トップページへ戻る

街頭原爆展が全国で大反響
全国キャラバン隊通信
             平和・独立の要求が噴き出す   2004年4月1日付

    第一班 四日市・浜松・豊橋などで展示 空襲の経験を想起
 原爆展全国キャラバン隊第1班は3月24日から28日にかけて岐阜、四日市(三重県)、浜松(静岡県)、豊橋(愛知県)の各市で街頭原爆展を展開し、第2班は27、28日に大分、福岡両市で原爆展を展開した。広島元安川河畔でも28日に原爆展が開かれた。全国で原爆展が展開され、各地区の空襲経験や現在の日本を重ねつつ激しい共感を呼んでいる。
 原爆展全国キャラバン隊第1班は、24日名鉄・新岐阜駅前の金宝町通りで街頭原爆展を開催。25日には三重県に入り、翌26日と連続して近鉄・四日市駅前の一番街商店街でおこなった。27日には、航空自衛隊浜松基地がある静岡県浜松市の遠鉄・新浜松駅前で、28日には愛知県豊橋市のJR豊橋駅前で街頭原爆展を開催した。広島・長崎の惨状が、市民の深刻な戦争体験をありありと想起させ、衝撃的に受けとめられていった。
 三重県四日市市での原爆展。険しい表情でパネルを見た80代の男性は「忘れもしない。昭和20年6月18日、未明から明け方にかけて市役所を中心に2キロ四方が丸焼けにされた。一晩で800人をこえる市民が殺された。わたしの家も寝ているときに焼夷弾の直撃を受け、父とわたしは寝巻きのまま逃げ出した。いきなり天井が落ちて火の海になったので、母と弟は逃げ遅れ、父といっしょに火の中へ飛びこんで救い出したが、2人とも全身大火傷で助からなかった。葬式もできず、火葬場は棺おけの山で、遺骨をとりに行ってもだれの骨だかわからなかった。その1週間後には、わたしに召集令状がきた。あんなことは、もうたくさんだ。戦争は絶対にいけない。アメリカに謝罪を要求するのが筋だ」と広島アピール署名にペンを走らせた。
 静岡県浜松市でも空襲の体験と重ねて戦争体験世代から思いが語られた。80代の老人は「浜松空襲のとき、あそこにもここにも死んだ人がごろごろしていた。この辺りは鉄道用地で線路だったが、空襲でボコボコになったところだ。アメリカの艦隊が遠州灘の10里沖まで来て、海のうえから市内にむけて猛烈に艦砲射撃をやりやがった。砂浜には魚雷の不発弾が乗りあげていたのを見た。アメリカは家のないところまで、雨みたいに爆弾や焼夷弾を落として無差別に市民を殺した。イラクが“大量破壊兵器を持っている”と攻めてゆくのであれば、自分が日本で原爆を使ったことをまず謝罪するべきだ。大量破壊兵器をなくせというなら、まず自分がなくすべきだろう。あまりにも矛盾している」と憤りをこめた。年寄りからは、原爆投下の犯罪を糾弾する怒りの声が噴き出すように語りあわれた。
 また、春休み中の小・中学生が朝から夕方までひっきりなしに大挙して訪れ「はじめて見た!」「これはほんとうに日本であったことなんですか?」「ひどすぎる!」などといいながら、みんな真剣に参観した。見終わると「広島アピール」の署名用紙をとり囲み、目を丸くしてキャラバン隊員に質問を浴びせ、握りしめていた小銭をつぎつぎと募金箱に入れて署名した。
 大学生の2人連れは「絶対に忘れてはいけないことだ」「アメリカは原爆を投下して日本を救ったというが、実際は世界支配を追求しているではないか。いまもイラクで同じことをいっている。原爆のことを勉強したい」と語りあっていた。新採で教師になったばかりの青年は「子どもたちにぜひ原爆のことを教えたい」と熱く語ってパネル集を購入し、カンパを寄せた。
 浜松市では、ヤマハやスズキなどの系列の自動車工場で働いている日系ブラジル人やペルー人労働者やその家族も数多く参観してパネル集を買い求め「アメリカのいいなりになって自衛隊をイラクへ派遣したのはまちがいだ。ともにがんばろう」と積極的にカンパを寄せた。
 原爆展全国キャラバン隊第1班は、3月9日から28日までの第2波行動を終えて山口県へもどってきた。今回は愛知県、静岡県、岐阜県、三重県の駅前や商店街で街頭原爆展を開催してきた。『原爆と峠三吉の詩』パネル冊子はのべ293冊、峠三吉詩集は95冊が買い求められた。キャラバン隊へのカンパ額は19万8271円にのぼった。4月の初旬にふたたび出発し、関東圏域の都市部を中心に原爆展を開催していく予定。

