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原水禁全国実行委員会座談会
平和勢力大結集する教訓
             人民に奉仕する立場が決定的   2003年9月2日付

  今年の8・6斗争の総括を語る
 1950年8・6広島平和斗争の路線を継承して、日本の平和運動の再建をめざす原水爆禁止運動は今年の8・6広島集会、福屋での広島市民原爆展に体現されたように大きな発展をとげた。原水爆禁止全国実行委員会の活動家に集まってもらい、今年の運動の到達と教訓について語ってもらった。とくに大多数の日本人民の本当の願いを代表して力ある平和運動を建設するために、それを先頭に立って切り開いていく政治勢力の結集を展望して、今年の運動を導いた路線を理論的にも明確にするために語ってもらった。
  
   50年8・6型の運動追求 労働者鋭く反応
 司会 最初に今年の運動の経過、概況から出してほしい。
  今年の8・6にむけては、4月に全国実行委員会を開いて討議した。アメリカがイラクを攻撃し、小型核兵器を開発して日本を拠点にして新たな原水爆戦争をやろうとしているなかで、これを阻止する力のある運動を起こしていくこと、たんに原爆展をやるだけでなく、福田正義さんの『広島と長崎』、峠の詩を正面から持ちこんで、50年8・6の路線を具体化して労働者を中心に各戦線の運動をつくっていくことを方針として出した。とくに現役労働者のなかでの運動を重視して職場での原爆展を追求し、アピール署名をすすめ、『広島と長崎』の宣伝と学習をすることを重点的な課題にした。そのなかで広島市民原爆展が福屋で開かれ、その準備がすすめられてきたし、小中高生平和の会の活動が、下関の平和教室を中心に地域で広がり、広島平和の旅へと発展していった。
 B 4月の全国実行委員会では、アメリカがふたたびアジアで戦争をやろうとしている。それは50年8・6の朝鮮戦争時とまったく同じ状況だ。そのなかで全国から世界にむけて力ある運動をどうつくるのかと論議された。
  『広島と長崎』に体現されている50年8・6型の運動を具体的に起こしていくのかどうかが、中心テーマだった。
  イラク戦争反対、人文字などの運動がやられ、有事法制の問題で毎週労働者が何千人も集まる状況だったが、その運動が力がないというので、その路線をめぐって論議された。原爆展をやって評判がいいというだけで充足するのか、そこから平和の力をつくっていくのか。『広島と長崎』の方向で、唯一の被爆国である日本から原爆反対の運動を再建していくのかどうかが問われた。
 D その実践をもって7月の実行委員会があった。そのころになると下関での労働者にパネルを持ちこんで署名する活動がかなり多くの職場でやられて、反響が出た。岡山でも労働者の社宅で、その方向が追求されていった。この方向を日本の労働運動としてやらないといけないというのがはっきりしてきた。
  下関では、20の職場、事業所で原爆展ができた。岡山の高い観点の活動に励まされた。鉄鋼や化学産業の社宅を回ったが真剣に厳粛に受けとめた。共通して20代から30代の労働者の意識が変わっていることを痛感した。この方向で論議になるということが実感としてつかめた。新鮮な怒りを呼び起こすということだったと思う。
 ある郵便関係の労組では、委員長の奥さんが看護婦さんでパネルを見て「これはいい」といって病院でやってくれた。旦那さんもやってくれた。そういう経験をするなかで、すべての人に支持される純粋さがパネルにあると感じるようになった。ある運送会社では、労組の委員長が別の会社を紹介してくれたが、組合はなく会社の常務という人が出てきて、「わたしがみんなに見せよう」といって展示してくれた。
 A 岩国でも、原爆展の賛同者に依拠して職場で原爆展を開く方向での運動が切り開かれていった。労働者は峠の詩に感動する。先輩たちがこういう運動をやってきたのかと驚く。職場で家族手当ももぎとられるような状態に追いこまれるなかで、その大本がどこにあるのかということが論議されてきた。
 D 教育、文化などさまざまな戦線で「根源が原爆にあるんだ」ということが語られはじめていった。
