすことによって、自分だけがあぶく銭を得ようという政治である。上関の推進派は、見た感じで田舎ものとだけ見てはまちがいで、いま日本中で話題の、ホテルやマンションの強度偽装事件の姉歯なにがしとか、株買い占めで会社乗っとりをするホリエモンや三木谷などの新型人間の大先輩ということでもある。金もうけが正義であり、町民のため国民のためとか、義理や人情とか、郷土愛とか愛国心などくそ食らえというものである。

 住めない様にした物も言わせぬ戦争政治
 24年、上関はすっかり中電支配の町になってしまった。選挙は中電の諜報謀略作戦がもっとも動く機会になり、町長も議員も「中電チルドレン」揃いになってしまった。日本は戦後アメリカ軍に占領されたが、上関では中電に占領されてしまったのである。そして町民がものいえぬ状態は、戦時中と似ており、占領時期と似ている。24年は戦争にたたきこまれたようなものとなっている。第2次大戦の15年戦争と米軍占領期間と原発24年を合わせると、この75年のあいだの45年余りは戦争だったわけである。
 まさに原発は単純な電力生産施設などと見るものはおらず、いまでは保安庁船が沖で常時警備する第一級の軍事施設である。小泉政府は日米同盟一辺倒で、「安保」を再定義し、有事法をつくり、イラクの戦地に自衛隊を参戦させ、米軍再編をひき受け、岩国基地も厚木を追い出された空母艦隊の機能を移転させようとしている。原爆を受けた広島湾周辺を、岩国の米軍核攻撃基地、呉の海上自衛隊を配置し、そのうえに戦時には標的になって瞬時に国土を廃虚にする原発を上関にもってくるというのは、愛国者のすることではない。亡国、売国奴がやることである。
 上関で奇妙キテレツな選挙をやり、推反談合の政治構造ができて、町民は自由にものもいえぬ状態をつくっているのは、原発が最重要軍事施設であることとかかわっている。原発を「国策」といって推進する政治は、戦争政治なのである。したがってなおさら、町民が住めないようにすることが必要とみなしているのである。
 
 大衆主導の運動へ 全県全国と連帯し
 24年の原発推進政治は、私欲のために町を売り飛ばす売町政治であり、漁業は壊滅させ、町に人が住めなくし、原水爆戦争すらひき寄せるものである。このようなものを「国益」などと見ることができず、日本国民の根本利益の問題として葬り去らなければならない。なによりも、郷土愛、愛国心に立って、地域共同体としての町の団結と人情を回復し、町を町民の手にとりもどさなければならない。
 「国策」をうち負かす力は、「カリスマ」幹部にお願いしても無力なものであり、町民の大衆的な団結と斗争の力しかない。なによりも全県、全国の共同斗争である。これは、全県漁民の漁協合併による原発をはじめとする漁業破壊に反対するかつてない力、広島の被爆者を中心に強まるアメリカの原爆投下の謝罪を求める運動、岩国基地の増強に反対する山口県、広島県に広がる力となって上関との連帯を強めている。さらに、市町村合併に代表される小泉政府の構造改革・地方生活の切り捨てに反対する力が上関のたたかいに連帯している。
 以上のような対立点を鮮明にすると同時に、大衆が主導する運動こそが力である。中電はまさに24年のあいだ、町民を推進派と反対派に色分けして、さんざんに争わせ、分断し、無力にすることに力を注いできた。「反対派」の幹部を抱きこむことなどは簡単であるが、町民の大衆的な団結の力こそ恐れているのである。
 「まともな反対派が出ないというならだれでも出ればいいじゃないか」というのは素人の見方で、意にそわぬものが出るなら集中砲火でたたきつぶすという機能だけは、中電原理主義のもとで高度に発達している。候補を出すのにも、「国策」とたたかう全県、全国と連帯した町民の大衆的な斗争態勢がいる。選挙の最大注目点は、だれが当選するかなどではなく、この町をどうするかをめぐる町民の論議がどのように広がり、形をなしていくかである。その論議によって、いい加減な欲ばかりの候補者連中を震え上がらせなければならない。選挙がこのままの「オール推進」構造ですすむとすれば、町民にとっては白票、無効票、棄権なども駆使して不信任の形にするなら、中電の勝手な思惑はうち負かされることになる。

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