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父母・教師の強まる教育意欲
人民教育同盟教師座談会
              貧困の中から労働の誇り    2008年5月28日付

 本紙では昨年9月に教師座談会を持ち、「個性重視」「興味関心第1」の指導要領でここ10数年間にわたってやられてきた文科省教育が、子どもの自由勝手をはびこらせ惨たんたる学校崩壊に立ち至っていることを論議した。それから8カ月たち、政府・文科省は指導要領を改定し「ゆとりから学力向上へ」「授業時数の1割増」「小学校からの英語必修」などをうち出している。しかしこの間、働く親の生活や意識は激変しており、そのなかで育つ子どもも大きく変化している。現場教師のなかでも「このまま黙っていてはいけない」という世論が大きくなるなど、新しい状況が生まれている。山口県と福岡県の人民教育同盟の教師に集まってもらい、教育をめぐる情勢と教育運動の方向性について論議してもらった。

 たくましく育つ子供たち 生活激変する中で
 司会 4月になって新年度を迎え、各学校で家庭訪問もやられている。そのなかであらわれた親の現状や教育への要求、子どもの様子などから出してもらいたい。
  勤めている学校は家庭的に厳しい子どもが多い。今年担任した5年生のクラスも半分が片親で、5割が生活保護を受けている。家庭訪問も仕事の都合で休めないとか、「夜7〜8時に来てくれ」という家がかなりあった。時間を予定していても急に「どうしても家に帰れない」という家庭があるなど、労働現場が厳しくなっている。ある母親はパートを3つかけ持ちしているが、賃金も非常に低い。
 家庭訪問で親の教育への要求を聞くと、次のような意見が出た。
 「今の世の中を見ると自分さえよければいいという風潮が強い。勉強だけできて、人の心の痛みがわからない人間になってほしくない。毎日人殺しの事件が報道されるが、それも自分の欲求が満たされないというのと“だれでもよいから殺してみたかった”という理由だ。日本全体がおかしい。子どもには、自分だけが幸せになればよいのではなくて、みんなが幸せになれるよう、自分の精一杯の力を出すようにいっている」
 「学校の教育が一部のエラい人たちによって、踊らされているように思う。ゆとり教育といって授業時間を削減したかと思えば、子どもの学力が低下したといって、今度は授業時間を増やすという。実際の子どもを見て方針を出してほしい。勉強も大事だが人としての生き方を教えてほしい。そのためにはビシビシと厳しく指導してほしい」
 「学校で体罰禁止になってから子どもたちがおかしくなった。良いことは良い、悪いことは悪いときちんと教えてほしい。人に危害を加えておいて、自分の人権だけを主張する大人が多すぎるし、その影響で子どももそうなっている。わが子には、一人よがりではなく、友だちと協力して物事ができる子どもになるよう願っている」
 また「今の政府や文科省がやることはムチャクチャだと腹が立っている。ガソリンの問題や後期高齢者医療にしても人をなんと思っているのか。学力テストや教員評価制度も子どもや先生を思っての方針ではない。先生たちが協力しないと子どもの教育にはならないと思う。先生たちも大変だろうが、頑張って教育してほしい」などと話された。
 生産者である親たちが一生懸命働いて世の中を支えており、その資質を子どもに受け継がせたいと話していくと大きな支持があった。

 手伝いで一家支える子
  校区は農漁業地域で自然に囲まれている。今年担任している六年生の親は、イカ釣りをしている父親が1人いて、あとは夫婦共稼ぎで、父親は水産加工場、医療関係部品の工場やスクール水着を縫っている縫製工場などで、母親の方は介護士などとして夜勤も持ちながら働いている。
 以前、教え子の母親が勤める工場にクラス全員で見学に行ったが、うれしかったのは今回の家庭訪問でその母親が「子どもたちを自分の新しい職場にも来させてくれ。自分が働いているところを子どもたちが見てくれて本当によかった」といっていたことだ。前の職場ではコンベアー作業が早すぎてついていけない、トイレに行くときかわりの人が来るがそれが気兼ねでやれない、仕事量は増えるが賃金は上がらない状況だったそうだが、それに負けてはいない。
