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 原水禁・戦争阻止の巨大な動き
座談会・長崎「原爆と戦争展」の特徴
              市長銃殺の重圧覆す    2007年6月25日付

 3回目になる長崎・原爆と戦争展は熱気のこもったものとなった。戦後60年あまり、祈りと結びつけて「平和をもたらしたやむを得ぬ原爆投下」という宣伝が上から覆い、最近ではアメリカの原爆投下を批判していた伊藤市長が選挙中に銃殺されるという事件が起きてものをいえなくさせる空気が押し寄せるなかで、今こそ原爆と戦争の真実を発言しなければならないし、若い世代に伝えなければならないという長崎市民の大きな行動となってあらわれた。これに関わった下関原爆展事務局、原爆展全国キャラバン隊、本紙記者による座談会を持ってその特徴、教訓などについて語り合った。

 全市的な運動へ発展 被爆者、戦地体験者の思い結び
 司会 まず、今年の長崎「原爆と戦争展」までの経過と特徴から出してもらいたい。
  長崎はこれまで2回の原爆展をやってきた。「祈りの長崎」という欺瞞のベールのもとで沈黙を強いられてきた長崎市民の発言が始まってきた。今年は、4月末に起きた伊藤前市長の銃殺事件が起き、市民にものをいわせない不気味な空気が漂っていた。さまざまな「平和」を唱える勢力もチンとなっていた。
 このなかで、伊藤市長事件をめぐる長周号外を長崎市内に配布した。「殺し屋を雇った背後勢力はだれか」という号外は市長選の投票日、その次の週も第2弾の号外を配布した。同時に、キャラバン隊も観光通りなどで展示をし、原水禁実行員会も全市的なチラシ配布やポスターはりに入った。これはすごい反響になり、なぜ伊藤市長が殺されたのか、今から市民がなにをしないといけないのかと市民の論議を激励することとなった。
 その盛り上がりのなかで「原爆と戦争展」の開催となり、「市民がこれまで以上に発言しないといけない」「被爆市民の意志を示そう」と賛同者会議から気合いが入ったものになった。特に、体験者たちの被爆や戦争体験を語っていかないといけないという思いが、いま現実にすすむ戦争に対して市民的な運動を起こしていかないといけないという行動意欲となって出てきた。それに触れて若い人たちも発動された。長年「沈黙」といわれてきた長崎で、かなり画期的な動きになったと思う。
  5月の中旬から、宣伝活動では伊藤市長が殺されたことについて、「単なる個人的な犯行ではなく必ずバックがいる」とか、「原爆で無惨に殺したアメリカ的なやり方だ」とかなりの市民から語られた。市民の思いを号外が激励しているという手応えを感じた。2回の市民原爆展の定着の上に、今年は特に意気込みが強く、これまで以上に自治会などがポスターをはるとか回覧するなど積極的な協力が広がった。チラシも7万枚で、去年よりも少ないが、市民自身が預かって、またたくまに市内中に広がり、大宣伝をしているという印象になった。ポスターは1500枚がはられた。
  長崎市民が自分たちが主催者だという意識が強く表れ、宣伝活動から文字通り市民の運動になっていった。長崎の会の被爆者たちを中心に、10人の市民が修学旅行生に体験を語ったり、学校を回って参観を訴えたりという行動が進み、そのなかで得た確信は1回目の原爆展と比べると雲泥の差だ。
  伊藤市長の事件直後、重苦しい空気のなかで、街頭キャラバンをはじめると「よくやってくれた」と喜ばれた。「あんまり原爆反対、戦争反対をいっているとズドンとやられるぞ」ともいわれたが、市民が思っていてもいえないことを、正面からかかげてやっていることに信頼が集まった。「このようなときだからこそいわないといけない」「市民の力を示さないといけない」という世論が盛り上がっていった。戦争体験者からは、「戦争がはじまろうとしているのではなく、もうはじまっているんだ。団結して戦争を止めないといけない」とどこでも語られる状況だった。

