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平和勢力大結集の展望開く
2004年原水爆禁止広島集会
             50年8.6平和斗争の路線に深い共鳴  2004年8月7日付

   
 
         100人が飛び入り参加 海外もふくめ700人参加 
  2004年原水爆禁止広島集会が8月6日午後1時から広島市中区のアステールプラザでおこなわれ、地元広島をはじめ中国地方を中心に、東京から沖縄まで全国19県から700人が参加した。海外6カ国からも参加があり、会場を国際連帯の熱い感情が包むなかで、活発な発言があいついだ。集会は、アメリカが五九年前に広島・長崎への原爆投下をいまだに正当化し、日本とアジアをふたたび原水爆戦争の火の海にする危険を道を歩むなかで、アメリカの原爆投下の犯罪的な目的をあばき、戦争放火者とたたかう方向を明確にした。この日の平和記念式展で小泉首相が不評を買い、原水禁や原水協など既存の組織の指導路線が衰退するなかで、集会はおりから開催されている広島市民原爆展の大盛況と響きあい、また7月末から連続的に展開してきた集会にむけた宣伝への広島市民の熱い支持と共感を呼び約100人の飛び入り参加もあり、新たな平和勢力の全国的な大結集にむけて力強く踏み出す出発点となった。
  はじめに、原爆で亡くなった人人への黙とうを捧げたあと、劇団はぐるま座が峠三吉の詩「ちいさい子」を朗読。参加者は新たな怒りと決意を共有しあった。
 主催者あいさつに立った倉崎繁・原水爆禁止全国実行委員会委員長は、「原爆投下は、戦争を1日も早く終わらせるためだった」というアメリカの原爆投下正当化をきびしく批判、 アメリカが日本を単独占領し、アジアと世界にむけた侵略基地にするためであったと指摘するとともに、「あくまでも原水爆の製造、貯蔵、使用に反対することだけが、広島で亡くなった方方、いまなお原爆症で苦しんでいる方方、つぶらな子どもたちへの責務だ」と訴えた。
 つづいて、平野照美・同事務局長が基調報告をおこなった。平野氏は、この4年来、「原爆と峠三吉の詩」の原爆展パネルを全国数千カ所の地域、学校、職場、街頭でおこない、広島では原爆展開催の支援とともに、戸別訪問をおこない、「広島市民のほんとうの声を学び、それを押さえつけている障害物をとり除くために努力してきた」こと、また全国キャラバン隊の派遣をつうじて、明らかになったことを報告。「どこでも小泉政府の売国政治にたいする怒りとともに、原水爆禁止運動を党利党略の道具にして、アメリカを擁護し、運動を力のないものにしてきた“原水禁”や“原水協”の指導路線にたいする怒りが痛烈に出され、平和のために行動を求めてきている」ことを明らかにした。
 また、7月末に集会にむけたアピール「峠三吉の時期の1950年8・6平和斗争の原点に立ち返り、原水爆戦争を阻止する力ある平和勢力の結集を訴える」を発し、広島市内で「連日全市内で宣伝カーを回し、駅や街頭でチラシをまいて、原爆投下者の犯罪をあばき、50年代の原水禁運動の原点に立ち返って平和の力を結集しようという訴えは、広島市民から歓迎され、全国と世界各国から広島に訪れた圧倒的人人から新鮮な共感が語られた」ことを確信をこめて報告した。
 平野氏はまた、アメリカの広島・長崎への原爆投下の犯罪的目的について明確にするとともに、そのアメリカが現在、「核の先制攻撃」を公言し、小型の核兵器開発、迎撃ミサイル、岩国基地の機能の拡充強化など、中国、朝鮮、ロシアとの核戦争に、被爆国である日本全土を原水爆戦争の最前線基地にしようとする策動をあばき、これに追随する小泉政府が憲法九条まで改定する策動を許さぬたたかいを発展させることを訴えた。
 さらに、1950年8・6斗争の路線について歴史的にたどり、今日的な教訓を明らかにし、原水爆戦争を阻止するためにアジアの人人と連帯し、労働者を中心にして、政党政派、思想信条、職業をこえた力ある国民的な大平和運動を起こすことを呼びかけた。

 広島の被爆市民が力をこめて発言
 発言ではまず広島の被爆者、重力敬三、真木淳治、佐々木忠孝の3氏が壇上にあがり発表した。
 原爆展を成功させる会の代表世話人である重力氏は、「先輩がつぎつぎに死んでいくなかで、2度とこのようなことがないように平和運動をすすめるよう生かされている幸せ」を語り、「3年間、30数カ所の原爆展をやるなかで被爆地広島の面目を一新したが、広島のほんとうの声はまだ世界に響いていない。苦しみを風化させないようみんなで力を合わせて展開する」と、決意をのべた。
 市民原爆展で体験を精力的に語っている真木氏は、昨年の福屋原爆展に参加して、「語りたくない思い出したくない被爆体験」を語りはじめたこと、子どもたちの感想に勇気づけられたことをのべ、「子どもたちが考えをはっきり主張できるようにがんばってほしい。小さな活動だが、起爆剤になれれば幸いだ。若い人たちから大きなうねりとなって、国を動かすことを期待している」と訴えた。
 呉の被爆者・佐々木氏は、みずからの被爆にいたる国家総動員法による徴用と召集のいまわしい体験をのべ、呉がいま自衛艦基地として、海外派兵の拠点となっている現状を報告、若者が同じ体験をしないように語りかけるように訴えた。
 つづいて、会場から原爆展を成功させる広島の会の婦人が発言、「原爆投下は戦争終結のためには必要なかった」ことを知った衝撃と感銘をのべたあと、兄が中学生のとき建物疎開の学徒動員に出たときに被爆死したことへの哀悼の気持ちをこめて、中学生のまま地下に眠る兄の思いを代弁した自作の文章を朗読した。
 広島市民原爆展を積極的に担う大下ユキミ氏は、「原爆で多くの同僚、知人が一瞬にして灰になった」ことの衝撃の深刻さと、「峠三吉の詩は涙なしには読めない」ことを語り、「広島のものは、原爆によって平和になったといわれるなかで、口にチャックして語らなかったが、下関からはじめてくださった原爆展で語るようになった」こと、原爆で亡くなった人、原爆症で悩み、苦しんでいる人たちのために活動したいと発言した。
 つづいて、「広島に学ぶ小中高生平和の旅」の子どもたちと引率の教師ら150人が登壇、構成詩を発表した。子どもたちは、「青い空は」を大きな声で合唱したあと、平和を担えるよう成長するために集団的規律を強めて成果をあげたことを報告。小学生から大学生まで、被爆者の体験に学んだことを発表し、子どもの被爆体験詩や峠三吉の「呼びかけ」を群読。「平和宣言」を読みあげてしめくくると、希望のまなざしで見ていた参加者の温かい拍手が送られた。