 今年気づいたのは祖父母たちもまた、水産加工場とかホテルや旅館の仲居さんとして働いていることだ。祖父母も稼がないと一家の生活が成り立たない。そしてひいばあちゃんが家にいるという状況だ。昔は一家で1人が働けばやっていけたが、今は3世代総働きだ。そのなかで子どもたちがミカン箱を運んだり、6年生の子どもがトラクターに乗って田んぼを耕したり、孫が支えているという話を何軒も聞いた。子どもも家族の一員としてしっかりと生活を支えている。
  北九州は、新日鉄の城下町といわれていたが、最近は日産、トヨタの自動車工場ができて、愛知から転勤してきたり、派遣労働で働く親が増えている。両親とも派遣労働者というある家庭は、給料が低く、結局父親が病気で倒れて生活できなくなり、離婚して母親が5人の子どもを連れて大阪に引っ越した。毎日遅くまで働く親や単身赴任の親もいる。宅配便の会社の管理職として働く父親は、人手が足りないときには配達もして、帰りはいつも夜の10時になるという。
 親たちから1番出た意見は、「うちの子は友だちがいるんでしょうか」「帰っても家から出ようとしない。学校での友だちとの様子はどうだろうか」ということだ。「ゲームばかりしているので、みんなで遊ぶようにさせたい」「すぐにお金のことをいう。将来プロ野球選手になって1億円の契約金をもらうというが、親の仕事も見せてちゃんと働かせたい」という意見も出された。世の中でいろんな事件が起こるなかで、「学校任せではなくて、親が一生懸命育てていこう」という気持ちが、昨年以上に伝わってきた。
  今年のクラスは父親の職業は自動車工場や車の販売などが増えている。母親はパートや派遣しかないといっていた。近所の店の店員とか、病院の事務員、介護の仕事などだ。ヘルパーだと不安定なので、勉強して准看の免許をとった母親もいた。私のクラスは家庭訪問で全員に会えたが、隣のクラスは「あと2人、どうしても会えない」といって教師が気にしていた。なかには経済的に厳しくて着る物、食べ物を周囲が心配する家庭もある。学校で新しい高価な習字道具を購入することが、子どもや親にとって大きな矛盾になっている。
 親たちのなかではどこでも同じように、労働を大切に思って働く者の後継ぎとして育てていきたいという話になった。クリーニング屋で働く母親は、「汗だくでやる姿をうちの子にもクラスの子にも見せたい。こういうことを堂堂と人前でいえる子どもを育てているからどんどん話させて。恥じることはないんだから」と力強くいわれていた。3年生のクラスだが、3交代で働く父親や母親が仕事で遅い家庭など、コメを炊いたり、洗濯をしたりと手伝いを子どもたちがしている。

 働く姿見せ教育する親
  今年も2年生を受け持っている。親たちは公務員、農漁業、自営業、海産物製造やセメント工場、銀行員などさまざまだ。家庭訪問ではどの親も「人に迷惑をかけない子」「人の気持ちがわかる子」「人間的な子どもを育ててほしい」「みんなで協力するような教育をしてほしい」「塾に行かずに子どもが本気で勉強すればわかるようにしてほしい」など期待を持っていた。
 この1年間の教育方針として「親孝行」といっていったが、かなりの親が「子どもがいうことを聞かない。勝手なことをする」という。本当に親の生き方を見習う、親のいうことをよく聞いて生活することを教育していかないといけないと思った。
 今、子どもに日記をつけさせている。生き生きと書いているのは田んぼがある家、また漁師の家の子どもたちだ。このまえ「今日は日記の宿題をやめようと思うが」というと、その子たちが1番「エーッ、嫌だ!」という。「浜仕事をお父さんと一緒にするから、そのことを書けると思ったのに」といって。子どもの日記を通して、実際に親の働きぶりが子どもの目に見えていることを感じることができた。
