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 確信強めた集会参加者の感想
原水爆禁止広島集会
           「米核持ち帰れ」の基調共有   2006年8月9日付

 6日に広島で開かれた2006年原水爆禁止広島集会(原水爆禁止全国実行委員会)に結集した広島、長崎、下関の被爆者、米軍再編との斗いを繰り広げてきた岩国や沖縄など全国の参加者から、核戦争を阻止する大きな確信とともに、感動と共感をこめた感想が寄せられている。感想を紹介する。

           次世代の発言に手応え  広島市・真木 淳治
 今年の広島集会は本当によかったと思う。広島からは高橋さんが発言し、宮島の正木さんは米軍基地の再編にからんで、宮島島民の思いを堂堂と発言した。長崎の方も体験を涙ながらに語られていた。帰りがけに長崎の方とお会いしたとき、「広島や下関のように、長崎でも必ず会を立ち上げますから」といわれ、お2人と握手をして別れた。萩の阿部先生も教師として、どう子どもを引き上げて教育していくか語られ、非常によかったと思う。
 私としては特にうれしかったのは、次世代の力強い発言があったことだ。広島からは宇田さんが発言され、はっきりと「アメリカは核をかついで帰れ」といわれていた。私たちの思いを引き継ぐ世代が出てきていることに、喜びを感じる。
 今年は、原爆展の会場に来る人に語りかけると、原爆や戦争について考えるだけでなく、何か自分にできることはないだろうか、という反応が返ってくる。手応えを感じる人が多いことが実感だ。個人個人は小さな力でも、全国の人がつながれば、大きなうねりになっていくと思う。

          確信した原爆止める力  広島市・石津 ユキエ
 今年の8月6日の集会は、これまでになく目がさえて、1言も聞き逃すまいと一生懸命聞かせてもらった。これまで広島では、地域での原爆展などを重ねてきて、だいぶつながりが広がってきた。宮島でも原爆展をやり、宮島の方の思いを知ることができた。今度の集会で、宮島の方も発言されて、よかったと思う。
 沖縄の人、長崎の人、岩国の人など、全国で悲惨な体験や悲しい、苦しい思いをしてきたことが発言され、それがよそごとではなく、自分自身のこととして聞かせてもらった。また長崎の状況や、下関のとり組みの様子など、これまでまったくわからない状態だったが、それぞれの地域でみなさんが、頑張っていることがわかった。広島だけでな、く全国が同じ思いをしていることを知ったからには、私にも責任が出てきたし、絶対にこの活動から逃げることができないと思う。
 平和の会の子どもたちも、一生懸命被爆者の話を聞き、集会で発表したり、デモも、暑い中を一生懸命歩いている姿を見て、本当にうれしかったし、それがまた励みになっているが、1番うれしかったのは、次世代の人が発言したことだ。広島からも宇田さんが堂堂と発言されたことがよかった。
 全国どこも同じだが、広島、長崎は、特に原爆を、断りもなく勝手に落とされ、悲惨な思いをした。今でもアメリカに「お兄ちゃんを返してよ」と言いたい思いで1杯だ。広島県人も、悲惨な目にあったというので、逃げていてはいけない。こうして広島以外の人が頑張っているのを見ると、広島県人としては恥ずかしい。私も、前は話を聞くばかりで、伝えることはしていなかったが、逃げていてはいけないというのが、今の私の思いだ。この活動に参加して1年目、2年目というのは、どこそこの政党だとか、そんなことが自分の頭の中をぐるぐる回っていたが、今では自分は正しいことをしていると、自信を持っていえる。私たちが体験を受け継いで伝えて行くことが、戦争や原爆を止める力になることを確信している。

