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江島市長打倒が課題の市議選
下関・地縁血縁のしがらみ乗り越え
                 市民が主役の運動が要    2006年11月10日付

 安倍総理代理の下関江島市政に対する市民の審判となる、来年2月初めの下関市議選挙を間近にして市民の論議がしだいに白熱化している。江島市政は安倍氏の縁故関係にあたる神戸製鋼や三菱商事などによる大型利権事業を連続し、市内業者から仕事を奪って倒産に追い込み、市民からは働くところを奪い、10年で600人近い自殺者をつくり出してきた。江島市長というのは、市政は市民のものではなく自分のものと見なしており、市民の利益を守るとか、市民の声を聞くとか、市民の生活を守るとかの意志がないというのが市民の痛い体験を通じた実感となっている。そしてこんな市政を続けさせていたら下関はつぶれてしまうし、市
一万人アンケートの結果を江島市長と市議会に提出する下関を良くする連絡協議会(11月8日)
民の多くが生活できなくなる。このような  
市政を市民の力で変革しなければならないとの声が充満するところとなっている。市議選は、江島市長の飼い犬議員に打撃を与え、江島市政とたたかって市民の生活を守り、市民の声を代表する議員をつくり出すこと、それをやる力は市民の大衆的な運動だけであり、そのような市民の力がどこまで結集するかが注目されている。

 利権の為に市民絞め殺す 江島市政の10年
 下関市議選挙は、38議席をめぐって60人余りの現職、元職、新人がしのぎを削る、見込みとなっている。選挙といえば、地縁、血縁、雇用関係や取引関係、さまざまなしがらみが総動員となって、市民を縛る。国政選挙と比べて、地域に根ざす市議選となればもっともそのような縛りが強くあらわれる。そしてそのような利害がらみの縁故選挙が支配してきた結果、市民の側は足元から生活基盤を奪われてきた。小さい利益を守ろうとしたら、大きな打撃・損害を受けてきたのである。
 選挙は「立候補者が主人公」で、「有権者は誰かの応援団」という関係にするわけにはいかない。市議選は60人余りの候補のうちだれがよいかだけが問われているのではない。江島市政と市民とのあいだの食うか食われるかという対立関係があり、江島市政の側に立って市民を食いものにする側か、市民の利益を守って江島市政とたたかう側かが問われている。
 市民生活は江島市政発足後のこの10年余り、さんざんな結末になった。下関の自殺者は10年で590人にも上った。生活保護は全国平均の2倍の人口1000人当り19・4人、就学援助は3人に1人で全国平均の3倍、出生率も県内市町村の平均以下。
 市発注の事業は、市外業者に回して地元業者はつぶすという政治を強固な意志でやってきた。大型店の出店は野放しで、あるかぽーとの市有地を二束三文で売り飛ばし、貸し付けてわざわざ市が大型店を誘致する。下関の1等地である唐戸や駅前などの商店街はわざとでもつぶしてしまう絞め殺し政治である。
 小・中学校や市立大学などは、国から教育に当てて下りている交付税を利権事業に使い、外壁は崩れ、トイレは壊れ、老朽校舎ばかりになり、テスト用紙からトイレットペーパーまで父母負担にしている。年金は削ったうえに税金は高くし、国保料や介護保険料は高いが病院や介護からは追い出すことばかりで、年寄りは生きているだけで国賊といわんばかりの扱い。
 市民生活が成り立たないようにすることによって、縁故がらみの大型利権事業ばかりをやっているのである。江島市長は「外資を誘致する」といっているが、地場の企業がつぶれ、働くものは失業し、食えないようにすること、それが外資に気にいられる「アジアに負けない競争力」の条件づくりとなるわけである。唐戸や駅前にある商店街はつぶしてしまうというのは、更地にしてしまって、「外人さんがお住まいになる海峡沿いのニュータウン」にするプランと見るならさもありなんと思われる。

 戦争にさらす安倍代理市政 市民に聞く耳なし
 江島市政は安倍事務所のいうことだけは聞くが、市民に聞く耳がない。「市政は市民のもの」という意識はなく、「自分らのもの」という意識である。市民の税金は市民のものではなく、自分らのものだというわけである。下関市政には民主主義とか地方自治というものは、とうの昔からなくなって、専制的独裁政治がまかりとおっている。市民にいくら嫌われることをやっても、安倍事務所に認められたら市長になれるという不思議な市政になっているのだ。
 そして江島市長がことのほか熱心なのが、米軍の軍艦の歓迎であるし、戦争を想定したテロ訓練である。政府は北朝鮮船を捕まえてつれてくる臨検港に佐世保港と下関港を指定した。臨検は武力を持たなければできないことであり、下関港に米海軍と海上自衛隊を誘致するということであり、下関を舞台に戦争をやるということである。かつての戦争で空襲を受け、機雷投下を受けた下関をふたたび戦場にするわけである。下関市民の生命・財産をないがしろにするのは、戦争をやりたがっているからというなら、さもありなんと思われる。
 このような、市民を貧乏にさせ、専制的な支配におき、戦争にさらすというのが安倍代理の江島市政である。それは大多数の市民とのあいだで、食うか食われるかの敵対的な対立関係をなしている。市議選では第1に、広範な市民世論のなかで、江島市政と市民とのこのような死活の対立点を鮮明にすることが重要である。

