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原爆と戦争展に全市の信頼
              長崎 隠された被爆の真実を語る   2009年5月25日付

 6月14日から長崎西洋館で開かれる第5回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会)のため下関原爆展事務局は22日から24日までの3日間、 長崎市内の宣伝行動をおこなった。山口県下からのべ60人のスタッフが参加し、滑石、葉山、住吉、中園、千歳、花丘、家野町などの市内北部、桜馬場、片淵、西山、伊良林の西部などにポスター約600枚、チラシ9000枚を配布した。自治会や商店、賛同者の積極的な協力によって市内にはすでに1300枚のポスターが貼られており、被爆市民の本当の声を発信していく場として定着してきた「原爆と戦争展」への期待は例年以上に強いものとなっている。
 また東本願寺長崎教務所にある無縁仏を報じた本紙「あまり知られぬ2万体の遺骨」(6820号)が強い関心を呼び、アメリカ直結の戦後政策によって封じ込められてきた長崎原爆の真実を明らかにすることへの強い共感も集まっている。
 立山地域の公園に「殉難の碑」を建てている自治会の住民は、「小学校5年生のときに被爆した。私は家の中に入ったので助かったが、駅前や公園に死体が集められて、どこの誰ともわからぬまま火葬した。戦後、住民の手でそのままその地に埋もれていた遺体を掘り起こして供養するためにこの碑を建てた」と経緯を明かした。
 本紙をみて、「この2万体の遺骨とまったく同じように、ここに慰霊碑があることも全く知らされていない。私の通っていた西坂小学校は原爆で焼け、戦後は諏訪神社に集合したが、1200人いた子どものうち34人しか集まらなかった。他はみんな死んでしまったのだ。こういうことを若い世代に語り伝えて行かなくてはいけない」と共感をあらわして賛同協力者となり、展示物として自身の体験記を提供した。
 両親、兄弟、祖母など8人の家族を原爆で失った男性は、「姉は新興善国民学校に運ばれて死亡し、片淵の長崎大学経済学部で燃やされた。父親は浦上駅で被爆し、ヤケドはなく、しばらくは元気に働いていたがだんだん水を飲まなくなって9月4日に死亡した。母は、放射能を浴びた井戸水を飲んでいたので8月21日に死に、満州から復員してきた長兄と一緒に空き地で焼いた。長崎大学の跡地などは掘れば今でも骨が出るのではないかと思う」と語り、「長崎市内に住んでいた47人の親戚のうち21人が死に、戦後の生活は乞食のようなものだった。被爆者団体が家族のことを本にしたいといってきたので、資料を提供したがなぜかキャンセルになった。長崎市は観光名所を歩く“さるく博”をやっているが、原爆関連の遺跡を回ったときはガイドはアメリカの批判はいってはいけないという取り決めまである。語り部もアメリカへの怒りや批判は語ることができない。そんなことだから、2万体もの遺骨が放置されているのだ」と憤りをにじませた。
 本原町の商店主は、「21歳から27歳まで兵役で台湾にいたが、昭和21年1月に復員し、浦上駅前に降り立つと、街は焼け野原で自宅は丸焼けになり、母、姉、弟はその中で焼死していた。馬車引きだった父はどこで死んだかもわからないが、資料館でうちの馬と馬車が写った写真が展示されていた。焼け跡の我が家で唯一残されたものは、出征当時に柳行李に入れていた野球道具、ヘルメット、消防団のはっぴなどだったが形を残したまますべて灰になっていた。家族とともにすべてが瞬時に焼かれたことがわかり、涙が止まらなかった」と涙を浮かべて激しく語った。
 母方の親戚もケロイドを負った2人を残して全滅し、戦後は軍隊で覚えた傘の修理などをして生きてきた苦労を語り、「あの悔しさは忘れられない」と原爆展のポスター掲示を承諾した。
 被爆2世の看護師の婦人は、毎年のように原爆と戦争展にいっていることを明かし、「父は若い頃は蒸気機関車の機関士として長崎機関庫で被爆して戦後になって48歳の若さで亡くなった。父の先妻は、松山に住んでいて原爆でこっぱみじんになり、骨も分からない。父は骨髄腫(白血病)で亡くなったが、原爆病とは認められず殉職ではなく、死亡退職にされた。母は40歳で3人の子どもを育てた。私は被爆2世として、原爆を伝える活動をやりたい」と意欲を語り、賛同者となった。
 また、「精神病院に勤めているが、昭和39年にライシャワー米駐日大使が精神分裂症の少年から太ももをナイフで刺された事件を契機にして、日本の精神患者は全員、刑務所の独房のような病棟に隔離され、病気が治っても退院が許されなくなった。今度は、医療費削減のために“社会的入院”は問題といって、7万2000人の患者を病院から出せというが、就職先がまったくない。すべて民間で支援している状態だ。アメリカのためにすべてが振り回されている政治こそ問題だ」と語り、ポスター、チラシを受け取った。

