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福田正義2・26後の果敢な斗い
1936〜37年の『門司新報』コラム
              在の社会状況とあまりにも酷似    2007年4月2日付

 福田正義没5周年を記念した論議がすすんでいるが、今回は福田正義の青年期日中戦争前夜の『門司新報』(北九州地区で1892年に刊行された日刊紙で発行部数は2万部を超えた)に執筆したコラムを紹介する。コラムが書かれた時期は2・26事件があった1936年8月から、日中戦争に突入した翌年の1937年5月までで、福田正義が25〜26歳の青年期である。コラムはヒトラーの批判から広田内閣・ファッショ勢力の政治、経済、文化政策などの痛烈な批判、芸術、世相、教育や青年、婦人の問題など多岐にわたる。それは「いいたいことがいえない時代」「暗い谷間」といわれ、日中戦争、太平洋戦争へと突きすすんでいくなかで、当時の大衆の思いを代表した果敢なたたかいの跡を示している。それは現在が当時と酷似しており、戦争の流れに立ち向かい、平和で豊かな社会を実現するための重要な示唆を与えている。

 猿とインテリ(1936年8月11日)
 熱心な訓練者の異常な努力によって、動物仲間で1番頭脳の発達している類人猿が少しばかり人語を解するようになって、白痴の頭脳と比較されることがある。が所詮(しょせん)猿は猿で、ついにいかなる努力にもかかわらず人類の最下等の頭脳にすらおよばないのである。
 人類の社会生活が複雑化し、非自然的な世紀末的現象を呈し倫理とかモラルとかいわれるものが混沌としてくると、人類は改めて自分がいかに動物よりも優位であるかを証明して安心してみるのである。
 まず第1に確かに人類の頭脳は優秀である、人類には整然たる社会的モラルがある……と高らかに叫ぶ。
 よろしい、確かにその通りである。
 そこで、この優秀なる人類の頭脳も、それが正当に使われなければ大して賞賛するには値しない事も同様である。
 人智の限りをつくして人を殺す武器を生産したり、人類のために築きなされた偉大なる文化の書を火で焼いたり、優れた科学者、哲学者、芸術家、社会運動家を虐殺したりあるいは国外に追放し、または獄内に閉じ込めたり、あるいは非文明国に近代的な武器をもっておびただしい殺戮(りく)をあえてしたり等々々まことにもって動物以下ではないか。
 今日は言いたいことが言えない時代である。と同時にもちろんしたいことができない時代である。――胸に手をおいてそれをよく考えてみて、なおかつ今日の言いたいことが言えないこと、したいことができない時代をもって、社会的倫理に出発したものといい、人類の誇り得るモラルの現れといえるか?
 言いたいことが言えないのはインテリの悲劇である。ある過渡期においては「首は斬(き)られてもいいから頭だけは残しておいて欲しい」とインテリは叫んだ。ところが今日ではインテリの頭は砂の詰まった空骸のごときであり、何のために生きているのか判別しがたくなり果ててしまったのである。
 してみれば科学者の証明した人類の頭脳の優秀性もついに架空な抽象論でしかあり得ないのである。
 そこで心のうさの捨てどころはいよいよ氾濫(はんらん)する。
 科学者先生よ! インテリが悲嘆に暮れていますから、時々お暇の節には、人類と動物の頭脳の差を明らかにしてやって下さい。

