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学校崩壊させる教育改革
人民教育同盟教師座談会
                教師の誇りの回復を切望     2006年5月10日付
 
 今、日本の子どもの教育はいったいどうなっているのか、これは多くの人人の重大な関心になっている。山口県では今年度から全教職員への教員評価制度が試行されようとしているが、文科省がすすめる「教育改革」が教育を破壊し学校の崩壊状況を招いていることがいたるところで明らかになり、現場の多くの教師が発言を始めている。本紙では山口県と福岡県の人民教育同盟の教師に集まってもらい、子どもたちの現状、親の要求、教師の問題意識などを語りあい、論議してもらった。

 校内の人事も難航 評価に縛られて教師間に壁
 司会 学校現場の実情や切実な問題から出してもらいたい。
  年度末、校内人事を決めるさいに「教師責任論」が教師のなかに非常に根深く入りこんでいることを感じた。6年の担任になったが、この学年は学年全体が荒れていてなかなか持ち手がないなかで、教師がみな二の足を踏む。それは、担任になって状況が悪くなったらその個人が追いつめられる、そのことに対する恐怖心からだ。またある教師は「校長の提案に意見をいうと、評価が下がってはいけないので、おとなしくしていないといけない」という。
  昨年度、管理職に評価制度が試行され、今年は全教職員を対象に試行されることになった。校長も説明するときには「子どもや親の状況を見て学級運営を頑張ってほしい」というが、それが文章になると管理的なものになり、校長と教師のあいだに壁ができてぎくしゃくする。評価制度が校長にとってもすごく抑圧になっている。また4月から給与表が変わり、教員評価で給料にも差が出るとみんなが思った。そこでどういう人が評価されるのかといえば、「子どものノートは見ない。子どもがケガをしても保健室はのぞかない。そして研究物をつくる人」だと話になっている。教師同士バラバラにされると感じている。
 もう一つは「子どもに授業を評価させる」というものが出ている。教師のなかでは「教師自身が評価するのはわかるが、授業がおもしろいかどうかを子どもが評価するもんじゃない」と話になった。今「評価」というのがいろんな形で出てきて、子どもも教師も評価に追われてがんじがらめになる。はね返していくたたかいを求めているが、どうしていいか模索している状態だと思う。
  昨年度の試行段階でも、うちの学校では全校が協力して子どもを育てていこうとしているときに、各自が「パソコンが上手になる」などの自己目標を出して評価を気にし始めたら「学校がバラバラになる」という論議になった。校長も「教育はみんなで目標を立てて、めざす子ども像をはっきりさせてやっていくものだから、今の提案はいけなかった」といった。それで協力して教育を進めてきたという経緯がある。
 学校評価の紙を配り「子どもが楽しく学校に行っているか」「子どもの安全に配慮しているか」などの項目に親が丸をつけて、平均点を出した。その結果、とくに「学力」の評価が低かったので、「今年は学力に力を入れよう」となる。しかし親がなぜ低い評価をつけたのかはまったくわからない。実際に親と話してやるのならいいが、紙の丸つけだけで「親の目に見えるように学力をつけよう」と振り回される。親と連携していくのとは違う方向にいっている。
  北九州市全体では山口県より先を行っている。教員評価制度は今年度から本格実施になったが、「学校現場は企業ではない。教師が評価されれば、子どもたちが物のように扱われる」「評価のためにクラスの平均点をあげることに必死になりすぎて、低い子は切り捨てられていく」「教師の多忙化になる」「自分たちが校長によく見られようと振る舞っていくのでは教育にならない」という意見があいついでいる。近隣の学校の荒れの様子はかなりひどくて、6年生の持ち手がない状況がある。

  企業化が進学校 子どもをお客様扱い
  新しい学校に変わったので教育改革が子どもたちをいかにめちゃくちゃにしているのかが余計に見えてくる。子どもたちが序列化され、差別・選別され、テストの点数で評価され、あえいでいる。それが教師への反発、学校への反発で学級崩壊をひき起こすという状態がある。今僕のクラスは、髪の毛を染めている子は4、5人いる。金髪や黄色、茶色。ピアス、化粧、香水なんでもありだ。「自分を認めて! テストの点が悪くても、私ここにいるんよ」と訴えているように思う。勉強も以前の学年の部分ができていないが、反発している分「賢くなりたい」という願望や意欲もかなりある。