     原爆持ち戦争する国との同盟は絶対いらない  岩国・村中 雪春
 歴史的最悪な日の8月6日、私はこの日開催される原水爆禁止広島集会に参加するため、岩国から出発するレンタカーに便乗して、広島市加古町のアステールプラザ会場にむかいました。広島市内に入った私たちの車は、太田川を本流とするいくつかの橋の上を通りました。川の街ともいわれる市内を流れる川面は水が透き通り、川床が見えるほど美しい川でした。河川敷も整備され公園化している場所もたくさんありました。
 61年前この川で人は水を求めて死に、その河原ではどこの何万ともわからぬ方の御遺体に真黒い重油をふりかけてマッチで火をつけ、何100何1000もの方方を荼毘にふした日日があったことなど、誰1人口に出す者はいませんでした。しかし、私は運命とは申せ、その罪悪極まりない作業をさせられた体験者でありました。
 その私が、遠くに見えた江波皿山と下を流れる天満川にむかい手を合わせたとき、ぐっと胸が熱くなり溢れる涙を抑えることはできませんでした。
 そして車は、炎天下の会場に着きました。気温摂氏35度。広島に入ってから私たちの同行者の中からは、この熱射にもかかわらず誰1人暑いという言葉を口にした者はいませんでした。これもみんなが、61年前この地でビンまで溶かした数1000度の爆弾で犠牲となられた方方のことを、偲んでおられたものと思います。
 さて私たちは、早速原水禁広島集会の会場に行き、早速、集会が開催されました。準備万端整ったなかで、整然と会議は進み、峠三吉の詩の朗読が、はぐるま座の座員の方方によって始まりました。その朗読たるや被爆犠牲者の方方の原爆投下に対する怒りの声、哀愁の声、命を尊ぶ尊厳の声、争いの無き心から出る平和の声、満席に近い会場はシーンと水を打ったような雰囲気でありました。胸詰まる朗読も終わり、次に登壇したのが全国から参集した、小中高の若い子どもたちでした。
 この子たちの意見発表の前に会場に流れた歌は、なんと80歳をすぎた私たちが小学校のとき習った唱歌、故郷の音楽にあわせる子どもたちの声でありました。会場も壇上の子どもたちと一体となって大合唱になりました。私も声を出して歌おうとしましたが、声になりません。涙涙涙涙を止めることができませんでした。なぜか、それは故郷という、なにものにもかえられない郷愁の念でした。
 私たちの仲間はかつての戦争で、故郷の土を踏むことなく、大陸の荒野で、南方の島島で、太平洋の海中で、沖縄で、広島で、長崎で、かけがえのない命を失ってきたではないか。その尊い命を代償にして、今日60年に余る平和が保たれてきているのではないか。
 私は申し上げたい。武器をつくったり、戦争をする国と仲間になっては絶対いけない。原爆を持っている国ともしかりである。武器や原爆を持っていて使わないという保証がどこにあるか。広島や長崎の原爆罹災で亡くなられた方方に対し申し訳ない。戦争をする国との同盟は絶対いらない。原水爆禁止広島集会に参加して、あの会場の雰囲気の中からあらためて平和の尊さを感じました。

      運動の広がりを実感  下関原爆被害者の会会長・伊東 秀夫
 今マスコミが北朝鮮問題で悪質なキャンペーンをおこなっているなかで、「アメリカは核を持って帰れ!」という訴えを、広島市民を中心にくり広げ、それが広範な市民の支持・共感を呼んだことは大きな意義がある。そして広島集会もその方向にそってやられたことは大変よかった。
 個個の人の発言も、原爆投下による悲惨な体験と、アメリカが投下したことへの怒りが突出していた。しかも過去の問題ではなく、アメリカが戦後一貫してやってきたことへの怒りに溢れ、「アメリカは核を持って帰れ!」のスローガンにぴったりした集会になった。
 原爆展会場では、被爆者、空襲体験者、戦地での体験者が同じ戦争の犠牲者として、戦争を起こした者への怒りを共有する、共通した基盤が生まれていることが非常によかった。被爆者だけでなく広範な戦争体験者に広がっていく、運動の発展が見えるようであった。全国空襲や下関空襲、戦地でのパネルは、下関の空襲展が発展させられたものであり、一層、確信となった。
 会場で被爆体験を語ってくださった被爆者も、単に被爆体験を語るだけでなく、誰が原爆を落としたのか、そして今日の情勢について研究して明らかにし、熱心に訴えられ、それを聞く方も真剣に聞いていた。被爆者の気持ちが通じていくのがわかった。
 下関から始まった原爆展の運動が段階を画したということを実感した。これからもっとこの運動が広がるし、広げていかなければならない。広島では若い人が原爆展に参加してきている。これも広島の被爆者たちが年間をとおして、地道に原爆展の活動を積み重ねてきた成果だと思う。
 日本のマスコミや政党の大キャンペーンのなかで、それをうち破って広島で声が上がったことは、全国的な意義も大きいことを確信する。運動をさらに全国に広げていくために下関でがんばりたい。