 二人は若い(10月24日)
 夫は鋳物職工で22歳、妻は妊娠8カ月の身重で、普通なみにいうならばおめでた直前の夫婦……今年の2月ごろ結婚して、夫婦仲良く暮していたのが、子供の産着や蒲団まで敷いて、青酸カリ心中をとげたという事件がある。
 ひところの国の若者たちのあいだに風靡(ふうび)した“空は青空、2人は若い”というまことにのどかな流行歌があるが、だれが考えてもこの2人とも“ソーラはアオー空、2人は若いイ”であらねばならないはずであるが、この若い夫婦には人生はまことに憂うつであったらしい。遺書にいわく。
 「病気の上生活苦に追われて生きる道を失いかけている。生まれおちる子供にはこんな悲惨な人生をくり返させたくはない」
 つまり人生は、空が青空で2人が若いというだけでは決して幸福ではないらしいのである。結婚8カ月、2カ月後に愛の結晶を持つ……一昔前のいい方をもってすれば、幸福と希望に輝いているはずのこの夫婦は、灰色にうち続く生活の苦悩と、希望であらねばならない生まれ出づるものの上にも、恐らく続くであろう惨たんたる人生を、陰うつな絶望の目でみつめ、死をもって解決したのである。
 これは類いまれなる事件ではない。また驚くほどの悲劇でもないかも知れぬ。自殺はイヤというほどある世の中である。これくらいのことは大したことではないといえばそれまでともいえるであろう。が、この世の中にこの若い夫婦と共通の悩みをもたぬ人間は、いったい何人いるだろうか?
 死んだ男の父は“この弱虫めが”といったそうであるが、まこと弱虫であるには違いない。しかし、生きる道を失ったはずの無数の人間のなかで、それをハッキリ自覚した瞬間において生命を絶ったこの2人は、少なくとも“無言”の激しい抗議をこの社会へ投げつけた点で、今日の社会では決して“弱虫”とはいわれない。のべつ幕なしの“生き甲斐”のない世の中を、あてもなくシドロモドロで生きている“生けるムクロ”の、ああ、なんと多いことか! それでも“ソーラはアオ空、2人イは若いイ”か?……

 人間の相場(11月12日)
 何とかカンとか言うことはない、世は非常時である、というので、非常時とはどんなことか皆目見当のつかない人民どもを尻目にかけて、大蔵大臣馬場^一クンは抜く手も見せず砂糖、ビール、酒等々の税金をドンドン上げて、それでなくとも“どうして飯を食って行くべきか?”についてキュウキュウ言っている人民をアッと言わせている。
 今度は煙草である。突如として真夜中に値上げということになった。馬場^一クンの値上げの手際も大したもので忠臣蔵の討入りよりも、もっと水際立って鮮やかなものである。“寝耳に水”という諺(ことわざ)があるが、これはそれどころではない。生活に疲れ果てて眠った人民が、寝ぼけ面をして起きて見ると、定価7銭と印刷してあるバットがチャンと8銭取られるのである。天勝ハダシの曲芸で、人民の方はアアアアと烏(からす)のような声を出すだけで、開いた口が塞(ふさ)がらず「それでは物の値段が高くなるのが非常時であるのか」と思ったような呆(あき)れたような顔をしているのである。
 何にしてもこれは人民にとっては大した問題である。大蔵省の方は“値上げ”と言っただけで年間3100万円也がポンと浮くのであるが、まず1日にバットを2個吸うものは年間3円70銭ほど余計に支出するのである。その3円70銭なる額は、どう間違っても特別には入ってくる見込みはない。
 もともと息苦しい御時世である。数少ない慰めの1つとしてやめようにもやめられず、泣き泣き吸うている煙草をピョンと値上げされてはたまらない。生活が少々苦しくとも“まず一思案”も素手でやらなければならないのである。
 それにしても、かくも人民の必需品がドンドン上がっては、人民たるもの立つ瀬がない。物価の騰貴する時は収入も殖えるという経済学は、今日では、1ペンの伝説にしかすぎないのである。人間の相場は何がどうなってもビクともせず、下がっても決してついて上がりはしないのである。
 馬場^一クンよ! 色々物の相場を高くすることを考えるついでで結構ですから、人間の相場の方もお願いいたしたいものです。