 親の状況だが小泉政府の構造改革ですごい格差社会となり親の生活が貧困化している。10年前とは様変わりだ。アパートは空き部屋が多く、4、5軒は家の中が散乱状態で入れない。働きたくても働く場所がなく、それに負けていく親のなかでアルコール依存症、パチンコ依存症が多い。サラ金に手を出して家庭破壊が進み、子どもにも影響している。
 でも子どもたちは元気がいい。家庭訪問をすると親は「少少なぐってもいいから子どもをまともな人間に育ててほしい」という。今の腐敗した社会の汚濁に流されるのではなく、それに負けない子どもを育てて欲しいという期待が強いと感じた。表面的にはいろんな子どもがいるが、正しい方向を提示して一緒に世の中変える同志だという気持ちでやっていけば、必ずこの子たちのエネルギーは社会を変える力に転化できるのではないかと思う。そういう意味では毎日が楽しい。
 教職員集団を見ると、上意下達がやりやすいような構造をつくっている。これが教育改革の一つのあらわれなのかなと思う。教師たちが悩みをどこにも訴えられない。はけ口がないので病気になる教師が多い。教育改革や構造改革がきているからしかたがないとあきらめて、みんなが力をあわせてとならない構図がつくられている。それに風穴をあけたい。
  教師は希望に満ちて4月を出発するものだし、そうやって今まできていたが、今年はみんな評価に脅えている。私たちはなにをするために学校に来ているのか、教師として切ない思いがする。学校評価制度は、学校をお店、企業にする市場原理だ。父母と教師との関係も、お客様とお店に勤めるサービスマンという形だ。参観日には写真入りの札を下げて「いらっしゃいませ、御用はなんでございましょうか」といいながら校内を歩いているみたいだ。新学期が始まり、放課後はてんやわんやだ。多くの教師が電話待ちをして、七時ごろまでひっきりなしに電話をする。中身は休んだ子への連絡、ケガをしたことへのおわび、子ども同士がケンカしたことなど、子どもに伝言すればいいことを、教師が自分の口で直接親に伝えなければ大変となっている。これが親とつながるということなのか。なにか勘違いさせられている。
 家庭訪問に行くとき、学年の若い同僚に「私たちはセールスマンではないから御用聞きをしてくるんじゃないんだよ。どのように子どもを育てていくのか、おたがいに親と話してこようね」と声かけをしている。外からの評価にそなえて準備することにほとんどのエネルギーを注ぎ込まされている教師たちは、子どもを見る時間がなくなっている。忙しくて情けないというよりも、教師の誇りというものが感じられなくて情けない。私たちの誇りがなくなるということは、子どもが育たないこととつながっていくのではないか、と同僚も発言し始めている。
 しかし家庭訪問では、「先生、お願いですから点数を1点でも上げてください」という親は一人もいない。友だちと協力して、人に迷惑をかけないような、最後までねばり強く頑張り、人と気持ちをあわせて集団で育っていくような子どもに育ててくれと、どの親も口をそろえていう。

 親の要求とも分断 人間的成長が願い
 編集部 評価制度が問題になっているが、そのような教育改革が、学校をどんどん崩壊させているのではないか。子どもにとってはおもしろくもない場所になっている。文科省や県教委は強権的だが、学校は逆に統制がきかずに崩壊している。子どもや親の評価というが、その評価の中身は、「親がこういっている」という格好をした上の評価だろう。「親のニーズ」というのなら本当のニーズでいけばよい。
  なるほど、逆にいえば今がチャンスだ。評価制度で親との溝が深まるのがたまらない。
  先日、ある母親の文章を学級通信に載せ「なんのために勉強すると思われますか?」と親に投げかけたら、3日以内に全員から文書が返ってきた。紙にびっしり書いているものもあり親の真剣さがあらわれていた。それには「子どもには人間的に育って欲しい」と書かれていた。一番最初の懇談会でこの方向で一致して出発になった。いろんな問題が起きているなかで、親のこのような願いが今年は非常に強く感じられた。