 国際連帯の熱気溢れる 各界から意見発表
 つぎに、各界の意見発表に移った。はじめに連帯のあいさつに立った在日朝鮮人山口県教育会顧問・金正三氏は、小・中・高校生を前に「日本の主人公はあなたたちだ」とのべ、「日本の子どもも朝鮮の子どもも歴史を学び、親がどのように苦労したかを学び、国を大事にし、将来を担える立派な人間になっていくように」と希望を語り、「日本から朝鮮からアジアからアメリカ帝国主義を追い出して、平和をつくっていこう」と訴えた。
 会場には、このほかアメリカ、フィリピン、インド、ニュージーランド、オランダからも参加者があり、発言がつづいた。原爆を学ぶために広島に来たというアメリカの大学院生は、「アメリカがどのような痛みと怒りを起こしたかがはっきりわかった。アメリカに帰っても、ここで学んだことを伝えたい」と発言。インド人の男性は「日本はいつもアメリカのスタンスで、なぜアメリカに反対しないのかと思っていたが、ここに反対している人もいることを知り、うれしい」とのべ、会場の共感を誘った。
 つづいて、全国キャラバン隊の富田浩史氏が、東北・北海道までのぼった各地での衝撃的な反響を紹介、全国的にイラクへの蛮行や米軍空襲と重ねて国民的な怒りがうっ積していること、アメリカに謝罪を求めるアピールが論議になり、共鳴が広がっていることを報告した。
 集会にむけ、広島市内で宣伝活動をすすめてきた原水禁下関地区実行委員会の吉山宏氏は、宣伝カーや戸別訪問で集会にむけたアピールの内容が被爆市民に心から歓迎された様子を報告した。
 1950年代に「平和の斗士団」として活動した劇団はぐるま座の平田智氏は当時のたたかいの経験を史実に即して、熱をこめて報告。広島の運動と連動した山口県の労働者、農民、青年学生のたたかいの発展が、中国地方の平和の斗士団の結成となり全国に影響を与え、51年の8・6平和大会が荒神小学校で合法的に開催された経過に参加者は耳を傾けた。

 全国で力ある運動起こす 各戦線から力強く決意
 米軍岩国基地に反対してたたかってきた森脇政保氏は、米空母艦載機部隊を厚木から移駐させるなど、岩国基地が原水爆戦争の最前線攻撃基地として大増強されていることを暴露、岩国市民がこれにどのように反対しているかについて報告し、破滅の道に反対してたたかいをさらに発展させる決意をのべた。
 山口県の小学校教師・江原美佐江氏は、広島修学旅行で広島の会の被爆者の体験に学ぶ教育実践で、子どもたちが目に見えて成長したことを紹介、「佐世保事件」をめぐって教師、父母の論議が発展するなかで、「人殺しではなく平和の担い手」を育成する新たな決意をあらわした。
 青年を代表して大阪芸大の学生・筆本聡氏は、「被爆体験を継承するということがどういうことなのかと考えている」と語り、「広島は70年も草木も生えないといわれていたが、元気に生きておられる被爆者がどんな思いで、自分を変えてきたのかを知りたい」と発言。「生の声を1人でも多くの子どもも大人も聞くこと」のたいせつさを強調した。
 労働者を代表して、岡山の中井淳氏が報告。生産を担う労働者が中心に立つ運動にする教訓として、@労働者がはたす役割、A大多数の人人の側からものを考える、B原爆を意図するものの野望をほんとうに阻止する構え――の3点をあげ、「この問題の解決が重要であった」と語った。
 集会は最後に、「日本とアジアをふたたび原水爆戦争の戦場にさせない平和勢力の全国的な大結集を訴える」広島集会アピールを読み上げ、基調報告とともに採択し、市民に訴えるデモ行進に移った。子どもたちが先頭に立って、峠三吉の詩を群読し、宣伝カーが読み上げる集会アピールを共感の面もちで聞き入る市民の姿がめだった。
 事前の集会アピールの宣伝や、当日宣伝カーが直前にデモのコースをデモ行進が通過することを訴えてまわっており、待ちかねたように高校生、親子連れなど市民、外国人が沿道から十数人飛び入りで参加し、ともにシュプレヒコールを叫んだ。また、交差点やバス停などでデモ隊を期待のまなざしで見つめる光景、「ありがとう」「がんばってください」とねぎらう場面も多く見られた。
 