 賛同協力者130人に及ぶ 寺院の僧侶も共感
 寺院の僧侶たちも、「この原爆展には毎年協力することにしている」「うちの寺も原爆で倒壊し、たくさんの罹災者が運び込まれた」と共感を示し、ポスター掲示やカンパなどの協力をした。
 立山周辺にある寺では、「平和公園の納骨堂の前で毎月9日に、各寺が持ち回りで被爆法要をやっていたが、特定宗教だけでやるのは問題があると、カトリックからのクレームがついて被爆50年を期して打ち切りになった。この寺でも本堂が爆風で傾き、本堂の前でたくさんの遺体を焼いている。本当なら東本願寺にある無縁仏も全市的な慰霊祭をやらなければいけない」と話して賛同協力を申し出た。
 被爆当時、多くの被爆者を収容した寺では、「戦後になってカトリック弾圧ばかりが強調されるようになり、地域学習に来た子どもが“この寺はキリスト教徒を皆殺しにしたのか”といってきたり、檀家さんから“うちの門徒は悪いことをした”という声を耳にするようになった。しかし、長崎を占領したイエズス会は寺を襲撃して坊守を殺したり、貧農の子どもを奴隷として海外に売り、その資金で教会を建てていた。ザビエルは中国で捕らえられて殺されたが、カトリックは中国侵略の拠点にするために日本に渡ってきたのだ。アメリカは今もそれを利用している」と話し、埋もれてきた原爆の真実を掘り起こしていくことに強い共感を表してカンパを寄せた。
 長崎では、平和公園にローマ人風の原爆祈念像やマリア像ばかりが建てられるなどカトリック調の「祈り」のベールに覆われ、「観光の材料としてしか扱われず、きれいごとにされている」「アメリカに行って“オバマ万歳”のお祭り騒ぎをするのではなく、長崎から被爆地の本音を発信しないといけない」という声が強く語られた。
 新大工町の商店主の婦人は本紙を見るなり、「最近は、市長などがアメリカに行って、平和、平和と大騒ぎするのが大嫌いだ! そんなことをする前に、市内中に今も原爆の無縁仏があることを知らせるべきではないか。こういうことこそもっと大大的に慰霊しないといけない」と、共感し、ポスターを掲示した。
 商店街役員の男性は、「原爆といえば、1部の被爆者団体が自分たちの利権を利用して、手帳をもらったり、補償を求めるだけのような印象がある。原水禁、原水協に分裂したり、宗教がらみのものしかないから、関わりたくないと感じていた」と語っていたが「2万体もの遺骨が眠っているのは問題。アメリカに行くなら長崎市長がもっと強いメッセージを持たないといけないと思う」と語って、賛同者となった。
 現在、賛同協力者となっている市民は、被爆者や戦争体験者をはじめ、各地域の自治会長、寺、神社、病院、商店街関係者、理容店、喫茶店、食品店などの商店主、自営業者、観光ガイド、学生など130人に及び、市内各所で独自の宣伝活動が広がっている。原爆と戦争展の開幕に向けて、戦後60年以上もの間、塗り替えられてきた長崎の歴史、語ることを抑えられてきた積年の思いを語り合い、若い世代に伝える市民の行動機運が高まっている。

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