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福田正義が指導した労働運動
              座談会 下関の労働運動の経験語る      2007年5月9日付

 労働運動の再建が切望されているが、福田正義没5周年の顕彰運動の一環として、福田正義が指導した下関の労働運動経験者に集まってもらって、当時の経験と現在に受け継ぐべき教訓について語ってもらった。下関は福田正義の指導のもとで全国的に突出した労働運動がたたかわれたところである。60年安保斗争を前後する時期の、山電、中国電力、大丸の労働運動経験者に大いに語ってもらった。
 司会 福田正義没5周年の顕彰運動の一環として、福田主幹が指導したころの下関の労働運動を具体的に描きながら、現在の労働運動を再建していく教訓を明らかにしていきたい。

 出席者
 伊東 秀夫 元全百連下関大丸労組委員長
 佐々木 仁 元中国電力労働者
 広中 克己 元中国電力労働者
 吉田 晋一郎 元山電労働者

 大洋独占の地域支配と斗う 大丸斗争
 伊東 大丸では55年斗争の時期に福田さんから、大洋資本がいかに下関を支配しているか教えてもらい、大洋独占の支配とたたかう方針で、それを広範な人人に訴えていった。自分たちを支持してくれという路線ではなく、一緒にたたかうということで1週間ストライキをやった。カンパなどかなりの人から支援があった。賃上げの額は100円ぐらいだが、そのなかで労働者の団結が強化されたことが、62年に分裂問題をめぐる争議で立ち上がる土台になった。労働者がただ、物取りでたたかうなら「それならやらないほうがましだ」となる。そうではなく労働者の団結、政治的な自覚が高まったかが重要だった。
 62年は全日本百貨店労働組合連合会に加盟していたが、ケネディ・ライシャワーコースのなか、大手の三越、高島屋、大丸などの労組は右に行き、実際は西日本地連のみが残っていた状況だった。61年ごろから職制を中心に会社の費用で労研に行き出した。労研は親米反共、労資協調、政治斗争排除の路線だった。組合大会や集会で「あんたは共産党じゃないか。はっきりすべきだ」と攻撃してくる。それに対して労働者を思想信条で差別するのは正しくないと、断固はね除けて斗争になる。
 そのなかで賃上げや労働協約の問題などをたたかう。会社が労研を使って組合を分裂させ、無力にする攻撃だから、非常に高飛車になり、組合がストライキをやれば、賃金の回答も引き下ろすという挑発的な態度もとってきた。労働組合としては、労働者全体にかけられた攻撃として、地域的な共斗を広げるため山電労組、全日自労などに呼びかけた。6月に山電労働者に対する不当弾圧粉砕と生活と権利を守る市民集会を開き、3000人を結集してデモ行進をし、広範な市民にアピールしていった。
 そのなかで会社自身が中元の売り出しも控え、労働者への労研を使った切り崩しもうまくいかず、期限付きロックアウトをやる。そして次の日から労研幹部を使ってタクシーを乗り回して組合員の自宅を回り、金を使って第2組合に勧誘して回った。しかし当時530人組合員がいたが、職制中心に120人ぐらいしか結集できなかった。こちらは光明寺に集まり、第2組合は海晏寺に集結した。第2組合は組合結成後すぐ会社に申し入れて翌日から就労したが、こちらは斗争を堅持していった。これは労働者の思想信条を守り団結してたたかうことと、斗争が激化すると中にこもって切りもみするのではなく視野を広げ、同じ差別や弾圧分裂を受けている広範な労働者とともに共通敵とのたたかいを組む路線で広げて勝利した。第2組合員に対しても、憎んだり見下したりするのではなく、だまされているのだから将来的に、団結してたたかえるようにしようというのを終結大会の時に決めてたたかった。

 企業越え階級対階級の激突 山電斗争
 吉田 山電は戦後早い時期に労働組合が結成され、長周新聞が創刊された五五年の中国人遺骨送還運動を臨時大会を開いて全市民の先頭に立って決議し取り組んでいた。国際連帯でたたかっていたというのは感動的だ。戦後山電は、朝鮮人労働者が多かった。そして5人がレッドパージを受ける。そうした労働組合の伝統がある。