 B 労働者を中心に統一戦線の力でやるんだということが鮮明にされていった。これまで労働者のなかに足も運ばないし、労働者が政治なんか考えるはずがないと考える傾向が強かったが、初歩的な実践のなかで新鮮な反響がつかめるなかで、そんな古い認識がひっくり返され、労働者階級のなかで論議できるという確信になっていった。
 岩国では県庁の総合庁舎で原爆展をやっていないのが、教育委員会だけというほど広がっている。賛同者のいるところではかならず広がっている。若い婦人や青年のなかにも広がっている。確実に新しいことがはじまったなという感じだ。
 
   広島が動きはじめる 福屋で市民原爆展
 司会 今年の運動のもう1つの柱が福屋での広島市民原爆展だった。
 E 5月30日に広島・下関の主催者代表の広島の被爆市民原爆展の趣意書を出して、6月14日に賛同者会議を開いた。そのとりくみの過程で広島市民からひじょうに支持された。被爆者が賛同人にどんどん名前をつらねていく。旧日銀以来の原爆展、地域原爆展、平和公園原爆展を継続してきて影響は広がっている確信はあったが、それ以上に市内の反響が大きかった。被爆者が友人や知人を集めてくれたり、自分たちの運動として広がっていった。教育・文化、財界、医療、企業の社長、郵便局まで各界各層の人人が賛同し、広島市民のなかで広がっていった。
 もう1つの特徴は、峠没50周年もあって峠三吉の詩集、評論集が発行されて、賛同人や協力者も「すべての声は訴える」をはじめて読んで、「こんなことを書いていたのか、それこそ自分たちの気持ちだ。これは広げないといけない」と力になっていった。2回目の賛同者会議では「峠三吉は知られていない。もっと知らせた方がいいのではないか」と論議になったが、被爆者のなかでは文句なしに峠の詩は支持されるという関係だった。原爆展の期間中もそうだった。市民の被爆者からは心からの支持があった。
 被爆者がほんとうの思いを語りはじめるというのは、当初の予想をこえていたと思う。そのなかで「原爆がなぜ投下されたのか」「戦争終結のためには原爆投下は必要なかった」というパネルがすごく注目を浴びた。ああいうパネルを見て抑圧されていたものがとり払われていった。そういう意味では、号外として5万枚配られた長周新聞の「すべての声は訴える」は広島のなかではすごく響いたのではないか。
 D 6月の末から原水禁の宣伝もふくめて、宣伝物はポスターからチラシ、号外など30数万枚になった。市内での反響は、以前とは様変わりしていた。これは宣伝に参加した人たちが共通して感じたことだ。峠50周年で福屋でやるということでいままでにない親近感を持って協力してくれた。旧日銀原爆展以来の運動が市民のなかでものすごく浸透している。広島が峠をとりもどしている、「広島が動きはじめた」と感じた。この3年間の運動の発展にものすごい手応えを感じてきた。8・6の式典で秋葉市長がアメリカを名指しで批判し、子どもが峠三吉の詩を元気よく朗読して、多くの人人の共感を呼んだが、8・6デモの沿道の市民が「(峠の詩を群読しながらデモをしてきた)あなたたちがやってきたからだ」と喜んでいた。
   
   空気が一変した広島 使命感で語る市民
 司会 その後の反響はどうだろうか。
  市民原爆展の最後の主催者会議で、広島の被爆者自身が「広島の被爆者が語りはじめた」ということが喜びとして語られている。運動が質的に高い段階にすすみはじめた。峠が示すような方向で、原爆投下の目的とか、加害者論とかそういうものの抑圧をとっ払っていく。問題意識が高い。なぜ広島の子どもたちの参加が少ないのか、広島の教育問題とかかわって被爆者のなかで論議がはじまっている。
 F 賛同者のなかでも自分がはじめて語ったこともふくめて、「広島が語り出した」「動き出した」と心から喜ばれている。基町でも峠三吉の名前は知っていても「あれだけの詩を残しているのは知らなかった。ふれる機会がなかった」「本当にわたしらの思いを代表してくれている」と強い信頼になっている。また、下関の人たちがやってくれたと感謝されている。