              心も熱く広島8・6  京都・詩人・きど よしみ
 初参加の広島8・6集会は自分にとっても熱い1日だった。広島を訪れるのは実に50年振り。長崎には原水協集会に2度行っているが、何か満たされるものもなくただ疲れが残った。
 友人と3人、京都を朝たった。古い駅前の記憶をぶっとばすほどの明るさ。被爆者の心は晴れぬ間に、街は新しくなった。太田川の辺りの風景も見知らぬものに変っている。戦時中、船舶工兵(のち砲兵)であったため、この川では舟艇演習が幾度かあった。冬の最中、股まで水につかっての上陸演習。実戦で役立つことはなかった。
 相生橋の基町を歩いた。両側に家があった様に思う。川沿いの方は200b家はなかった様だ。
 50年前ここを訪れたとき、2人のお婆さんと話をした。
 「この下の砂を掘ってみんさい。まだ白い骨のかけらが出るけえ」。まだ原爆ドームの保存も決まっていない頃である。
 広い緑いっぱいの平和公園。慰霊の祭壇の香煙。大勢の人人が手を合わせている。そっと眼鏡を押さえた中年の女性、外国人、あらゆる人人が等しく原爆の被害の残酷さを知ることになるこの公園の資料館。16歳で被爆死した1女子高生の悲願が全国に広がって、保存が決まった産業奨励館あと。私も涙を押さえきれなかった。
 8・6集会の仲間とのデモは、体調のこともあって車に乗せていただいた。最後尾だったのと車中のこともあって、シュプレヒコールも聞こえず、あとで仲間の話を聞いた。老いも若きも通行の人人が手を振ってくれたそうだ。
 私の中に新しい怒りと、仲間への信頼のきずなを強めてくれた1日であった。

            力と希望を感じた1日  福岡市・桑原 嗣子
 アメリカとそのお追従者小泉が大手をふるい人人をたぶらかす現代の様相に、真正面から「それは違うぞ!」と声を上げる集いに参加できたことは本当に有意義でした。
 行きのバスの中で聞いた被爆体験のお話、4歳の少女が原爆のことを、問うてはならないこととして胸にしまいこんだ姿が、ありありと目に浮かびました。8・6集会で聞いた救護班の炊き出しのときの少年のお話、長崎や岩国から参加して語ってくださった痛切な被爆体験。原爆被爆とはこういう1つ1つの語りつくせない深い悲しみなのだと、かたくかみしめました。
 小中高生のみなさんの舞台は、お話の中に出てきた少年や少女が今に生きて反戦平和を高らかに謳っているようでした。このように年齢の幅の広い子どもたちの集いは、かつては確かなものとしてあったこと、そして目の前にまた確かなものとしてあることに、大きな希望を感じます。
 峠三吉の詩と原爆パネル展の訴える力、真実とは世代や民族をこえ、平和を願う人人の胸を打つものだということを、日本の青年、アメリカの青年の発言の真剣な思索と動機の中に確信しました。
 デモ行進では、例年出会う他の2、3の団体のかげもなく、北朝鮮を非難するその手で、よりいっそうの狡猾な統制が着着と敷かれている現実を感じました。元安川の川辺での盛大なコーラスが、熱い風とともに聞こえてきます。その声が8月6日だけのものであれば、最大の核保有国で世界で唯一の原爆投下テロをおこない、今もって盗人猛猛しいエセ民主主義者アメリカに届くことはないだろうと思いながら、帰りのバスに乗りました。

            「米は核持ち帰れ」がいい  岡山県・イラン人
 広島の集会には初めて参加した。よかった。楽しかった。アメリカは核を持って帰れ! のスローガンはよい。
 イランではいろいろな運動がたくさんある。毎週金曜日にお祈りがある。そこで、アメリカが悪いことが言われる。イラクから帰れ! レバノンから帰れ! ということが言われる。イランにはヤンキーは居ない。
 広島の会場でアメリカ人、フィリピン人、フランス人と挨拶した。アメリカ人の彼は、アメリカは間違ったことをしたこと、イラクで今大変なことになっていること、アメリカ人はブッシュは好きではないこと、イラクやアフガニスタンで毎日アメリカ人が死んでいること、など話した。
 イラン人は、広島のことがよく分かる。シネマでも広島のことをよく観る。だからイラン人は広島のことをよく知っている。戦争が終わることが分かっていてアメリカは原爆を実験した。アメリカは悪い。今アメリカは核兵器をたくさん持っている。アメリカは中国に対抗するためにインドに新型核兵器を売っている。
 また会いましょう。