 “どぶろく”の弁10月8日)
 ジャーナリズムは自ら進んで戦場に“さらば”を告げ、本当の意味の客観的な社会情勢の反映をやめて批判的特性を失ったもぬけの殻となったし政党はとうの昔にお宮の狛犬(こまいぬ)的存在となり果てた今日では、真の“民衆の意志”はどこにもはっきりした形では現れなくなっている。バラバラの1人1人の“人民の声”は、所詮なんらの力にまでは高められない。
 国策とか政綱とかに対して民衆は、直接自分の生活にピンと響いてくるまでは、それがたとえ自分の立っている足許を掘られているのであっても黙っている。電力が資本家の経営であろうと国営になろうと、財産税が新しく賦課されることになろうと、どのみち自分たちの生活に大した影響のないことを知っているので、どうでもよろしいのである。
 が、さて税金が高くなる、砂糖が高くなる、酒が上がる、煙草が上がる、葉書切手が3割3分以上も値上げされるというふうに尻に火がつくと、悠然とはしていられない。“物価が上がったら収入が殖える”という伝説は、聞いたことはあっても未だかつて見た憶(おぼ)えがない。月給は家に持って帰った瞬間にチョンになるのが普通であって、算術で行けばどういうわけでここまで食ってきたか式も計算も成り立たないという“奇蹟”を大抵のものが持っているのである。
 だから物価の値上がりは誠に不満である。といって自分たちが投票した代議士先生が一丸となって、この問題について日比谷のテーブルを叩(たた)いてくれそうにもないし、仕方がないから縄のれんの中でカウンターを叩くのである。
 ぱい一やって、言いたいことを言えばいい気持ちであるが、さて縄のれんの外に出てみれば、秋風はまことにうらさびしい。
 これではいけないとあって、“まず1服”して思案しようには煙草は高くなるし、アア気がムシャクシャするままよ“ぱい一”やろう、には酒は値上がりとある。
 泣いたり、わめいたり、自棄(やけ)を起したりできるうちはまだいいのだ、ということが、親が死んだあとのようにしみじみとわかるのである。
 エイ糞! どぶろくで行くか?

 宗教音頭(10月23日)
 類似宗教の大繁盛は、類似宗教が現世利益を説くきわめて阿片的な魅力を持っているから、ということだけでは説明はつかない。ひとのみち教団弾圧の時に本欄で指摘したように“類似宗教発生以前”があるのである。じめじめした素地を乾燥させることなしに、生えたカビをいくら刈り取ったところで、あとからあとからカビはいくらでも生えるのである。
 大本教、ひとのみち教団がはなはだよろしくない、とあって内務省はこれに断固弾圧を下したが両教60万の人民が何がゆえに迷ったのであるか。内務省は忠実に考えたことがあるか? もっとも忠実に詮索(せんさく)すれば身のボロがゾロゾロと出ることはうけあいであるから、まあ都合の悪いことはなるべくつつくまいという考え方から、弾圧だけしておけということになっているのかも知れない。
 さてそこで、60万の“迷える羊”から神様を取りあげた以上、飴か棒くらいは、代わりにやらなければ子供は泣くに違いないとあって“国教”を樹立してこれを一手引受け所にしようではないか、という声が上がりはじめた。
 仏教といいキリスト教といい、すべてその発生当初においてはその時代におけるいわゆる“類似宗教”である。ただそれらが支配階級との摩擦によって、時代的性質を喪失し、去勢された動物のように、すなわち今日における“猫の存在”となって支配階級の邪魔にはならないというにすぎないのである。だから“迷える羊”たちには気の抜けた酒ほどの魅力もない。同じ酒を飲むなら気の抜けたやつより生1本の方がいいのである。そこで新しく製造しようという“国教”とは、アルコールのピリッとくる電気ブランみたいなやつか?
 まもなくこんな唄が流行するであろう。
 国教は涙か溜息か
 心のうさの捨てどころ

 内申地獄(3月3日)
 日本は火山国であるせいか、全国に何とか地獄というのがたくさんあるが、わけてもものすごいのは“入学試験地獄”というとんでもない地獄である。“就職地獄”というのも相当深刻な地獄であるが、入学試験地獄というのは世界列強の中ではまず日本よりほかには見られぬものだけに、変態的でもあり特異中の特異のものである。
 小学校を卒業するくらいの少国民たちの魂を無残に打ちひしぐ、言って見れば人生の最初の地獄である。文明国の少国民が中等程度の学校に入学するのに、経済的な深刻な悩み以外に、かくも不快な思いをしなければならないとは、いったいどうしたことであろうか。
 そこであれこれと、すった揉(も)んだの挙句の果てに考え出したのが“内申制度”である。すなわち小学校の校長の手を通じて所定の入学志望の中等学校に、ひそかに成績表を出し、それを基準として入学者の資格を決定し従来の試験地獄を取除こうというのである。ところが早速、内申のインチキがバレた。学校の先生がいい点をつけすぎたというのである。
 そこでどんな片寄ったヒイキをしたかは知れないが、学校の先生が、本当に先生として児童への深い愛を持っているなら、進学を希望している教え子にいい点をつけてやるのは、人情であり、当り前のことであって、こんな制度を作っておきながら「不届きである」といって驚く方がよっぽどどうかしているのである。
 また一方には内申をする側の小学校長の裁量で、ある程度どうにでもなることが、良家の子女ならぬ子供たちをどんなに苦しめ、純真な魂に社会悪の最初の課題を知らしめつつあることか、今度は“内申地獄”である。
 要は入学制度の問題ではないのである。せめてアメリカのようにとまで行かなくとも、中等程度の学校くらいは志望者を全部入学せしめるだけの学校を作ったらどうか。またはソビエトのように、勉強しようと思う者には働きながらでも、いつでもできるような方法を作ったらどうか。
 軍需インフレ景気が氾濫し、オリンピックの馬鹿騒ぎにうつつを抜かすのが能ではないのである。