 市民同士も交流深める
  戦艦大和の最後を見たというおじいさんがパネルを見た後に、「長崎では原爆、原爆といいながら、戦地に送られて殺されて行ったものが戦争犯罪者のように扱われて、なにもいえなかった」といっていた。だから、この「被爆市民と戦地体験者の思いを結んで平和な未来のために語り継ごう」というスローガンは、大歓迎だった。会場に何度も体験を語りに来た戦争体験者も、パネルを何時間もかけて見て、自分が3年半南方に送られ、たくさんの戦友を亡くしたことを語り、「平和都市とかいうが実際に三菱には特殊機械部というのが今でもあり、防衛省の専属で武器を製造している。いまだに戦争をやろうとしているものがいる」という危機感と、「真実を語らないと死んでも死にきれない」という迫力で語っていた。あの戦争はなんだったかという全貌を明らかにすることは、「今からの戦争をどう阻止するか」という切実な思いとかみ合っていった。
  長崎の会の被爆者たちも、キャラバンをやっている場所に駆けつけて暑い中を道行く人に声をかけ、「あなたはどこで体験されたんですか」と積極的に語りかけたり、「西洋館でお待ちしています」と呼びかけていた。ある婦人は商店街で、露天商のおばちゃんたちに「あそこで原爆展をやっているから見に来て」と誘いに行ったり、自分たちの運動として成功させていきたいという思いが溢れていた。市民同士で交流を深めて戦争を阻止する力をつくっていきたいという思いで行動にも熱が入っていった。

 「真実だ!」と市民 バラバラの体験1つに結ぶ・パネルに衝撃
 司会 原爆と戦争展の反響の特徴はどうだろうか。
  今回は、特に、第2次大戦パネルを時間をかけて、食らいつくように見入っていたのには驚いた。感想を聞こうと待っていてもなかなか見終わらなかった。そして、1枚1枚パネルを見ては「これが自分の体験なんだ!」と口口に語り、「自分の体験が戦争全体のなかでなんだったのかがわかった」という声も多かった。
  第2次大戦のパネルがこれまでバラバラにされていた戦地の体験や空襲体験、被爆体験を1つに結んで、これまで聞いたことのなかった無惨な体験がどんどん語られた。ある被爆者の男性は、家族を原爆で亡くし、戦地に送られた兄弟は全部殺され、「戦争と核兵器を憎む」と現代の核戦争と結びつけて語っていた。また、若い世代が原爆投下は戦争終結に必要なかったことなどにものすごい衝撃を受け、問題意識も鋭かった。
 長崎の会の被爆者たちも、下関や広島の援助に応えて、長崎市民である自分たちがやらないといけないという意気込みで、毎日の受付や参観者に体験を語るなど積極的に担った。体験を聞いた若い人たちの真剣さも喜びになり、これからも市民の運動として、継続していく確信になった。大きな背景には、伊藤市長が銃殺されこのまま黙っていてはいけないという強い市民世論があったと思うし、この運動が長崎市民の声を代表する堂堂としたものになった。下関や広島の被爆者たちと交流して経験を聞いたり、会場でも参観者にどんどん体験を語っていくなどの行動意欲は、去年と段階を画している。
  若い人たちも、3日間かけて会場に足を運ぶ人などじっくりと見ていた。長崎大学などの学生や予備校生、家族連れ、会社員や大学教授や学校の教師などが真剣に見て感想を語っていた。その内容は、戦後62年の教育のなかで、戦地体験は「加害」で、原爆は「被害」という固定観念にしばられていたが、パネルを見て「全然違っていた」という衝撃だった。4、50代の人たちはこれまで聞いてこなかった親の苦労がはじめてわかったといっていた。
  「みんな貧乏になって戦争になっていった」「大学は出たけれど」とか、1枚目のパネルから引き込まれていた。国民の世論は渦巻いているが、「マスコミに叩かれてものがいえなくなった」とか今とそっくりという衝撃もあった。
  これまで原爆、沖縄戦、戦地のことなどがバラバラにされてきたが、それがひとつながりになり、認識がひっくり返ったという。体験者たちからは、海に投げ出され浮いている兵隊を撃ってきたというアメリカの残虐さや、占領軍が乗り込んできて民家を略奪していったことなど、自分の体験を重ねて「これが真実なんだ!」とパネルの前で若い人に語る人が多かった。戦争体験者は真実を語ることを抑えつけられてきたし、戦後世代はだまされていたが、これが覆されていった。
  「みんな同じ被害者ですよね」と満州に開拓団として行っていたという人が被爆者に話しかけていた。引揚げ者もたくさん来て、「満州にいた兵隊さんが、南下していったが、その後どうなったのかわからなかった。残された自分たちはたいへんだったが、兵隊さんたちも南方に取り残されて死んでいったのですね」とか、「内地ではアメリカがこれだけのことをしていたのか」と驚いていた。
  ジャングルの中で飢え死にした兵隊の写真も釘付けだった。戦争中、内地にいた人が、「兵隊さんのために私らは辛抱していたが、兵隊さんのところには何も届かず餓死していたことをはじめて知った」と衝撃を受けていた。また、全国がこれほど空襲でやられていたのかとか、皇居や三菱は狙われてなかったことなども、はじめて知ったという人が多かった。