         2004年原水爆禁止広島集会アピール
      
           日本とアジアをふたたび原水爆戦争の戦場に
           させない平和勢力の全国的な大結集を訴える
   
 わたしたちは、峠三吉の時期の1950年8・6平和斗争の原点に立ち返り、力ある原水爆禁止運動の再建をめざして、この4年間「原爆と峠三吉の詩」の原爆展を全国数千カ所で展示し、毎年8月6日に広島で全国集会を開催してきました。わたしたちは今年の広島集会にむけて、「日本とアジアをふたたび原水爆戦争の戦場にさせない、平和勢力の全国的な大結集を訴える」アピールを採択しました。その内容は、宣伝カーとチラシで広島全市に訴え、広島市民の深い共感を得たものです。
 59年まえの8月6日と9日、アメリカは広島と長崎に原爆を投下しました。「瞬時に街頭の三万は消え/圧しつぶされた暗闇の底で/五万の悲鳴は絶え/渦巻くきいろい煙がうすれると/ビルディングは裂け、橋は崩れ/満員電車はそのまま焦げ/涯(はて)しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島」と表現された惨状は、すべての日本民族が忘れようにも忘れることのできないものです。この人類史上もっとも凶悪な無差別殺人兵器である原爆を人間の頭上に投げつけたのはアメリカだけであり、それをまともに受けたのは日本人だけです。
 原爆投下から60年を迎えようとしていますが、自民党政府は原爆で亡くなった40万、戦争で亡くなった300万の霊を冒涜(とく)して、アメリカのいうがままになり、自衛隊を戦地であるイラクに派遣し、憲法九条の改定をはかり、朝鮮、中国、ロシアにたいする核ミサイル戦争に日本全土を総動員する準備をすすめています。原爆を受けた日本をふたたび原水爆の戦場にするという恐るべきたくらみであります。これに、全国的に怒りが渦巻いているのに、表にあらわれた既存の原水禁運動は、なによりも被爆地広島、長崎の市民の信頼を失い、すっかり形骸化して無力なものとなっています。わたしたちはこのような状況を黙って見ていることはできません。
 わたしたちはこの4年来、「原爆と峠三吉の詩」と題する原爆パネルを作成し、広島をはじめ全国数千カ所の地域、学校、職場、街頭で展示してきました。広島では、原爆展の開催を支援するとともに、数年来戸別訪問をくり返し、広島の被爆市民のほんとうの声を学び、それを押さえつけている障害をとり除くために努力してきました。今年年頭からは九州から北海道まで全国キャラバン隊を派遣して各地の街頭で展示し、衝撃的な反響を呼んできました。日本全国の大多数が、原爆と重ねて各地の空襲のむごたらしい殺し方への怒りを語り、いまでは原爆投下者が日本を植民地のようにし、またも戦争にかり出すことに激しい怒りを燃やしています。さらに、人人の純粋な平和の願いを食いものにし、無力なものにしてきた勢力への激しい怒りが、広島でも全国でも共通していることを知ることができました。
 全国の人人が、目からウロコが落ちたような印象を語っているのは、「原爆を落とす必要はなかった」という問題であり、原爆で残酷な行為をしたアメリカが、謝罪するどころか正当化して、いまもイラクで同じような犯罪をつづけ、それに日本をかりたてていることであり、日本民族の屈辱がますます強まっているという問題であります。
 原爆を投下したアメリカは「広島、長崎への原爆投下は戦争を終結させ、幾百万の命を救う慈悲深い行為であり、無謀な戦争をした日本人は反省しなければならない」と宣伝してきました。近年では、「広島は軍都だったから落とされた。被害をいうまえに侵略戦争に加担したことを反省しなければならない」という宣伝や、「広島、長崎のじいちゃん、ばあちゃんは悪いことをしたから原爆を落とされた」というインチキな平和教育は、疑いなく原爆投下者を擁護し、むごたらしく殺された人人を押さえつける側から仕組まれたものです。しかもそれを「平和と民主主義の進歩派」と称する部分からもふりまいてきています。原爆に反対といいながら、自分の名を売り、地位を得るために利用するというのは、実際には原爆に感謝するというものであり、それでは平和運動がつぶれるのは当然のことです。
 かつての日本の戦争が犯罪的な侵略戦争であったことは明らかですが、日本にたいして原爆を使用したアメリカの側も、日本を上回る強盗侵略の目的であったことをあいまいにするわけにはいきません。アメリカが原爆を投下したのは、平和のためではなく、八月八日と決まっていたソ連の参戦に焦り、日本を単独で占領・侵略し、日本を拠点にして戦後の世界で強盗戦争をつづけていくという利己的な目的のためであり、そのために罪のない老若市民をむごたらしく殺したというのがあるがままの事実です。アメリカは戦争終結から五年後には朝鮮戦争をはじめ、つづくベトナム戦争、いまではイラク戦争と、休むことなく戦争をつづけ、残酷な無差別殺人をくり返してきましたが、それは原爆使用を自慢する殺人狂の姿といえます。
 われわれはいまこそ、世界で唯一原爆を受けた国民として、いっさいの原水爆兵器の廃絶のために力を結集し、日本と世界の平和のために役割をはたさなければなりません。そのためには、占領軍弾圧下の広島で、はじめて原爆反対の運動を切り開いた1950年代の峠三吉の時期の、私心のない運動の原点に立ち返らなければなりません。それは、大多数の大衆を代表し、原爆投下者を正面から糾弾して、労働者を中心にした各層の団結をつくり、世界の平和愛好勢力との連帯をすすめて、朝鮮戦争での原爆使用を押しとどめ、世界中で「原爆の使用が正しい」などといわせない力をつくりました。
 わたしたちは、原水爆戦争の危機が深まり、平和運動がつぶれているからといって、「しかたがない」とあきらめて、気づいたときには戦場に立たされ、原水爆の火の海に投げこまれていた、というわけにはいきません。つぶれているのは表面にあらわれた上層部分であって、大多数の国民の平和と独立への意志はきわめて強いものとなっています。このような全国の大衆を束ね、大きな力にするための平和勢力を結集するならば、これまで原爆の使用を押しとどめたような、現在のたくらみを阻止する力を発揮するのは不可能ではないといえます。
 わたしたちは、2004年広島集会を期して、新鮮な平和勢力の全国的な結集を訴えるものです。

スローガン
★広島、長崎の被爆市民の声を若い世代に、全国、世界に広げよう。
★アメリカ政府にたいして原爆投下の犯罪を謝罪することを要求する。
★アメリカ政府が率先して、すべての原水爆兵器の製造、貯蔵、使用を禁止せよ。
★日本とアジアを原水爆戦争の戦場にする日本全土の核攻撃基地化を許すな。
★自衛隊のイラクからの撤退、有事法の撤廃、憲法九条の改定を許すな。
★朝鮮、中国、アジアの近隣諸国との敵対でなく友好を、世界の平和愛好勢力との友好・団結を。
★原水爆禁止運動を、一党一派の利益のために利用することに反対し、峠三吉の時期の平和斗争の原点に返り、政党政派、思想信条、職業をこえた力ある国民的大平和運動を起こそう。
                                          2004年8月6日

                   【 集会での発言から 】
 
            原爆展を成功させる広島の会      重力敬三
 わたしは大正9年生まれで85歳。昭和17年4月1日に召集された。昭和20年8月6日は、中国軍管区兵器部の下士官として軍務についていた。当日は広島市東区牛田の工兵橋南側の道路を工事中、電車とともに横転して両腕と顔面半分を挫傷したが、現在まで長生きさせて頂いている。 同僚、先輩、あいついでつぎつぎと亡くなったが、わたしは元気で平和運動に参加させて頂けることを、幸せだと思っている。長生きをしているのが、どうしてだろうかと思うようになった。それはピカドンの悲惨な状況を後世に語りつぎ、このようなことをくり返さぬよう、平和運動と原水禁をするために生かされていると思うようになった。
 広島の会では結成されて以来、3年間広島の各地、各所で三十数回の原爆展を開催して、平和運動をつづけて被爆地広島の面目を一新して、広島市民に平和運動が浸透している。このように平和運動をつづけてきたが、広島のほんとうの声はまだ届いていない。日本でもわたしたちの運動を無視するかのように、非核3原則を見直す動きがあるのは、まことに残念でならない。 広島の悲惨な苦しみを語りつぐことはできないが、苦しみを風化させないようにコツコツと平和運動をつづけることが、わたしの生きていく試練と思って老年にムチを打ってがんばっている。会場のみなさんもこの運動を風化させないよう、力を合わせてがんばってほしい。
 広島の会では平和運動の結束強化のために、「平和のきずな」という会報を年三回ほど発行している。現在、会員が五十数人となった。みんなで力を合わせて平和運動を展開しているところだ。