 それが60年安保斗争に先駆けて分裂する。役員選挙に会社が執拗に介入して、57年には小浜(前下関市議会議長)と篠原の対決で篠原が勝つ。58年にまた小浜が出て今度は副委員長になる。三田村労研は水面下で北九州や福岡で工作し59の組合分裂になる。
 59年10月には労働協約改悪で懲戒同意権の剥奪を出す。これまでは組合が強く懲戒解雇ができなかった。分裂支配するうえで山電はここをもぎ取ることを重視した。それが安保と結びついて1週間のストライキになる。分裂支配には労働者として毅然たる態度でたたかった。
 当時668人対601人で第1組合がリードしていた。そして60年斗争は全国的な安保斗争と結びつき基本的に勝利する。61年は分裂政策の第2段階に入り、福田さんが社説でも書いたが、もはや1企業でのたたかいではなく、宇部興産や日経連が入りまさに階級対階級のたたかいだった。この山電斗争は「私鉄の三池」といわれた。日米独占資本の政策として労働者を分断し労働運動をぶっ潰すものに対して、企業の枠を越えたすさまじいたたかいだった。
 会社が挑発や弾圧をかけるなかで思い切った斗争もした。会社がストのとき11台ぐらい隠して並べていたバスを、日炭高松などの支援労働者2000人とともに全部持って帰った。バスにいる第2組合の番人は「開けろ!」といっても応じないから「かかれー!」といって、窓ガラスを叩き割って進入し持って帰った。相当な意気込みをもった斗争だった。
 ストの時には仲間同士が夜通し語りあい団結していく。まさに階級斗争の学校で、労働者階級としての意識を高めていった。これは日米軍事同盟を頂点とする、全産業の「合理化」、米日独占による日本人民への新しい形の収奪ということをはっきりさせ、安保、三池の火を受け継いで、たたかいぬいた斗争だった。それは反「合理化」、権利擁護のたたかいとなって山口県下の階級的戦斗的な労働運動の高揚に大きな役割を果たした。連日2000人を超す支援労働者の共斗で山電資本を追い詰めた。
 しかし61年の11月に山口地方労働委員会による職権斡旋が出る。結局斗争の勝利を目前にして統一指導委員会が「仮処分が出たら国家権力が出てくる。これ以上たたかえば犠牲的な敗北を受ける」といい、恥ずべき裏切りをやり、山電資本の窮地を救った。ストを解くときは必ず「一切の不利益な扱いはしない」と認めさせるがそれもせず無警戒のままストを解いた。そして48人の労働者が逮捕された。敗北感はなかったが、これを乗り越えないといけないというのがあった。

 中電では青婦部で白熱論議 指導骨幹の基礎に
 広中 中電では56年に大学卒の新規採用が集団的に始まる。下関では大卒と高卒と中卒の3つの層が30人近く入る。自分が直接社会に矛盾を感じるのは個人的な契機だった。初任給が同じ仕事をしてなぜ違うのか、が寮で論議になる。そのなかで青年から組合役員を出そうとなり57年に執行部に出た。60年安保までの時期は、青婦部を作り文芸、スポーツ、レク、学習など多面的な要求を取り上げ、豊富に活動した時期だ。
 60安保斗争の時地区労連からは安保共斗の動員指令がかかるが中電労本部からは「出るな」という指示が下りてくる。このなかで労働者がなぜ安保斗争をたたかうか論議して、たたかうべきだという結論が勝って、中電労の支部として統一行動に参加する。そのなかで安保斗争の統一行動に参加していった。青婦部では政治的な諸課題をたたかうときは必ず論議し鍛えられていった。それが反修決起の時の斗争委員会や指導骨幹を作る基本勢力として継承させられていった。

 分裂攻撃を突き破る 60年安保斗争後・下から運動を組織
 司会 60年安保斗争以後はどうだったか。
 伊東 大丸では労研をつかって内部かく乱するとともに、右翼社民の連中に手をつけていく。組合分裂のとき動揺したが残っていた部分が「緑会」というものをつくり「会社と交渉するから妥結権をくれ」といい出す。しかしこれは大丸労組として断固拒否する。そういうものを排除して斗争していった。そのなかで彼らの正体も明らかになっていった。