 日独防共協定(11月27日)
 ソ連とドイツの国交険悪の真っ只中に、日独防共協定の歴史的調印がなされた。共産主義の脅威をお互いに手を握って防衛しようというのである。
 さて今日のこの国の内外の一般的状勢を見て、果たしてドイツと手を握らねばならぬほど共産主義の脅威にさらされているであろうか? 国内的にはあの長い間の徹底的な弾圧によって、組織的なものをはじめ一切壊滅し、恐れねばならないほどのものは少しも見られない。では対外的にはどうかというと、問題は支那とソビエトであろう。支那の1部及び蒙古が赤化しつつあることは事実である。が、これは他国のことであって、明治維新の大業をなした日本を、何国といえども干渉できなかったのと同様である。現在のソ連は、大田前駐ソ大使や高岡書記官らがしばしば声明した事が嘘(うそ)でなければ日本国内に流布されている多くの噂(うわさ)のように反日的でもなければ、好戦的でもなく、むしろ親日を希望しているようである。
 ところでドイツであるが、ナチス政権のドイツは、人類文化の敵であり、民族独善主義を中心的イデオロギーとする偏狭きわまるファシズムを信奉し、侵略と掠奪(りゃくだつ)のみを熱情とする野蛮国である点において、全世界の文化人の眉(まゆ)をひそめるところである。いったい何がゆえにこのドイツと手を握らねばならないだろうか。
 防共という点においてという。しかしながら、現実においてそれほど急に迫られていないのに自らを、世界の2つの陣営の1つに積極的に投じる緊急性があるであろうか?当然の帰結として、デモクラシーの発達した2つの国……英、米および人民戦線の国フランスの3国を中心とするブロックは強化されるであろうし、日本自身はファッショの陣営に立った国として認定されるであろう。
 それにもましてドイツと手を握り、防共戦線を張り世界を刺激する必要があるであろうか!
 “人類平和のために”というが、世界中いずこを見渡してもあれほど野蛮な国はないと思われるドイツ、イタリアの掠奪好戦国と握手することが、真に人類平和に寄与し、文化に貢献することになるであろうか?
 日独防共は広田官僚内閣のファシズムへの積極的移行を果敢にも明らかにしたようである。

 二つの殺人(10月26日)
 スペイン動乱の1つの印象として、一般にスペイン人は度し難き野蛮で残忍な国民のようにいわれている。いうまでもなく1国内の、いうところの“同胞が互いに殺し合う”という理由からである。このような批評は単に一般知識の低い層だけではなく、新聞雑誌いたるところに散見しているようである。
 こういうものの理解の仕方の根底には、例外なく当節流行の“民族主義”ないし“国家主義”もっとハッキリいうならばファシズムの思想が、意識的にしろ無意識的にしろ横たわっているのである。
 機関銃や大砲や飛行機や、その他近代的武器をもって、おびただしい数の人を殺すことはいうまでもなく悲惨なことである。にもかかわらず、それが人種が違うとか、国家が違えば野蛮や残忍でなくて同一国内であれば野蛮で残忍であるというのはいったいどういうわけであるだろうか。
 欧州大戦を引合いに出すまでもなく、すべての国家間の戦争の場合、戦線に銃を取る兵士たちは、相手にたいして、いったいどういう“殺さねばならない理由”をもったであろうか? 欧州のありとあらゆる国の兵士は“御国のために”という合言葉の下に、まったく憎しみもうらみもない無数の同様の兵士と殺し合った。人間が人間を殺したのである。それらは他国人と他国人であるから野蛮や残忍ではないといえるであろうか?
 スペインの動乱は、長い間ほとんど人間並みにあつかわれなかった搾取された階級が勝利によって得た政権を、旧搾取階級がもう1度奪取して、ふたたび人民を暗い生活のなかに押しこもうとするたたかいである。すなわち前者は政府軍であり後者は革命軍である。欧州大戦の兵士の場合のごとく、敵は憎しみもうらみもない相手ではないのだ。それは国境によってへだてられた国籍の問題でもなければ人種の問題でもない。人間が人間らしい生き甲斐のある生活を奪取されるかされないかの、まさにのっぴきならぬたたかいであるのだ。
 スペイン人が野蛮であるといういい方は、他人をなぐることが野蛮でなくて、強盗を撃退することが野蛮である、というに等しいのである。これはファシズム的偏見以外の何ものでもない。