 編集部 親のなかでは、かなり意識的に子どもを教育しようという意欲が強くなっているようだ。生活が貧乏になっているが、それに負けずに一家で団結して生活している。家事の分担がやられたり、労働への参加が誇りになって、子どもがたくましくなっているのではないか。
  2年生の子どもの手伝いは田植えの植え残しを植えることだといっていた。
  それを親たちがすごく喜んで報告してくれる。じいちゃん、ばあちゃんの片腕になってやっている。学校では見られないような姿が家ではあるんだなと思う。
  親は子どもに、自分たちの働く姿を見せて教育したいと考えている。
  10年くらい前は仕事について聞くと「プライバシーの侵害」という雰囲気もあったが、今はまるで反対で、しっかり仕事を子どもに見させてくれ、という感じだ。聞き取り調査をすると親が積極的に書く。子どもに伝えたいという願いがものすごくある。

 現状打開の力拡大 崩壊する点取り虫教育・団結の力に喜び
  親たちの子どもの教育について放ってはおけないという力が強まるなかで、文科省が上からやってくる点取り虫教育が宙に浮き、文科省の権威は完全に崩壊している。一方で子どもの生活は親の労働と直結しているが、そこに学力テストなど労働と切り離れたものを持ちこむのだから、受け入れられないことははっきりしている。
  親たちはテストの点や算数のわかり具合などより、「うちの子はみんなと一緒に歌をうたいますか」と聞くし、そういうことを大事にしている。
 参観日に来ても、教室に貼っている子どもたちの絵や調べ物をじっくり見る人が増えている。まじまじと子どもの絵を見て感動する親が多いのにびっくりしている。
  「いい大学に行けばいい就職ができる」というこれまでのレールはもう信用がない。大学を出てもワーキングプアだ。そのなかで生き方を求めていると思う。小学校で担任したある子が中学生になったが、最近その母親が「勉強はよくできるが、“勉強もしたくないし、高校にも行きたくない”といっている」と心配して相談にきた。親としては激動の時代を、ちゃんとした生き方を持って生きていってほしいと願っている。
  父兄懇談会でも、自分の子がどうかというより、集団のなかで自分の子どもがどういう役割を果たしているかというところに喜びを感じている。常にクラス全体や集団の側から自分の子どもを見ているのは特徴だと思う。
 編集部 「今の体制に順応していけばよい」という信用が崩壊し、支配の側の権威が崩壊しているという問題と、「だから夢も希望もない」と負けていくのではなく、自分の親たちの労働や生活のなかの仲間同士の関係などに誇りを感じて、現状を乗り越える力が強まっているのではないか。教育界だけでなく社会全体を見ても人民の反撃機運が強まっている。
 昨年4月に伊藤一長・長崎市長が射殺された時期、重苦しい雰囲気もあったが、昨年夏の参院選で自民党が惨敗し、安倍内閣が倒れて、世論がガラッと転換した。四月の衆議院山口2区補選でも、自民党が開き直って「後期高齢者医療は素晴らしい制度だ」と宣伝したが、逆に反撃の世論がわき起こり、自民党が大敗した。このまま黙ってはおれない、人民的な教育を父母と教師が一緒になって負けずにやらないといけないという力が強まっているのではないか。
  今年、広島へ修学旅行に行ったが、子どもたちは「被爆者の人の憎い気持ちをわかりに行く」とか「体験者の許せない思いを自分たちも感じに行く」という。折り鶴パネルをつくったが、その言葉を決めるとき「平和な未来」に「前進」という言葉をつけ加えないといけないという。
 広島では被爆者にどんどん質問していた。今までと雰囲気が変わって、今年は子どもたちのなかに前に進もう、なんでも積極的に吸収しようという意欲があふれている。
 司会 そういう子どもたちがいて教師集団がある。学校現場には文科省や教育委員会の方向がおろされてくるが、それと大激突になっている。教師の意識はどう変化しているか。
  うちの学校には教頭2人制がおろされてきたが、それによって子どもとかかわる最前線の教師を減らして管理職を増やすことに、日ごろものをいわない教師もどんどん発言する。学力テストや教員評価制度などについて、「文科省はなにを考えているのか」とみんなぎりぎりした思いを持っている。
