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激しく語る長崎市民の怒り
原爆展キャラバン隊座談会
              信頼得た峠三吉の原爆展    2006年4月26日付
 
 長崎西洋館で5月6日から14日まで開催される「原爆と峠三吉の詩」長崎市民原爆展のとりくみと結びつけて、原爆展全国キャラバン隊が8日から長崎市内で街頭原爆展を始め、2週目までに市内12カ所で展示してきた。長崎市民のなかでは、昨年の原爆展をへてひじょうに信頼が広がり、また情勢の発展とあわせて激しい意見が語られている。キャラバン隊メンバーに集まってもらい、今年の特徴を語りあってもらった。

  昨年と違って立ち止まる市民
 司会 キャラバン隊が市内で原爆展を始めて2週間がたった。ここまできたところで、長崎市民の反響の特徴を描いてもらいたい。
  今年の特徴は、原爆展に立ち止まる人が増えたことだ。去年は素通りする人が多く、被爆体験も断片的なものだったが、生生しく語っていく。多くは語らない人も「アメリカの原爆投下は必要なかったんだ」など激しい怒りを語る。また、米軍岩国基地の増強や、基地移転費の問題などにたいして「日本は独立すべきではないか」という意見が多く語られている。
 アメリカに謝罪を求めるアピール署名をする人も増えてきた。現役世代も署名の訴え文を読んで「そのとおりだ」と署名していく。こちら側の、1回だけで終わるのでなく継続して長崎の本当の声を伝えていくんだという主旨が信頼されている。昨年の原爆展会場で語られた長崎市民の声のパネルがよく読まれ、「長崎がおかしいと思っているのは自分1人かと思っていた」「もっと伝えんといけん」「本当に市民が共有できる運動がこれまでなかった」などと語られる。伝えていかないといけないという機運は強くなっている。
  鎮西橋では、19歳の時三菱製鋼所で被爆したというおばあさんが、堰を切ったように体験を語っていった。ABCCが調査依頼にきたのを断ったのに、会社まで来て、2年間も調べられたこと、被爆者ということで結婚の話が何度も流れたことを語っていた。その人は「1人で大声を出しても仕方がないから黙ってきた。語る場所もなかった。今日は話が出来てよかった」と自分が描いた絵も提供しようといって賛同人になった。
  日赤の看護婦で、被爆者を救護した70代のおばあさんは、「わたしたちは死体を踏んで救護した。言葉ではいい表せない地獄だった」といい、「長崎はどうしてこんなに生ぬるいのか、広島のように被爆遺跡も残さなかったし、資料館も軽い気持ちで見れるような観光向けの内容になった。いままで被爆者同士で語りあったり、当時のことを話す場所もなかった。でも悔しさは広島と同じだ。そういう場があれば参加したい」といっていた。

  展示を手伝う賛同者 空襲や陸軍経験者の姿も
  空襲のパネルを見て、大村や佐世保で空襲にあった人など、被爆者ではない人も、原爆だけじゃなくて日本中が焼き払われたんだ、と怒りを持って帰る人もたくさんいた。
  フィリピンの陸戦隊だったという男性が来て、「マニラも沖縄戦と一緒で、艦砲射撃や空爆をして、アメリカは火力で街をせん滅させた。日本軍も死ぬが住民も死んだ。戦後、日本軍の責任といわれてきたが、住民を殺したのは米軍だ」といっていた。生き残った人は包囲して餓死させるというやり方だったそうだ。その世代の人はみんな「アメリカのポチになっている」といっていく。
 B 被爆者の補償や、韓国人被爆者の補償についても「日本政府ではなくアメリカに補償を求めるべきだ」といわれていた。それと長崎では「“うその手帳を持っている人が多い”といわれるから自分たちはもういいたくない」という人がたくさんいた。被爆者といったら、「医療費がただでいいね」とか、「うそついて、いい目見ている人がいる」といわれ、手帳を持っていても使いたくないという。長崎市はそのせいで貧乏なんだといわれる、という人もいた。
 A 被爆者運動もテレビでは補償訴訟ばかりが出て、「被爆者は金をもらってなんだ」という世論がつくられている。鳴見台という賛同者の人の住む地域で原爆展をしたが、これまで「金をもらって生活している」という批判しか出なかったそうだ。賛同者の人も今回原爆展をやって、話ができてよかったと喜んでいた。その後、近くのショッピングセンターでやった原爆展にも一日中手伝いに来た。そういう抑圧が広島以上に強いんだと感じた。
 C 鳴見台原爆展は、チラシを前日にまいただけだったが、地域の人がたくさん来て、親子連れも熱心に見ていった。30代の母親が、「資料館はきれいになっているから、原爆がきれいなものとしか子どもたちに伝わらない」と子どもを連れて来たりした。原爆を投下した飛行機のパイロットが「原爆投下は悪いことではなかった」と最近もテレビでいったということへ、若い父母からも激しく怒りが語られた。
  60歳で初めて原爆の写真を見る、という人もいた。長崎には本当に伝える場所がない。賛同者の人があれだけ本気になるというのはやっぱりそうなんだろうなと思う。

