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平和の行動始めた若い世代
広島「原爆と戦争展」閉幕
              全広島を代表した行事に    2009年8月10日付

 7月31日から8日間にわたり広島市中区袋町の市民交流プラザで開催された第8回広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる長崎の会) は7日、大盛況のうちに閉幕となった。広島市内はもとより県内および全国各地、世界各国から2500人が参観し、広島市民のなかに深く根ざした取り組みとして広がるとともに「2度とあの戦争をくり返すな」「アメリカは核を持って帰れ!」という全国的な大交流の場となった。
 会場内では、のべ80人の被爆者が毎日参観者に体験を語った。また平和公園での「原爆と戦争展」キャラバン隊も含め、県内の学生がのべ31人、受付、通訳、アンケートの翻訳などにボランティアとして従事した。
 期間中新たに賛同者として名を連ねた人の数は230人にのぼり、そのほとんどを20〜40代の若い世代が占めた。
 東京から訪れた20代の男性は「“核廃絶”を訴えるオバマ大統領に少し期待していたが、式典やこの原爆展に参加してそれが全く消え失せた。“アメリカだけは永遠に持ち続ける”という主張だし、表面に見えない背後の力を感じる。平和宣言に英文を盛り込んだ市長には驚いた」と話す。また、戦争や原爆について各地の資料館や展示会に足を運んで、調べるなかで「戦争体験世代の人がまた戦争が近づいているといわれる意味が分かってきた気がする」と語っていた。
 「東京ではハローワークに行っても派遣すらなく、週3日程度のアルバイトが関の山。だれもが今の社会の行き詰まりを感じて何とかしたいと思っているはずだ。若い世代が協力して行動できればと思っている」と語った。
 大阪の女子大学生は「平和のために何か行動したい」との思いで広島を訪れたものの、原水禁や原水協の行動に触れ「私の考えていることと違い過ぎる」と落ち込んでいたときに「原爆と戦争展」を知り会場へ足を運んだ。そして「私心なく全市民を代表する立場で」という広島の会の活動に触れ、被爆体験を聞いて元気を取り戻し協力者となった。
 富山県の20代の男性は「祖母が富山空襲体験者で話を聞いている。大きな川が、水を求めて集まって来た人たちの死体で埋まり、避難するために橋ではなくその死体の上を歩いて渡ったと聞いた。アメリカは効率的に殺したとかいうが、考えられないことだ」とパネルの写真を指しながら話した。
 静岡の高校で英語を担当する女性教諭は「現在の世相が、ちょうどパネルにある第2次大戦前の状況と重なるように感じる。学校では“どうせ勉強しても仕事はない”という閉塞感が漂ったり、天皇制賛美や戦争による活性化を公然と主張する生徒が出てくるなど、若者が右傾化する傾向も見逃せない。今はまた同じこと(戦争) を繰り返すのか、全く新しい基盤の世の中をつくるのかという重要な分岐点に差しかかっていると思う」と話した。
 「そういうなかで自分に何ができるのかと考え、高校の修学旅行以来となる広島へ足を向けた。静岡に帰ったら子どもたちにどこの教科書にでも書いてあるような通り一遍のことではなく、このパネルを見て直接被爆体験を聞いて感じたことを伝えたい」と話した。