 ある被爆者は、50数年たってはじめて居場所を見つけて安心して語れたという。「原爆展でわしらの思いを伝えてくれて、福屋でも新しい人が語りはじめた」と喜んでいる。ある町内会長は、「原爆を利用するものがいるから嫌なんだ。でも展示はいいから協力しよう」といって賛同したが、原爆展が終わったあと人が変わったように「よかった。被害を受けたものの思いを本当に伝えないといけない」と、自分が中国の最前線で銃弾を肩に受けて戦争で嫌な思いをしてきたことを語っていた。
 これまでは「原爆」と聞いただけで、既存の不純さを持った運動への嫌悪感から避けていた人たちもふくめて、「被爆者の権利」ではなく、2度と起こさせないために純粋に語りついでいく方向が響き、戦争体験者として被爆者と共通の思いでつながったと思った。 G 最近、高校生が旅の『報告集』を持って広島をお礼に回り、「福屋に行ったら店員さんがていねいにお辞儀してくれた」と喜んでいた。入っただけでそういう雰囲気を感じていた。この運動がどういう質なのかがわかる。被爆者の人たちがほんとうに安心できる運動をつくっているという感じだ。
 B 下関でも地域原爆展を市内3カ所で同時にやり、そのアンケートを自治会長に持って行ったら、8・6の式典の市長の宣言と子どもの詩の朗読について、「あんたらよかったのー」といってきた。大衆の側はそう思っている。しかしこちらの側が、あまりそう思っていない問題がある。
 F この3年来、広島の被爆市民を代表するということでやってきた。最初の年は、「禁」や「協」と違うことが理解されずにはねつけられたりして、「禁」や「協」がどれほど市民のなかで嫌われているのかがわかった。昨年は被爆者に語らせない重しになっている「加害者」論の暴露をやった。峠の『原子雲の下より』の序文や『広島と長崎』の号外を配布して、「アメリカに謝罪させよう」のアピール署名をやり、1年間街頭や地域の原爆展をやって福屋まできた。被爆者のもんもんとした思いを代表してハッキリと主張すると市内でそうだと反響があった。
 広島の被爆市民のところに立場を据えてやるのかどうか、「禁」「協」との違いを鮮明にすることが求められている。共通の敵にむかって発動する純粋な運動だ。そうすれば大多数の人人が団結してやっていける。そういう立場と質を持たないといけないと感じている。
  「峠三吉がやっていた方向でつづいておれば、いまみたいな状況にはなっていなかった」とある小学校校長が語っていた。平和運動が純粋におこなわれておればこんな日本にはならなかったというのは、かなり普遍的にある意見だ。原爆展のなかでも出されていた。
  
   安心して結集した質 全大衆を代表
 司会 峠三吉に代表される50年8・6路線に導かれる運動について、質的にはっきりさせていきたい。これまでの認識を新たにしている点などを出してほしい。
  市民原爆展の総括の主催者会議が終わったあと、ある被爆者が「福屋原爆展が成功したのは政治色がなかったからだ」と話してきた。そのまえに原水禁、原水協の論議になって、「そのような対立を持ちこまないでほしい」と発言があったが、「そのとおりだ」という。その人は峠三吉がよく知られていないことを残念に思っている。原水禁、原水協は特定のイデオロギーで自分たちの私利私欲でやっているし、峠の詩はそうではなく被爆市民を代表しているということだ。われわれの原爆展運動が政治色がないということは、被爆市民全体の利益を代表していることから感じるのだと思う。
 B 政党政派、思想信条をこえて本当に純真な思いを伝えることが市民原爆展で登場してきた。原爆展には政治色がないといわれるが、それは日本民族の象徴みたいなものだからだと思う。下関でも地域原爆展をやるなかで、地域の老人や父母、自治会長など一般の人人が被爆者の思いを受けついで伝えたいという思いがあることを学んできた。そういう質の運動をやっていけばよい。それを各戦線でやることだと思う。これまでの運動の多くは、みんなの思いを代表してやっていく立場ではなかったことを痛感する。
 H いまの広島の会や下関の被爆者の会を運営する思想で共通しているのは、自分のためでなくみんなのため、自分の利害のためではなく日本の平和のためにという使命感でやるということだ。下関の会でうち立てられたそういう運動の質が広島でも全国でもひじょうに信頼されきた。「政治色がない」というが、その「政治」は狭い党派の政治、セクトの政治だ。小集団のセクト的な利害がらみの主導権争いに終始するような、いわゆる「政治」に市民は辟(へき)易している。原爆展を貫く政治は、政党政派をこえ思想信条をこえて大衆全体の要求を代表した政治であり、文句のつけようのない真実を代表したものであり、パネルはそれを体現している。それを市民は歓迎している。