 ある子どもは「僕も考えてみた」といって日記に書いてきた。「僕の夢は鉄道の運転手になることだ。僕は最初、自分の夢を実現するために勉強すると思っていたが、今度の宿題で考えてみたら、鉄道の運転手はみんなの命を預かっている。みんなを危険にさらしてはいけない。そのために勉強するのだから、勉強は自分のためだけではない」というように書いた。そういう子が2、3人出てきた。子どもがここまで考えているんだなと驚いた。
  文科省や県教委のトップが「親の教育力が地に落ちた」みたいなことをいうので、親も学校からバカにされていると思っているのではないか。今回、家庭訪問に行くまえに「家庭の教育方針とどんな子どもに育てたいかの2点をうかがいます」と予告をしたら、真剣に話してくれた。ある家では、「昨晩妻と2人で“この子をどういうふうに育てるか”について話しあいをして文章を書きましたので、こちらが読みますから」といわれた。本当に子どもに対して真剣に考えている。学校で「親たちはこの社会の主人公で、子どもたちはその主人公の後継ぎだ」と話したら、本当に喜んだ。「みなさんも仕事のことを子どもたちに話してやってください」と話すと、親も喜んだ。社会の子として育てていきましょうと話をしたら、生活が大変な親も多いが、いきいきとしたように思った。
  C ある子どもの母親が働く工場に見学に行って、そのあと家庭訪問に行ったら、子どもが見に来てくれたことをすごく喜んでいた。他の親は「今度はうちの職場に来てくれ」という。見学に行った職場はトヨタの部品をつくっていて、このたび2倍近い増産になったが、人数は少し臨時を増やすぐらいで倍の仕事をしないといけない。「大変なんですよ」といいながら、自分たちが一生懸命働いて支えていることを、子どもたちが感じて育って欲しいと思っている。その子自身は、ごまかして怠けるようなタイプの子だったが、母親の頑張る姿を見てからちょっとまじめになって、態度や雰囲気が変わってきた。それを母親も感じて「よかった」と思っている。今は生産現場に出かける時間もなくなり、総合学習といいながら、結局は英語とコンピューターだ。

  子も教師も商品化 点取り虫作りに反発
 編集部 最近は成績のいい子が冷酷な殺人事件をひき起こしている。ホリエモンなど詐欺師がもてはやされる。学校で暴れている子というのは、あらわれが身勝手だとしても、自分の感情を隠してジーっとしているのと違って、ある意味人間的な感情を表現しているのではないか。
 A うちのクラスにHといういわゆる問題児がいる。3年生のときは授業中暴れ回っていた子だが、今度の家庭訪問で彼のことが話題になった。「あの子が本当に落ちついた。6年生らしくなった」とクラスの親が喜んでいる。別のお母さんは参観日のときにHに声をかけたら、ニコッと笑って会釈したといい、それを連絡帳に書いてきて喜んでいる。親はわが子だけのことを見ていない。子ども集団全体が成長していることを喜んでいる。「自分の子のクラスだけ授業が早く進んでいる」とか「平均点が高い」とか、そんなことを親がいうのは聞いたことがない。だからあんな紙切れで評価するのは集団の教育を切り刻むことだ。
 C 子どもの意識も変わっている。今年修学旅行に広島に行くので、目的をみんなで考えた。すると「被爆者の方の原爆を落とされた怒りを感じに行く」「落とした人に被爆者の人の思いを学んで伝えに行く」という意見が出てきてびっくりした。こんなふうに人の感情に思いを寄せたものが出てきたのは初めてだった。日ごろはシューンとして、おとなしい子どもたちなのに、目的を話しあわせればそういう内容になっている。本当はそういうことを求めて行動したがっている。それは親の意識の反映でもあると思う。
 編集部 教師も子どもも数値で評価して点取り虫教育をやるわけか。学校で点取り虫は存在感がないだろう。
  それを「客観的に公平に評価するためには数字にしないとわからない」という。昨年管理職で評価を実施したときも校長が「数値目標を出さないといけないから“校長室だよりを年に○回出す”という目標しかできなかった」という。それが達成できたらAになる。その中身はない。
 C スポーツテストについて、隣の先生が「元いた学校は小さい学校で、学年が生徒1人。その1人が運動能力抜群だったら、これで平均数値は全国1位になれる」と茶化していた。みんなおかしいと思っている。