   沖縄と広島の心は1つ  沖縄原爆展を成功させる会事務局長・屋宜 恒一
 「広島に学ぶ小・中・高生平和の旅」の9名を先頭に、沖縄の代表団は2006年原水禁広島集会に参加し、団結と親交を深め帰沖しました。先祖崇拝の伝統のいきづく、8月5〜7日までの、お盆と重なる時期の旅は各人の困難も多く、女性陣は参加を断念せざるをえない状況もありました。ともあれ、「まるで戦争準備だ」と戦争体験者が強く憂慮される社会情勢の中で、各各の地域・職場・学校、街頭で多くの県民の支持と協力を得て、原爆展、被爆体験に学ぶ会、戦争体験を語り継ぐ会、カンパ活動、原水爆禁止署名活動が旺盛にくり広げられ、その成果をたずさえて沖縄から被爆者、被爆2世・3世・4世をはじめ高校生、青年教師、婦人、労働者の代表17名が広島に派遣されることになったのでした。
 広島で、被爆地で直接、被爆者の方方の体験を初めて聞いた青年教師たちは「今までの平和教育とは一体なんだったのだろう?」と口口に感想をのべています。お祭り騒ぎのような平和式典などの行事には目もくれず、娘、息子たちを、父や母を奪われみずからも長期にわたってさまざまな困難とたたかい、歴史の真実を若い世代に語り継ぐ使命を持った被爆者の方方の深い悲しみと怒りは、若者たちの魂を揺さぶらないはずはなかったのです。
 戦後61年間、朝野をあげて「平和教育」に力を注いできたはずの、この国の現状は一体どうでしょうか? 「安保条約」とひきかえに、売り飛ばされた沖縄では「反戦平和」教育とやらが、「命ドゥ宝」(ヌチドゥタカラ)思想で跋扈(ばっこ)してきましたが、戦争前夜を思わせる社会状況のなか、なんの力もないどころか、平和の担い手を育てる平和教育を進めるうえで障害要因の1つにしかすぎないことが明らかになってきました。
 沖縄の原爆展運動、原水禁運動、教育運動は沖縄戦の体験者、被爆者から学び実践することにより、隊伍を固め広げることができることが、8月6日広島集会への参加のとりくみで明確になりました。
 昨年夏、広島の被爆者・山本正子さんが来沖され、沖縄の被爆者、被爆2世、原爆展を成功させる会の会員たちを大きく励ましました。山本さんとの交流会は、沖縄と広島の心は1つであり、広島の被爆者の方方が市民原爆展を継承して成功させていることは、沖縄県民の米軍基地を撤去し、米軍を叩き出す斗争に対する強力な支援であると思います。
 「アメリカは核を持って帰れ!」の2006年原水禁広島集会アピールを実現するために沖縄代表団は、より一層団結を固め、深く戦争体験者、被爆者の方方に学び各各の地域、職場、学校で実践することを決意しています。

       米国糾弾する集会に力強さ   山口市・元国鉄労働者
 アメリカに矛先をむけた、原水禁集会にこのたび初めて参加させてもらい、力強いものを感じた。暑さはこたえたが、デモにも参加した。集会で被爆者たちが発言していたように、私も「これからの世代の人たちに2度と同じ苦しみを味わわせてはならない」という気持ちでいっぱいである。そのためには、この集会のように、アメリカ帝国主義にむけたたたかいを大いに発展させなければならないと思う。
 私はかつて、社会党で60年安保斗争などをたたかってきたが、当時の政治勢力は今ではあとかたもないほどになってしまっている。社民党もなんの力にもならない。このままでは、今度はアメリカのための戦争に国民がだまされて動員されてしまう。
 私は昭和15年に国鉄に入り、戦後の昭和55年まで鉄道の運転士をやってきた。昭和20年5月に召集されて広島の部隊に配属されたが、7月に東京の部隊に転属を命ぜられ、広島原爆投下にあわずにすんだ。9月に復員し、廃虚となった広島を見た。私は今日まで生きているが、同年代の多くの戦友は戦地や原爆で死んでしまった。
 日本軍国主義は国民をだまし続け、中国や朝鮮でさんざん悪いことをやったあげく敗戦となった。戦後の日本はアメリカに単独占領され、アメリカの戦争のための基地にされてきた。イラク戦争を見てもわかるように、アメリカ帝国主義は一貫して侵略戦争をやり続けている。これからは日本を最前線基地として強化し、ひき続き戦争をやっていこうとしている。その報復攻撃を受けるのは日本であり、このままではふたたび日本の国土は廃虚にされてしまう。
 今後も機会があれば、いろいろな集まりに参加し、私の経験を役立てていきたいと思う。