 50年8・6斗争は、すべての大衆の利益を代表してアメリカと真正面からたたかった。だがそれ以後まんえんしてきた運動は小集団のセクト主義で、おれたちはこういう主張をしているからこの指にとまれというものだ。小集団の主張に賛成するかどうかで大衆を見ている。大衆の経験、その要求を調べてそれを代表してやるのかどうか。また気に入った大衆だけを相手にするのでなく、すべての大衆を活動対象にするかどうか、社会の片隅にいるのか、社会のどまんなかにいるのか。これが根本から違う。
 D 大衆を自分よりも低いと思っている。わかっていないから教えてやるという態度だ。これが一番嫌がられる。
 B 市民原爆展まできて、50年8・6斗争のとらえ方がまったく違っていたという論議になっている。広島の被爆者が立ち上がり、日本全体に大きな影響をおよぼしている。そういう位置で自分たちの運動を考えていたかどうかだ。1人ずつ支持者をふやしていくとか、1職場でそういう協力者ができればいいなというぐらいにしか考えていない。
 
   運動観転換が急務
 H 人民に奉仕するという思想が決定的だという問題を突きつめてみる必要があると思う。広島に多くの被爆市民がいる。その市民の苦しみや悲しみ怒りをよく聞いて、それを抑えつけている敵のイデオロギーを暴露して、人民が自由に語るように援助する。そのために献身的に奉仕する。大衆はどんな生活をしてなにを要求しているのか、そこの根底に流れている意識を分析して社会発展の方向にそって発動していく。
 この大衆の方から出発するのでなく、自分の都合、自分の主張の側から出発する。大衆を自分たちのために利用する。これは活動家のなかにひじょうに濃厚にあると思う。50年8・6斗争の路線というときも、特定の集団の主張ぐらいにしか思っていない。
 セクト主義というのは根は主観主義だ。頭のなかから理屈を覚えこんで、それを説教して回るのが先進分子だと考えている。現実は人民がおり、そこに生活と斗争がある。そこから出発する以外にない。大きな社会の発展方向を理論化した綱領的なものについても、どこかの頭のなかからこねくり出したものではなく、人民の歴史的な経験を集中し理論化したものだ。それを覚えこんで説教するのが先進的な人というのではうまくいかない。
  労働者中心というと、資本と労働の関係を綿密に見ていかないといけないという。確かにそうだろうが、その労働者、職場の経済利害にしか関心がない。そうではなく職場で全国、地域全体の労働者と人民の利益を代表した運動をつくっていく方向で論議になった。日常斗争はその一環だということだ。いまは困難な時代だから「タコつぼ」に入っておこうという運動観がある。古い活動家のところでは、「串刺し」論といって目前の資本とたたかえば、うしろの政府や政治が出てくるという論があったが根本から違っていたと論議になっている。
 I 労働運動というときに経済主義的な偏見が深刻に影響している。50年8・6斗争を担った青年労働者のなかの論議で、経済主義は誤りで反帝反戦斗争を基本とし日常斗争はそれに従属する、階級宣伝と国際連帯が第1義だ、と白熱的に論議されたとある。そのような観点の労働運動が、朝鮮戦争がはじまった戒厳令のような広島で、原爆を受けた広島市民の期待を代表してはじめての原爆反対の火ぶたを切った。
 それが60年「安保」斗争まで発展するが、それ以後高度成長とあわせて、体制の枠内で経済要求だけを追求する改良主義の労働運動というようなものがはびこってきた。労働者はいま少少大きな企業でもいつつぶれるかわからない。労働者を苦しめているのは、目の前の雇い主だけでなく背後ではアメリカのグローバル化だし、政府と独占資本全体が規制緩和、自由化を強行しているからだ。アメリカがグローバル化で世界中の市場を支配する武器が軍事力だしその中心が原水爆という関係だ。そのためには全国的、国際的な労働者の団結を展望するような方向でなければどうにもならない。古い活動家の方が、古くて狭い労働運動観を転換しなければ、労働者の関心にあわないということではないか。