 広中 60年安保斗争後、中電では青年労働者の活動拠点であった寮を規制していった。下関では安保斗争で結集していた部分に配置転換がはじまる。そのとき「政治は外から持ち込まないといけない」そのための組織がいる、労働組合を階級的に強化するため、何事も労働組合をつうじてではなく、「電気労働者を守る会」を作り、それが独自に職場で行動を起こし、労働者を教育していった。
 63年に、「民主化同志会」という右翼幹部の組織が暴露され、組合の内部斗争が激化していく。配置転換で出された者の代わりに組合幹部から職制になったものが入ってくる。これがグループを作り下関支部の奪権を狙う。その間たえたのは青年の文化運動、歌声、演劇、スポーツ、レクなどで作られた力が大きかった。
 佐々木 僕は青婦部で安保問題、賃金問題の学習にも参加していくが、なによりも演劇やスポーツが盛んで楽しく「こういう仲間と一緒なんだ」という意識が強く支えられた。下関保線区に中司藤市(当時、下関保線区長)が派遣されるが、当時はアメとむちで「会社から銭を出すから免許証とれ」といったり、中司が寮に泊り込みでマージャンをしにくるなど必死で青年労働者に攻撃をかけていた。
 吉田 どこもスポーツや文化は活発だった。私鉄でも東京で毎年、全国から参加して歌声の催しが開かれたり、野球なども盛んだった。
 分裂攻撃は縁故関係などすべてを使って会社が工作する。山電は保証人を使って「アカ」だけではなく社会的にとんでもないことをしているというから、家に帰るたび親にワーワーいわれる状況だった。
 分裂時は参谷新一という元共産党員が黒幕となって第2組合の委員長となり、2年目にさらに崩すとなる。当時、組合員数は互角だったが、3分の2以上の組合員数をとれば法的にも「その組合と話をすれば、すべて解決できる」というので必死だった。そこで第3組合の委員長として小浜が出てくる。「わしらは中間だ。第1組合のように斗争ばかりではいけないが、第2組合のように御用組合もいけない」といって第1組合の良心層を崩し、その役割を果たすとすぐ第2組合の委員長になる。その経験を生かして市議会も牛耳ったのだろうが、そういう代物だった。
 61年斗争後は、裏切りを乗り越え、伝統を受け継ぐため、決意を固め、犠牲を恐れず、困難を克服していく方向が論じられるが、しだいに宮本修正主義裏切り潮流が頭をもたげていく。そして労働者の根本的利益を代表するのか、労資協調でいくのか2つの路線が激烈にたたかわれた。そのなかで修正主義が組合主義を多分にもった形で具体的になった。
 日本の独占資本がアメリカの要求に対して、スクラップ・アンド・ビルドという石炭から石油へのエネルギー転換を出してくるが、それを炭労が受け入れ政策転換するなかで、全産業に「合理化」の計画が波及し、私鉄では交通政策を出してくる。儲からない鉄道や電車を切りバス部門を中心にする。大手私鉄を中心にする企業再編だが、労働者には首切り、配転、労働強化、低賃金、運賃値上げが出される。私鉄総連がその交通政策を押し付けてきた。これが大論議になり、資本家の立場か労働者の立場かが鋭く問われた。そのとき宮本修正主義は「交通政策は反対だ。しかし労働組合の決定には従う」とかれら流のやり方でたたかわずして労働者をだます役割を果たした。これが65年だ。

 労働者の利益守る 誇り胸に堂堂と斗争・組合分裂乗越え
 68年6月には私鉄総連本部と私鉄中国本部が山電の修正主義と社民一派を使い、斗争路線の変更を求めて「山電支部の実情調査に伴う問題点と指導」という是正勧告を出し大量のオルグを投入した。この「是正勧告」は山電からわれわれ左派勢力を一掃することが狙いだった。それは良心的な労働者が第1組合に嫌気をさし、第2組合に追いやる結果になった。「労働者はたたかうことを要求して第一組合を支持している。これはなんの目的か。たたかわないための是正勧告ではないか」と反修斗争と結びつき大論争になった。
 この路線斗争を絶対に勝利するためにやった第1が彦島職場での掲示板斗争、第2が特牛営業所のポッケン(身体検査)反対斗争、第3が毛沢東バッチ斗争だった。当時よくいわれた「1寸の土地も必ず争う」というのはこの階級斗争のなかで生み出された。