             広島市中区被爆者    真木淳治
 わたしは中区江波に住み、73歳になる。被爆は中学3年生の14歳のときだ。きょう、8月6日の朝早く慰霊碑3カ所にお参りして、原爆展に参加した。いままでの8月6日は、原爆のことはあまり語りたくない、思い出したくないと、慰霊碑にお参りして1日を静かに過ごすというのが、長年のスタイルだった。
 しかし昨年、7月に仕事を終えて、いままで社会のためになにをしてきたか、このまま好きなことをして遊んでいていいものだろうかと、自問自答した。ボランティア活動の相談に行ったところ、被爆の体験があるから話をしたらどうかと、アドバイスを受けた。昨年8月5日の福屋原爆展で、はじめて2組三十数人の方に体験談を聞いていただいた。
 そのときたいへんうれしい感想文などをいただき、勇気づけられてこれから自分のやっていくべきことを決意した。このたびのメルパルクの原爆展でも、広島の被爆者がもっと元気に話をしていく、活動をしていくことがたいせつであるという思いをこめ、初日から3組ないし5組の方たちに声をかけ、体験談を語った。熱心に聞いてくださり、感想をお聞きしてますます勇気づけられた。 きょうは埼玉から来られた20歳の青年が、「広島のいまのきれいな街の様子を見ると、原爆が落ちたことがとても実感できない」と、問いかけをしてきた。憲法9条の問題は、ひじょうにいい憲法であるのに、なぜこれを変えなければいけないのかといい、それにたいしてわたしは、自分の考えをいろいろ話した。
 これまで修学旅行の子どもさんに2〜3回、いろんな原爆展でお話した。今年の6月には、わたしの地元で原爆展を開いた。そのご縁で江波小学校で4、5、6年生のみなさんの前で、話をさせていただいた。その感想文がいま原爆展の外側に何枚かはり出されている。たいへんうれしい感想文だ。「戦争は絶対ダメだ」「原爆は落としてはならない」と、多数の子どもが意見をくれている。また子どもの言葉だが、「真木さんが死んだら、ぼくたちがあとの人に話していくのだ」というような、ひじょうにうれしい言葉をいただいた。
 それから1昨日は、約1時間ほど討論をさせていただいた。被爆者が3人、アメリカの方が3人、若い方が5人で、いろんなことの討論をした。そのとき日本の政治家や偉い人は、なぜ原爆のことをもっと考えてくれないのだろうか、という意見もあった。もう一つ印象的なことは、いまでもイラクで戦争がおこなわれているが、国とはべつにほんとうの善意によって、ボランティア活動をつづけておられた3人の方が人質になって、たいへんなバッシングを受けた。
 女の外国の先生がそのことをハッキリ口に出されて、「日本人はなぜこれだけ立派なことをされた人たちを、そんな見方で攻めるのか。世界的にいうとこの人たちはたいへんいいことをしているヒーローだ」と話された。わたしはまったく同感だと思う。
 これからも子どもさんたち、若い親たちがいろいろ勉強され考えたことを、主張していけるようにしていただきたい。わたしの日日の活動はまことに小さい力であるが、なにかの起爆剤ともなれば幸いだ。たくさんいただいた言葉を、わたしは自分の生き甲斐としてこれから健康であるかぎりこの活動をつづけていくつもりだ。みなさん、これからもしっかり勉強なさって、若い人から大きな力となってうねりとなって、国を動かすぐらいのことを期待している。

                呉市被爆者  佐々木忠孝
 会場を見ると若い人がほとんどのようなので、2度とわたしのような人生をくり返させないために話したい。現在84歳で老い先はありません。
 わたしは若いころ福岡県の九州電機高等学校を卒業して国鉄博多駅に採用され、1週間出勤した。すると徴兵がかかり、兵隊に引っぱられた。昭和13年に国家総動員法が施行されて、翌年に国民徴用令が公布され、その徴用令によって“あなたは呉海軍工廠電機部に出頭しなさい”といわれた。それを拒否するというと、「これを拒否すれば軍法会議にかけられて軍の刑務所にぶちこまれるが、それでも拒否するか!」といわれて驚いた。これはおおごとだと思った。そんなことになったら親兄弟、親せきに迷惑がかかり、非国民ということで村八分にされて村におられなくなるということで、泣き泣き呉海軍工廠に出頭した。
 工廠には徴用工がいっぱいいた。監獄に入れられたような生活をさせられた。呉の人口は当時20万人ぐらいしかいなかったのが、40万人ぐらいに膨れ上がった。小さな町に押し合いへし合いして、出勤と退庁時には人混みがすごいものだった。たいへんな時代がわたしたちの身に襲いかかってきたのだ。 2年間の徴用期間が終わって、ようやく九州に帰れると喜んでいたら太平洋戦争がはじまり、ますます戦争は過酷になった。そして軍事工場も忙しくなった。軍艦が破損しては帰ってくるし、新造船もどんどんつくらなければならなくて、毎日5時間、7時間も徹夜残業をやり、こき使われた。ヒジキと腐ったイワシを食べて仕事をしていた。昭和19年8月に召集令状がかかった。1銭5厘の赤紙で兵隊が集められた。わたしは広島の陸軍に入隊するように通知がきた。
 海軍工廠の奴隷のような生活から解放されるかと思ったら、軍隊もきびしくて同じような監獄生活だ。3日目には広島野砲隊から東京に送られて、通信技術兵として勉強と訓練を5カ月間受けた。そして広島に帰ってくると、ここはなにもなかったかのように町なみはかわらず、きれいにそろっていて、「あぁ、ここは極楽の天地だな」と思った。というのが、東京では五カ月のあいだにB29が夜昼と空襲をはじめていた。空の要塞といわれたB29が焼夷弾の雨アラレを降らせて、11万5000人が死に、15万人が負傷した。そうして苦しい恐ろしい東京生活が終わって帰ってきたからだった。広島に帰ってきて原子爆弾にあい、今日にいたっている。
 きょうは原爆のことにはあまりふれなかったが、これからの若い人たちには戦争が起こるような状態にもっていかないように、みなさんの力で政治家を動かし、監督し、国家総動員法ができないようにしてほしい。そうしなければ、わたしのような化け物が、生き残ってもできあがる。みなさんのこれからはまだまだ長い。平和を守らないといけない。
 だんだん小泉内閣は戦時中の日本のような状況に時代を逆もどりさせている。呉には海軍基地があるが、戦艦大和をはじめあらゆる軍艦をつくった。そして戦後は海上自衛隊が来て50隻くらいの艦船がいる。湾岸戦争に機雷除去に入ったり、カンボジアに選挙を監視に陸上自衛隊が入ったり、アフガニスタン、イラクの輸送任務をひき受け、なにか戦前の日本軍国主義時代にもどろうとしているような気がする。若いみなさんがおおいに勉強して、力を合わせて平和がつづくようにと思います。

                広島市在住    大下ユキミ
 わたしは被爆者ではありません。原爆ドームの隣に広島郵便局補局というのがあり、昭和11年から18年まで勤めていたが、20年には北京に行っていた。だからピカドンにはあっていない。だが、いっしょに働いていた友だちや同僚、後輩、先輩がみんな灰になってしまった。ケガくらいなら「どうしてわたしはこんな目にあったのだろう」とか考えることもできるが、思う間もなく灰になったのです。そこから200〜300bほど離れたところに、電報を打つ電信課というのがあり、同僚たちが移っていた。そこでも100人余りいたうちの半数以上が即死で、わたしといっしょに電報を打っていた同僚は3階の踊り場で膨れて死んでいたそうだ。妹も局に出ていたが、朝11時出勤の予定なので原爆にはあっていない。数日して局に行くと、巡査さんが「これはだれか?」と遺体の身元を確かめるのに、「これはだれ」「あれはだれ」と泣きながらいったのだと妹は教えてくれた。それを聞いたとき、わたしはほんとうに情けなくなった。みんな知っている人なのです。なぜこういうめにあったのかと思う。先程峠三吉さんの詩が読まれたが、峠さんの詩を読むたびに涙が出てしかたがない。
 わたしは被爆者ではないので語り部はしないが、この原爆展をお手伝いさせてもらっている。去年は福屋、今年は呉、廿日市などでお手伝いした。呉に行ったとき、なぜみんながこんなに毎日熱心に交替で来られるのだろうかと思った。廿日市のみなさんも熱心な被爆体験の語りをやっておられ、広島の人間として恥ずかしい思いがした。ピカドンが落ちたあと、広島では原爆のことを語ってはいけない状況にされていた。「原爆のおかげで平和がきたんだよ」といわれていたものだから、みんなが口にチャックして、平和ボケのような感覚で生きてきた。
 下関からはじめてくれたこの原爆展の展示にたいして、わたしたちもなにかお手伝いしなければ、死んでいった友だちや、なにも思うことなく死んでいった人たち、そのあと原爆症で苦しんで死んでいった人たちのことを思うと、足も悪いがあちこち手伝いに行っている。
 広島はこういう惨い目を見た。広島だけでなく日本全国もたいへんな目にあった。日本が惨かったというだけでなくて、日本もアジアの方へどれだけ悪いことをしていたかということをちゃんと頭に入れて、正しい歴史を学んで、ほんとうの平和のためにはどうしたらいいか、みんな立派な大人になって、いまからの日本を支えてくださるように心からお願いしたい。お父さんお母さんにもよろしくお願いしたい。