  抑圧破りあたり前のことをいったのが峠
 E 原爆展で「あたりまえのことをあたりまえのこととしていえた。アピール署名はあたりまえのことだ」という声が出た。あたりまえのことだから支持される。アメリカが原爆を落として、なんの罪もない女子どもを殺して、謝りもせずまたくり返そうとしている。それを糾弾するのはあたりまえのことだ。だけどそのあたりまえのことがいえないように抑圧されてきた。それこそ広島の被爆市民の圧倒的多数の本当の思いだ。それが峠の詩やアピール署名で、いってもいいんだというふうになっていった。
  あたりまえのことだと人民が思っているが、あたりまえのことが抑圧されてきた。戦争を終結させるために必要だったんだといわれていえなくされてきた。それをうち破ってあたりまえのことをいったのが、峠であり、50年8・6斗争だ。広島市民がのどにつかえていたのを公然といった。原爆投下はなんのためだったのかと迫っていった。「アメリカは謝罪せよ」という広島アピールも内容的には鋭いが広島ではこれがあたりまえだ。この社会では支配的なイデオロギーは支配階級の方だ。だからあたりまえのことが抑圧されている。
  教育の分野でも教師が、あたりまえのことがあたりまえのことといえない状況におかれている。教育改革で授業日数は削減されるし、体育など子どもたちをきたえることや情緒感性を育てる教科が削減される。これはよくない、なんとか力をつけてやりたいと思っている。北九州では行政も運動会はやらなくてもいい、競争したり、きたえたりするのはいけないといって押さえつける。組合も同じで、公然とおかしいとはいえない。教師たちはだまっているけどおかしいと思っている。それが人民教育集会に来て安心する。恐ろしいと思わせるだけの暗いイメージの平和教育は嫌だと思っているが、そういうのが抑圧されていえなくなっている。
 
   共感呼んだ平和の旅
  戦争か平和かといういまの時期に、本当に力強い展望のある平和教育をやりたいとみんな思っている。この間の経験のなかで、平和教育はどうもおかしい、力のある平和教育をやりたいと思っている。そこにこたえていけるものが現実にあるのに、この方向でやっていこうと訴えられない問題がある。
 今年の旅では、子どもたちの受けとめ方も深いし成長も急速だ。子どもたちの生活も、親の社会や教育にたいするとらえ方も深い。だが、教師自身が子どもたちをそういうものとして受けとめておらず、確信を持って多くの先生といっしょにやっていくとならない。旅をほめるが心底自分自身がその方向でやっていくのではなく、特殊な運動として見ている面がある。
 D 教師のなかでは子どもが客観的にどう存在しているかを考えるのではなく、自分の目の前にいる子どもをどううまくまとめるのかという傾向が強い。主観的には子どものことを考えて一生懸命やっていると思っているが、子どもたちが親の生活や学校でどういう位置にあるのかというところから、導いていくというものではない。教師との関係でも自分との関係でしか見ない傾向がある。
 I 子どもたちがこの社会で成長発展していくためにどう指導するかではなく、自分の認識の範囲でなんとかしようとするのではうまくいかないだろう。子どもたちが生活している家庭や地域を理解し、子どもたちの関係を理解しなければどうしようもない。そうせずに、いいたいことだけいっていてはだめだろう。
 教育の戦場は学校だ。旅の教訓を学校現場に具体化して実践しなければならない。そこで敵はどう来ているのか、子どもの現状はどうなのか。親や地域の問題意識はどうなのか。教師全体がどういう状態なのか。それをふまえてなにをしなければならないかと問題をたてる必要があるのではないか。自分の受け持っているところだけを、よそよりうまくやろうとしても学校全体の影響のなかにいるのだからできるものではない。もっといえば、日本全体をよくしなければ子どもを立派に教育できない。勤労父母と同じ立場で平和で豊かな日本をつくるという立場で教育するというのでなければうまくいかないだろう。
