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勉強できるだけが価値基準か 
教育巡る本紙記者座談会 
           労働基本の人間育成必要  2009年10月14日付

 本紙は「学校で暴れる生徒をどう見るか」という問題について、親や教師、地域の人人と論議を深めてきた。人人の関心はひじょうに深いものがあり、この20年の教育改革の下でどん底まで破壊されてきた教育を立て直すためにはどうしたらいいのか、どこに展望があるのか真剣な論議となってきた。本紙ではこの間の論議をまとめて、さらに深めるために記者座談会をおこなった。
  親や教師と論議してきて、学校で「勉強ができる子がいい子、できない子は悪い子」という価値基準が支配していること、そして切り捨てられた子どもたちが暴れているという特徴がはっきりしてきた。ある「ワル」といわれる子の母親は新聞を見て共感し、「勉強ができない子は必要ないのか」と聞くと、「学校は勉学の場だから勉強ができる子が望ましい」と遠回しにいわれたという。「子どもの中身でなく表面を見るようになっている」といっていた。
 B ある塾の講師も「この10年、15年で中学校がものすごく変わった」と話していた。とにかく勉強の速度が速すぎて、1年生の数学でも2学期で全部終わるくらいのスピードでやるところがある。塾に来るたびに復習で教えるが追いつかない。先生にいいに行かせると、プリントを渡して終わりという対応で「サラリーマンみたいな教師が増えている」と驚いていた。塾に行けない子ははじめから相手にされないという。
 C 勉強ができる子どものなかには、内申点を稼ぐために生徒会や係などの役につくが、自分は掃除をしないのに人には命令する、先生の前ではいい子の振りをして、陰ではものすごく先生の悪口をいうなど、裏表が激しいと語る母親もいた。子どもたちはそれを知っているから「点取り虫だ」と反感を持っている。教師の方は勉強ができる、手のかからない子を、「いい子」と扱う。同じことをしてもできる子は見逃され、その他は厳しく叱られるような不平等さをみんな感じていて、暴れる「ワル」たちはそういう多くの生徒をある意味代弁してくれる存在になっているという。
  ある高校の教師は、とくに中学校が高校受験のために「内申に響くぞ」と抑えつける指導方法で、親同士も自分の子どもの進学のために「悪い子とつき合うな」となってバラバラにされることを危惧していた。「枠からはみ出した子どもたちは暴れるしかなくなる。そうではなく人間としてどう生きていくのかを教える教育が必要ではないか」と話していた。
 D 学校が人間を育てる場所でなくなっているという意見も共通して出された。スーパーに勤める母親は「市内でもトップクラスの進学高校の生徒が万引きをする。その高校は勉強ができるかどうかがすべてで生徒指導はほぼ放任状態。それが本当の教育だろうか」と疑問視していた。学校関係者の話でも進学高校は今の時期、「どこの大学に何人入れられるか」が学校や教師の評価になるので、それだけに必死で、生徒指導はないという。
  学校で勉強ができるかどうか、点数がいいか悪いかだけの評価基準が支配し、人間味のない学校になっている。冷酷な精神の“できる子”が育っているのに、それを“いい子”だと評価していたら大変なことだ。ホリエモンや村上ファンドとか、アメリカの投資銀行やヘッジファンドなどの頭のいい、詐欺商売をやるのが“いい子”になって、世界中のものがひどい目にあった。下関でも中央省庁から天下りの若い官僚が来るが、対話能力がないとかで精神異常をきたして帰っていくのもいる。あれが“できるいい子”なのかだ。勉強がよくできて上級学校に行くことという常識だが、それにどれだけの価値があるのか。「新学力観」とか「ゆとり教育」といってきたが、結局点数による弱肉強食の競争と差別、選別、ふるい分けが度はずれて進行した。
  小学校ではゆとり教育で「子ども目線で、子どもに寄り添って」指導し、通知票も興味・関心第一。所見欄も悪いことは書いてはいけない。だが中学校に入ると学力によるふるい分けがひどくなる。そこではじかれて暴れる子が多いと指摘されている。中学校は高校入試の直前で競争が段違いになり、矛盾が顕在化する。