            原水爆禁止下関実行委員会   吉山宏
 わたしたちは7月31日から連日市内で2、3台の宣伝カーをくり出し8・6広島集会へのアピールを大宣伝して回り、駅や役所、街頭、住宅街などではチラシにして訴え、また個別訪問もおこなって集会への参加を呼びかけ、大きな共感を得てきた。
 どこでも家の中や外に出てきて市民がアピールを聞き「このような運動をやってもらってありがたい」と語られ、バス停でもケロイドの被爆者が頭を下げて気持ちをあらわしていた。
 また「うわべのことだけではなく、広島の本音を知って帰ってもらうことが、全国と世界の平和運動に大きな影響を与える」という宣伝に沿道の市民、昼休みで工場から出てきた民間労働者などは、にっこりほほえみを浮かべていた。
 電停やバス停では、宣伝カーにいっせいに視線が集まり、みんな真剣に見ていて「講演会」のように聞いていた。すごく感動をおぼえた。この間の四年間の蓄積と、今回の広島集会アピールが結びついて心がつうじあっていると思った。
 全国から参加した原水禁や原水協の人も関心を示していた。その多くは手を振ったり、笑顔を示す人が多く、「よくがんばっているな」「いい内容だな」「考えさせられる」といい、全体として団結を求めている息吹を感じた。平和の敵をはっきりさせて大きく団結する方向を話すと、強く共感し「ともかくいまは本物のリーダーが必要だ」と強調していた。
 きのうも「アメリカは謝罪せよ」と書いて立っていた元教師の男性は「峠三吉はGHQによる占領下にあっても逮捕・投獄も恐れず、自分の身を捨ててたたかった。だから50年代の運動は市民の信頼があった。しかし、60年以後の運動のなかで革新陣営から“加害責任論”がいわれはじめ運動が無力になっていった。アメリカが広島でおこなった残虐な殺りくは謝罪させなければならない。いま峠の時期の運動を再構築すべきだ」と強く語っていた。
 わたしたちは今回の広島での宣伝活動の経験から、これまで根深くあった「原爆展を開催して喜ばれたとか大盛況でよかった」と原爆展だけに自己充足するところからどう転換するかを学んだ。 わたしたち自身が原水爆を廃絶する姿勢と確信にたって、原爆投下者アメリカの犯罪を真正面からあばき、インチキ平和勢力も暴露していったとき市民から大きな支持を得た。本集会を契機に、この広島集会アピールで全国の力、真の平和勢力を結集し原水爆戦争を阻止する国民的大平和運動をまき起こそう。

            在日朝鮮人山口県教育会顧問     金正三
 この平和大会に来て思うのは、日本の主人公は若い学生たちであり、その主人公たちがしっかり立派に日本の将来を支えていくようにと思うことだ。
 わたしは大正7年生まれで、いろいろ見てきたがいまの若い人が戦争がどれだけつらいか知ってほしい。弱いものいじめが戦争だ。平和がどれだけいいか。平和というのははじめは弱いように見えるが、いいのだからだんだん強くなっていく。
 いまアメリカ帝国主義はなにをいっているか。自分の国がひどいことをやって「テロ」といってほかの国を侵略して、日本をまえに出して、ベトナム、朝鮮にも戦争を仕かけ、原爆まで落とした。あんなやつを世界で平和のために団結して、日本で追い出し、台湾でも南朝鮮でも韓国でも追い出す、それでアジアのほんとうの平和がつくられなければいけないと思う。なぜアメリカが日本に来て弱いものいじめをやるか。「天の神様」を利用してウソをいって、世界に戦争を仕かけ人殺しをしている。 きょうはみんな平和の心を持って集会に来たと思う。だが今後も絶対、学生たちがほんとうの道をすすみ平和に結ぶようにしないといけない。そのためには日本の歴史、自分の歴史をはっきりしないといけないと思う。
 若い世代は親や先祖が原爆などでどれだけ苦労したか知らない。それを考えると自分は朝鮮人だが情けないと思う。これをはっきり自分たちがどういう人間か教え、朝鮮の子ども、日本の子どもも立派な人間、そうして平和のための立派な人間になってアジアが一つに団結して平和をつくらなければならないと思う。その平和は一時は弱くてもだんだん大きくなっていく。
 わたしはなにもわからない。学校も行っていない。でも日本の友人のみなさんのおかげで歩いてきた。そこで思うのが日本と朝鮮と、国交正常化して一日も早く平和になって、いっしょになってアメリカを追い出すということだ。なぜ日本に軍事基地を置くか、なぜ朝鮮や韓国、台湾で戦争を起こさなければならないか、全部「テロ、テロ」といってイラクのように爆弾を投げつけてきたがそんなことは長続きしない。だからみんなで力を合わせればかならず平和は勝つ。団結すれば平和はどんどん大きくなっていくし世界は見ている。
 いま学生たちはわたしの話がわからないかもしれない。しかしこれから聞いていけばわかる。自分の親を尊敬できないものは国を尊敬できない。親を尊敬してみんな自分の身を宝に考えてまえにすすまないとアメリカ帝国主義のことも語れない。ここにいる学生たちがかならず立派になって日本のあとつぎ、主人公として一生懸命にがんばってくれることを応援しながらしめたいと思う。

                  アメリカ大学院生
 わたしは2週間ぐらいまえに広島に、平和と広島の歴史について勉強しに来た。平和公園を歩き回り、資料館を見て、いろんな人たちと話してきた。とくに被爆者の話を聞かせていただき、言葉にならないくらい感激した。ありがとうございます。
 被爆者たちと話して、一つの被爆者の気がかりになっていることがわかった。それはその当時の現実の状況をつぎの世代に伝えることだ。その話を聞いてその当時の現実の状況を体験する必要はない。そのかわりにアメリカが起こした凶悪な状況の人人への影響がわかった。アメリカがどのようなたいへんなことを起こしたかはっきりわかった。この1週間で経験したことを広島だけにとどまらず、九月にアメリカに帰るが、アメリカにもどってどこに行っても、普通の生活にもどってもここで経験したこと、習ったことを広く伝えたいと思う。
 日本の人と話ができたが、その討論でわかったことはわたしが不安に思っていることは個人ではなくみなに共通していると思う。アメリカにもどってアメリカの国民の友だちと手をつないで、平和のために働いていこうと決心してきた。被爆者の話を聞かせて頂きこう思うようになってきた。ありがとうございました。