      第2班 大分市や福岡市で街頭展 米軍演習重ね憤り
 全国原爆展キャラバン隊(長周新聞社後援)第2班は3月27日に大分県大分市で、28日には福岡市中央区で原爆展をおこなった。
 大分市では、駅前からつうじるセントポルタ商店街で原爆展がおこなわれた。大分県は、今年に入ってイラク戦争と連動して日出生台での米軍実弾砲撃演習がおこなわれた。市中心部でもっとも人どおりの多い商店街にパネルが展示されると、空襲や戦争を体験してきた年配者たちが真先に見はじめた。大分空襲によって「商店街があるここもすべて焼け野原になった。駅から海が見えたんですよ」と口口に語り、ときには涙で言葉にならない人もいた。
 ある男性は、終戦の年、戸次空港にゼロ戦に乗る人人が集まり兵隊が周辺の民家へ分宿していたこと、そのときの軍の情報として新型爆弾(原爆)が落ちたことを子どもながらに知ったといった。パネルをはじめて見て「新型爆弾」がこのようなひどい状況だったことに衝撃を受け、戦後2年して大分駅におり立ったときの海まで見渡せた焼け野原のひどい惨状とダブらせながら語った。
 また元海軍にいたという男性は、「思い出したら涙が出る」と弟がフィリピンで戦死し、兄は日中戦争で足の大腿部を負傷し切断したこと、「こういうことをやってもらいありがたい」とカンパを寄せた。 戦時中の苦悩もさることながら、戦後も人にいえないほどの苦しみを味わい生きぬいてきたこと、食べるものもなかったことなど、「いまの若い人にいってもわからないだろうけど……」といいつつ語っていく人も多かった。
 一方若い世代のなかで、パネルを横目に素どおりする姿がめだった。「もう平和教育でやっているから見たくない」「知っている」など従来の「平和教育」への嫌悪感、社会党の大裏切りへの反発としてあらわれていた。
 ある若い自衛隊員は、つかの間の休日を利用して大分へ出てきていた。前日まで日出生台で米軍演習の後方支援。「ぼくたちは米軍演習のためだけに湯布院からかり出され炊事などの後方支援ばかりで、米軍から犬あつかいです」と抑えきれぬ憤りを口にした。「同僚も同じ思いを持っていると思う」とパネル冊子を求めていった。
 7カ月の子どもを自転車に乗せパネルを見て回った30代看護師の母親は、ある総合病院で医師や看護婦にたいして「戦争になり行けといわれれば、絶対に行かないといけない。拒否したら罰則や罰金になるから覚えていてくれ」という説明があり、イラク戦争は人ごとではないと語った。「戦争になれば傷病兵を受け入れるために一般の患者さんが真先に追い出されるような体制になってきている」こと、被爆者の叔父との話で「言論を統制するようになればすぐに戦争になる」といっていたことにもふれ、「娘をこういう目にあわせたくない、原爆展を多くの人に見てもらいたい」と切実な思いを語った。

 真剣に見ていく青年達福岡・警固公園
 28日に原爆展がおこなわれた福岡市中央区天神の警固公園は、天神バスセンターや三越、大丸などが立ち並ぶ中心地で、幅広い世代が行き来するなかで10代、20代の青年が真剣に見ていく姿がめだった。「いまが満州事変のときの状況とそっくり」「アメリカは憎たらしい」と、原爆を投下し、いまだに人殺しをつづけるアメリカとそれに従う日本政府への怒りが語られ、原爆展全国キャラバン隊に強い期待が寄せられた。
 20代の男女2人は、時間をかけて原爆展を見たあと「アメリカに謝罪させる署名なら喜んでやります」といって署名した。「ブッシュはただ自分の名誉のために戦争という言葉をつかって、人を殺しているだけだと思う。日本はまた絶対戦争をしますよ。原爆についてなど知らない世代がふえているから…。だからどんどん原爆展をやってほしい」と期待をこめた。別の20代の男性は、「ぼくは小泉が大嫌いです。自分の主張がまったくない。日本がどんどんアメリカ式になって日本人の魂が奪われている」と語った。
 自転車を止めて参観した21歳の男子青年は、「ひどすぎます。二度とこんなことをしてはいけない」と語った。「いま自衛隊がイラクに行っているけど、日本がアメリカ式に染まっていくのがこわい。自衛隊が行く必要はないと思う。アメリカは石油がほしいから戦争をしたことははっきりしている」と語り、若い自分たちがこういう問題を考えていかないといけないと協力者になった。薄暗い夕方になると若者がふえはじめ「原爆投下は必要なかった」というパネルを見ていた3人の青年が「こんなの許せない」などと語りあう姿も見られた。また別の20代後半の婦人は原爆展を見終わってから「これだけの犠牲があるのに、なんでアメリカについていかないといけないんですか。許せない」「なぜ日本の主張がないのか、被爆者の人たちはいまの日本の状態をどのように考えているのだろうか」と憤る思いを語っていった。
 30代の子ども連れの母親は、わが子がテレビを見て「ぼくが戦争に行っても生きて帰ってくるからね」といったことに近づく戦争への危惧(ぐ)と不安を胸に抱きながら、息子に読ませようとパネル冊子を購入した。
 30代後半の父親は、自分の祖父が16歳の少年兵だったとき、飛行機に乗った米兵の顔が見えるほど低空で機銃掃射をやられ、友人が殺された経験を聞かされてきたことを語り、「アメリカが憎たらしい。日本はなんであとについていかないといけないのか」と語っていった。また「佐世保で原爆展を見た」「昨年広島で見ました」という人もおり原爆展の広がりを感じさせた。
 この2日間で約4万円のカンパが寄せられ期待の大きさを示した。