  山陽小野田市は陰山方式を採用するというが、あれは条件反射で「これでやったら平均点95点」というもの。子どもがものを考えるとか、心の動きとかは必要ない。そういうものは絶対に数値にできない。本を何冊読ませるかなどの数は公平にわかるが、読んで人の気持ちのわかる人間になったか、文章を読んで論理的に判断ができるようになったかというようなことは数値にできない。バレーボールのチームを見ても、技術は下手でも、あの子がいて精神的な柱になってまとめているからチームが成り立っているということもある。
  うちの学校の管理職は、一応評価制度を「やります」といって説明したあとに、「これは私見ですが、評価制度について管理職から試行の段階で問題点が多く出された。私も出した。ところが県教委は一切無視した。だいたい卒業式も運動会も予行練習して、その改善点の意見をまとめて、本番はいいものにするというのが教育の常識だが今回はやるという結論しかない」と職員会議でいう。
  「数値評価をしてください」と教育現場からいったものはだれもいない。全部上からおりてきたものだ。
 編集部 数値というのは要するに商品価値だ。子どもを人間扱いするのではなく、商品として扱い、子どもを商品として値札をつけるということだ。教師も商品となる。だが商品も使用価値の側面がある。つまりそれが人の役に立つ、社会にとって有用であることが条件だ。労働者や農民、漁民は共同して働き、人の役に立つものを生産して生活している。社会の役に立つ人間を育てないで、自分の得になることしか考えない人間をつくるというのでは社会は成り立たない。点数をつけられる子どもは動物でもロボットでもなく、喜び、苦しみ、悲しみ、怒りの感情がある人間だ。このような精神生活を無視して、子どもも教師も数値評価するというのでは、学校崩壊になるのは当たり前ではないか。
 
  病気はつくられる 集団でこそ成長
 C 「特別支援教育」のことだが、「病気はつくられる」と感じている。自分の教え子でクラスで物を投げたりしていた子だが、中学校に行って精神科に行かされて、てんかんを押さえる薬と睡眠薬と抗うつ薬と、3つ薬を飲まされている。暴れないようになったが、今度は完全に家に閉じこもって出ないようになった。親は1週間に1回は学校に行き、親の負担も大きい。子どもはもう自分をわかってもらえないといって、勉強もできなくなるし、養護学校に行こうとなっている。子ども自身がそのように追いこまれて疎外されていく。これは本当に子どもをダメにしてしまうと思う。
  学校に臨床心理士などがスクールカウンセラーとして来て、相談して子どもを医者に連れて行ったら、発達障害とか自閉症的、○○症候群とか、いっさいの行動に病名がつく。クラスのなかで落ち着きがない子などを、カウンセラーが「○○の疑いがある」といって引っぱり出す。
 D 病名がついた子どもは、病気だから隔離して教育対象から外れる。私の学校では「教師はそういう子どもたちについて専門的でないから、特別支援をしたら手厚い教育ができる」という感じになっている。
 F 巧妙なのは、親の願いとして「専門家のところに連れて行く」ようにさせ、親の自己責任にしていることだ。親とすれば他の子に迷惑をかけるのか、他の子と違うのかと思い、検査をしないといけないのかなと思ってしまう。
 G そういう子は、隔離される理由が、集団との関係がうまくいかないからというのが多い。それを学級集団から外したら治りようがない。この段階でこの子は葬られたということになる。
 編集部 それは子どもの間引き政策ではないか。原爆で孤児になった人はたくさんいる。ストレスというなら大変なものがある。今風に病名をつけたらいくらでもつくだろう。ものすごく困難ななかで、負けずにがんばって自分を鍛え、立ち上がってきて、今がある。「あんたはつらいだろうから、そのまま薬を飲んでじっとしておけ」といったら、戦後の日本はない。沖縄でも「沖縄の孤児で不良少年はいなかった」といわれていた。「みんなが助けあって生活しているからだ」という。カウンセラーというのは、教育する立場ではない。自殺問題があった下関の中学校でも新聞がかき回すのとともに、県教委がカウンセラーを派遣して教師の対応をことごとく覆してますますガタガタにさせたといわれている。カウンセラー主導の学校というのは、教育放棄の学校ということになる。
  それを「その子の状況にあった教育を」といってやろうとしている。不断に自分自身の殻を破りつつ成長する子ども世代に「現状で良い」「そのままでいなさい」ということは大変な苦役ではないか。それでは子どもはたまらない。