 語らせぬ構図突破 鮮明になる共通の敵
  長崎では特に、兵隊経験など語れる雰囲気ではなかったといわれていた。
  第2次大戦については戦後占領軍が、兵隊は犯罪者という扱いでしゃべらせなかったから、体験者の体験もそれぞれバラバラの個別体験で、互いの体験を総合した全体像がどうなっていたのかがよく分からないところがあった。そういう作業をする勢力もいなかった。皇居や三菱が狙われなかったことなど、各地の空襲を総合して見ての新発見だった。占領軍の方は「おまえらは悪者だ」という調子で、特に特攻隊などの生き残り、予科練、戦地帰りの人人は悪者の権化みたいに弾圧され、そのように扱われてきた。原爆について話せないのと同じように戦地の体験が語れなくされていた。
 とくに、被爆地では「兵隊が悪いことをしたから原爆を落とされたのだ」という構図がつくられ、被爆者と兵隊の対立が仕組まれてきた。キリスト教の「祈りと反省」という構図を突き破って、被爆市民が語りはじめたが、兵隊経験者も今回はじめて語ることができたという喜びだ。大衆はみんな「戦地に行って帰ってきたら、家族は原爆で皆殺しだった」とか「うちの家族もあちこち戦地に連れて行かれ、戦死し、自分は原爆を受けた」という。大衆の側は原爆も戦地も1つのものだ。しかし、戦後社会の上の方では、それを切り離し対立させる特別なイデオロギーが作用してきていた。
  参観した被爆者が、今回は戦争にいった家族のことを哀惜を込めて話していく人が多かった。そういうことを公然と話せるというのが喜びという感じだった。
 A 戦地体験者たちが「“過ちをくり返しません”というのは私らではなく、戦争を起こす連中にいわせたい。マスコミや一部政党に惑わされてはいけない」ということを共通してアンケートに書いていたのが新鮮だった。「だれが殺したのか!」という怒りは、被爆者と同じものだ。同じものが、戦地では兵隊を殺し、原爆で市民を殺し、戦後はその責任をうやむやにして、体験者同士を争わせていた。それはアメリカであり、それにつながった天皇、独占資本集団だ。個個の体験をつなげていけばその共通の敵の姿が見えてくる。どだい、被爆者や戦争体験者を対立させることなど観念的な操作でしかない。それを占領軍がやりまくったが、大衆が団結すればそんなインチキは吹き飛んでしまう。
  今回の原爆と戦争展では、伊藤市長銃撃による重圧をひっくり返しただけでなく、戦後62年の抑圧そのものをひっくり返してきた。一昨年から、それまで長崎では影響が乏しかった50年8・6斗争を体現した峠三吉の原爆展で挑んだが、長崎市民はそれを待望していた。1年目に、長崎市民の工作をやるなかで「沈黙を破る長崎の怒り」「祈りの長崎は少数派」とやった。長崎の人人にとっては「そうよ」という感じで当たり前だったが、下関などよそでは長崎には教会しかなくて寺などないような認識にされていた。それが3年間で、被爆市民、戦争体験者の底に流れていた真実の声が大きな力で表面化してきた。長崎が動きはじめたわけだが、これは全国的、全世界的な平和に大きな貢献をすることだと思う。
  長崎の成功させる会の人たちが口をそろえて「自分たちがやらないといけないのに、下関がやってくれて有り難い」「宣伝が行き届いている」とか「強い組織の力ですね」といっていた。主人公は長崎市民であるわけだが、彼らが主人公となって立ち上がるためには、下関のような組織された力が援助することが必要だという関係だ。被爆市民を語れないように抑圧してきたものは何か、人人の経験を集中してそれを確固としてうち破る論点をもち、実際に多くの市民に知らせる宣伝活動、また会場の設営から運営などの多くの実務を確実に担う組織がいる。それを必要なものとして歓迎しているわけだ。

