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はじめて語りだす被爆者
長崎市中央橋で原爆展
             「祈りではすまされない」と   2005年6月2日付

 長崎市内での行動を展開中の「原爆と峠三吉の詩」原爆展全国キャラバン隊第1班(劇団はぐるま座団員・長周新聞社後援)は5月31日、長崎市浜町の中央橋で街頭原爆展をおこなった。
 これまでまったく被爆の体験を語ったことがないという被爆者が、パネルを見てみずからの壮絶な体験をはじめて語っていった。原爆を投下したアメリカが謝罪しないどころか、戦後から現在まで戦争をつづけていることへの怒りが語られ、「“祈りの長崎”ではすまされない」「長崎はいままでおとなしすぎた。広島のようにもっと早くからやるべきだった」などの声が多く寄せられた。
 勝山小学校6年生のときに被爆した70代の婦人は、「小学校が救護所になってわたしたちはけが人の血膿をとる仕事をしたが、男女の見分けもつかないような人たちが皮を垂らして、水、水と苦しんでいた。隣の家は一家全滅だった。わたしの家に避難してきた知りあいは赤ちゃんは頭が焼けてなくなり、お母さんは抱いたままの形で腕の肉がくっついて、いつまでも泣いていた。まだ若いお母さんだったがその姿が忘れられない」と語った。
 また「爆心地近くで自分の背丈よりも大きな黒焦げの息子をへこ帯で体に縛ってずるずる引きずり、“もうすぐお家に着くからね”と、ボロボロ泣きながら歩いていた母親の姿も忘れられない。なんとか絵に描いてでも残さなくてはと思うが苦しくてとても描けない」と語った。
 そして、原爆が落とされたすぐあとに進駐軍が入って来て、アメリカ兵に追いかけられ家の中にまで入ってきて恐ろしかったこと、アメリカ人による事件や事故が連続的に起こっていたことを怒りをこめて語り、アメリカに謝罪を求めるアピール署名に名前を記入した。
 13歳のときに坂本町の自宅で被爆し、母親と生後2カ月の妹をふくむ姉妹4人の5人家族を一瞬にして殺された婦人は、「父親も戦争から帰って病気で亡くなり、残された子ども2人は口でいえない苦労をした。13歳の子どもにとってショックがあまりにも大きかったから、ずっと語れなかった。でも、少しだけでも伝えておかなくてはと、主人に筆記してもらって部分的なことだけはやっと書いた。いまでもまともに原爆の写真を見ることはできないが、長崎原爆展にはぜひ参加させてもらいます」と、期待を語った。
 上五島から原爆病院に診察に来たという七四歳の男性は、14歳のとき小管の三菱工場で被爆して二年間寝たきりで苦労した体験を語り、「アメリカは戦後もベトナムでも戦争し、イラクでもバンカーバスターという爆弾を使っている。わたしは元気になってから漁船に乗っていたが、ひところはイワシが一網1400dもとれたし、鯨もとれて、長崎も活気があった。それがバブル以後へってしまった。やっぱり一番悪いのはアメリカだった。悪代官を懲らしめなきゃいけない」と語り、広島被爆体験集やパネル集を買い求めた。
 子どものときに被爆した六四歳の婦人は、署名しながら「あのアメリカが謝るはずがない。いまでも何倍もの威力の爆弾をつくって、イラクでは劣化ウラン弾をあれだけ落として。アメリカは悪魔の巣窟(くつ)だ。長崎も和洋折衷になって、上っ面が悪魔の巣窟になっている。長崎には福祉を名目にして金もうけをするような人もたくさんいる。アメリカのいう“神”は大うそ。神の御慈悲とか、御加護とかいいながら、罪のない人たちを殺している」と語り、カンパを寄せた。
 また、先日のポスター工作で賛同者になった80代の男性は、「この築町も原爆で延焼した地域で、目の前のビルあたりで死体を山積みにして火葬した。日本の敗戦はわかりきっていたが、大本営は大うそばかりだった。アメリカの原爆も腹が立つが、天皇も最高責任者でありながら国民にたいして一度も戦争の謝罪をしていない。どれだけの国民が死に、苦しみに耐えて生きてきたと思っているのか。友人は南方で沈められて空の箱だけが帰ってきた。東条や職業軍人は太い年金がつくが、1銭5厘の一兵卒は死んでもいいことはなにもない。こんなばかなことはない」と語り、「最近では加害者の弁護ばかりがはやっているが、原爆でも加害者が威張って、被害者がちぢこまっている。この世の中は狂っている!」と憤りをぶつけた。
 また、唇を震わせながら、「見とうなか。まだこんなものじゃなかった。川で泳いでいた子どもたちが頭だけ焼かれて灰になって、生きたまま殺されたんだ…」(70代・男性)と、独り言のようにいってとおりすぎる被爆者が多かったのも特徴的だった。