  アスペルガーといわれた子がいるが、去年1年間学級集団の中に入れて、それに特別支援担当の教師も一緒に入って指導した。1年たって「あの子がアスペルガーだったのか。すごく成長した」と話になった。入学式のときはちょろちょろして抱っこされていたのに、卒業式には呼びかけの言葉もきちんといった。子どもは集団のなかで一番育つんだというのが教師の確信になった。教師のなかでは、スクールカウンセラーの制度について「月1回来るぐらいで、子どものことがわかるか。家庭の様子や日ごろの様子もわからないで、いくら心理学をやっていてもわからない」といっている。
  以前から不登校の対応をするときに「親に絶対に精神科医に行かせるな」といっていた。そこに行ったら絶対に「学校に行かせなくてもいい」となるから。
 
  崩壊の元は文科省 成長の条件を無視
 編集部 親と教師を分断する。子ども同士も分断する。個別競争ばかりだったら育つわけがない。子どもは、学校だけではなく家庭や地域社会のかかわりのなかで育っている。学校のなかでも集団全体として影響しあって成長している。教師も集団としてかかわらなければ対応できない。それをみな分断して個別競争の個人成績だけをいっていたら、子どもの成長の条件を無視することになるし、育つわけがない。
  「地域に根ざした教育」といいながら、それができないようにさせている。うちの学校でも昨年まで地域との連携を積み重ねてきたおもだった教員をごっそり異動させた。地域間交流といって、別別の市の教師をわけのわからないまま3年間で入れかえる。地域の人も「あの先生は3年で帰る」と見ている。
 編集部 社会全体も荒廃しているが、文科省の教育改革そのものが破たんしている。文科省は学校崩壊を強制的にやらせているということじゃないか。
 G 広島ではどんどん教師がやめるという。自分が思っているような仕事ができない、40代までは転職がきくといって、ものすごい数がやめていく。上から締めつけてきたが完全に崩壊していっている。
  教科書の内容についても、ここ何年かやってみたがめちゃくちゃだというのと、それを教えないといけない教師の情けなさだ。
 C 歴史の教科書は、弥生時代の米づくりから突然、始まっている。
 A 算数の教科書で頭にくるのは、3割削減でわかりやすくしている一方で、「発展」と称して難しい問題が入っている。たとえば面積の計算で、いきなり正方形が重なった図形の面積を求める問題や小数点のある計算になるなど、他のことも「発展」と称して入れてくるので、定着できない。それをそのまま教えたら、子どもは混乱してしまう。結局九九もわからなくなる。それをダメにしておいて、百マス計算という。
  5年と6年の2年間で漢字を覚えればよい、初めは読みだけといって、漢字を覚える率がすごく下がっている。本当に定着しない。
 編集部 「読み書き計算」というが、それがいい加減になったのでは大昔の寺子屋教育以下ではないか。
  国語のなかでも読み書きの「読み」をする時間が大幅に削られた。以前は1つの物語を18時間から20時間使ってじっくり読みとっていく指導をしていたが、今はその半分をカルタや新聞などプレゼンテーション(発表)のための物づくりの時間に使う。実際に主人公がどんな生き方をしているか、こんな切ないときには人間はこういう言葉遣いをするんだなとか、そういうことをたっぷり味わう時間を設定していない。

 将来の担い手つぶす 非教育的な政策ばかり
  ここ10年余り読みとりは「個人の自由」。どう理解しようが「子どもが感じたらそれでいい」「価値観を教えてはいけない」とさかんに指導されてきた。「この人はこういう気持ちだったんだろうね」というとダメで、読みとり方が違うというと「押しつけてはいけない」となる。
  漢字をないがしろにするのは、日本の民族文化をないがしろにすることだ。漢字は音があって、訓があって、一つ一つ意味がある。戦後、アメリカ占領軍が漢字をローマ字に変えるといったが、その流れがずっときている。
  最近の若い親がつける子どもの名前はアメリカ人の名前みたいだ。