 破廉恥時代(2月2日)
 物を盗んだ泥棒がシャアシャアとしていると、ひとつ“盗人たけだけしい”という俗言があるが、最もよく当てはまるのに、わがナチヒトラー君がいる。彼がしばしば恥しげもなくやる名(?)演説くらい、世界中を笑わせるものはないが、ことにナチス革命四周年のヒトラーの大演説など、大辻司郎や柳家金五楼の比ではないのである。
 彼は言う、ナチスはほとんど鮮血に血塗らずして国民革命を成就したと。なるほど鮮血を見せなかったかも知れない。牢獄が超満員で誰が何で殺されたかわからないから、まあそれはいいとして「世人は口に民主主義と独裁主義の優劣を論議するが、ナチスこそ言葉の最善の意味の民主主義そのもの」だそうで「世界広しといえども余のごとく人民の名において語る資格を具有している人はあるまい」にいたっては、われわれも長生きすれば面白い目にあえるものだと、開いた口が塞がらないのである。ナチドイツが民主主義なら泥棒は善人であり、人殺しは救命者である。もっとも当節は少々インチキでも、言いたいことを威張って、言った方が勝つらしいから、何も不思議がることはないかも知れない。「人民の名」云々も、なるほど罪深い連中のなかで、平気で言うほどのアツカマシイ男は世界広しといえどもヒトラーをのけてはいないであろう。
 そのような意味で彼が第1人者であることは、否定する余地はない。平和に関する大熱弁など、なるほどヒトラーでなくては言えないような至言名言に満ちみちている。
 世界平和を要望するといい、無責任な国際的煽動屋を退治し、組織的に国際政局の雰囲気を毒する徒輩を撲滅することが必要であるという口の下から、ヌケ図々しくも植民地要求の熱情を大いに示しているのである。「無責任な云々」の煽動屋とはまずヨーロッパではナチスかムソリーニくらいなもので、ナチスの御本尊ヒトラーがわざわざ言ってみなくてもいいのである。自分で自分を退治し撲滅すればこの問題は簡単に解決がつくのである。
 人民を戦争にかり立てる宣伝に終始し、鉄砲や大砲を作り出すのに憂き身をやつし、人民を貧窮の飢餓線下に突落し、文句を言うものは獄に繋(つな)ぐ男が「人民の名において」語り、スペインに内乱が起れば反軍に義勇軍を送り不干渉論を一蹴して好戦的策動の限りを尽くし、人民の金を搾り上げて兵器を作る男が「平和を云々」するのである。
 もっとも物価を大暴騰させ、大増税をやり、国策として「国民生活の安定はつとに現内閣の留意している所である」としゃあしゃあという男が日本にもいるのだから、不思議ではないかも知れない。
 それにしてもこのヒトラー迷演説は芝居気たっぷりに結びに「天におわす神よ、この大業を成就するため平和を与え給え」と祈ったとあるが、当節は軍服を着用におよんだ神様が天にいるのであろう。それにしても神様もヒトラーからものを頼まれるとは、落ちぶれ果てたものである。
 まことにまことに、世界中を見るに天上といわず地上といわず、今日は破廉恥の時代である。神さま!

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