               劇団はぐるま座    富田浩史
 原爆展全国キャラバン隊第1班は、今年2月に下関を出発し、岡山県を皮切りに日本列島を最北端まで縦断し、各地で『原爆と峠三吉の詩』のパネルによる街頭原爆展をおこなってきた。北上すればするほど、これほどまで原爆の惨状が知られていなかったのかと、驚かされるほどだった。広島・長崎の被爆市民のほんとうの思いを描き出し、アメリカの犯罪行為をあばき出した峠三吉の詩による原爆展が開催されるのも、はじめてのところがほとんどだった。戦後59年にして、広島の第1回平和大会から数えれば54年ぶりに、歴史の真実と、峠三吉の時期に切り開かれた私心のない運動の火が、はじめて届けられることになった。
 東京や大阪、東北地方や北海道などでも、駅前や繁華街のどまんなかに堂堂とパネルを据えると、どこでも道行く人人が磁石で吸い寄せられるようにして黒山の人だかりとなり、「はじめて見た」「これほどひどいとは知らなかった」と、衝撃的な反響を呼び起こした。
 年配の人人は、はじめてつぶさに知る原爆の惨状とアメリカがいまイラクでおこなっている残虐な戦争や、みずからの戦争体験を重ね合わせ、各地の空襲で子どもや女性、年寄りの区別もなく、なんの罪もない一般市民がどれほどむごたらしく殺されたか、これまで胸の奥にたたんでいた痛恨の体験をあふれるように語り出した。
 東京大空襲では、下町の人口密集地帯が周囲から囲いこむように爆撃され、1晩で10万人が焼き殺されたそうだ。大阪でも、川が湯のようになっているところへ、逃げ場を失って熱さに耐えかねた人人がつぎつぎに飛びこんで死んでいったと聞いた。桑名では母親たちがせめて子どもだけでも川の水につけて助けようとしたが、それもかなわなかったと語った。愛知県の豊川海軍工廠では、わずか20分間の空襲で2700人もの人人が犠牲となり、逃げ惑う学徒動員の中学生や女学生を米軍の艦載機が追い回して機銃掃射で撃ち殺し、防空壕の女性たちは爆風で菱形に押しつぶされて死んだそうだ。また、静岡県や茨城県、東北や北海道でも沖縄戦と同じ艦砲の砲撃がおこなわれ、三重県や岐阜県、山梨県でも市民の頭上に可燃性の油脂を雨のように浴びせたところへ焼夷弾を投下して、あっという間に全市が火の海にされたと語られた。 「日本の侵略戦争もまちがいだが、アメリカが正義だというのは大うそだ」「あんな残虐行為を正当化してイラクで同じことをやっているアメリカは絶対に許せない」と訴える人人の圧倒的な声は、なにかの理屈のようなものではなく、戦中戦後の痛恨の体験が刻みつけた、消そうにも消し去ることのできない魂の叫びであると思った。
 東北や北海道では、貧しい農家の若者がつぎつぎと兵隊にかり出され、それが酷寒の満州から灼熱の沖縄へ送られてひじょうに多くの犠牲者を出した。その北海道や東北から、いままた、たくさんの自衛隊員がイラクへ派遣されている。そのなかで肉親や同僚の安否を気遣う自衛官の家族や自衛隊関係者が真剣に参観し、「イラクは変な国だ、北朝鮮は卑しい国だと決めつけて戦争に持ちこんでいく。これほど愚かな国はないと思う」「アメリカはテロ、テロというが、自分こそテロ国家ではないか」と吐き出すように語りながら署名用紙にむかう姿は、とくに印象的だった。「日本が植民地のようにされ、ふたたび破滅の道をすすんでいるなかで、与党も野党も政治家は自分の懐を肥やすことばかり考えて、国民のことなど考えてもいない。もう黙ってはおれない」「安保に縛られているからこんなことになる。日本はいい加減に自立すべきだ」「なにかせずにはおれない。なにをすればよいのですか」と、行動を求める強い声が、いたるところで聞かれた。
 また、どこの街でも「じいちゃんやばあちゃんたちが悪いことをしたから原爆を落とされた」とか「原爆の被害をいうまえに侵略戦争に加担したことを反省しなければならない」というような、アメリカの側に立ったインチキ「進歩派」への怒りが口口に語られ、「アメリカに謝罪を求める広島アピール」は、砂地に水が染みこむように大歓迎された。「アメリカに謝らせるという、この一言を待っていた!」「これまで、これをはっきりいうものがどこにもいなかった。野党もみんなアメリカ派だ」と、大粒の涙を浮かべてペンを握る年配者や婦人、若者がいたるところにあった。日本政府の度はずれた対米追従ぶりが、日を追ってあからさまになっていくなかで、街頭原爆展への反響は、日増しに強く激しいものになっていった。
 日本全国津津浦浦で、「この原爆展を全国でどんどんやってください!」と、わがことのように激励され、行く先先でお寺の本堂や神社の集会所、教会や個人の住宅などに泊めてくださるなど、大歓迎を受けた。キャラバン行動に要した経費は、参観した人人から寄せられた募金によってまかなわれた。また「子どもや孫に知らせたい」「友だちと語りあいたい」と、パネル冊子や原爆詩集が大量に求められ、130人の人人が協力者になった。 わたしたちが全国25都道府県でおこなった合計85回の街頭原爆展は、そのような大衆の力によって成し遂げられたものであり、だれにも押しとどめることのできない巨大な平和の力が、日本全国いたるところに大きく渦巻きはじめていることを、はっきり教えていると思う。 被爆国から原水爆戦争阻止の力のある運動をまき起こしていくために、これからも全国で奮斗していく。

