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学校教育潰す「いじめ」報道
教育現場で怒りの論議沸騰
            教師の指導性を攻撃  2006年11月1日付

 先月11日、福岡県筑前町の中学2年生の男子生徒が、自宅で首をつって死ぬという痛ましい事件が起こった。ところがこの問題を、テレビや新聞が大大的に取り上げ、「教師のいじめが原因」と大騒ぎを演じている。こうしたキャンペーンでは問題が解決しないばかりか、逆に全国的な子どもの自殺の連鎖を引き起こし、教師の自殺まで引き起こし、学校の教育機能を破壊するものとならざるをえない。これについて、学校現場では学校を崩壊させるものであり、これで子どもたちはどうなるかという心配とともに、激しい怒りをともなった論議がまき起こっている。それは安倍首相が主導する教育再生会議の発足と同時にやられており、きわめて意図的なものである。

 教育再生会議の発足と連動
 多くの人人は学校現場がどうなっているかは余り知らない。下関市と北九州市の小・中・高校の教師に、今回の問題をめぐってどう考えているのか聞いてみた。
 「学校で子どもが1人死ぬということは大変なことだ。教師も生徒も親もみんなが悲しみ、至らなかったことはお互い反省しあって、命の尊厳について第1に子どもに教えないといけない。ところが今回はそうなっておらず、“いじめ”の問題にすり替わっている。問題を訴訟沙汰に持ち込もうとするなど、解決に進めないしくみがある。昨年の川中中の事件がモデルケースになっていることはまちがいない」
 「中学校時代は、人生のなかで子どもを鍛え上げないといけない時期だ。それをマスコミが“体罰はいけない”といってできないようにさせ、教師が子どもの機嫌を取って、持ち上げていくようにさせている。今子ども間の格差が広がって、できない子は授業を放棄して、外に出て行く。叱って席に着かせたいが、ほっておかざるをえないようになっている」
 「いじめられた側が被害者で正しく、いじめた側が加害者で責められるべきだというだけでは教育にならない。岐阜県で自殺した中学生が、いじめた4人の実名を名指しして遺書に書いているが、それは残された4人の子どもの人生にどれほどの影響を与えるか。学校としては、いじめた4人を含めて生きている子どもたち全員のことを考えなければならない。このままではマスコミのいじめによって、全国の子どもや教師がどんどん自殺することになる」
 「マスコミは“サインを見逃すな”という。しかし子どもに成り代わってなんでも支えてやるというのでは教育にならない。その子が自立するためには、問題にぶつかったとき、1人で乗り切ってみろと待つことだってある。それは昔の親が子どもの欲求をすべてかなえてやらず、我慢や努力を覚えさせたのと同じだ。今の子どもがかんたんに命を断つというのはストレスに耐える耐性が育っていないということで、それは学校教育も家庭教育も反省しないといけないことだ」

 子供の成長阻む「人権」
 「“子どもの人権”がいわれはじめて以来、子どもと教師、子どもと子どもとの関係でも、一方がいじめと認識したらいじめになるということになった。だから、教師が悪いことをした子どもを叱っても“いじめ”と認定されるので、“いいすぎたかな”とものすごく神経を使わないといけない。子ども同士でも、ある子どもが授業中にいった答えがまちがっていたとして、それを周囲がはやしたてたら、それもいじめとなる。集団生活のなかで鍛えられて初めて生きる力がつくのに、それをできなくさせている。親や祖父母の世代はもっと大きな苦労を乗り越えて生きてきた」
 「マスコミが連日“いじめ”を取り上げ、教師が悪い、学校が悪いという。しかし子どもはそれをとりまく社会や、家庭環境の影響のもとで育っており、本当にいじめだけが、自殺の原因だろうか? 今、連鎖反応的に自殺で死んでいく子どもが増えている。子どもたちが、ひ弱すぎると思う。“キモイ”といわれたぐらいで死んだらいけない。少少のいじめにあったとしても、それを乗り越えることができる強い子どもに育てるのが学校の役割だ。自分の世界に閉じこもり、親のことや友だちのことが考えられない子ではいけない、と教師のなかでワイワイ論議になっている」
 「学校教育も、小さい頃から自由保育、生活科で、自己中心の考え方になっている。県教委のエライ人が“これからはオンリーワンをめざせ”といったが、つまりは自分は自分でよい、今のままでよいというもので、向上心がなくなるし、集団・社会から自分を見ることができない。学校の集団生活は社会性を育てるためにあるが、それが崩されていることが問題だ」
 「安倍内閣の教育再生会議は学校を企業化するもの。ミニアメリカ人をいっぱいつくってどうするのか。“もうここまできたら、自分たちが一斉に職場放棄をしよう、民間で学校教育ができるものならやってみろ”と教師のなかで話になった。このままでは日本の教育がダメになる。なんとかしないといけない」
 高校の必修科目の履修単位不足問題についても、「すでに推薦入試の手続きは終わっているのに。受験生と現場教師を苦しめるもの」と怒りの声が噴き上がっている。「文部省が“ゆとり教育”といって5日制にし、授業時数を減らし、他方で受験戦争をますます加熱させた。朝日新聞社の『AERA』などは“山口県は私学化が遅れており、東大合格者は県立高校を合計しても他県の有名私立1校分にすぎない”とあおった。その結果起こったことなのに、マスコミも文科省も責任をとらず、現場に責任を押しつけている」「これまで文科省が県教委をつうじて、これからは国公立大学合格○○人と数字で示せ、そうでないと、高校の統廃合のなかで生き残れない、としめあげてきたことが原因だ。“お客様”といって親も駆り立ててきた」

