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学校で暴れる生徒をどう見るか
本紙記者座談会
              学校と子供が戦争の様な状態    2009年10月2日付

 下関市内のある中学校で、延期されて夏休みになった修学旅行に出発するという朝、1人の男子生徒が暴れ、警察に逮捕される事件が起こった。本紙はこの問題をとりあげて事実関係を整理し、「学校が悪い」「子どもが悪い」「親が悪い」といっていただけでは問題は解決せず、根本原因を考えねばならないと提起した。この紙面は大きな反響を呼び起こし、市内のどこの学校でも共通の問題だと語られている。子どもたちが今の学校の秩序に従わずさまざまに反抗をくり返す、この社会的に共通した現象をどう見るのか、そうした子どもたちをどのように教育するのか、記者座談会をもって論議してみた。

 学校からの排除では解決せず
  市内の学校では、どこも他人事ではないという受け止めだ。ある中学校教師は「どこの学校も大なり小なり同じ問題を抱えている」という。子どもたちが携帯を通じて学校をこえてつながり、一つのグループを形成していることが問題になっている。修学旅行一つとってみても、問題児が現地で暴れたり事件を起こして途中で送り返されたりしている。旅行先で教師の部屋に囲い込んでタバコを吸わせたりしてなんとか収めようとするが、問題は解決していない。
 学校の窓ガラスを割る事件が相次いだのが、中学校に機械警備が導入された年からで、昨年10月に東部中、1月1日に長府中、その後文洋中、勝山中と続き、最近では向洋中の窓ガラスが割られた。今年三月の卒業式のときに問題が表面化し、同じグループの子どもたちが携帯でつながってやっているのがわかった。
  親たち、とくにPTAの役員のなかでも「この問題はどこの補導の会議でも頭を痛めている」という。子どもの反抗の仕方が「殴れるものなら殴ってみろいや」というような、教師の弱味につけ込んだものであるのが問題だとか、「“体罰”といわれれば先生は手が出せなくなっている」「親の側も自由放任とか、わが子のことだけしか考えないというのを反省しないといけない」などが語られていた。
  この荒れる子どもたちの評価について、親や地域の人たちからは「本当はいい子なんだ」という意見が出ているのも共通している。「1番の問題児」といわれる子にかかわっていた教師も「1人1人話すと、話しも通じるし、体が大きいので運動会の後片づけなど力仕事は一生懸命やる。今年も運動会に来て、ちゃんと挨拶しにくるような面も持っている」といっていた。しかしその子の家がたまり場になっていたから、他校の教師たちからは諸悪の根源のように見られている。
  ある教師は、「あの子たちは盗みやゆすり、たかり、いじめはしない。ただ学校や社会のルールには従わず、反抗している。面倒見がいいから、仲間はずれにされた子どもが集まる」という。そして「学校がここ10年、15年で冷たくなった。教育委員会から、そういう連中は切り捨てろといってくる。それで施設送りになったりする。昔は体罰もしていたが、もっと温かかった」といっていた。
  先日の運動会で、「帰宅部」のプラカードを持って行進した子どもたちがいた。この子たちはいつも問題児扱いされ、なにか起これば疑いをかけられる感じだったようだ。しかし実際には母親が「万引きするような子は絶対に家に入れない」と厳しくしていたし、人に危害を加えるようなことをしない子どもたちだという。学校に反抗している。
 3年生になった最初から、最後の運動会は頑張ろうと張り切っていたが、やりたかった応援団長は先生がいいと思う子に決めてしまって参加する余地がなく、自分たちでプラカードをつくり、行進したという。昨年くらいから「お願いだから学校に来ないでくれ」とか「別の施設に行ってくれ」という対応で、子どもたちにとっては心の通い合う先生がいなかったといっている。
 親たちは「成績のいい子ばかりいい子扱いされて、子どもたちにとって学校が本当におもしろくないところになっていった。学校がいうのは形ばかりで、父母や地域の顔色をうかがい、子どもたちと向き合おうとしない。子どもたちも“自分のメンツばかり”といっていた」「昔は学校の先生が、“集団行動や社会勉強をするところだから来い”といっていたが、今は勉強だけを教えるのが学校となっている」と話していた。
  市内全体の学校に、「このグループとつきあうな」というおふれが出ている。高校もこのグループが入学してくるのを嫌がっている。まるで「教育委員会ご指名のお尋ね者」「下関最大の学校の敵」とされた感じだ。学校側は排除して学校秩序を守れというから、なおさら暴れる。そのなかで「子どもが悪い」「教師が悪い」「親が悪い」と3つどもえのバトルになっている。学校が戦争をやっているみたいだ。

