トップページへ戻る

第6回長崎「原爆と戦争展」開幕
            現代とつなげる問題意識     2010年6月28日付

 長崎市川口町の長崎西洋館2階イベントホールで27日、第6回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会・下関原爆被害者の会・原爆展を成功させる広島の会、後援/長崎県・長崎市)が開幕した。100人をこえる賛同者をはじめ、全市的なとりくみの中で準備されてきたこの原爆と戦争展は、米軍再編や朝鮮半島の緊迫化など日本列島をめぐって再び戦争のきな臭さが増すなかで、今日の日本社会の現状をもたらした第二次世界大戦、原爆投下の真実を若い世代に語り継ぎ、独立した平和な日本を建設するための世代をこえた大交流の場としての大きな期待を集めながら開幕を迎えた。
 会場内では、原爆展を成功させる長崎の会(永田良幸会長)の被爆者や戦争体験者、主婦たちが下関原爆展事務局のスタッフとともに受付や会場案内などをつとめ、壁面には150枚をこえる展示パネルとともに、「独立と平和のために原爆と戦争の真実を語り継ごう!」「被爆市民、戦争体験者の心を若い世代に伝えよう!」「原水爆の製造・貯蔵・使用の禁止!」「日本を原水爆戦争の盾にするな! アメリカは核と基地を持って帰れ!」と大書されたスローガンが三方に掲げられた。
 10時からおこなわれた開幕式では、はじめに吉山昭子副会長が、「1週間の第6回原爆と戦争展がはじまるが、みなさんの御協力をお願いしたい。私も高等女学校2年のときに被爆し、その後もさまざまな山をくぐって生きてきた。じっくり原爆展を見てもらい、平和がいかに大切かを次の世代まで伝えていただきたい。私も語り部として頑張るので、わからないことはどんどん聞いて欲しい」と挨拶した。
 つづいて下関原爆被害者の会の伊東秀夫会長、原爆展を成功させる広島の会の重力敬三会長から寄せられたメッセージが代読された。
 伊東氏は、普天間基地問題をめぐってアメリカの要求を丸飲みした鳩山内閣が退陣に追い込まれ、迎える参議院選挙では、マスコミや各政党が「日米同盟の強化」のキャンペーンで国民世論を抑えようとしている欺瞞にふれ、「この時期に原爆や戦争体験者がその実相、真実を広範な人に語り継ぐことは意義深い。核廃絶と米軍基地撤去、独立と平和をめざす人人を結集し、力のある運動を発展させよう」と連帯の思いを寄せた。
 重力氏は、「総理大臣がかわっても、アメリカの日本への占領と圧力は変わらない。今日の日本の状況は、また戦争をはじめようとする空気が濃厚になりつつあり、私たち同志は命をかけてこれを阻止しなければならない」とのべ、八月に向けてともに広島で奮斗する決意を寄せた。
 主催者・賛同者市民を代表して、河邊聖子、山村知史、高木昌章の三氏があいさつした。
 長崎の会の河邊氏は、「このパネルは私たちが見てきたものと一つも変わりない。あの時の光景はいまも脳裏から離れることはない。私は被爆後、外国人に写真を撮られて展示されたことがあり、原爆からは長く遠ざかってきた。だが、私たちが伝えなければなにもはじまらない。こうして立派な展示会が下関の人たちの力添えで開かれることに非常に感謝している。戦争を絶対に起こさないためにみんなで頑張りましょう」とのべた。
 被爆者である山村氏は、「被爆後は、火柱の上がる市内を裸足のまま避難し、多くの学友を失った。自分自身も1週間も食うや食わずで生きてきたし、ずっと思い出したくないと思ってきたが、3年前からこの展示に出会ったことが転機になった。戦争を起こさせないという決意で頑張ろう」とのべた。
 高木氏は、「下関、広島からのメッセージでもいまの日本が置かれている現状が詳しく触れられ、この原爆と戦争展の背景が言い尽くされている」と共感を語り、「私たちは戦争のさなかに育ち、被爆、朝鮮動乱をくぐり抜けて生きてきたが、最近の世の中を見ていると、戦後生まれの政治家、政党には戦争に対する歴史認識の根本が抜け落ちているといわざるを得ない。そこで現在と将来を考える原点としてあの戦争を批判的に検証するこの原爆と戦争展は非常に意義が深く、若い世代に伝えるべき原点を教えていると思う。昨今の米軍基地問題も、沖縄だけの問題ではなく、あの戦争以来、日本全体がアメリカの基地にされ、再び戦場にされる危険性をはらんでいるということははっきりしている。戦争は二度とやってはいけないということを原点に頑張っていきたい」とのべた。