 発動した50年路線 嫌われる「加害者論」
  今年はとくに伊藤事件でものがいいにくい雰囲気のなかで、だからこそ発言しないといけないという世論を激励していった。「ズドンとやられるぞ!」という空気のなかで、前面に立ってやったが、無理なことをいっているのではなく、みんなが思っていることを書いて、背後勢力の政治テロだとあからさまにやった。みんなが思っていることを公然とした新聞でやることが、個個の思いを形にし、発言を促すことになった。
  「宣伝力がありますね」とよくいわれたが、今年は、われわれが直接配布したビラの枚数だけではなく、市民の口伝えの宣伝が去年の比ではなかった。声をかけたり、友人、家族と連れ立ってくる人、買い物先からお客を連れてくる人、病院や商店でもチラシが足りなくなって取りに来る人もいた。見た人が誘ってまた来るというのが多く、同級生に声をかけて会場で同窓会をやる人たちもいた。長崎市民が宣伝し工作する状況となっていた。
  被爆者たちがいっていたが、「長崎には5つの被爆者団体があるが、実際には年会費を集めるだけだったりでこれだけの運動をやる団体はない。市民の中ではこのような運動をやってほしいという声が多い」といっていた。
  長崎では、「加害責任反省」の専門家である本島元市長らの影がまるで薄かった。本島氏は、天皇批判をして撃たれたが、その前は「日の丸の会」の会長をしていたそうだし、撃った右翼は本島氏の選挙をやっていたんだといわれていた。市の職員のなかでも「あの人は自分の理念なんてなかったですよ。今では原爆容認ですからね」といわれていた。そういう本島氏を平和運動のカリスマ扱いする左翼勢力、平和勢力は何かという問題がある。
  伊藤市長の銃殺は、完全に息の根を止めるという殺し方だった。殺傷力の強いピストルで、背後から至近距離で撃ち、倒れたところに心臓を狙ってとどめを刺すというものだった。本島氏の場合は、その場で殺すという撃ち方ではなかった。伊藤市長をやった銃より3分の1ほどの口径の殺傷力が弱い銃で、当たり所が悪かったら死ぬかもしれないという撃ち方だったと思う。
  その後の結果から見れば、伊藤氏は抹殺されたが、本島氏の方は撃たれたことで名をあげて、平和勢力のカリスマのような扱いにされた。そして加害者論、アメリカ擁護の原爆容認論を吹きまくった。本島氏は市長を辞めた後、広島の平和教育研究所などに呼ばれて、「広島よおごるなかれ」という演説をやっている。さっそく広島にケンカを売りに行ったわけだ。そのなかで「峠三吉は被害ばかりいってけしからん」と名指しで文句をいい、「殺された女、子どもも、万歳と旗を振って兵隊を送り出したのだから加害責任がある」などとやっていた。アメリカの原爆投下賛成派が平和勢力のカリスマというわけで、平和運動ぶっつぶしに貢献したのだ。それも長崎市民からは忌み嫌われる浮き草のような存在であることが露呈するところとなった。そんななかで、50年8・6斗争路線を体現した峠三吉が、広島市民だけではなく長崎市民の本当の思いを代表するものだということを証明したというのはうれしいことだ。