 掲示板斗争は第2組合もふくめ多くの労働者が支持した。これで第2組合から第1組合に行く労働者が増えた。会社はびっくりして夜中に壁新聞をはぐ。それで、「誰がはいだか」となり、「それなら拡大する」と、ベニヤ板1枚分のものを2枚分にしてはり、その争奪となる。毎日が斗争だった。それが波及し休憩室の私物をいれるボックスにもステッカーをはり、第2組合から「俺もはる」というのも出てきた。やはり姿勢を見ている。ごそごそやるのでなく敢然と堂堂とやれば労働者はこたえる。「不法掲示だ」との懲戒処分は第2組合にもかかる。やればやるほど認識は深まった。
 特牛の身体検査拒否は、当時、神戸で女子労働者が身体検査で自殺し、人権じゅうりんは全国共通だった。それを労働者は皆知っており、労働者が胸を張ってやる斗争だった。
 バッチ斗争は、バッチをつけていた電車車掌のM君が「つけていいのは襟章だけだ。のけろ」といわれるたびにバッチを大きくし、最後は直径8センチぐらいのをつけ乗客も目を見張った。会社が呼びつけるが「あんたたちはハリコの虎じゃ」といいまくった。20日ぐらい乗務停止で教習所に軟禁され、労務政策を勉強させるため西鉄にも連れて行かれるが「わかったか」といわれても「ぜんぜんわからん」と意気揚揚と帰ってくる。それだけ根性があった。この行動は多くの労働者を励ました。
 そして69年の佐藤訪米阻止斗争、その次は、電車・バス全面撤去阻止斗争、バスワンマンカーの導入など連続連打だ。佐藤訪米阻止斗争では、始発から7時までのストライキを決めるが、いつも「ネトライキ」といわれ実力行使はしない。しかしそれを利用して地域の労働者が彦島職場に結集してばっさり止めた。山電はびっくりしたがバスは7時まで完全に止まった。第2組合員も「1人立っていてくれたら出ないから」と協力する。会社が「1人しかいないじゃないか。出ろ」というが「やかましい。それなら第1組合に行くぞ」といって終わりだ。大きな信頼関係があった。それで70年代に入り2人に懲戒解雇、10人に職場びん乱で懲戒処分が出る。これにあわせて組合が統制処分をかける。
 そして70年に労働協約の改悪が出される。このたたかいは歴史に残るものだ。改悪は政治活動や組合活動をほぼできなくする代物だった。
 それで必死になって夜通し工作をやった。今度は3分の2以上の第二組合の決議があれば取れる。しかし第2組合の臨時大会で反対43対賛成35でひっくりかえす。本当に路線斗争をやってきた甲斐があったと思った。否決された第2組合執行部は、「これをもって辞任だ」というが「やめてしまえ!」と大混乱になる。この原稿を斗争委員会が書いてその日じゅうにまくと、第1組合の社民、修正主義が「ワンマン手当ての増額やガイドのかばんをつける要求をないがしろにし労働協約だけ否決したのは圧倒的な勝利ではない」とケチをつけた。
 しかし第2組合の山電労働者は自らを変えて斗争に勝利した。分裂時に第1組合を目のかたきにしていたおばさんが涙流しながら電話してきてこちらも涙が出た。実践を通して労働者が自分自身を変え、われわれもどう敵とたたかうべきか教えられた。たたかうなかで自分のなかで階級的な認識が培われていく。階級斗争として認識を位置づけてやれば首をおそれるとかまったくない。たくさん苦労もし家族も援助してくれたが、これは本人が、確固としておれば解決できる。やはり階級斗争として階級的な立場にしっかり立つ。これが1番大切だった。
 広中 中電斗争で激烈な斗争をささえた力も、労働者としてどうかというかんかんがくがくの論議だった。年末になるとダンスパーティをやるが「労働者の組合がなにごとか」となり、互いの斗争を劇や歌にして交流する文化の集いをやるなど、いつも論議していた。
 当時、情勢は高度成長にむけ「合理化」をやりまくる時期だ。自動化、機械化、それにともなう事業所の統廃合がおもなものだ。労資の矛盾は、職場では職制対職員という関係のなかで現れてくる。ここで出る問題を毎年1回アンケートをとる職場点検斗争をやっていた。これを1年中やる通年斗争にした。斗争形態はそれを職場より、団体交渉や窓口交渉でやる限界性があった。当時は軍国主義復活反対、日中国交回復があるが、そういう風に職場点検斗争をやった。67年に組合の権力はとられるが、青婦部と守る会を中心に職場で直接解決しろという斗争をあちこちで起こす。そのなかで、組合に依存して改良的な要求を実現するだけではだめだ、それならどんな運動をつくるのか、という意識が高まっていった。