          広島・元安川河畔 全国から多数参観
 広島市平和公園内の元安川河畔で毎週おこなわれている街頭原爆展(下関原爆展事務局主催)が3月28日もおこなわれた。春休みとなり家族連れで全国から広島に訪れている人も多かった。
 「アメリカはイラクで同じことをしている」「原爆というのがこんなにひどいものだとは思いもしなかった」と全国からはじめて広島を訪れた人人は口口に衝撃の思いを語り期待をこめてカンパを寄せていった。学校の教師も「子どもたちに見せたいから」とパネル冊子を買っていった。
 石川県から来ていた高校教師は、「アウシュビッツのことは勉強してきたが、広島に来るのははじめてだった。日本ではほんとうに知らされていないことがよくわかる。二度とくり返してはいけないという気持ちがひしひしと伝わってきた。日本もとうとう踏み出しました。もっと勉強させてください」とパネル冊子を求めていった。
 福岡県から3世代で来ていた家族で30代の父親は、「ひどい、こんなこと二度とあったらいけない」と子どもに語りかけた。そして「感覚としてアメリカのごう慢さはぼくらにもハッキリとわかる。パレスチナ問題にしてもなぜあのまんなかにイスラエルをつくったのか、ここまできたら問題はアメリカだ。アメリカということはそれに追随する日本の問題に突きあたらざるをえない。イラクへの自衛隊派遣もそのあらわれだと思う」と指摘した。さらに「アメリカは調子に乗りすぎだ。なんでも好き放題で、イラク戦争も石油ほしさでしかない。アメリカと日本の問題を考えないといけない。戦争を知らないものは、原爆展によって感じることからはじまる。ほんとうにいい機会だと思う」とパネル冊子や詩集を求め、カンパしていった。
 青森から訪れていた知識人の50代男性は、日本が広島、長崎のことを避け、戦後はアメリカの傘のなかにつかりすぎていたこと、アメリカへの憤りで唇をふるわせ「戦前は大本営によって戦争に一般の国民が動員されていったが、戦後は大本営ではなくペンタゴンの戦略にそってすべて日本の国が支配されてきた。食糧自給は40%で一国が成り立っていける状況ではない、国をどうしていくのか、そのための自主的なものが必要で、若い人がそのために役割をはたさなければいけないときだ」といった。
 さらにアメリカが歴史的に侵略によって成り立ってきたこと、「アメリカという国が歴史的になにをしてきたのかハッキリさせないといけない。日本人は東洋人でありながら、中国やアジアのほんとうの歴史を知らされていないし、中国にどれだけ与えられてきたか、東洋人同士が争わされてきたが、ほんとうの歴史を知らないといけない」と訴えた。
 市内三河町在住の被爆者は、中支に行っているあいだに原爆が投下され、広島に帰ったときは焼け野原で家族、親戚はだれもいなかった痛恨の思いをこめ、「戦争だけは絶対にいけない」と静かに語った。
 車いすを押されてパネルを見ていた九五歳の被爆婦人は、原爆で中学生の息子を亡くしたこと、「いま生きていれば72歳なんですよ」と雑魚場町で亡くなった息子を思い、峠三吉の「すべての声は訴える」の詩を指さしながら、ひ孫に身振り手振りで一生懸命伝える姿も見られた。

トップページへ戻る