 勝つ勢力の結集へ 消滅する流れとの違いは何か・戦争情勢下で
 司会 戦争情勢の中でおおかたの勢力は壊滅し、消滅しているが、このような運動は圧勝している。運動路線としてどこが違うのか鮮明にすることが必要だし、このような勢力を全国的に結集するということが大きな課題だ。
  パネルが非常に共感を得ているわけだが、原爆展パネルの成り立ちを考えてみたい。はじめ下関の被爆者たちが、子どもたちに体験を語る運動をはじめた。その過程で原爆展をやろうとなり、広島資料館からパネルを借りて展示した。それを前に被爆者が体験を語ろうとしてもスムーズにいかない。パネルが被爆者たちの体験や語りたいこととズレているのだ。2年目は自分たちでパネルを作ろうとなり、その場合、原子雲の下にいた人たちが何を体験し、どういう思いであったのか、ありのままの体験を時間を追って描いていくという立場をとった。それに峠三吉と子どもの詩をあわせ、タイトルを付けて整理した。そしてなぜ原爆が落とされたのか、そこからどのような世界的平和運動をつくっていったかということを加えた。それを展示することで被爆者も話しやすくなった。
 その峠三吉の原爆展が全国数千カ所で展示されていった。その過程で、被爆体験だけではなく空襲の体験、沖縄戦の体験、戦地の体験などが語られていった。そして、沖縄戦、空襲体験、第2次大戦の真実などのパネルができていった。これは実際に戦争を体験した人人が語ったことだ。しかし、それは公にはあまり聞かされなかった経験だ。それを見た体験者が、「これが真実なんだ」と共感する。したがってこれは文句なしの真実であるわけだ。
  第2次大戦の真実パネルも大衆の経験を学び、それを整理して高めて返すというものだ。しかしこれを整理する場合、第2次大戦の基本的な矛盾関係、つまり日本の支配階級と人民の矛盾、日本帝国主義と中国をはじめ被抑圧民族との植民地支配にたいする矛盾、日本帝国主義と米英仏蘭帝国主義との市場争奪をめぐる矛盾など、基本的な戦争の性質についての観点から整理しているわけだ。人人の個個バラバラの体験と意見を集中して、系統だった意見に高めて返すという大衆路線、リアリズムの立場でできている。これは広範な大衆に支持される。特定の小集団が、頭の中で作り出した特定のイデオロギーを自己主張するというのは、支配勢力のやり方であり、大衆から嫌われるのは当然だ。
  50年8・6斗争のとき、日本共産党の中枢はアメリカは解放軍だといい、国際的な共産主義運動でも、アメリカはファシズムとたたかった民主主義勢力と規定していた。そのなかで「原爆投下は人類への許し難い犯罪だ」「アメリカは日本人民の敵だ」として、朝鮮戦争が始まった戒厳令状態の広島で、原爆投下に抗議する斗争の火ぶたを切った。それは、戦後労働者がストをやれば占領軍が出てきて弾圧する、農民が米の強制供出に反対すると米軍が出てきて弾圧する。原爆について語れば沖縄に送られ強制労働させられる。
 だが広島では、風呂屋に行けばみんなが原爆の話をしているが、1歩表に出たら表面上静かだ。この人民の側から、敵はだれか友はだれかを考えたし、ソ連や共産党の指導部が上の方からいっている誤りも断固として正したのだ。そういうのが真実であり、大衆に支持される立場だ。
  ヨーロッパでは、反ナチスでたたかったソ連軍と米英軍がエルベ川で出会って、握手したという「エルベの誓い」が平和運動の原点とされてきた。原水爆禁止・平和運動は日本が拠点になって全世界から広島にやってきて世界大会が開かれるようになった。これは反米の平和運動であり、真に力を持ったものだった。大衆の実際の要求を学び、それを集中し、敵の欺瞞を暴露して、大衆が本音をいえるようにする。そうすれば勝っていけるということだ。大衆を代表して前面に立って敵とたたかうし、大衆がたたかうのを激励する。そういう勢力を結集すれば、戦争に立ち向かうことができるということだと思う。

 「皆のために」が要 どんな攻撃も・負けぬ強さの根拠
  長崎でも「平和」を唱えてきた諸潮流が寄りつきもしなかった。大衆がみんな敵に見えてしまうのではないか。第2次大戦における「日共」集団の弁解も、国民が軍国主義になったから自分たちが孤立したといって、大衆は悪く、自分だけが純粋に反対したという。戦争で大衆は難儀しているのに、1番肝心なときに共産党がつぶれてしまって責任が果たせなかったという反省はない。
  活動の理念で見たとき、下関の被爆者の会、広島の会、長崎の会にしても、「みんなのために」であり、自分のためにではない。純粋に世の中のため、みんなのために献身するし、語り継ぐ使命で団結し、自分の損得ではやっていない。それが新鮮だし、どんな攻撃にも負けない強さの根拠だ。
  ある教師が、どこの団体も内輪ゲンカばかりなのに、ここはみんなが一致してやっているというのに驚いていた。特別なイデオロギーや自己主張ではなく、真実でいくなら、政党政派や思想信条をこえて団結できる。そういう勢力が増えれば、怖いものはないし、世の中を動かしていくことができる。
  戦争体験者はもとよりだが、若い層の世論が昨年から大きく変化しているのが重要な特徴だ。ひじょうに実践的、行動的になっていることがはっきりした。広島の原爆と戦争展、8・6集会ではもっと発展したものになるだろう。広島には、全国、世界からそういう関心をもった人たちが集まってくる。全国的に、峠三吉型の平和勢力を結集する条件が大きいし、是非とも実現しなければならない。とくに、現代をどうするか、現在進む戦争への危険、原水爆戦争への危険をどう押しとどめるかの関心を運動にしなければならない。
  原水爆の製造、貯蔵、使用を禁止するという課題とともに、岩国などの米軍再編の問題、生活のなかであらわれている戦争の接近、つまり貧困の問題にしても、食えないようにさせて戦争に行かせるというものだし、民主主義の圧殺も戦争につながるものだ。下関では、国民保護計画に基づく六連島実働戦時訓練をやったり、上関原発問題ではボーリング調査に反対する祝島島民の座り込みを自衛艦が沖合に待機して威嚇するという問題も起きている。今年の原水禁は、現実に進む戦争を阻止するという課題とさらに直結したものにならざるを得ない。真に大衆的な平和勢力の大結集が課題だ。
 司会 では今日はこの辺で終わりましょう。

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