 実践で強まる階級的な誇り 大丸・レジ専任反対
 伊東 大丸の場合は第1組合がかなり少数になった。毎年4、50人結婚などで退職する。そして新規採用するが、試用期間が3カ月で、会社が缶詰で新入社員教育をし、みな第2組合に入れる。第2組合に入らないと、クビかもしれない状況だった。大洋漁業が不景気になり、大丸は「合理化」をやるが、あの時、新入社員への座禅教育や自衛隊への短期入隊など職場を軍国主義的に支配するなかレジ専任制が出る。1つの販売職場のなかで交代でしていた仕事を専任にして責任をもたせ、個人責任にするものだ。
 これは第1組合だけの問題ではない。第2組合でレジ専任をさせられている人たちと一緒に、職場支配に反対する斗争として2人の労働者が立ち上がった。会社は朝礼で「絶対に話をしてはいけない」と他の労働者にいう。職場でも孤立した形のなかだが敢然とたたかう。その婦人はあとで「苦しくても大丸の職場をやめるという考えは起こさなかった。仲間がいるからだ」、といった。婦人労働者が「表立っていえんけどがんばってね」と激励するなかでがんばった。大丸だけでなく山電でも中電でも多くの人が立ち上がっている。そこと連帯してたたかった。解雇処分が出ると少数組合だが、大丸入口で座り込み斗争をやり広範な人にアピールした。応援の人が来て百貨店の中に入るが、お客さんだから会社は阻止できなかった。
 職場でも第2組合の役員が婦人に蔑視したことをいうと、抗議し職場内でもたたかった。職場で要求を聞き、それを吸い上げて団体交渉や労使協議会で解決していくという組合のパターンではない。2人に解雇処分が出るがみなが処分を覚悟のうえで斗争した。
 そして最終的に解雇を撤回して復職を認めざるを得ない状況に追い込んだ。だから少数でも敢然と団結してたたかえば、勝利できる。2人が復職したときは、職場の多くの労働者が「がんばったね」と支持していた。だから本人も「絶対苦しいことがあっても大丸が好きです」という。こういう思想でたたかえば階級的な自覚が高まって団結が強まるし、第2組合も、なにもいえない。組合主義的な考え方や物取りの考えではなく、敢然と資本と正面からたたかってこれを打ち破る労働者の階級的な誇り、イデオロギーというものが理屈ではなく、生きた実践を通じて強まった。
 佐々木 気分感情という問題が大事だ。理屈じゃない。当時の中電でもその気分感情が青年をひきつける。生産点を基礎にして青年が社会進歩の側へ視野を広げて革命的階級的労働運動でいくというのが気分感情で共有していった。そのなかで歌声、演劇など多面的になっていた。

 団結の強化が喜び 修正主義と鮮明な違い
 編集部 さまざまな要求を掲げてたたかうが、最大の目的が労働者の団結を強めることであり、労働者の階級的、政治的意識が高まることを第一義におくという路線が鮮明だと思う。労働者の勝利は、なにを獲得したかではなく、いかに労働者階級の誇りを自覚し団結が強まったかだ。それが大多数の労働者の1番の喜びになるということだと思う。
 全過程を通じて、路線斗争が大変な激しさだ。最初は職制を使った分裂破壊攻撃から、社民勢力が登場し、「日共」修正主義勢力が、登場して労働運動に襲いかかる。親米反共、労資協調、政治斗争排除、企業主義、経済主義、組合主義の流れだ。それが現在の壊滅状態を作っている。それらの潮流との大斗争をつうじて、階級的な労働運動が新鮮な魅力を持ってたたかわれてきたということだ。それは現在の労働者にすごい展望を与える内容だと思う。
 伊東 政治的な自覚を高めるというのは69年のときもそうだが、今は60年安保の安保共斗のように上から指示を出せば下から立ち上がる状況はない。しかし矛盾は激化している。そのなかで斗争委員会が先頭に立ち下から、たたかいを起こし、理屈でなく、職場生産点を基礎にたたかうことで、生きた思想、階級的なイデオロギーを身につけていく、これが継承されていく状況が強まっている。