 F 読みとれないということは、文章が読めないということだけではなくて、ものごとが考えられない、相手の気持ちがわからないということだし、頭の中にイメージできないということだ。小学校の中学年になっても低学年なみに幼稚だ。これは笑い話だが、小さい順に並ぶときに、全体をイメージして自分はこのあたりの位置だろうなと考えてスッと入れず、毎回自分はどこだどこだと押しあいへしあいする子が多い。相手がいうことの意味が理解できないので、すぐケンカをしたり、はぶてたり、教師にいってきたりする。
  語彙が貧弱だ。複雑な状況などを説明したり判断できない。だから短絡的になる。
 編集部 通常一つの国を統治しようという政府であれば、次代の担い手をそのようなバカばかりにする教育政策はとらないはずだ。教育改革というのは、それを指図しているのが、文科省や中教審をも飛び越えて、小泉直属の規制改革・民間開放推進会議とか経済財政諮問会議だし、アメリカ側のハゲタカファンドみたいな奴らが日本の学校教育をズタズタにしているということではないか。教育を金もうけの道具としか考えないような連中が、アメリカの指揮のもとで、学校は民営化でやれとか、小学校から英語をやれといっている。日本を植民地にしているアメリカの側から、日本社会を将来の人材面からつぶそうとしているということではないか。
 小泉政治は人人がそこまではしないだろうと思っていることを平気でやることが特徴だ。「コメ百俵」といったことがあるが、口で言ったことと逆を実行する、つまりウソを言ってだますという手法だ。米軍再編で焦点になっている岩国では、米軍はミサイルが飛んでくることを想定して国外退避する訓練をしている。「日本を防衛する」どころでなく、原水爆戦争の火の海にして、自分たちは逃げようとしている。また、日本の農業や漁業をぶっつぶしており、餓死者がどんどん出るような社会にしている。教育も似たようなものだ。
 G 教育がわからないというのは、山口県の教育長がそうだ。県下の多くの学校で、校長や教頭が「あの教員の免許状も持っていない事務職が知事から教育長にされて、むちゃくちゃを始めた」と語っている。また、県教委の課長はほとんど高校あがりで、小・中学校の義務教育がさっぱりわからんやつが采配を振るっている。藤井教育長になって「中学校の35人学級」を打ち出したが、それをパート式の非常勤教師にした。県東部のある中学校では、そのおかげで学校崩壊になった。教科教室というのも県教委がひどくなってやらせた。また県立高校で教科の自由選択制を導入した学校で、生徒の自由勝手がはびこり、卒業させて送り出すのがしのびない状況になったといっている。

  鮮明な理念を切望 社会発展の大局観
 編集部 教育戦線で的確な方向が提起されればすごい運動になっていく様相になっていると思う。今の数値目標を掲げた教員評価制度は、校長を含めて現場はだれも「やってくれ」といったものはいない。「数値評価みたいなバカなことはやめろ」というようなことは、学校現場も父母、地域もそうとうに共感があるし、運動になる条件は大きいのではないか。
 E それは宇部で一番経験している。宇部では市長が教科担任制をうち出すけど、小学校24校中、すでに実施している学校以外23校はボイコットした。あんなことは今までになかった。宇部で実施したら子どもが荒れておさまりがつかなくなることは教師ならみんな思っている。「なにふざけたことをいっているのか。それより先に考えることがあるだろうが」と。
 編集部 教師の側が個個の教育問題で理念を鮮明にして集団的に団結していったら、教育長がいくら強権で来るといったってできるものじゃない。もともとは教育委員会は公選制だった。戦争の反省から、教育基本法は「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」と規定している。ところが山口県では、「経費削減」「効率化」「数値評価」などばかりに熱心で、教育についてはわけのわからない教育長をつけ、「不当な支配に服させる」を地でいっている。教育基本法はまだ改定していないのに、さっさと法律違反をしている。教育委員会がルール違反を平気でやるようなことが教育荒廃だ。
 H 萎縮せずに真正面から子どもにかかわり、ことの善悪をはっきりさせ、人間として成長させる教師を、親や地域はすごく求めている。小中高生の平和教室に来た戦争体験者が、「今どきの学校の先生はすごく萎縮していると思っていたが、そうでない先生がいた。日本も捨てたもんじゃない」といっていた。教師もまた、みんなそこを求めている。