  教員評価制度をめぐって、うちの学校では校長が「各担任の授業を1時間見て、その後面談をする」という案を出してくると、「いったいなんのためにするのか」「それで子どもが成長するのか」という意見が一斉に上がり、それはやめることになった。校長自身も評価されそれが給与に響くが、矛盾を感じている。これまではいってもいっても変わらないというあきらめがあったが、「もういわないといけない」という声が出始めた。本当に子どもたちのためにも自分たちのためにもならないと感じている。
 教師のなかでは、90年代の新学力観から教育がおかしくなったという意識になっている。「個性重視」で「やりたくないものはやらなくていい」「子どもに無理矢理させてはいけない」といわれてきたが、それは教育じゃない、「できないことができるようになったり、困難を乗り越えさせていくのが教育だ」と。これまでは親から「好き嫌いをなくすといって給食を無理に食べさせると、不登校になるのが怖いから、無理に食べさせないでくれ」という連絡帳がきたら、仕方がないという空気もあった。しかし最近は、やっぱりそれではいけない、みんなで力をあわせて子どもの成長のために頑張ろうということで、先日、教師集団と親とで話しあう機会を持った。担任1人でやるのではなく、協力して立ち向かっていこうというムードが高まっている。
  以前の「個性重視」のときのように「1組は1組のことしか関心がない」というバラバラの雰囲気ではなくなってきた。学年が3クラスあれば3人の担任が論議しながら、共通認識を持って実践していくことが大事だと、去年をふり返って話になっている。
  教師がみんなで結束して問題を解決していこうという雰囲気は強まっている。これに対して教員評価制度は、教師集団を点数でバラバラにして、教育をできなくさせるものだ。そこでの評価の基準は、たとえば学習指導法、教え方について「子どもが目を輝かせて聞いているか」「積極的に発言したり授業を本気でやっているか」などだ。また黒板の字、掲示物、教室の中のゴミなどのチェック項目があった。クラスの掲示物がはずれていて、押しピンが1個はずれて傾いていたら意欲はCだそうだ。
  上からは「できるだけ数値目標にしろ」といわれる。だから、例えば子どもから離れて学級通信を何百号と出すということにもなる。実際には教育は目に見えないことが多い。だから「目に見えない、数値にならないことはしません」というと、学校教育は成り立たない。
  表面的には教師は上のいうことを聞いたふりをしているが、教員評価にしても学力テストにしても、子どもの教育のためではないということはわかっている。教頭2人制は「学力向上プログラム」という県の方針を下におろすためらしいが、「学力」について先生たちで話しあったとき、「学力」というのも2通りあって、上がおろしてくる「学力」というのは子どもを育てる学力でないし、そうではなく本当に子どもにどういう力をつけてやらねばならないのか、そこを基盤にして教育を進め、研修も進めていこうと一致した。親も負けてはいないが、現場の教師も負けてはいない。
  これまでみんなの前では黙っていた教師が、最近では学校を動かす教師になっている。逆転現象が起こっている。そうした教師は、とくに子どもへの具体的な指導について、あたふたせずにどっしり構えてやっていくから力強い。小さなことでキャンキャンと片隅で文句をいうような、日教組活動家型と違う。親や子どもたちと同じように、静かな教師がぐっと行動的になっている。子どもや親の状況をよくつかみ、親がすごくその教師の指導を信頼していることが連絡帳でわかる。そのことをまったく自慢しないし、どこにも遠慮しないでやりたいようにやっている。
 編集部 下関市の教育長に44歳の文科省の課長が降りてきたことが大話題になっている。よっぽど不祥事をやらかしたのかそれとも別の政治目的を持ってきたのかなどと話されている。就任して早速、1カ月間にわたって小・中学校統廃合の説明会に出ないといけないが、現場を知らない40代のエリート課長がどんな面をしてやるのだろうかと、学校現場の方は待ち構えている。反撃ムードがある。文科省の教育がろくでもないというのが、この10数年やってきて現場の認識になっている。