 吉田 たたかいのなかで団結が喜びになるし、それが、なによりも勇気づけられる。私は60年、61年の斗争で階級的なものを肌身で感じたところから出発した。59年の1カ月前に和気あいあいで別府にバス一台で行ったのが、1カ月後にはけんけんごうごうだ。はじめはいがみあい、しだいに第2組合員は裏切り者だとレッテルを貼ってしまうが、その後運動が停滞し、執行部が是正勧告を出し第1組合をたたかわせなくするとなったとき、「労働者として、第1でも第2でも枠を超えて団結せんといけん」という斗争路線が出て励まされた。ここに違いがある。組合主義、経済主義では資本とはたたかえない。
 今、連合の組織率が2割切っているが、階級としてものを見てはっきりさせていくと労働者はわかる。修正主義が、いうだけでなにもしないこと、アメリカが悪いというのはみな知っている。このときに階級的立場を鮮明にすることが問われる。
 編集部 上関でも推進派、反対派というが、第1組合、第2組合と同じだ。それで果てしもなく労働者同士をケンカさせる。それは下関の労働運動で経験ずみで、中電も知っていることだ。
 広中 反修分岐が僕たちの階級的な立場をスカッとさせた。福田さんは「修正主義が間違っているといったから自分のなかにある修正主義が飛んで逃げるものではない。ここと自分のなかで徹底的にたたかえ」と言われた。だから通年化した職場点検斗争で、「1寸の土地も争う、敢然とたたかい敢然と勝利する」をスローガンに、それまでの私的要求にもとづく改良主義的、組合主義的なところを思想改造し、自分ではなく広範な人民の利益を代表し人民を解放する、つまり労働者の社会・社会主義をめざす運動として職場の労働運動をやると整頓したのが重要だ。
 そして「生産点における敵と味方の矛盾関係を分析して、長期的な戦略構想をもて」といわれた。だから中司問題を取り上げたのも、民主化同志会の中心活動家が中司であり、この矛盾の焦点を打ち砕くことで、「合理化」のために強行される軍国主義的な職場支配を粉砕する位置づけだ。ただ職場では資本や警察は出てくるが、アメリカ帝国主義は出てこない。長周に頼み戦後のアメリカ主導の電力再編の過程を分析してもらい、路線上の確信となった。
 実践せず頭で考えても解決しない。だから67年の暮れに中司を暴露し、斗争宣言を発する。すると68年の2月に懲戒処分の攻撃がかかる。それに反対する斗争を起こすとまた処分だ。そのつど思想上の問題を基礎におきつつ政策上の問題を1つ1つ前進させた。当時は処分を受けて組合が面倒を見ない場合は「○○君を救う会」という形だった。これが、「弾圧粉砕斗争委員会」になる。当時福田さんは指導骨幹をつくれといわれていた。その斗争の過程で「個人的なことを基礎にした改良主義ではだめだ。新しいものをつくる」という意気込みがあった。職場での斗争形態もいろんなことをやって戦術を定めていった。
 編集部 大丸のたたかいで、企業内の問題でとどめるのではなく、大洋独占の支配とたたかう、つまり大洋系列全体の労働者、地域の市民と共通の利益で団結する。そして安保斗争、佐藤訪米阻止斗争など、全人民的な団結をめざした統一戦線の立場で、政治斗争を正面からたたかっていた。60年代後半にやられた岩国基地工作の経験が重要だったといわれてきた。アメリカが基地を中心にして日本社会を支配していることが鮮明になる。
 佐々木 あの経験は強烈だった。本当に思い出す。
 編集部 山電の佐藤訪米阻止の前段でそういうことがやられている。
 吉田 あの時も第2組合員がきてくれる。するとデモでガードレールに押し付けられ、終わった瞬間には「もう2度と来ん」というが、それが1つの経験で「俺はやった」という勝利感があとから出る。実践で認識が変わる。やったこともないのがおおボラをふくのでなく、率直な気持ちを出すことで、なぜその行動が必要かとなり、安保が日米軍事同盟、反共の砦だとつかみこれをぶち破らないといけないとなる。
 長府のお寺で職場共同斗争委員会の先進層を70人集めて、学習をしていた。各職場でもグループ会議などをやるが、そこでわれわれが支配の構図などを政治的に原則的な態度でだせるかがためされる。そこで気心が通じて認識が変わっていく。日ごろの活動で大衆は足元を見ているから、修正主義など問題にしていない。第2組合員にたいして「ニー公」などと言わせない。逆に「修太郎がえらそうなことをいうな」という。