  貧乏人は実質上塾にも行かれないから勉強からは落ちていく。国立大学でも学費が年間50万を超えるわけで、進学できるのは結局金持ちに限られる。この間の教育改革というのが、金持ちの学校にして貧乏人の子どもたちははじき出すというものだったということだ。
 D 高校教師のなかでも、下関では一番の進学校である西高の生徒の親の収入が一番高くて、私立が一番低く、母子家庭とかいわゆる不遇な子が集まっていると話されている。東大でも収入の多い家庭の子ばかりだと報道された。学力=親の収入というのは常識になっている。
  教師のなかでも評価基準が転倒してきたことが真剣に論議され始めた。「いつの間にか派手な格好をする子が悪く、枠にはまったおとなしい子がいい子という見方にさせられていた。だが実際に思いやりがあるのはどちらか具体的に考えてみると違う」「勉強のできる子たちは、内申のために生徒会に入ったり係をしたりする。それでいっぱいいっぱいだから、人をいじめたり万引きしたりということで発散する。本当は表現する子の方がかわいい」などと語られた。
 A 生徒指導など熱心にやってきたような教師のなかで「頑張っているのにこれ以上なにをしろというのか」という反応がある。「最近のワルは言葉が通じないのだからどうしようもない。昔の子どもとは違う」「あのグループは特殊だから、それがいなかったらうまくいく」という見方も強い。結局「おもしろくない学校の秩序に従え」「おとなしく勉強している子のじゃまをするな」という範疇で子どもたちを見ている。
  直接かかわろうとしないような教師のなかでは「親が悪いから」で片づけようとする傾向がある。親が悪いというのは教師のなかで濃厚だが、「市営住宅の子」「○○荘の子」など貧乏人の子という意味合いが強い。
 社会は進学できる家庭は減って、貧乏人の子がますます増えていくのに「できない子は悪い子」すなわち「貧乏人の子は悪い子」という価値基準では、パンクして「心の病」になっていくコースだ。
 A ある教師は「おとなしく勉強する子がいい子、暴れる子は悪い子と完全に区別した見方しかできない教師が増えていて、排除するのが当たり前と思っている若い教師も多い」と話していた。どちらにもいい面と悪い面があり、それを育てていくのが教育だが、そうとらえられない教師が増えているという。「学校現場を多忙化させて、追い込んで来たのは教育改革だが、それで教師があきらめては教育にならない」と話していた。
  義務教育で学校に集めているわけだが、排除する子がいるというのは、教育ではないということだ。
 B 山口県の藤井教育長は教育のわからない役人で、数値評価が唯一の基準だと思っている。下関の嶋倉教育長も教育はわからない文科省課長だ。教育のわからない人間が教育長になり、文科省がその上からまた数値評価第一の教育政策をおろしてくる。教師はそれに縛られたうえに、下手に指導していると「体罰だ」とマスコミにたたかれる。今年からは教員免許更新の講習まで受けさせて、忠誠度を誓わせるという体制がとられた。
  その下で健全な社会人として、人間的に成長させるという面が切り捨てられてきている。上から来るのを当然と受け止めている教師から見ると、騒ぐワルたちは邪魔者に見える。子どもたちからすると「結局先生の成績ではないか」と見えるからよけい反発する。
  育成協の人が高校教師と話したとき「最近の荒れた子は、本気で怒ったら受け止めるところがあるが、成績のいい子はいろいろいって、すり抜けるのが上手で教師の方がやられる」といっていたという。
  私学の教師は、教師のなかでも「西高の教師はすごい人」というのがあり、私学の教師があしらわれることに怒っていた。「私学でなにが悪いのか。ああいう子たちほど純粋なんだ」と。教師も進学率でランク付けされ、成績主義の圧迫がある。だいたい県教委から学力テストをやって点数ばかりだ。親たちは「先生たちも評価されるようになって、点取り虫になっている」と感じている。個個人の教師の意識をこえて構造的にそうなっている。
  教育の機会均等主義を取っ払って、唯一点数による優劣で差別・選別する弱肉強食の市場原理主義を教育に持ち込み、人間性を破壊したということだ。ホリエモンは「金さえあればなにをしてもいい。女でもなんでも金さえあればついてくる」と豪語し、詐欺商売をやって破たんした。教育改革は市場原理主義改革の教育版だ。「点数さえとればなにをしてもいい」という基準は、「出世のため、金儲けのためにはなにをしてもいい」に通じる価値基準だ。