      仏教関係者が共感 カトリック使った民族的屈辱に怒り
 今月26日から長崎西洋館(川口町)でおこなわれる「原爆と峠三吉の詩・長崎原爆展」(主催=下関原爆展事務局)が長崎市内の仏教関係者のなかで強い共感を集めている。
 長崎市には100におよぶ寺があり、原爆とのかかわりはひじょうに深いが、原爆記念日に大大的にとりあげられるカトリックとは対照的にその活動はあまり知られていない。
 とくに、自身も熱心なカトリック信者であった本島市長がバチカンに行き、パウロ2世が長崎を訪れるなど、市政による「祈りの長崎」のキャンペーンがいちじるしくなるなかで、「カトリックは歴史的に被害者であり、仏教は弾圧した側の加害者」という説が強調され、寺の発言力が弱くなったといわれている。
 しかし、実際には原爆犠牲者も現在の市民も圧倒的多数は寺の門徒であり、被爆後の犠牲者の遺骨収集、戦後の死没者供養なども寺の手によってつづけられている。原爆展への賛同協力を訴えるなかでの寺関係者の声を紹介したい。
 ある寺の教務所には、敷地内に数万の無縁仏を納めた「原子爆弾災死者収骨所」がもうけられている。戦後すぐに進駐してきたアメリカ軍が浦上川ぞいに飛行場を建設しようとしたが、その辺りは原爆犠牲者の腐乱した遺体が散乱したまま放置されていたため、教務所の婦人会の手によって敗戦の翌年から一年かけて遺骨収集がされた。遺骨を市当局が受けとらなかったためここに納められているが、だれのお骨か、何体あるのかさえわからず、この寺によって原爆法要が毎月九日におこなわれている。
 教務所の関係者は、「もともと教務所は、26聖人殉難の地(豊臣秀吉の禁教令によって捉えられたキリシタンが処刑された丘。戦後、国際的な聖地として整備されている)付近にあったが戦後、GHQが来て“ここはキリスト教の地だ”といっていまの場所に移転させられた」と語った。「原爆展は宗派の集まりで宣伝したい。原爆の行事もやるのでパネル展示もしたい」と語り、協力を申し出た。
 賛同者となった40代の住職は、「カトリックは400年まえから植民地化を狙って日本にやってきた。長崎でカトリックが全盛を誇った時期には、仏教をせん滅するために、寺は焼かれたり、僧侶も殺されるなどの弾圧を受けた。もともとバチカンから直接力を入れて、植民地にするために来ている。原爆でも最近は、“宗教色をなくす”という名目で原爆記念式典にもお寺としては参加できなくなっている。その反面、カトリックが前面に出て、被害者のような顔をしているが、背後にアメリカの指図があるのではないか」と実情を語る。
 「戦後、アメリカは日本人が宗教的にまとまって反抗してくることを恐れた。宗教色をなくすといいながら仏教を抑えて民族のまとまりを崩そうとしている。文化侵略ではないか」と語り、原爆展の開催に共感。原爆展パネル冊子20冊を購入した。
 別の住職は、「長崎では爆心地周辺と旧市内で温度差があるようにいわれ、カトリックの多い浦上だけが被爆地として持ち上げられている。しかし、この寺も原爆の爆風でいまだに傾いたままだし、わたしの父親も被爆している。あの鐘(アンジェラスの鐘)の音がくせものだ。あの鐘の音が長崎の運動が盛り上がらない要因ではないか」と語り、「お寺も市民のために存在感を示さないといけない」と賛同協力を名のり出た。
 寺町のある寺では、「戦後60年で被爆者の声が消えていくのではないか」という檀家からの声で、被爆体験集を寺で発行することになり、20人ほどの体験記が集まったという。「表に出て話をするのはむずかしい雰囲気もあるが、檀家の集まりで紹介したい」とチラシ100枚を預かった。
 また、「長崎市内ではカトリックは40万市民のうち5万人ほどだといわれている。カトリックの町という印象の方が強いが、仏教徒の方がはるかに多い。仏教界では毎月九日に平和公園の無縁仏の供養を各宗派でやってきたが、戦後50年を機に行政からの指導でやらなくなった。最近は、クリスマスばかりが派手になっている」(50代・住職)、「長崎ではキリスト教は差別されてきたといって幅をきかせ、そのまわりの市民は、差別者として小さくなっている雰囲気がある。お寺は昔は文化の拠点だったが、戦後のアメリカ文化のなかでお寺そのものの力がなくなっている。がんばってほしい」(50代・坊守り)など共感を集め、宗派をこえた協力の輪が広がっている。

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