 「教育改革」が破産 貧乏人の子覆い荒れる集団・機会均等破壊
  全体的に荒れる集団というのは、片親とか、祖母に育てられているとか、家庭的に困難な子どもが多いという印象だ。「県営住宅の子」とか「○○荘の子」とかのいい方がされる。貧乏人の子でワルという響きだ。塾に行けるような余裕はなく、小学校以来ハネにされて、勉強面でも切り捨てられてきている子どもたちが多いようだ。進学とかは考えてなく、土建屋とか鉄工所とかで働くのを楽しみにしている。
  学校がおもしろくないものになってきた。教育改革が進行したのがこの20年あまりだが、臨教審は戦後あった教育の機会均等主義を公然と取り払った。「個性重視」「興味と関心」といい自己責任、自由競争で差別、選別、ランク付けは露骨なものになった。学力テストをやるが、学校は点数ばかりを追い求め、心の通い合いが乏しいものになってきた。学力テストの成績で「あの学校が点数がいいのは塾に行っている子が多いから」というのは常識だ。塾に行ける家庭が多い学校が点数がよい。貧乏人の多い学校は低い。
  勉強がわからないというと学校では「塾でやってください」といったりする。それに親は怒っている。塾に行くことを前提に授業を進めていると。その他はほったらかし。いったん遅れ始めたらアウトだ。学校5日制が始まってからこの数年でものすごく塾が増えた。貧乏人の子ほど落後する。
  「ゆとり教育」を推進した三浦朱門(当時、教育課程審議会会長)は、「今まで落ちこぼれのために限りある予算とか教員を手間暇かけすぎて、エリートが育たなかった。これからは落ちこぼれのままで結構で、そのための金をエリートのために割り振る。エリートは100人に1人でいい。非才、無才はただ実直な精神だけを養ってもらえばいいんだ」と。今暴れている子どもたちは、まさにそうしてはねられてきた部分だ。
  義務教育は無償だといってきたが親の負担は少少ではない。大学に至っては、40年前に1万2000円だった年間の学費が、今では53万円だ。年収が少ない家庭は最初からはねられている。
  いかなる貧乏人の子も金持ちの子も学校ではみな平等だ、世の中はウソが多いが学校だけはウソがなく真実がもっとも尊重されるというのが学校であるはずだ。生活科で「ひまわりさんが暑いから帽子をかぶせましょうというのがいい教育だ」と文科省がやってきた。学校は不平等でウソを教えるところになってきた。そんな学校はおもしろくないだろう。そして今の反乱は、このデタラメな教育改革が破産したことをあらわしている。
  1人1人の教師が善意で一生懸命であっても構造的・体制的にそうなってきている。テストの点数だけが判断基準で、魂にふれるものがない。授業がわからない子どもにとって、何時間もじっと座っているのはたまらないだろう。
  小学校のソフトボール指導者が「目を離すと悪さをする子どもだが、父親しかいないので、試合のときは自分で弁当をつくり、ユニフォームも洗濯してくる。逆境に負けてなるものかという意志がすごく強い。それをどう鍛えて社会に出していくかだ。そういう子を学校がワルだと見放しているところが問題だ」といっていた。