 これは強欲な資本の論理だ。しかし人間社会は、こういう連中が大もうけできる源泉は何かということを含めて、生産活動を基本にして成り立っている。この生産活動は、労働者が集団で協同して、社会に有用なものを、生身の労働者が具体的な労働をして成り立っている。労働を通じて人と人との関係を結び、人人が協力し合い支え合って人間社会は成り立っている。このような労働者の思想、勤労人民の思想を市場原理教育改革は攻撃してきたということだ。証券詐欺で大もうけして破産した投資銀行などは、労働者がいなくても大もうけできるかのような振る舞いだったが、現実社会はそういうわけにはいかない。労働がいかなる社会でも富をつくり出す源泉だし社会の根幹なのだ。これを否定したら人間も社会も教育も崩壊するほかはない。
  数値評価基準が子どもも教師も苦しめている。質の違いを無視して、すべてを量で換算する哲学だ。それは金貸し屋の哲学であり、モノだけではなく生徒や教師という人間にも値段を付けることにつながっている。生徒も教師もモノ扱い、商品扱いということだ。学校は生徒という原料に付加価値をつけて高く売るところというわけだ。まともな勤労人民として必要なのは、人間と人間のまともな関係を切り結ぶようになることであり、団結心とか思いやりの心とか、正義心とか忍耐心とか、世のため人のため社会のためどう役立つかという精神であり、社会人として必要な精神をはぐくむことだ。学校ではそういうものは切り捨てる、ところというのが教育改革だった。
  教育改革というのが、現代の子どもたちの現状、今の社会の現状から出発したものではなく、上から外側から持ち込まれてガタガタにされた。アメリカの教育で失敗したものを持ち込んだものだし、オリックスの宮内とかの財界人が教育の外側から采配をふるってやったものだ。戦前の反省から「教育は直接国民に責任を負う」とした教育基本法の原則があったが、今度の新教育基本法で「国に直接責任を負う」に変えてしまった。子どもの現状から出発してそれをどう育てるかではない。国家のやることに従えという教育だ。だから教育現場はガタガタになる。教師がそちらに動員されているのに対して子どもたちの反乱が起こり、収拾がつかない。教育改革の破産だ。
 E 子どもが赤ん坊から大人に成長する過程というのは、サルから人間に進化していく過程と重なる。この間の「個性重視」「興味と関心」という教育改革は、子どもが好きなように放置させるというもので、サルから人間に進化させないというものだ。「猿の惑星」で、頭のいいサルが増えたのではたまったものではない。サルはサルであって、獣(けもの)であり、弱肉強食の動物だ。金融工学というような詐欺金融を平気でやって大もうけしていた連中とか、イラクやアフガンで人殺しをやらせる連中というのはまさに獣みたいだ。
 重要なことはサルから人間に進化する原動力となったのは労働だということだ。労働を通じて、手が発達し、脳が発達したし、集団で労働するための意志疎通の必要から言語も発するようになった。生産活動を通じて自然界の法則を理解し、人と人との社会的な関係を発達させてきた。「生産活動より消費が大事」といったりしてきたが、点数一本槍、もうけ一本槍の価値基準で、労働の役割を否定したのが、人間性を破壊し、学校がおもしろくないものになった根幹の問題だ。学校崩壊の打開の根本的な道筋は、金計算ばかり上手な強欲資本の論理で支配させるのではなく、生産を担う労働者、勤労人民の考え方を学校が取り戻すことだ。
 D 「ワル」といわれる子たちも含め、子どもたちが臨採の若い教師を慕うというのがある。親のなかでも「臨採の若い先生の方が子どもたちの中身を見てかかわってくれる」という受け止めがある。現場で増えている非正規雇用教師だ。同じ差別され、貧乏な境遇だから、貧乏人の気持ちがわかるし、人民的な感覚が響きあいを持つのだろう。それを教師にしない採用試験が問題だが、人民的な感覚の若い教師が増えているのは逆に展望がある。「正規教師が上で臨採は下」という差別、選別、ランク付けの価値観にとらわれていたら、学校崩壊はひどくなるばかりだろう。

 どう生きるか教えるのが要 教育者の使命