 編集部 教師がいじめられっ子の模範生みたいになっていたのでは子どもに魅力はない。今医療関係者も発言しているが、学校と一緒だといっている。医療ミスを騒いで「医者責任論」をやられる。それで、産婦人科でも帝王切開してくれない病院ばかりになって、小児科もなくなる。妊婦が産気づいても何時間もかけて救急車で走っていかないといけない。資本主義がこれほど発達したら小児科も産婦人科にもかかれない社会になるわけだ。
 教師がパワーを出すうえでは、大きな社会発展の観点がいるのではないか。教育改革が日本の教育を植民地的に崩壊させて、批判力のない動物的な子どもをつくっている。それは米軍再編で日本を戦場にするという、普通では信じられないことをやることと照応している。戦前は教育勅語の「ひからびた教育」といわれるが、今の教育は戦前どころではないひからび方だ。子どもが読み書き計算もまともにできないようにさせ、その子どもに英語を覚えろという。日本全国を、米軍が自由に行動できるようにしているが、米軍の命令が伝わればよいだけの人間にしようというのだろう。
 かつて日本帝国主義が朝鮮侵略をしたさい、朝鮮民族の言語を奪って日本語を教えた。今日本で、アメリカ語を教えて日本語をまともに教えない。他国への侵略を正当という連中が、自国への外国の侵略に賛成なのだ。民主派といわれる中でも、侵略は反省しないといけないが侵略されるのはよい、というのではどうにもならない。非教育的な教育改革をやる連中の本性というのは、子どもたちをアメリカの戦争の肉弾にするというものだ。

   戦争阻止と結んで 教師、地域が団結
 D この間岩国や長崎に行ったあと、職場の同僚に、原爆展を成功させようと被爆者が声を上げていることや、岩国基地の現状と市民の立ち上がりを話したが、すごく関心を持っている。教員評価制度も、結局最後には戦争につながっていくんだという論議になった。子どもたちが切り捨てられているという実感があるから本人のなかでも結びついたようだった。戦争へ向かっているというところでいかないと、小手先で「子どもがどうなるんかねぇ」とニコニコ話していたのではダメだ。同僚もそんなことは求めていない。
 編集部 教育の問題は日本はどうなるのかという問題意識だ。まえの戦争は教育によってだまされて持って行かれた、教育の力は大きかったとみながいう。教育基本法の改悪で政府は「愛国心」といっている。アメリカいいなりの売国主義者が「愛国心」といっている。この「愛国心」の意味合いは、石原都政ではないが「日の丸」「君が代」を持ち出して教師を締めつけていく国家統制だ。またアメリカには文句はいえないが、朝鮮、中国、アジアなどを攻撃する民族排外主義だ。
 この間拉致問題で朝鮮と戦争を始めかねない騒動をしているが、アメリカの9・11事件のように、対日テロ事件などを演出して、「日本人の命を守れ」「国を守れ」「郷土を守れ」とメディアが騒いで、戦争に駆り立てるというようなことが想定される。「イエス・ノー」の短絡思考人間をつくるのはそういうときにウワーっと動員するのに都合がいい。そういう戦争に動員される人間づくりが根本にあると思う。大きな構図から見たらそれがアメリカのいいなりで、ほんとうの意味は愛国心などではなく民族破滅の売国精神だ。その基本は個人主義、自由主義の自己中心思想であり、排外主義だ。
 全般的に、大衆の怒りが爆発してすごい運動が起きる感じがする。小泉政府は落ち目になっているが、ここまで来て世論が急激に動いている。岩国も長崎もそうだが、市民生活や医療、福祉などをめぐっても行動的になっている。フランスの学生や労働者の運動にすごい共感が出ている。教育をめぐっても同じではないかと思う。
 D 北九州市では「教育改革100プラン」を打ち出し、3年まえは早早に冊子を配って新聞発表までしたが、今では「放課後なるほど教室」をはじめ不評だった施策は全部やめざるをえなくなっている。かなりの教師の反対意見が噴出している。
  現場ではみんなが、上からいわれたとおりにやれば子どもは育たないと感じている。それを束ねてはね返して「みんなの力でやったんだ」となれば強い。今は黙っているが、いいたいことはいっぱい持っている。
 司会 数値評価など具体的な問題で、教師、父母、地域の声を結集して、運動にし、教育をめぐる局面を変えるようなことが期待されている。

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