 どう導くのかが要 展望ない反抗・「いい子」まだ深刻
  暴れる子どもたちが、この間の教育改革によって学校から排除されたりしてきたことへの反抗だということができる。しかしそれは反抗だからいいこととはならない。この反抗の仕方もまた、教育改革のイデオロギーである「個性重視」の好き勝手を地でいっている。自由保育とか生活科とかで習ってきたそのものをやっている姿だ。
 教師が「正座しろ」というと、「体罰だ! 人権擁護委員会にいうぞ」という。教師が抑圧されているのを逆手にとって、マスコミや権力を利用して教師とたたかっている。教師から見るとぶっそうでやれない。冷静に見てみると、教師も教育改革という権力の下で子どもたちを排除しているし、子どもたちもマスコミ、警察、教育委員会を利用して教師をいじめる。双方とも権力の一元的な支配の下で、お互いが敵対意識で「戦争」をしているという関係ではないか。結果として表れた目前の現象で争うが、この間の教育改革の犯罪性という根源の問題とたたかう、そうして教師、子ども、親たちが協力し合う関係で教育が成り立つということではないか。
 暴れる子どもたちは学校に反抗している。それで子どもたちも満足しているわけではないと思う。それでこれから生きていく未来への展望を感じているわけではないだろう。問題は貧乏人蔑視、人民蔑視のおもしろくない学校に反抗して、どういう未来に進むのかを教えることだ。教師たちも「おもしろくない学校」の秩序に従えというだけでは反抗はひどくなるだけだろう。教師たちが、貧乏しながらそれに負けずに働いて、世の中のためになるものを生産している親たち、その子どもたちの誇りと未来を教えることが必要だ。
  いま目立つ暴れる子も問題だが、万引きをする子、いじめをする子などの方が深刻ではないか。有名大学に行ったできる子が麻薬をやったり、集団強姦をやったりする。リーマン・ショックではないが、良くできるエリートが金融詐欺経済で大もうけをする。良くできる、陰湿な子、今の差別、選別教育の良くできる子の精神構造の方がもっと深刻だと思う。99年に「学校や社会にうらみをはらす」といって下関駅に突っ込んだ男も、両親が校長で九大卒の高学歴だったが、そういう子どもの方がもっと怖い。
  教師から見ても「陰湿な子のしっぽをつかまえて指導するのがすごく大変」という。下手に口に出すと弁が立つから、調べあげて確証をつかまないとなにもできないと。「証拠がないのに疑いをかけた」「体罰だ」と人権を掲げた教師攻撃になる。こっちの方が扱いにくいし、どんな人間ができるか心配でならない。「よくできる子」のなかで、自分さえよければ人はどうなってもかまわないという冷酷な子どもに育っている。深刻な問題はむしろこっちにある。