  教員評価では、S・A・B・Cとランク付けされるが、昨年の評価でSをもらった教師が、今年6年生を担任して病気になってしまった。上から子どもや父母の現実に逆らった点数主義、競争主義がおろされ、それに教師が一生懸命になっていっても、それは現実には通用せず、パンクする。親も子どもも相当意識が変わってきているのだから。現実の力の方が強くなっている。
  山口大学附属小・中学校などはかつて先端教育を進める拠点で、「個性重視」の新学力観になったときの研究会などは会場に入りきれないほどだった。しかし最近は研修に人が集まらない。教師たちは今ではそういうものは完全にバカにしている。
  うちの学校は今年から修学旅行の形が変わった。これまでは小学生なのに2日とも広島のなかをグループ行動するという「付属方式」だった。一時期それがはやった。しかしここ数年の経験から、それが子どもたちの力になっていかないとみんな気づいてきた。そして結局、今年は集団で被爆体験を聞く活動が入った。「被爆体験を聞かないといけないと思っていた」「子どもたちを“興味関心”で動かすのがいいとは思っていなかった」などと話されている。先生たちの持っていた思いが形になって、お互いの気持ちもわかってきた。またそこには親たちの平和教育に対する切なる願いがある。大事なものはなにかというのを、親たちはよく知っていると思うし、私たち教師もそれを受けとめる力を持っていると気がついた。
  学力テスト、教員評価制度、「不適格教師」などの1つ1つを断片的にとらえるのでなく、教育改革総体として、教師をバラバラにし子どもをだめにするものだと、全部つながったものとしてつかんでいる。教育に市場原理が持ちこまれ、1部の者の金もうけのためのものになっていると話になる。
  最近、政府の教育再生懇談会が「小学校3年生から英語の授業を」といっているが、「教育再生」という名前自体がみんなからバカにされて、相手にされていない。
 編集部 支配する側が自分たちの願望で教育をやろうとしても、現実からさんざんにしっぺ返しを受けているということではないか。小泉内閣以来の規制緩和、教育では「新学力観」あたりから子どもの個人主義をもう1段煽ってきたが、それが教育をメチャクチャにしたというのが共通認識になっている。

 安上りのパート教師増
  もう1つは教育予算の切り捨てで、学校現場に臨時採用や非常勤講師のパート教師がものすごく増えていることだ。山口県でも学校の教師のうち半数が臨採というところもある。
  うちの学校のある教師も、週のうち3日は4時間目まで出て、給食も食べずに帰る。日日子どものなかでいろんなことが起こるから、それに対応して話しあわなければならないが、私たちも放課後しか時間がなく、そのときにはすでに帰っていていない。職員会議で子どものことを報告するが、その教師はおらず、意見を聞きたくても聞けない状態で進行する。その教師も学校に必要だし、一緒に教育したいのにできない。
 中学校では空き時間もない部活も1番大変なクラブ、それでも文句をいうと次に雇ってもらえないかもしれないという不安でいえない。臨採なのに「土日もないんですよ」と、いう。そして市の雇いだと時給700円ぐらいで、それだけでは生活できないから別の学校とかけ持ちをしており、「こんな使い方でいいのか」とみんなのなかで話になっている。
  臨採の教師はアルバイト奨励だ。そうしないと生活できない。そういう状態におかれて、学校に来たときは教師だが、そうでないときはバイトであり、教師としての意識、教育への情熱がだんだん薄らいでいくということにも、本人のなかに相当な葛藤があるようだ。