              原水爆禁止山口地区実行委員会 平田智
 1950年6月25日、朝鮮戦争勃発のとき、わたしは山口市の米軍キャンプにいた。ラジオは「北朝鮮が先に攻めてきた」とガナリたてたが、わたしたちは25日まえに、米軍出動の仕事をさせられていたので、すぐそのデマを見ぬいていた。そのときの労働強化で肺結核に冒され、首を切られたのを機に、平和擁護運動に身を投じた。
 朝鮮戦争でアメリカ軍は、日本をはじめ世界各国の反米反戦斗争で、釜山周辺に追いこめられていた。仁川に上陸したアメリカ軍は、戦争の拡大に狂奔した。中国人民志願軍の抗米援朝で極地に立ったアメリカ大統領トルーマンは、「朝鮮戦争で原爆の使用も辞せず」と発言。広島、長崎につづく朝鮮戦争での原爆使用のたくらみにたいする怒りは、ストックホルム・アピール署名運動の力となって、世界中に広がった。 わたしは山口市の吉敷地区で、青年団や文化サークルの仲間、レッドパージで帰郷した労働者と力をあわせ、戸別訪問をして回った。農民から予想以上の支持が寄せられ、2000人をこえる署名が集まった。 アピールに「核兵器を最初に使用した政府を戦争犯罪人とみなす」という項目があったが、アメリカを戦争犯罪人とすると「占領政策違反でやられる」と、原爆には反対だが署名となると尻ごみする人もいた。
 だが日をあらためて訪ねていき、戦中戦後の体験、アメリカの原爆投下や無差別な爆撃のこと、婦女子にたいする暴行、米兵の銃剣での威かくによる強制的なコメの供出など、具体的に話しあうと、だれもが「原爆を投下したのはアメリカだし、わしらを苦しめているものもアメリカだ」といって署名用紙を預り、カンパも寄せ自発的な運動が起こってきた。 署名活動は急速に広がり、年末には山口県で6万人、全国で649万人、世界中で6億の署名が集まった。これがアメリカの手足を縛り、3発目の原爆の使用を許さない力となった。一人一人の署名は一見無力なように見えるが、世界的規模で戦争反対の運動が巨大な波となれば、その目的を貫きうる。
 平和の斗士団は、平和擁護の運動を先頭に立ってたたかい、犠牲を恐れずに人民に奉仕する集団として、1951年2月、広島を突破口に中国各県につくられた。山口市での結成は、1951年3月3日だ。大内文化の香りをいまも伝える下堅小路の法界寺に「平和問題懇談会」という名目で、労働者や農民、青年や学生が集まった。
 山口市につづいて、県内に平和の斗士団、職場に平和委員会が結成された。当時、軍事生産、軍需物資の輸送を実力で阻止するたたかいが重視され、山口地区の平和の斗士団には国鉄労働者が多かったので、列車を止める斗争をどうすすめるか、真剣に討議した。わたしたちは、軍事列車を止めるか遅らせることは、アメリカ軍の作戦に打撃を与えることだと考えた。
 列車の進行阻止までにはいたらなかったが、列車を遅らせることができた。下関の幡生駅では列車を阻止するストライキをやり、当時、アメリカ軍政下にあった奄美大島送りの不当処分を労働者が受けている。
 いまは亡き長周新聞社の福田正義主幹は「広島と長崎――原爆投下について思うこと」のなかに「八・六平和大会は、そのはじめから帝国主義との斗争であった。広島、長崎への原爆投下という犯罪を暴露し抗議を組織しただけでなく、その後の帝国主義の戦争計画を暴露し抗議と実力をふくむ斗争を組織した」と書いておられる。 たたかいの途上、峠三吉さんは1953年3月9日、手術台の上で息をひきとった。「死にのぞんで、全生涯が、またいっさいの力が、世界でもっとも美しいこと、つまり人類解放のための斗争にささげられたと云いきることができるように生きなければならぬ」これはかれの座右の銘だった。 福田正義さん峠三吉さんの遺志を引きつぎ、みなさん、ともにがんばろう。

           原水爆禁止岡山県実行委員会     中井淳
 原水爆に反対する運動は、被爆者がおおいに語る行動に立ち上がることが重要である。それが真に力のある運動になるためには、この社会の生産を担う労働者が中心に立つ運動にすることが重要である。その労働者のところをどう突破するか、これまでの教訓を決意をこめて発言する。 2001年、「原爆と峠三吉の詩」改訂版パネルが下関で完成し、わたしは原水爆戦争を押しとどめる運動に本格的に参加した。その運動をつうじて重要であると思っていることは、@労働者がはたす役割の問題、A大多数の人人の側からものを考える問題、B原爆使用を意図するものの野望をほんとうに阻止する構えの問題である。これらの問題の解決が、労働者がその本来の役割をはたしていくうえで重要だと考える。
 まず、労働者がはたす役割を自覚する問題について。これまで被爆者と原爆展パネル冊子に深く学び、また冊子を普及する運動をつうじて、親世代の被爆体験が「昔のこと」ではなく、血のかよった日本人同胞の叫びとして聞こえるようになり、戦前・戦中・戦後と歴史がつながり、そして戦後世代の労働者は、その歴史を発展させる役割を背負っているのだと自覚するようになり、勇気が出てきた。こうして日本の占領者・アメリカの戦後世代への思想的抑圧から解放された。また、原爆のことは知っているという思い上がった考えともたたかってきた。
 2つ目には、大多数の人人の側からものを考えず、自分の側から考えて行動する考えともたたかってきた。ある労働者社宅の自治会長は、広島アピールについて「日本人としてあたりまえのことです」といって社宅内に署名用紙を回し、ほぼ全員の署名をとってくれた。だがつぎに、折り畳み式のA3判原爆展パネルの社宅内回覧をお願いに再訪すると、「一度協力するとつぎからつぎへといってくるのが嫌なんだ」と強く断られた。
 問題は、こうした日常的に出てくる問題を解決しながら労働者の運動をつくっていくのではなく、もうそこには足をむけなくなるという傾向である。そのように、大多数の側から出発せず、自分の側から出発する考えと絶えずたたかっていかなければならない。
 3つ目は、原爆使用を意図するものの野望をほんとうに阻止する構えの問題である。先月の広島行動に参加し、構えの問題がつかめてきた。「よろしかったら署名をお願いします」「集会を六日にしますので来てください」…ここには構えの問題があった。広島の被爆市民とともに国民的運動を起こし、岩国基地への空母艦載機離発着訓練基地移転計画など、日本全土を原水爆戦争の基地にしようとするアメリカの野望を押しとどめる力を結集する、そういう構えではなかった。 構えなおして原水禁実行委員会会員の居住地にいっしょに入り、「今年の八・六広島集会を国民の力で成功させよう」と訴えて回った。「集会に行きましょう」というと、たいがいの人は思わず吹き出すように笑った。ここが大事だと思う。原爆を投げつけられた日本人同胞として、単刀直入に働きかける立場が大事だと思った。そうすれば、はじめて回った地域でほとんどが署名し、8・6広島集会の成功と平和のための運動への期待をこもごも語りカンパも出してくれた。以上、この間の行動と総括のなかで得た教訓を基礎にして、原水爆戦争に反対する運動を真に力のある運動にするため、この社会の生産を担う労働者が中心に立つよう、むこう一年奮斗する決意である。