  教育の喜びは、子どもたちのこの先何十年の人生において、「どう生きて行くか」というかかわりが大きい。『二四の瞳』は教育物語だが、どれだけ「できる子」になって出世したかではなくて、大きくなって戦争で何人か死ぬということになったが、そこでどんな師弟関係だったかということで教育物語になっている。吉田松陰と高杉晋作の関係も、理屈を習ったのではなく「どう生きるべきか」「どう死ぬべきか」というところで強い師弟関係だった。大量の失業時代、戦争の時代に進もうとしている、子どもたちの運命が狂わされていく過酷な情勢だ。このとき「どう生きるか」を教えるのが、子どもたちへの責任だし、教育者の使命だろう。
 B 「こうも教育委員会やマスコミ、警察の教師への統制がひどいご時世ではやむを得ない」というところを教師自身がどう突破するかだ。教育改革で上から点取り虫教育に駆り立てられ、子どもたちは暴れ出す、下手に手を出したらマスコミにたたかれる。あっちからもこっちからもたたかれて自信喪失や「心の病」になったり、辞めていったりしている。給料はいいが、廃人になりかねないところまで来ている。
 E 教師がどの立場に立つのかだ。仕方がないといって、上のいうままにいって破滅するか、勤労父母の立場に立って人間的な教育をやるのか。教師はそのどっちかの立場に立つしかない。
  熱心な生徒指導の教師が、暴れる子どもは勉強をするみんなに迷惑をかけるし、負担ばかりかけてやっかいだという。目の前の局面ではそうだろう。しかしそれは保育園、小学校をつうじてどういう経過を経てそうなっているのか、また家庭生活の変化、社会の変化、友だち関係の経過など、歴史的、社会的に関連づけて原因を考えなければ理解できない。とくにこの間「新学力観」「個性重視」「興味と関心」などといわれて、学校が様変わりをしている。そこの根源を解決しようとするのではなく、その根源による結果としての諸現象ばかりをもぐらたたきのように追いかけていたのでは裏目裏目に出る。教師まで即物的対応をしていたらどうにもならない。
  教師も教育改革でがんじがらめ。子どもたちも教育改革の反人民性に反乱を起こしているが、こちらも教育改革的手法を使い、「殴れるものなら殴ってみろ」と権力を利用して教師をいじめている。この子どもたちも、学校の理不尽さに反抗しているからよいというのではなく、人民的に成長するように、教師が勤労人民の思想を体現して断固として指導しなければならない。非人間的な教育改革とたたかって、教師、子ども、父母が人民的な基準で団結してやらなければ教育にならない。
  部活でも個人はすごく強いが、協力して集団プレーができないから試合に勝てないなど、内面的に成長していないことが指摘されている。人と人との関係を確固として教える指導性が求められている。
 C 自分の会社に「ワルたちを受け入れた」という人が、「算数は電卓がやるからいい。真面目に働くこと、粘り強くやることを教える学校になってほしい」といっていた。実際社会を担っている人はそうした感覚だ。教師がそのような人民的な価値観をうち立てたら展望が出ると思う。
  下関では西高が一番いい高校、日本では東大が一番いい大学という常識がある。勉強ができて上級学校に行き、いいとこに就職すれば立派、それ以外は落伍者という価値観はどうなのか。そこにどれほどの人間的価値があるのか。そういう価値観で見過ごされて、隠れて悪いことをする冷酷な人間がたくさん育っている。多くの親たちは「勉強よりもまっとうな人間に育ってほしい」と願っている。
  「ワル」の隣に住んでいる父親は「人間的に魅力があるのはこの子たちだ。挫折もし、いろんな世界や痛みも知り、思いやりがある」という。「おかしい世の中になっているが、日本ではストライキやデモもあまり起こらない。この子たちは小さいストライキやデモを起こしている気がする。それを大人の価値観で抑えにかかっている感じがしてもったいない」と話していた。
  学校から暴動が始まっているようだ。社会全体の暴動の前兆のようだ。子どもは時代の意識を鋭く反映する。古い世界を守ろうという安住思想では理解できない。上級学校に行って大学に行き、いい点数をとればいいというこれまでの価値観が時代遅れになっているということだ。勤労人民の未来、働く者が主人公になっていく平等で平和で豊かな社会をみんなで団結してつくろうという価値観がないと、子どもたちの未来も語れない。教育の現状は大きな時代の転換期に来ていることをあらわしている。

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