  学校では教師集団が認識を一致させ協力して子どもに当たらないと教育はできないが、その機能を破壊している。「教師は勉強だけ教えるティーチングマシンでよい、生徒指導は警察やカウンセラーにお任せ」というのが文科省の方向だが、子どもの生活から教師を切り離せば学校は崩壊して成り立たないというのは、すでに現実に数多く立証されている。勉強を教えるだけで学校は成り立っていないのだ。
  学級が35人以上になり補助教員をつけたときに、正規の担任の教師と補助の教師とで明らかに身分が違う。そうすると同等に子どもたちの教育に当たるということが崩されていく。教師同士ではみんな平等だと思っているが、しかしその役割からすると、子どものお世話をチョコチョコっとやるような位置に追いやられている。平等でない。
 子どもの教育に携わっている者として平等に扱って欲しい。それは、子どもの側の要求であるし、親や教師の要求でもある。

 「歴史継承」を否定 「樟蔭教育」も影潜め・個人主義を謳歌
 編集部 世の中はまったく不平等な社会だけど、せめて真理真実を大事にする学校のなかだけは子どもも平等、先生も平等――そうしないと、教育というものは成り立たないのではないか。子ども同士も金のある家庭と貧乏な家庭では差別され、格差が開くが、教師のあいだでもそうなっている。それ自体が教育の崩壊だ。少なくとも学校だけは正しいことは正しいとして通るところでなければならない。それがないとなったら、子どもが荒れるのは当たり前だ。
  日ごろ「人権」を主張する教師のなかで、案外そういうことには無頓着な人が多い。自分の権利にしか関心がない。
  義務教育は国家が無償で保障しなければならないとか、地域によって教育の格差があってはいけないという教育の機会均等とか、そういう原則が相当崩されてきている。
  下関でも合併後は、旧郡部はこれまであった教育予算が相当削られ、用紙代もトイレットペーパー代も親から徴収する下関と一律にされてみんな怒っている。
  これまで町村はそれぞれマイクロバスを持っていたので、社会見学に行くのにも自由に使えていたが、市町村合併後は自由に使えない。本当に田舎は踏んだり蹴ったりだ。田舎の方が子どもを大事にしていたが、できなくなった。
  学校は地域の産業、文化のセンターだ。郡部では地域の産業の基礎は農漁業だが、これが破壊されている。農業をぶっつぶしてかまわんというやり方だ。農業のない国は歴史上にないが、日本の食料自給率は39%、食糧危機になれば日本民族は餓死しないといけない。社会全体のため、日本民族のためを顧みない、考えられないような非常識をやっている。地域の文化の切り捨てもひどい。下関は明治維新の中心地だが、史跡の案内板も整備されておらず、維新の副読本もない。
  かつて山口県では、「松陰教育」が強調されたが、今は萩でも1部で朗唱などをやるだけで、上からはまったくいわれなくなっている。しかし学校で吉田松陰の劇をやると、お年寄りがものすごく喜ぶ。
  「松陰教育」は15年ぐらい前から影を潜めた。「新学力観」あたりからではないか。
  日教組の全国教研で「維新発祥の地、山口県から来た」といったら猛反撃を食らった。日教組活動家のいわゆる「人権派」といわれる教師のなかでは「戦争体験者から学ぶ」ということに対しても、「なぜ学ばないといけないのか」「新しい教育をやっていくのだ」と猛反発があった。それと集団主義教育をやろうというと、それを「全体主義教育」ととらえて「なじまない」という。「集団主義反対」といって個人主義教育を謳歌していく。
 「自由・民主・人権」が叫ばれ始めてから、いわゆる「進歩派」は民族の歴史を継承していく教育を破壊し、アメリカ民主主義型の教育推進を強めたわけだ。そして「子どもの人権」を掲げて「子どもの自由にさせろ」といって十数年やってきて、今それが完全に破産した。