 被爆と大戦の真実継承 世代こえ大交流に

 会場には悪天候にもかかわらず市内の老若男女や親子連れをはじめ、東京や大阪、福岡などからの観光客らが訪れ、熱心にパネルを参観した。若い世代がかつての戦争体験と現代社会とをつなげて切実な問題意識をぶつけていく姿が目立った。
 三菱兵器製作所立神工場で被爆した80代の婦人は、5年前から毎年この会場を訪れていることを明かし、「給料課勤務だったので、警戒警報が解除されてすぐに金庫を開けにいく途中で強烈な光を感じ、直後に目の前の木が根本から倒れた。午後4時に、大波止に船で上がったが、だれ一人いなかった」と語り、「実家のある小島では、ゴミを入れる大八車に腕や足が飛び出すほどの死体を積み込んで新興善小学校(現・市立図書館)に運んで焼いていた。同じ挺身隊の友だちは父と妹を一人で河原で焼いたという。こういう経験はいまの若い人にぜひ伝えないといけない」と長崎の会の被爆者と語り合い、今後も協力していくことを約して帰った。
 戦死した叔父の遺品を持参した60代の婦人は、「父の弟は昭和20年の7月にフィリピンで戦死したが、1年後に戦死の広報が1枚届けられただけで遺骨もなかった。父が亡くなるまで大事に保管していた遺品を持ってきた。遺品とともに父の思いを私が継いでいきたい」と語り、「フィリピン・ペグー島にて被弾し、頭部貫通」と書かれた戦死報告書や写真、軍人手帳などを大事そうに見せながら被爆者たちと思いを交流した。
 夫婦で訪れた40代の会社員男性は、「“貧乏になって戦争になる”という戦前の状況は、いまの日本に似ている。アメリカもイラクやアフガンの戦費を調達するために国民の保険や医療などの社会保障は切り捨てている。戦争をすれば好景気になるというが実際は逆に苦しくなるのが現実ではないか。いま日本も増税や社会保障を切り捨てる方向に向かっているが、戦争の経験と結びつけて警告を発してほしい」と思いをのべた。
 コンピューター関連の仕事をしている30代の男性は、「いまも世界恐慌が起こり、就職難になり、戦前の日本と同じだ。日本はこれほどアメリカに殺されながら、なぜ追随を続けるのか。アメリカには日本を守る意志はないし、逆に日本がやられる仕組みになっている。テレビで若者が“戦争が起こればいい”といっているのを見たが、戦後の廃墟のなかからここまで立て直してきた苦労を知らない。マスコミの偏った報道に腹が立つ。真実の報道を知りたい」と語った。
 友人とともに東京から観光にきたIT関連業の男性(30代)は、「マスコミの世論操作が戦中もいまも変わらないと思った。単純に、昔は悲惨だった…ではすまない時代になっている。郵政民営化も規制緩和などの一連の構造改革でも、まるで国民の総意であるかのようにマスコミが誘導してきたが、すべてデタラメだった。笑っているのはアメリカだし、背後にはスポンサーになっている大企業の意図がある。戦争の実態を知れば知るほどこれではいけないという思いを新たにした」と語気を強めて語った。
 群馬県からきた精神科医の男性は、駅前に貼られたポスターを見て訪れたと語り、「長崎にきたからには絶対に見ようと思って朝一番にきた。これほどの内容は現地にこなければわからない。高度成長期と違っていまの若い人たちは将来に淡い希望を持つことは許されず、生まれたときから格差や選別のなかに放り込まれて精神を病んでいる人が多い。原爆からここまで長崎を立て直してきた人人の力を知らせたい。今の日本を変えていく力になる展示だと思う」と共感を語り、カンパを寄せていった。
 農業高校に通う男子生徒は、「学校で米軍の思いやり予算の事などで話になるが、みんながおかしいと思っている。アメリカが大量の核兵器を持っているから真向から言えない関係になっている。だが被爆国として、その解決に向かうのが本来やるべきことではないか」と思いを語った。
 長崎「原爆と戦争展」は、来月4日(日)までおこなわれ、最終日には午後1時から広島、下関の被爆者との交流会が予定されている。

 

トップページへ戻る