   古いスタイルの活動は特殊な理論を持って高尚なことを勉強して、だれも理解してくれない演説をして回るというものだ。数年まえまで、クリントンの核政策を一生懸命勉強して、けんけんがくがくやっていた。そういう理論をかじってそれで啓蒙して歩いて、人を集めていくという小集団のスタイルの運動観は、社会の現実とはあわない。日常不断に各界各層の大衆のなかに徹底して入って調査して、どういう関係になっているのか、どういう要求があるのか、なにがかさぶたになっているかを論議しあってつかんで、適切な宣伝を入れていくという50年8・6型の骨格とは根本的に違う。
 D 客観的な実際から切り離れて自分らの組織をどうするかというふうに考えるのでは、組織は先細りになるだけだ。
 H なにもないところから運動を起こす立場に立つことだ。大衆がいるところではどこでも運動を起こす。なにを要求しているかをよく調べて、それに奉仕すればいい。こちらに賛成するものは集まってくれという運動は、だんだん集まらなくなって瓦(が)解するというふうになっている。
 司会 人民に奉仕する思想で、大衆路線の道を行くという50年8・6型の路線を鮮明にした政治勢力が結集すればそうとう運動は強いものになる。
  そういう勢力の登場を被爆者や大衆は望んでいる。下関の被爆者も最初はなぜ長周新聞がこれほど熱心に原爆のことをやるのか、原水禁実行委員会というものについてもよくわからなかったが、10年近い実践をへて自分たちがものをいえなかった50年当時に、広島の本当の声を上げた福田さんや峠さんのような人たちがいたので、いまこうした運動ができるんだと論議になっている。こういう方向で運動を組織することを求めている。自分たちの体験や平和への思いを語ることが自分たちの使命だと思うが、原爆展1つとっても被爆者だけでは物理的にもどうにもならないということもある。
  広島でも、下関から来てくれたから語れるようになったと感謝されている。広島は複雑であなた方のような人が来てやってくれなければどうにもならないのだという意見もあった。組織を持ち実力を持った勢力が抑圧構造と斗争して市民を発動していった。大衆はバラバラであり、鋭い階級的な抑圧関係ができている。そこで大衆の利益をとことん守って敵の抑圧をとっぱらうには、論議になっているセクト主義でなく人民に奉仕する思想で統率され、それなりの見識を持って大衆の実際的な要求を集中して抑圧をとっぱらって発揚していく組織された勢力がいる。それが数十万の適切なビラや号外の宣伝をやり、原爆展でも実際的な実務を準備する、などをやることと結びついて、広島市民が自分たちの運動として主体となった運動が発展した。このような組織力を持った勢力は違和感なく受け入れられる。
 
  人民に献身する勢力結集を
  このような役割をはたす活動家をどんどんつくっていかなければならない。もう一段運動の路線をはっきりさせて、実際運動のなかでそれを意識的に先頭にたって指導する。そういう政治集団の結集がいる。
  『広島と長崎』の論議は必要かもしれないが、みんなはもっと高いことを要求しているという意見もある。マルクス主義の理論の勉強からはじめて大衆を工作しなければ、原爆展ごときでは組織できないという意見だ。福田さんや峠三吉は低いと見ている。
  大衆のなかから出発し、大衆の要求を高めて返し、大衆自身が自分の要求として発言し、運動していくようにするには、社会発展についての法則的な理解がいるし、第一級の歴史観がいる。それは大衆の経験から離れた所にあるのではない。原爆投下は犯罪だという出発点は、広島の大衆の経験だ。戦後、風呂屋に行ったら原爆のことが大変な話になっているが、一歩外に出たらなにもない。これはおかしいというのが出発点だ。
 また戦後、労働者がストをやっても米軍が弾圧し、農民もコメの強制供出で米軍からやられる。そういう人民の経験を基礎にして、第二次世界大戦の全体の性質の分析討議をやり、そして原爆は戦争終結のためではなく、日本の単独占領のためにやらなくてもいいのを投げたのだ、それに反対することが歴史を前進させるためにも正しいのだということを断固としてやる。大衆のなかから出発するというのは、低レベルではない。大衆のなかから出発しないことを高レベルと考えているものとは次元が違う。これは大衆追随でもないし、号令主義でもない。