 全人民的な政治斗争を斗う 山電・佐藤訪米阻止
 編集部 斗争委員会が労働運動の重要な組織形態だった。労働組合はだいたい多数決で真ん中のあたりで動いていく。全体を前にだすには、先進分子の指導骨幹の役割がいる。それが斗争委員会だ。これが大衆と結びついて、大衆の世論、敵の攻撃などを不断に集中し、その先頭に立ってたたかっていく。新しい運動を切り開き組合全体をも動かす。そうすれば運動が起こせるし、勝利していけるということだった。
 吉田 斗争委員会が果たした役割は大きい。そのもとで、先進分子がお寺に70人集まったら、この力がそれ以外を組織し、佐藤訪米阻止をやりまくる。それで山電資本は「左派を除名しろ」といわざるえなくなる。
 伊東 組合主義的なところで、役員が会社と交渉して物事を進めて解決していくという右翼社民がいまも組合員を抑圧しているなかで、斗争委員会の果たす役割ははっきりさせないといけない。しかしこれは労働組合無用論ではない。
 佐々木 斗争委員会が絶対に負けなかった。感銘を受けたのは3カ月処分を受けて、どんな困難があっても「労働者の社会を目指す労働運動だ」と展望をもって手本を示してくれた。それが青年労働者のなかで確信になる。
 吉田 日常活動でも諸要求をみんなもっている。たとえば仮眠所に枕を置けと何度いっても会社はつくらない。それなら斗争委員会でつくろうと枕をつくり「安保粉砕」と書いて転がしていた。すると会社は「撤去しろ」という。「この枕がどれだけ利用されているか知っとるか。わしらが身銭をきってつくったのを、とるならとってみろ」とやり、手出しできない。もう1つは仙崎行きと宇部線のバスに、安保粉砕や職場の諸要求のステッカーを窓をのぞいてべったりはった。これも宇部に行ったのは第1組合、仙崎に行ったのは第2組合だが、1枚もはがずに往復した。宇部の方は教習所のジープが追いかけるが、宇部の町を40分ぐらい走り回って止まらないからとうとうはげなかった。帰るとみんなが大喜びだ。もう1台の方は「はいだらわしは帰ってすぐ第1組合の方にいくからね」というからはげなかった。労働者の利益になることを頭のなかに叩き込んでやるから恐ろしいものはない。斗争委員会のものは皆そうだった。やはりあの方向で行かないといけない。
 いまフリーターとかパートとか食うや食わずで生活しないといけないものが山ほどいる。それは原爆展キャラバンの座談会でも「なんで労働運動はこうなっているのか」「度胸のある人はいないのか」といわれていたが、それはこちら側が問われている。

 階級的労働運動の基盤醸成 支配の権威は崩壊へ
 編集部 「みんな意識は充満しているのに組織がない」ともいっていた。下関でたたかわれた階級的な労働運動の経験が新鮮に受け入れられる基盤が大きくなっていると思う。安保斗争以後の高度成長・所得倍増政策の時期の反動的な潮流は今から見たらすごかったと思う。「資本主義の永遠の繁栄」という空気はすごかった。そのなかで屈服潮流が襲いかかってきた。しかし今は、そんな力は崩壊している。支配の権威は崩壊だ。独占資本は労働者をまともに食わせていけないし、養えない。労働力という生産力の破壊であるし、まさに「鉄鎖以外に失うものがない。得るのは全世界」という、プロレタリアだ。労働者を代表する政治勢力が形成されていったら、社会を変えるすごい力になる所へきている。
 伊東 敵の攻撃が強まって階級矛盾が激化すれば、ある面労働者の反抗が強まるのは法則だ。そこをこちらが本当に見えるかどうかだ。いろいろな形で正しくない行動もあるかもしれないが、矛盾関係からみれば深まる。修正主義が役にたたないことがわかるし、労働組合で加盟率が下がるのも今の指導への不満だ。それをどう結集していくかが要だ。
 吉田 当時の経験は生きている。ここでひと踏ん張りし、教訓を生かせばどっと行く可能性がある。労働運動は必ず噴いてくる。
 伊東 こちらの側が一発主義的なもので見るのでなく、長期的にそうとう粘り強くやっていく。大衆を信頼していくというのが分かれ目だ。
(つづく)

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