 変革の源泉は市民 大衆的運動が原動力
 このような反市民の政治を改めさせる力はどこにあるか。それは議会が仮にまじめな議員ばかりいたとしても議会だけの力ではどうにもならない関係である。その原動力は市民の大衆的な世論と運動であり、その大衆的な運動と結びついて議員が動くときに有効な力となる関係である。安倍総理や江島市長がいかに権力者といっても、その力の源泉は市民大衆である。市民が支えなければ権力者は失脚するほかはない。
 下関ではこの間、市議会はアもスもいわないなかで、市民の運動があの横暴なる市政を動かす力を発揮してきた。有料指定ゴミ袋を値下げさせる運動では、婦人たちを中心にして10万人を超える署名を集め、「絶対に値下げはしない」といっていた江島市長をして値下げを実施させた。母親たちの教育アンケート運動などによって、小・中学校で、犬猫以下のアルマイト給食食器を使わせていたのを樹脂製に替えさせ、トイレの部分的な補修も実施させた。市長選では旧市内だけなら、江島市長を落選させる票となる力を示した。究極の官製談合であるPFI方式の新博物館建設は署名運動などで頓挫させた。あるかぽーと、文化会館建て替え問題も、押しとどめているのは市民の運動の力である。安倍事務所をバックにした江島市政の専制政治の力をうち負かすのは、市民の大衆運動の力しかない。
 市議選挙は、江島市政と市民とのあいだの非和解的な対立点を鮮明にすること、そして市民自身の大衆運動として市民の力を結集することが、市政を変える原動力となる。それは江島市政をチェックし文句を言える議員をつくるだけではなく、それ以後も市民の力で議員を動かし、議員を通じて議会内、市政内部のインチキを暴露し、市民の運動を強めることに貢献する議員をつくることによって、市政を変える力をますことになる。
 議員が頭を下げているのは選挙の時までで、いったん議会に入れば、ほとんど例外なく取り込まれ、市民に対して横着になるのは数限りなく体験してきたところである。議会は報酬の面でも、特権の面でも、さまざまな買収策が完備されており、市民の監督がなければ簡単に取り込まれる仕かけになっている。いい議員ができたから「あとは任せて」とやっていたらダメになるのだ。市議選では、江島市政を打倒して市民のための市政を実現する、市民の力を結集することが最大の課題である。

 市民の代表勝たせる行動を 飼犬議員あぶり出し
 市民のなかでは死活の市政要求が渦巻いている。大型利権政治のために、市民に仕事がない、仕事があっても生活できない賃金である。入札排除されている建設業者をはじめ、地元中小企業はつぎつぎになぎ倒されている。教育予算は県下のどの市町村も驚くような貧弱なものである。社会福祉も貧弱で、市民を自殺に追い込む政治が、平然とやられている。労働者、青年、婦人、中小業者、農漁民、老人、教育関係者、公務員などさまざまな階層が、それぞれの死活の要求を基本にして、それら各層の運動が江島市政に反対して市民の生活を守る運動に合流する行動を広げることである。
 選挙は自由に発言できるというのはたてまえで、実際は地縁、血縁、さまざまなしがらみによる縛りが最高度に発揮されるものとなる。とりわけ安倍総理代理の江島市政とたたかって市民の利益を守るという場合、相当の権力、金力の縛りをはねのけていく市民の力を結集することが不可欠となる。そしてそのようにして勝利した力は、選挙戦だけにとどまらず、選挙後に江島市政に圧力をかけつづけ、県議選や参議院選挙に大きな作用を及ぼす直接的な力となる。
 江島市政とたたかって市民の利益を守る候補は、既存の何らかの組織に乗っかっていけるわけではなく、市民そのものに依拠したいわゆる「草の根」方式以外にない。市民が、自分たち市民の死活の利益を託すことのできる自分らの代表として認め、相当数の市民がその周辺の知り合いや仲間に訴え、その輪を広げていくという形を発展させる以外にない。それは選挙による地縁、血縁などの縛りを払いのける鋭いたたかいにならざるを得ない。それをやり抜いて市議会の風穴を開けたならば、市議選における安倍代理江島市政に対する市民の勝利となる。
 市民の側から、それぞれの議員候補について、江島市長の飼い犬側か市民の側かを問い、ふるい分けを進める世論と運動を広げることが重要である。そして飼い犬になった連中をあぶり出し、市民を代表するものを勝利させる、大きな論議と行動を広げることである。選挙は議員が主人公ではなく有権者・市民が主人公という姿を証明しなければならない。

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