 重要な教師の立場 親との遮断打開へ・欺瞞見抜く子達
  暴れる子どもたちは学校を攻撃しているが、どういうタイプの教師がやられているのだろうか。「帰宅部」の例で見ると、明らかに学校の体面をつぶしてやれというのが感じられる。
  補導関係者は「あれは子どもが教師を試しているんですよ」という。公衆の面前でどういう反応をするか、ちょっといじくってやろうという感じではないか、と。
  日頃は子どもがいろいろ騒いでも世間にバレなければ自由放任でやらせる「ことなかれ」「無気力」をやって、来賓や父母のいる前では「いい学校だ」と格好をつける。これをみんなの前で恥かかせてやろうという感じだ。そういう欺瞞を子どもは鋭く見抜く。
  ある教師がいっていたが、子どもたちの判断基準は「敵か、敵でないか」だという。地域の人や親は自分たちの敵ではないから、安心していい面を見せるし、挨拶もする。教師のなかもそれで区別して、怒られるかどうかは基準ではなく、女の教師でも真剣に向かってくれる人にはついていくなど、共通した判断基準があるという。一方で「昔だったら、間違っていたとしても自分の信念を持って反抗していた。それが今の子どもたちにあったら反抗の仕方も違ってくるだろうが、子どもたち自身の思考も動物的・短絡的になっていて、先が見えない。展望がない。自分がどうしたらいいのかわからない、という状態だから、反抗の仕方が自分勝手という形だ」という。
  荒れた子どものターゲットになる教師のタイプをある教師に聞いてみた。からかったらカッとなってすぐ怒る教師、またはなにをいっても素知らぬ顔をして放任している教師などが多いという。「日共」系の全教など組合活動家の教師のところで学級崩壊が多いと話されている。表面的には「民主的」で、怒ったり体罰もしない。「みんないい子ですよ」という。しかしやることは子どもの実際におかまいなく独善的。そして周囲の教師の意見を聞かないし相談しない。そうした教師が1学期もたたないうちに学級崩壊する。
  大学を出てすごく高い理想を持って教科指導をしたいと思っているが、目の前にいる子どもは「座っていなさい」というところからやらないといけない。親もふくめて自分の思い通りにいかない。思い描いている観念的な理想像と現実の子どもとのギャップが激しく、理解できなくて行き詰まってしまうという。挫折したこともなく順調に「勉強ができる人」が教員に採用されているが、他方でいわゆる「ワル」と話ができるような人は教育委員会から見ると排除対象になっているという。
  「友だち感覚」とか「子どもの目線に下りて」というのが教育学部でさんざん教えられるらしいが、教師の目線に戻ることを教えない。現場に来ると、まず放課後におしゃべりをして仲良くなる。子どもたちは友だちだと思うから、2学期にもなると怒ることもできなくなり、挫折してしまうという。
  教師が精神病になったり休職したりするのが非常に多い。この根源は、現在の子どもたちを理解できないということではないか。子どもを理解するにはその子の家庭を理解しなければできない。子どもの考え方というのは家庭の影響だ。深刻な失業や貧困が進行しているなかで、この困難のなかで負けずに生活している親たちの理解ができないのが決定的だと思う。学校が社会から閉ざされて異常な空間になり、ますます子どもを理解できなくなっている。
  教師に対しては「体罰禁止」など「指導してはいけない」という抑圧があり、親との関係も「プライバシー」「個人情報保護」「職業などに踏み込んではならない」と、親と遮断する政策が体系的にやられてきた。これに負けていたのでは、「心の病」コースだろう。暴れる子どもの家庭環境はどうなっているか、その親を理解できなければ、子どもを理解できないし、教育はできない。子どものほとんどが勤労父母の子弟で、大部分が貧乏で最近は欠損家庭も多い。それは今の大不況のなかでますます増えていく。暴れる子どもはますます増えていくだろう。それを教師の敵が増えると見えたのでは悲劇だ。
  教師の人民的感覚が必要だ。70年代の人材確保法で給料があがり、人民的な感覚を失ってきた。しかし給料が上がって安泰どころか、子どもに総反発を受けて「心の病」になるまでになった。教師の側も待ったなしの所にいる。

 勤労父母と団結へ 労働者の精神に展望
  20年前は「高校に行こうじゃないか」というのが子どもを立ち直らせる方法としてあったというが、今は子どもは高校進学に価値を感じていない。勉強さえ教えたらいいと考えていたら通用しない。ある子どもは「僕は、お母さん一人だから働く」といって、今、土方で働いているが、教師が「あんなにちゃらんぽらんだった子が」と驚くほど頑張っている。
  今の子どもたちの現象は、放って置いたら好き勝手の反乱で終わるし、そうした子どもを自衛隊に組織する道にもなりかねない。教育というのは教師と子ども、父母が一緒になってとりくまなければできないのに、権力の力でそれをバラバラに切り裂いている。だからまともに進むわけがない。
  今の資本主義社会に未来を感じることはできない。この間の教育改革は、ホリエモンや村上ファンドのような金儲け一本槍の人間をほめそやし、貧乏人を蔑視する。これがいかに恥ずべきことか教えることだ。そして多くの家庭が貧乏になっているが、貧乏に負けずにみんなが団結し協力し合って、世の中のためになる労働をしている。そういう労働者の精神のなかに未来がある。そういう当たり前のことを教えなければならない。
 教育改革は小泉・安倍内閣で推進した市場原理主義・新自由主義の教育版だ。社会全体にバクチのような金融投機がはびこり、金持ちの天下で働くものをますます貧乏にする政治だった。
 経済恐慌のもとで貧困化も進み、家庭崩壊も進んで厳しい生活の子どもが増えているのに、教育改革で学校はますます働くものを貧乏にする敵の世界にそまってきた。学校教育を親や地域住民と切り離してきたことで大矛盾となっている。
 自分が教える子どもたちが、卒業してもその多くが非正規雇用か失業でまともに生活ができない。そればかりか、戦場に送り込まれ運命を狂わせてしまうことにさらされている。これを今の教育改革の圧力のもとでは「やむを得ない」「仕方がない」で済ませる事ができるかどうかだ。

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