  熱心な被爆2世も 行動求める若い世代
  今年は若い世代の反響も強い。被爆2世はとくに、体験が伝えられなくなるという危機感がある。原爆病院前で展示しているとき、パッと車を止めて「見せてください」と来た50代の建設業の男性は、子どもの黒こげの写真を見ながら、「なんでこんな目にあわんといけんのか」といっていた。父親が原爆病で苦しんで病院の行き帰りをくり返している。「これだけの目にあわせた国に、日本は安保とか守ってもらうといってまた苦しめている」といっていた。入院したときに被爆者の人と話す機会があり、視野が広がったと語り、「長崎はバラバラで市民の参加できる運動がなかった、子どもに受け継いでいくためにも被爆者の声を聞いて自分にできることをやっていきたい」と喜んで賛同者になった。
 A 原爆病院前も去年は見る人が少なかったが、今回は道を通る人が来たり、止まっているタクシーの運転手が見に来たり、輪が広がっている感じだ。
  「安保をなくさないといけない」と語る人もいた。「安保斗争やエンタープライズ入港阻止斗争も若者が先頭になってやった。その後背骨を抜かれてしまった」と語り、「フランスのCPE撤回の斗争も若者だ。日本の若者にもがんばってほしい」といっていた。
 C 16歳で少年航空兵に志願した人は、イラクの自爆テロに共感を示していた。「自分も国を守らないといけないと思って志願した。イラクの若者もそんな気持ちだ」といっていた。「日本はアメリカの植民地みたいにさせられて、このままじゃいけないと思う。でも歴史が伝えられていないし、語る場所がない。だが若い人には知っておいてもらいたい」といっていた。「伝えられてよかった」といっていた。
 D 日本が独立したら、中国や朝鮮に攻められるという人もいたが、青果市場の被爆者のおじさんは「中国や朝鮮が軍事的に力を入れているのは日本にアメリカがいるからだ。中国が日本に攻めてきてもなんの得にもならない。日本もアメリカにたいして核を持って独立しないといけないのではないか」といっていた。
  「中国や韓国と友好関係を持たないといけない、アメリカがいるからそれができない」という人が多い。あるおばちゃんは「北朝鮮はよくわからない国だけど、それでも外交的にはアメリカと対等にやっている。それを見たら立派だと思う。それに比べて日本の小泉はなんですか」といっていた。
 E 戦後の長崎は以西漁業が中心で成り立ってきた。アメリカの中国封じ込め政策に追随する政府と斗争しながら日中友好漁業で発展してきた。アメリカナイズが強まるにつれて漁業が寂れ、それに伴って中小造船もつぶれ、長崎が寂れている。長崎には華僑も多いが、長崎市民の中国・アジアとの友好の要求はもともと強い。
 A 語る場ができたというのが長崎市民のなかで実績になっている。抑圧を取っ払って、安心して語る場をつくってくれたという信頼だ。

  60年の怒り表面に 崩れる「祈りの長崎」 ★ニ
 D 「祈りの長崎」にはみんな怒っている。誰一人として「祈りの長崎です」という人はいなかった。これにやられてきたというのを実体験からいわれる。そういう人たちが「前回見させてもらって本当によかった」といっていく。
  長崎は外から見るとカトリックばかりのように見える。表面に出てくるのが、永井隆などカトリック調だ。修学旅行や観光コースはカトリックばかりだ。修学旅行で何度も長崎に行っている下関の教師も「長崎に寺があったのか」と驚いていた。今、さるく博というのをやっているが、巧妙にキリストモードがつくられている。
  被爆でいとこを亡くした60代の婦人が「毎年夏にさだまさしがコンサートに来て“被害をだれかれのせいにしてはいけない”というが理解できない。アメリカがやったことをなぜ隠すのか」といっていた。
 D 長崎市民の実感では、キリスト教はまったく少数派だ。外側はつくられたイメージで、長崎の真実は伝わらず、内側では語らせないという仕かけだ。これが崩れるところまできている。これは大きな歴史の転換点だ。