 意図的なメディア 国主導のいじめ構造を促進・公共教育解体狙う
 教師たちが共通して指摘しているのは、メディアの騒ぎ方の異常さであり、それが教育現場を破壊してしまうことである。メディアは「自殺の原因はいじめだった」「生徒だけではなく教師がいじめた」という調子で大騒ぎをするが、それは日本中の学校の教師に対する大大的ないじめである。その論理ならメディアからいじめられた生徒、教師、校長などが自殺したならば、メディアや政府が「いじめ犯人」として罰せられなければならない。
 自殺はいじめられたからというほど単純な原因ではない。また、いじめはこの世の中では全然珍しいものではない。いじめがこの社会の基本といってもいいぐらいである。今度のような事件は、ある学校の特殊な出来事ではなく、至る所で起きており、どこでもいつ起こってもおかしくないと見られていることに深刻さがある。それは個別の現象ではなく、社会の共通現象であることに疑いはない。
 学校はこの間、ますます弱肉強食の残酷な競争とランクづけの格差という構造的ないじめがまんえんするようにしてきた。それは「個性重視、興味と関心第1、子供の人権優先」といいながら政府の側からつくりだしてきたものである。また社会全体も市場原理の規制改革などといって、弱肉強食の弱いものいじめ社会をつくってきた。学校でいじめがあり、自殺する子があらわれているのは、子どもたちの目にいまの社会がそのように映っていることを示しており、その結果である。自分たちがつくってきた原因に対する反省がなくて、結果として個個の現場の生徒や教師を犯人というのでは問題は解決しないし、さらに深刻な事態をつくりだすことは明らかである。
 教育再生会議の目的は公教育の解体であり、学校を株式会社のような企業的な競争に投げこむことである。全国一斉学力テストと学校評価制度、教育バウチャーと学校選択制、教員免許の更新制の導入、さらに教育基本法の改悪を狙っている。しかも、官邸主導のこのメンバーには、教育学の専門家を排除している。そして愛知県に株式会社立の中高一貫校をつくった葛西敬之・JR東海会長と張富士夫・トヨタ自動車会長、また「教員の3分の1から1分の1は適正がない」といっている渡辺美樹・ワタミ(居酒屋チェーン)社長など、商売人の都合がいいようにしようというものである。しかしこうした方向はイギリスやアメリカでは大失敗が明らかになっているのに、それをまねてやろうというバカげたものである。
 問われていることは、敗戦後の孤児たちががんばり抜いたように、この社会にまんえんするさまざまないじめ構造のなかでもまれながら、鍛えられ、仲間と団結して自分の人生を切り開いていく強い子どもをどう育てるかである。ところがメディアの大宣伝に乗って安倍政府がやろうとしている教育再生、教育基本法改定は、ますますいじめをまんえんさせるものである。それは学校に企業原理を導入して株式会社のようにするというもので、子どもはお客様で子どものニーズに合わせる、教師はデパートの売り子のごとくサービスの提供者のようにご機嫌取りをする、そして教師を子どもや父母が採点するというようなものである。これを「子どもの人権」とか「個性重視」とかいってさらに拍車をかけようというのである。

 自己中心煽り肉弾作り
 子どもが生まれたときから、しかられることも叩かれることもなく、子どもの気に入るようなことばかりさせていったらどうなるか。生まれたままのサルと同じ動物状態で、人を攻撃するばかりの非力な大人ができるだろうし、人人が協力し助け合い、団結してものを生産し生活していくまともな社会的な人間として育つわけがない。これは大多数の勤労人民が、自分たちの子どもを家庭で育て、学校に行かせている考え方とはまったく異質なものである。そして、このような教育行政の側に流れず、親の苦労のなかでたくましい思いやりのある人民的な子どもたちが育っているのももう一方の現実である。
 考えるべきことは、この教育はアメリカの指図であり、ベトナムやイラク、戦時中の空襲や原爆投下など、平気で残虐な人殺しをやってのける人間をつくった教育である。かつての戦争は天皇のためといって戦争にかり出したが、現在の兵隊づくりの軍国主義思想の中心は冷酷かつ残酷な人殺しを平気でやってのける極端な自己中心イデオロギーである。「自由」や「人権」がアメリカ型の戦争スローガンなのだ。
 父母や地域の人たちの多くは学校の現状を知らない。教師は、大多数の勤労父母の側に立ち、民族の宝である子どもたちの平和で豊かな未来のために、発言を強めなければならず、父母と団結して、国の教育統制、メディアの教育破壊の攻撃に対して立ち向かわなければならない。

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