 「沖縄の参加者の感想」
 被爆者の生の声を聞き感動  小学校教師(25歳)
 沖縄では聞くことのできない被爆者の生の体験を聞くことができ、広島に来て学ぶ意義は大きいと思った。広島に学ぶ小中高生平和の旅に参加したが、1日目は、平和公園の木陰の下で被爆者から話を聞いた。この場所は、たくさんの人が亡くなったところで、数10年草木も生えないといわれた場所といわれた。61年たち潤いのある場所になっているが、ここに来て学ばないといけないと思った。
 長崎の被爆者の永田さんの話を聞いた。アメリカ人の方も参加されていて、アメリカ人がなぜと思った。その方は平和について学びたいという熱心な人だった。アメリカ本国から両親を招いたという。外国人にもいろんな人がいると思った。シカゴ大学が原爆をつくった大学だということも初めて知った。
 平和の旅では、子どもたちもしっかりよく聞いて、よくがんばった。内容が濃いもので、中身が違うということが少しわかった。集会後のデモ行進では、子どもたちもしっかりと声を出し、まわりの子を気遣い、90%の子どもが他の子を気遣い、うちわで扇いでいた。戦争反対というだけのデモではなく、小中高生が思いやりを培っていることが印象に残った。
 この経験をどうして伝えていくか、世界へ広げていくことが大きなテーマだ。そうならないといけない。大きいものを動かすには、小さい力が大きい力に変わるには、被爆者の体験をひきついで話すことだと思う。平和の旅での場面にそういうものがあった。小学校の1年生や2年生の子どもも意志表示していた。自分の力で声を出していえたのはとても意義ある活動だった。

 平和教育の見方が変わった  小学校教師(28歳)
 平和教育をいっぱい勉強してきたつもりだったが、いったい何だったのか。平和の旅で勉強させられた。沖縄へ帰って何をすればいいのか考えさせられた。祖父の被爆体験をもっと聞いておくべきだった。1日目は、重力夫妻らの体験を聞いた。はだしのゲンに書かれているような、そういう話をいっぱいされた。原爆にあたって、皮膚が垂れ下がった人、目玉が飛び出したという人のことを話された。
 2次被爆をしたという土川さんは、親戚の子どものケロイドの治療に、亡くなった人を燃やした骨をとってきて、粉にして傷口に塗ったこと、その時、死体が半焼けになっていて、顔の表情がすごかったことを思い出すと話された。薬も病院もなかったという。その話は自分が今まで思っていた以上の話だった。重力さんは、自転車に乗っていて原爆にあったという。帰ってきたら着ていたものがすべて真黒でやけどをした跡を見せてくれた。沖縄でも体験者の話を深く聞いていけば同じものがあると思う。何ができるのか考えさせられた。
 平和の旅を援助されている先生方もすごいと思った。班ごとに分かれていたが、その班長の子どもの助言も適切で子どもたちの力に感心させられた。参加してとてもよかった。

 若者をもっと参加させたい  高校生3年・男子
 実際に被爆を体験した人の話を聞かないとわからない。間接的ではなく、直接に聞くことができ、とてもリアルだった。この2日間はあっというまだった。デモでは、自分の班の子どもたちが、自分の後ろにしっかりと並んでいるのを見てうれしくなった。集会にもっと若い人を連れてきて、聞いてほしい。若い人はもっと参加して、被爆者らの話を聞くべきだと思った。

 はじめて聞いた被爆者の話  高校生1年・男子
 結団式のあと、あなたが年長だから班長をしなさいといわれ面食らった。
 1日目は、年下の子どもたちはいうことを聞かないし、班のコミュニケーションがとれないしどうしようと迷っていたが、夕食の時に班の仲間の名前を覚えて、翌日からは話ができるようになった。
 被爆者の話は、自分の考えていたものとはずいぶん違っていた。原爆が落とされてみんな死んだと思っていたが、皮膚が垂れ下がったり、苦しんで亡くなったということを知った。
 集会後のデモ行進はとても楽しくなりおもしろかった。デモの最中、みんなに塩をあげる役目だった。

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