 既存勢力は宗教色一色
 司会 今年はマスコミがキャラバン隊の活動も黙殺だが、いろんな勢力の動向はどうだろうか。
  去年の夏に、長崎の宗教者懇話会といって寺の坊さんや神社の神主などで、教会につれられてバチカン旅行に行っている。パウロ来崎何周年かでイベントも準備されているし、東本願寺には本島元市長が講演に来るというポスターが貼られていた。「祈り」と「許す」を主張する舟越氏の講演もお寺でやっていた。仏教の方は、原爆について何かやると「宗教色はいけない」と革新陣営などからいわれているが、キリストの宗教色だけはオンパレードだ。
  しかし、長崎大学の教官が、「原爆を許せという平和」の号外を読んで賛同していた。「今から相互交流していかないといけない」とかいっていた。
  カトリックのなかから出るのは、「中国やソ連に占領されるより、アメリカに占領された方がよかったではないか」という意見だ。そういうふうにまとめられ、それが神の摂理に結びついていく。そこが原爆投下をどう見るかの分かれ目になっているようだ。
 E 長崎は戦後GHQの政策が成功してきた。最初は紳士的な米兵が来て、2度目に来た米兵はひどかったという話もあったが、援助物資なんかも優先的に回している。その長崎に50年8・6斗争の峠三吉の原爆展を持ちこんだら長崎市民に大歓迎された。この意義は非常に大きい。
 B ABCCの職員だったという人が2人来た。原爆病院で死人が出たら、ABCCに運んでいたそうだ。米軍は脳の委縮状況に興味があって、頭を割って調べていたという。
  ABCCに今でも調べられている人もいる。その人たちは、「モルモットですよ」といっていた。
 B 主人が新聞記者だったという婦人が、浦上天主堂を壊すときも、アメリカが裏から動いてやったのだといっていた。金を出すといって、当時の神父を妥協させて、新しい教会を建てたといっていた。
  三菱に勤めていた人が、戦時中三菱は輸送船が沈められるとわかっていたから、缶詰の中に砂を詰めて出発させてもうけていたそうだ。「多くの人があんな状態になっても三井や三菱など財閥は全部そうやってもうけたんだ」といっていた。
 D 長崎でも三菱造船は無傷だ。広島でも造船は無傷、下関の三菱も同じだった。アメリカの財界と仲がよかったのだ。長崎はカトリックを三菱が支えている。そうでないと本島氏のようなものがカトリックの票だけでは市長にはなれない。
  抑圧構造が去年突破されて、今年さらにその力が強くなっている。
  1万人署名も元気がなかった。訴え方も、すごい高みから下下にいっている感じで、署名してくれる人の話もあまり聞いていない様子だった。国連に行く金がほしい、という感じだ。

  小泉政府に憤り 教育の荒廃危惧
 E 市民の反響は昨年と比べてかなり大きくなっている。昨年の原爆展にたいする信頼ができているのと、情勢の発展がある。岩国や佐世保の基地再編問題、社会全体の対米従属問題などで小泉政府への怒りがすごく出ている。
  国内で搾り取った物を全部つぎ込んでいる、という構図がだれでも語られる。
  教育問題もよく出る。ちょうど弟が兄を殺した事件があったが、「そういう子どもが育っているのが問題だ」などと語られた。長崎では人権教育で、競争はいけないと、運動会でもリレーの選手はなくなっているし、縄跳び競争もできない子がいたら、先生が行ってはさみでまんなかを切ってしまう。「教育が私らのときからすると理解できなくなっている」といってくる人もいた。
 D 長崎はとくにこういう原爆の写真を見せる場がないから子どもがそういう風になるというお母さんもいた。
  新大工町で展示しているとき、うつ病の教師が来て暗い顔でじーっとパネルを見て、「今の子の親の世代は、自分たちが20代の時に教えた親だ。戦争のこととかも教えてきたはずなのに、なんでだろうか」といっていた。多分教組の運動とかやっていた人だが、「子どもたちが自分の動機ばかり主張する。アメリカの思考方法と同じだ」と語っていた。長崎の教育の一面を見た感じだった。
 A 岩国の住民投票はたいしたものだという意見があった。八百屋のおじさんは「全国みな岩国と同じ思いだ。アメリカは前の戦争の時も形勢が不利になるとフィリピンからもさっさと逃げた。日本を守るわけがない。戦争に巻き込まれたら日本がどうなるかわからない。米軍の思いやり予算やグアム移転費用まで日本が出しているが、アメリカに出させるべきだ」と語っていた。
  「市民が立ち上がるときが来ている」という被爆者のおばあさんもいた。18歳で被爆し、母と4人の弟が亡くなった。父も原爆症で、20年後に体中に紫の斑点が出来て亡くなったそうだ。「これからは座っている場合じゃない、立って行動しないと」といって署名、カンパもした。ものすごく行動的になっている。黙っておれないという雰囲気が強まっている。アメリカへの怒りが表面化している。
  米軍の艦船が最近は佐世保だけでなく、長崎港にも入っている。核兵器を積んだ米軍艦船が長崎に入っているのだ。佐世保基地もあるが、そういうことへの怒りが長崎にはある。
 E 長崎市民が長年の沈黙からその本音を堰を切って語りはじめた。アメリカが核恫喝しているなかで、広島と長崎が語り出したらすごく大きいことだ。

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