 編集部 今下関では「維新と高杉で地域活性化を」ということが大話題になっているが、高杉晋作も奇兵隊や諸隊に参加した多くの百姓も「世のため人のため、国のため」に命をかけた。それは民族の独立を守り、士農工商の封建社会を倒して近代統一国家をつくった、歴史を進歩させる革命だった。その後の戦前の軍国主義のもとでの「国のため」というのは人人を戦争に駆り立てるインチキだったが、本当の意味での「世のため、人のため」というのを、今こそ子どもに教えないといけない、自己チューではだめだ、と年寄りはみんないう。それを「進歩派」は「軍国主義だ、全体主義だ」と攻撃するという仕掛けになっている。学校も集団生活の場であり、集団のなかで子ども同士も影響しあっている。それに対して教師が集団で当たらなければ教育できるものではない。
  高杉がつくった奇兵隊の隊則にみんなが感動している。それは「田んぼを荒らすな」「牛や馬に出会ったら道端によけよ」など、農民の労働のなかで生み出されたものだ。こうしたところで一致して、人民が団結して世直しをやっていった。その人民の道徳、規律、精神を本当に子どもたちのなかに受け継がせていくことは、誇りあることだと思う。
  先日、小中高生平和の会で、米軍基地のある岩国の戦争体験者のところに学びに行ったら、子どもたちが戦前・戦後の体験を学びに来たということに非常に驚かれ、また感動されている。そして、自分の住む街がどうかだけではなく、日本全体のことを考えている。「基地が日本を守るようなもんじゃない」し、国全体のために岩国が頑張るという意識が勝ったから、衆院2区補選の勝利にもなった。

 時代意識が決定的 全国動かす教育運動へ・潰れる・市場原理
 編集部 たんに個別の経済要求だけではどうにもならないし、もっと国のあり方の根本のところを変えないといけないという力が大きくなっている。今、高杉晋作と明治維新革命がものすごく響くのはそういう基盤が広大に広がっているからだ。
 戦後のブルジョア個人主義、ブルジョア民主主義、また「個性重視」できた文科省の教育路線が破産している。「戦後民主主義」を謳歌したいわゆる「進歩派」が、今では反動の側に転じている。
 これに対置した新鮮な、人民的で発展的な世界観が教師のなかに伝わり、それに統率される組織ができたら、それは全教師を団結させうるし、父母や戦争体験世代を含めて教育に関わるすべての者を結束させうるすごい力になる。日本の教育の様相を一変させうる力は充満してきている。
  先日も「このままでは日本がつぶれる。だれがこんな日本にしたのか」「1部の経済界の利益のために他のものはメチャクチャにされている」という話になり、資本主義というのは本当に行き詰まっているというところに話が及んだ。そういう話が自然にされるし、今の社会ではダメだという意識が出ていると感じた。根本的なことを考えている。
 編集部 現実の日本社会を見たときに、生産人民のなかに次の社会を担う力がある。それは労働者だ。労働者はみんなで協力して生産物をつくっているし、協力して生活している。工場の集団労働で組織性や規律性、忍耐性が鍛えられている。次の社会とは、どこか遠くの理想にあるのではなく、現実の日本社会のなかにその力はあるし、働く親たちのなかにその力があり未来がある。
  そういうふうに見たら展望がある。教師が働く親たちのイデオロギーを代表して教育をしていく。子どもは喜ぶし、教育はスムーズに行く。親たちの生活も意識もガラッと変わっている。片隅でブツブツ文句をいう世界ではなく、そういう方向で行けば堂堂といける。
 編集部 吉田松陰の松下村塾も天下国家を勉強している。やはり今の時代、未来社会に向かって子どもの教育をどうしていくかという新鮮さがないと受け入れられない。最近の学校のように立派な建物や体育館やプールがあっても、松下村塾にはかなわない。つまり箱ではなく教育理念であり、今の時代をどう生きるかだ。
 現代をどう見るか、明治維新から140年たって現代の教育はどうか、そこの時代意識が大事だ。資本主義が滅亡に向かっている。次の新しい時代をつくる力が働く親たちのなかにある。こうした発展観・時代意識に立てば、子どもたちの心をとらえ日本を揺り動かす教育運動が起こっていくのではないか。
 司会 子どもも親も教師も意識が激変している。これに応える実践に踏み出しましょう。今日はこのへんで。

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