トップページへ戻る

小中高生平和教室
熱い思いを語る地元体験者
原爆と下関空襲の体験を学ぶ

  小中高生平和の会(代表/今田一恵・小中高生代表/古閑歩、伊藤晃廣、古川理郁)は23日、第36回平和教室を開催した。今回は「原爆と下関空襲の体験を学ぼう!」と、福田正義記念館で開催中の「原爆と下関空襲展」を参観し、下関空襲の体験者に体験を聞いた。49人の小・中・高校生と14人の教師が参加した。

  「残酷だ」と怒る子供たち
 原爆と下関空襲展のとりくみをつうじて、語り伝えないといけないという世論が盛り上がるなかで、九人の体験者が熱をこめて子どもたちに語った。
 朝10時に集合した子どもたちは、原爆展事務局スタッフから下関空襲の概況について説明を受けてパネルを参観した。真剣にパネルに見入り、メモをとっていた。その後公園で昼食を食べ、清和園にむかった。幸せ地蔵を建立した当時の副自治会長夫人の田崎氏と自治会長の大谷氏に清和園の惨状と幸せ地蔵ができた経過を聞いた。
 大谷氏は「7月2日の空襲で警防団の指示に従って清和園の高台に逃げ、火に囲まれて逃げ場を失った62人がここで焼け死んだ」と説明した。30年間も土に埋もれたままで、幽霊が出るといううわさがあり、火の玉が飛んでいたが「供養してほしいということではないか」と、幸町保育園の設立時に地元自治会が遺骨を掘り出して、仏舎利塔に送ったことを話した。地元の自治会で毎年供養をしてきた。
 大谷氏は「わたしも清和園の近くに住んでいて、武久に避難したから助かりました。布団に水をかけて男の人が四隅を持ち、子どもたちが中に入って逃げた」と身振り手振りをまじえて子どもたちに話した。最後に大谷氏と田崎氏が幸せ地蔵にお経をあげ、子どもたちもいっしょに手を合わせた。
 つづいて焼夷弾の跡が残る本行寺に行った。本行寺の藤井日正住職が石段の傷跡を見せ、「ルメイという米軍の責任者は人を焼き殺して勲一等をもらっているが言語同断だ。本行寺の敷地はいまの倍あったが空襲で焼けてしまった。そういうことのないようにみなさんは平和の大使となってほしい。戦争はひとにぎりのブルジョア、帝国主義が起こす」と強く訴えた。
 午後2時からは班に分かれ、本行寺で藤井千代子氏に、福田正義記念館で田嶋ヨシ子、鍛冶梅香、徳村進、伊東秀夫の四氏に体験を聞いた。
 田中町に住む93歳の田嶋ヨシ子氏は、「わたしはアメリカが自分の使うところは残したような気がする。彦島の住民は三菱があるから焼かれると思っていたけど三菱があるから焼かれなかった」と語った。7月2日の空襲で田中町が焼かれ、五歳と三歳とお腹に子どもを連れて、小さい布団をかぶって防空壕に逃げたという。防空壕は立錐の余地もないほどぎゅうぎゅうづめだったことや、子どもの頭がなくなった人がいたこと、家を守るといって残った人が、家のそばでうずくまるようにして亡くなっていたことを語った。「その日の晩住吉神社でみんなで寝たが、着いたときは涙が出て、よく生きていたと思った」と話した。「どんな食べ物を食べていたのか」「どんな生活をしていたのか」「戦後はどうしたのか」と子どもたちが出す質問にたいして、子どもがいたので勤労奉仕に行かず、着物を縫ったりしていたこと、コメも魚もミルクも全部配給だったこと、配給のコメは白くなかったことなどを語った。
 戦後、「食べ物がなくて困っていたらアメリカの援助物資が入って助かったんです。だからアメリカにたいしていいにくい。だけど根本のことを考えるとアメリカがいらないことをいって日本が宣戦布告したような形でしょう?」と語った。
 「ぼくたち若い世代になにかいいたいことはありますか」と高校一年生が質問。「わたしたちはたくさんの人を関門海峡から送ったが、このなかに帰れない人がいるだろうと思ったら涙が出た。あの時代に戦争をやめたら、何万という人が死なないですんだ。暗黒の時代でした。戦争がいかにみじめかということをみなさんに知ってもらいたい。これからの人をあんな目にあわせたくない」と語った。
 話を聞いた子どもたちは「アメリカ兵はなんの罪もない人を殺すなんて残酷だと思う」「きょうはとてもいい勉強になりました」と1人1人感想をのべ、田嶋氏はあいづちをうちながらうれしそうに聞いていた。
 これまで原爆や戦争体験を学んできたが、子どもたちは、学校では習わない下関の歴史にふれ、自分たちの住む地域がこれほどの戦災にあっていたことに驚いていた。

トップページへ戻る