 B 『広島と長崎』は古くなった、原水禁運動も大事だが労働運動をどうするかだという流れもあった。その流れは原爆展を軽べつして、小市民がやることだと考えている。
  その流れは、大衆の意見を聞くといえば御用聞きだ。政治方向をもって、意識をつかむというのではない。
 H 戦略方向というものが観念的な理屈ではなく、生きた大衆の実際を導く路線、理論だという観点がなければわからない。基本のところは人民に奉仕するという思想だ。大衆の生活と斗争、大衆の苦難に心を寄せてその手助けをしていく。大衆は単独では敵に勝てない。そこには指導勢力がいる。50年8・6路線で一致した活動家集団ができれば、すごい力を発揮する。ここが大きな転換課題だ。
 B 50年8・6路線と口ではいってきたが、戦争にむかうときに敵とたちむかう路線だ。その転換がいきはじめたらものすごい運動になっていく。
  
  戦争前夜の中でも人民と進めば無敵
  ここまで来て、50年8・6路線をもう1度とらえなおすことが重要だ。戦前、満州事変の時期までくると、人民がもっとも困っているときに組織はみんな壊滅した。なぜ日本では壊滅して、中国革命は勝利したのかという問題意識をもって、人民の苦難を調べ人民に奉仕する活動に徹すれば必ず勝利するという信念をもって、50年8・6がとりくまれた。
 当時は朝鮮戦争がはじまって弾圧下にある。共産党はレッドパージで公職追放、総評は朝鮮戦争支持だ。いまと同じで平和勢力、たたかう勢力が消えている。共産党中央は解放軍規定で弾圧する。そういったなかで大衆とともに突破する。
 いま戦争が接近するなかで、そういう分かれ目があるのではないか。既存の政治勢力は全般的につぶれている。そのなかで元気いっぱいはわが方だけだ。なぜか。そこをはっきりさせて一致していけば勝っていく。
  戦前も組織はつぶれるが、人民の方はすごく意識が発展している。福田さんのコラム集をみてもそうだ。
  人民はわきあがっている。しかし多くの既存組織は壊滅している。戦前つぶれた流れが戦後もつぶれている。戦争にいく過程でそこを転換するのが戦前からの課題だ。それが50年8・6の福田路線だ。それを大衆は大歓迎する。
 敵もそうとうキリキリしているが、弱っている。そこで人民に奉仕する思想に徹して、人民とともにいくと想像もできないほど発展する。そういかないものは全部つぶれる。
  運動の発展は急速だ。3年前までは、広島の被爆者がこんなに立ち上がって語り出すとは想像もしなかった。
 F 第1回原爆展は99年からだ。第2回で峠三吉の詩でパネルをつくって、第3回にむけて改訂版をつくった。そして一瀉(いっしゃ)千里で全国へ波及した。
  2001年から東京へ行きはじめた。今年の8・6集会を見ても広島の人が前面に登場して様変わりした。これまでなぜ下関からかと聞かれて、わたしたちの運動が広島の本流だと説明しきたが、本当には理解できてなかったように思う。
  本流だとずっといわれてきたが、はっきりしない問題がある。平和教育の問題でも、「広島と福岡の活発な平和教育のあいだで、山口県が小さな集団でやっている」という認識があった。それがみるみるうちに広島も福岡も教育改革のもとで瓦解し、山口県が日教組教研の中心になっている。
 H はじめから全広島を代表する位置に立ってやってきた。その一翼を担ってあれだけの宣伝を原水禁の活動家がやった。広島全体を変えて世界の平和運動を変えるというプログラムだ。50年8・6から5年後には世界大会にまでいった。片隅にいる特殊な活動家集団という認識が阻止物になっている。
  みんなそういう経験をくぐって、路線がどう違うのかを鮮明にできるまで来たのではないか。活動スタイルも全部違っていた。
  たとえば峠三吉詩集にクレームがついた。こちらをいかがわしい特殊集団にして、合法性を奪うという攻撃だ。自分たち小集団を守るために、自分たちの腹いせのように、チャカンチャカンにケンカするというのでなく、峠を守り、広島の被爆市民の利益を守り、平和を守るという立場で対応し、みんなが安心した。
  峠三吉のパネルや詩集、評論集をどんどん普及する必要がある。

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