 広島市民の行動活性化
 西区で美容室を経営する女性は、「ポスターを預かった際に受付なら手伝えると伝えていたが、予約が入ってしまいできなかった。申し訳ない」と店を閉めて会場に駆けつけた。「母の兄が食糧の輸送船に乗っていて船ごと沈んでしまった。祖母の兄弟の子どもは被爆している。店でお客さんからも体験を聞いてきた。広島で原爆を受け、主人(三菱勤務) がいた長崎に避難し、2度被爆した人もいた。パネルを見てすごく身に迫ってくる。今まで自分の楽しいことばかりやってきたことを反省させられた。広島の人たちに大勢見てもらいたい」と語り、『原爆と大戦の真実』パネル冊子を購入した。
 竹原市の男性は「五歳のときに、父(35歳) が北太平洋のキスカ島で戦死した。父や乗っていた艦船の写真、遺書など家で保管していたが、ここなら大勢の人に見てもらえると思った」と資料を持参してその場で提供、協力を申し出た。
 70代の男性は「私の実家は三次だったが、消防団員だった父は召集を受け7日から市内の救援に入り、1週間以上帰ってこなかった。帰ってきた父の顔面は蒼白で何を聞いても“あれを見てないものでは話にならん”といい続けていた。父はその後72歳まで生きたが、亡くなる直前には赤黒い斑点が体中に出ていた。あれは絶対放射能の影響だった」と声を震わせた。「納得いかないのは日本がアメリカの支配下におかれていることだ。オバマが核廃絶というが、誰が聞いても矛盾している。日本の政治家も何も知らない者に限って核武装や先制攻撃を叫んでいる。この様な展示をもっとやって若い人たちに伝えて欲しい」と話した。
 ポスターを見て駆けつけたという呉の婦人は「アメリカがやったのは原爆だけじゃない。呉も空襲や機銃掃射でたくさんの人が殺された。戦後入ってきた進駐軍は今の商業高校に基地を構えた。岩国基地の周辺と同じように、人殺しや強姦は日常茶飯事だった。結婚するといってアメリカに連れて行かれ捨てられた人もいる。その上、日本を基地にして朝鮮戦争やベトナム戦争も始めた。今も全く同じだ」と話した。最後に「秋葉市長はオバマを持ち上げて広島に招待するといっているが、市民感情が全く分かっていない。どうしてもというなら連れてきてみたらいいけど、無事に帰れる保障はないですよ」と語った。

 盛上がるなかで閉幕式
 7日午後5時からは広島の会の会員や事務局のスタッフ、居合わせた参観者も交えた閉幕式がおこなわれ、八日間の成果が確認された。事務局からの概況報告に続いて、主催者である広島の会を代表して四氏が意見をのべた。
 毎日会場に足を運び精力的に体験を語った真木淳治氏は8日間で東京、千葉、大阪、兵庫、新潟、アイルランドなど全国、世界からの参観者に体験を語るなかで「純粋に市民の立場で平和を願う」という会の方針が喜ばれていたと報告。「全国から来た人たちは異口同音に自分の地元では教科書で少し学ぶことはあっても、詳しく体験を聞いたりパネルを見たりすることはできない。このたび広島に来て良かったといわれた。これを今後の力として引き続き頑張りたい」とのべた。
 石田良文氏は「このたびの原爆展で1日に20人から30人の人に体験を語るという初めての経験をした。これまでこういうことを避けてきた、30代から50代の人たちが熱心に体験を聞く姿が印象的だった。今特に皆さんの熱意を感じている。今後とも頑張って行きたい」と語った。
 大学生の朽網氏は冒頭、一緒にスタッフとして参加した大学生の感想文を紹介。「私たちの子どもや孫の世代になると被爆者の方から直接体験を聞くことはまずできないので、その時に教科書にあるようなことを教えても意味がない。私たちが直接体験を聞いたときの抑揚など、本人から聞かないと感じられないことをどう伝えていくかが大切だと思った。これからもたくさんの方の体験を聞いていきたい」と意欲をのべた。
 同じく市内の大学に通う井上氏は「今回初めて参加し、これまで平和学習がありながら目を背けてきた被爆の実態と正面から向き合うことができた。これからもこの活動を続けていきたい」と決意を込めて語った。
 8回目となった今年の原爆と戦争展は、市民自身が名実共に主催者となってすすめられた。ポスター掲示やチラシ配布は「毎年のこと」「これくらいはやらせて欲しい」と市民の積極的な協力が相次いだ。
 会期中も会場の受付から、会場付近でのチラシ配布による呼び込みや通訳、翻訳に至るまで学生を中心に市民が主力を担った。参観者のなかでも「毎年来ている」「今年は友だち(近所の人) を誘ってきた」など連れだって来る市民の多さが際だった。またホテルや旅館では原爆と戦争展のポスターが1番目立つ位置に貼り出され、「旅館で薦められた」という参観者もいた。更に最終日の撤収の際には、会期中に賛同者に名を連ねた人など多数が駆けつけた。
 近年原水禁、原水協を筆頭に各種「平和団体」の存在感が極めて薄くなっているのとは対照的に、私利私欲なく市民の声を代表した広島の会の活動は確固とした基盤をもって広がっていることが鮮明になった。

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