           原水爆禁止岩国地区実行委員会   森脇政保
 かつて朝鮮、ベトナム戦争の出撃基地として、幾百万のアジアの民を殺傷してきた米軍の岩国基地が、いま原水爆戦争の最前線攻撃基地として大増強されている。米軍岩国基地は、岩国中心部の約570f、この面積は市街化区域の23%、全宅地面積に相当する。この広大な土地をさらに「移設」と偽って、沖合海面を埋め立て、基地を一・四倍に拡大している。そこに新しい滑走路と空母や強襲揚陸艦など大型艦艇が接岸できる軍港を新設している。
 この岩国基地に、あろうことか米空母艦載機部隊を神奈川県の厚木から移駐させ、出航まえにかならず実施する夜間着艦訓練も岩国でおこなうことが日米政府間で計画されていることが今回明らかになった。
 このことを知った岩国市民は、「市や県は、市民、県民のために断固拒否すべきだ。自治会も一致して反対の声を上げないといけない」と強い怒りの声がいっせいに上がっている。
 駅前で自営業を営む男性は、「アメリカが世界一悪だということがよくわかった。世界を自分のものにしようとして、いうことを聞かないものは攻撃する。それに協力しないものも攻撃する。自分は腐るほど大量破壊兵器を持っていて、ほかの国は持ってはいけないといいがかりをつける。白人は紳士でましな人間だと教えられてきたが、とんでもないことだ。かれらは野蛮人だ。広島でも空襲でもそうだった。アメリカは世界中から嫌われて最後は負けると思う」といっていた。
 岩国は広島に近く、被爆者の方も多く、多くの市民は原爆の惨状をまのあたりにしてきた。また、敗戦間際には九度にわたって米軍の空襲を受け、多数の無辜(こ)の民と家屋、財産を失った。 戦争が終わって、やっと平和をとりもどした市民の頭上には、米軍と米軍基地がおおいかぶさり、市民は苦難と屈辱の日日を受けつづけてきた。「基地の岩国ではなく、錦帯橋の岩国として、基地のない平和で美しい岩国をとり返したい」という願いは、戦前、戦中、戦後の歴史的体験に根ざした11万市民の心からの要求だ。
 岩国基地は、過去も現在も沖縄と同様核基地だ。岩国基地の大増強は、朝鮮、中国、ロシアを標的としたアジア戦略の最前線核攻撃基地とするものだ。これは日本とアジアをふたたび原水爆戦争の火の海に投げこむことにほかならない。この破滅の道を岩国市民はけっして許さない。 広島、長崎で、空襲で、また大陸や遠い南の島島で、無惨に殺されていった多くの人人の無念の涙を、いまわたしたちはしっかりと胸に抱きしめて、ふたたび原爆も戦争も許さない固い決意に立って、一人一人が「平和の戦士」となって決起していこう。

              山口県小学校教師   江原美佐江 
 今年は5、6年の複式学級を受け持った。わが町は町内の小学校が連合で修学旅行に行く。今年久しぶりに修学旅行に行くことになり、町内の6年生と平和学習をすることになったとき、わたしはすぐ「広島平和の旅」や下関の平和教室での被爆体験を聞く活動を思い出し、早速連合の打合会で他校の先生に相談し、「原爆展を成功させる広島の会」の方にお願いした。
 間もなく5人の碑巡りの案内のスタッフと五人の被爆者の名前と紹介文が届いた。被爆者の方に電話すると、突然にもかかわらず、以前からの知り合いのように気さくに話して下さり、「自分がうまく話せるだろうか」「聞いてくれる子どもたちのために、体調を整えてなんとかがんばりますよ」といわれた。
 その翌日にはあらためて詳しい資料を送ってくださったり、当日はわかりやすいようにと絵を描いてきてくださったり、もんぺを持ってきてくださったりした。当日はとても暑かったが、被爆者の方はたくさんの、しかしほんとうはつらくて思い出したくもないような話を一生懸命してくださった。そして、子どもたちにどう生きて欲しいのかを話され、平和な社会をつくっていって欲しいという願いを託された。 子どもたちは真剣に話を聞き、学ぶことができた。当日、被爆者の方に出会った瞬間にそれまでとは180度違う態度になる子もいて、あらためて被爆者の方の存在のすごさを感じたものだった。そこには、子どもの力を信じるやさしいまなざしと、被爆という世界中のだれもがしたことのない苦難に歯を食いしばって立ちむかってこられた強さと、たくましさがあった。どんなつらいことにも負けずに生きぬいてこられた生き方に、子どもたちは自分の生活を見つめ、生活態度を変えてがんばろうと心に誓ったのだと思う。
 他校の先生方から、こんな形の修学旅行ははじめてだ。とても、よかったと口口にいわれた。修学旅行から帰って地域参観日で、六年生は「修学旅行で学んだこと」の発表をした。子どもたちの感想を、紹介すると「お話をされる途中で泣き出され、ぼくも悲しくなりました。お話を聞きながらもっともっとものを大事にしておもいやりを持とうと思いました。ぼくはあらそいをしたり、物をこわしたりしないようにくらしたいです。あの原爆からよく生きのびることができたと思いました。人のやさしさや平和の大切さを学びました。つらい思いをいっぱいされていることをはじめて知りました。家族を失うなんてとても考えられません、親のいうことをよく聞いて友達を大切にしていきたいと思います」。わたしのクラスの六年生は、わずかな人数ですが学んだことを参観された地域の方や、同じクラスの五年生にむかって、誇らしそうに発表し、最高学年として、生活態度を変えて、がんばっている。
 この修学旅行の日に、長崎では、たいへんな事件が起きた。この修学旅行から帰ったつぎの日、留守番をしていた5年生の親から、手紙がきた。「佐世保の事件は、とても人ごとではありません。どちらにもなりかねない。わが子をどちらにしてもいけないと思いました。よりいっそう学校と連絡をとりあって子どもを、育てていこう」親の必死な思いがあった。
 原爆投下からはじまったアメリカ支配の中で、日本の心はズタズタに壊され、金のためにはなんでもする、強いものが弱いものを支配するのはあたりまえ、自分さえよければとなっている。そのなかで子どもたちは、あえぎ本来持っている豊かな感性は、大きくゆがめられている。これを阻止するためには、どんな社会のなかで子どもがまっとうに育つのか、どんな教育をしていくことが日本と子どもの未来に全責任をもつことなのか、地域の人人、父母、祖父母と団結して教育をすすめていかなければならないと思った。そのために、月に1回地域の人や父母に呼びかけて、「放課後こんだん会」を開いて、話し合うことにした。1回目のテーマは「長崎佐世保事件」だった。いま子どもをとりまくゲーム、テレビ、チャット、コミックなどといったメディアの腐敗に気づきそれを阻止していこうと話し合った。
 2回目は、「子どもたちにいい文化を」と題して、子どもの、テレビ、ゲーム、などのアンケート結果をもとに、なにをよい文化として、子どもに与えたらよいかを話し合い、昔の映画、チャップリンのキッド」を鑑賞した。 次回は、昔の教科書にのっていたよい物語に、焦点をあてて、子どもたちに読ませたい話を親もよみ合って、なくしてしまった日本の心をとりもどせるきっかけになればと思う。
 1回目の懇談会の親の感想のなかに、「わたしたちが子どものころの、遊びや生活は、まだよかった、あのころの生き方を伝えたい。昔はよかった」というのがあった。
 これまでわたしは子どもと戦争体験世代をつなぐかけはしとなって、がんばろうと思っていましたが、三世代の真中もまたそれをうけつぎたいと願っていることがわかりとても、心強く思った。いまこそ、3世代で手をつなぎ奮斗していく。子どもたちを人殺しでなく平和の担い手として育てていくために。

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