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被爆死兵士慰霊する説明板設置を決定
        広島市の設置許可出ず波紋  2006年9月1日付

 広島市の旧師団司令部で被爆した軍人軍属やその遺族からなる広島師友会(今田頼爾会長・60人)が、原爆犠牲者を追悼するために広島城内に建立した慰霊碑に、軍人の犠牲者を追悼し平和を祈念する説明板を設置することを決めた。だが申請から1カ月たっても広島市からその許可が出ないことが関係者の間で論議を呼んでいる。
 広島師友会では、今年、会員からの提案で、すでにある説明板にかえて、広島における陸軍の存在や軍人軍属が被爆死したこと、師友会の活動などを加えた新たな説明板を設置することを決め、100万円を超える寄付が集まった。だが「7月に市に内容を申請し、8月6日に序幕する予定にしていたが、なかなか許可がおりない。文面については純粋に歴史的事実として伝えるようにしたつもりだが、“審議会にかける”などといわれ、前に進まない。会として最後の仕事という意気込みで準備を進めてきたのでぜひ実現させたい」(理事)と語っている。
 管理する広島市緑地推進部は、「まだ事前協議の段階。後世に伝えることは大切なこと。ただし、既設の慰霊碑は純粋に犠牲者をとむらう目的で建てられたものであり、説明板はそれにふさわしいものであることが望ましい。今回の説明には、師団司令部の経歴や会の活動についての記述があり、それは別の形でできないものかと相談させてもらっている」という。
 また、「設置場所の広島城内(中央公園)が国有地のため、新たな設置物を建てるには、中国財務局、文化庁などの承諾が必要になり、その場合、数カ月かかることはザラ。内容上、判断しかねる場合は市が設ける設置審議委員会(第三者による協議)にかけることもある」など、2重3重の手続きがあって簡単ではないという対応。
 説明文の中には、軍隊の功績をたたえる箇所がみられるが、おもな意図は原爆によって殺された軍人犠牲者を慰霊することである。師友会では、市民の支持を得られる内容に検討したうえ、設置に向けて努力するとしている。

 約3万人の兵が被爆死 知られていない被害
 広島の兵隊経験者の間では、広島市内には軍人の慰霊碑がなく、その被害の実態が知られていないといわれてきた。広島では被爆前にいた9万人の軍人・軍属のうち、およそ3万人が被爆死したといわれている。その慰霊碑は極めて少ない。比治山の陸軍墓地に九つの部隊慰霊碑が遺族や生存者らの手で建てられているが、そのうち原爆犠牲者を扱ったものは2、3基程度である。
 当時、中国軍管区兵器部に所属していた男性(86歳)は、「本土決戦といいながら、兵器庫には武器はなく、兵隊は仕事がないので町工場の手伝いに行き、廃品のヤスリで手裏剣などを作ってアメリカ兵を倒す訓練をしたり、張りぼての戦車にむかって爆弾1個を抱いて飛び込み破壊するという玉砕訓練をしていた。これで戦争に勝てると思うものはいなかった」という。
 召集されてくる兵隊は、とっくに兵役の終わった30、40代や、病気や体格などで召集免除されていた人たちが多く、武器のない丸腰で宇品港から輸送船に乗せられて出征していった。「なぜ、殺されると分かっているところにあれほどたくさんの人間を送り出したのか。考えれば考えるほど不思議でしかたない」と当時を振り返る。
 別の司令部所属の元兵隊も「日の丸の旗の波で送られた兵隊が、水筒は竹、小銃も分隊に半数くらい、砲の車輪も木製など、まことに情けない格好で戦地に向かっていた」(『原爆下の司令部』)と記しているように、軍都広島の実態はだれが見てもすでに戦力を失っていた。
 被爆当時、西練兵場(現・県庁付近)には、県内各地から応召兵が集まっていたが、妻子を残してきた年配者や病気やケガで帰ってきた兵隊などが多かった。この兵隊たちも爆心地から700bの至近距離で全滅。市内で建物疎開などをおこなっていた西部第2部隊のおよそ3400人の兵隊たちも、8日時点での生存者は800人。その内、動けるものは200人足らずだったといわれる。
 戸坂で、作業中に被爆した男性(87歳)は、「部隊は全滅し、生き残ったもので必死に救護に回った。山口や浜田などから応援に来た兵隊や建物疎開の後片付けに来ていた6600人の動員学徒たちも死んでいる。全滅した2部隊の慰霊碑などはないし、慰霊祭なども開かれたことはない。わたしも出る幕ではないと思い、子どもや孫にも語らなかった。でも、わたしたちが経験したようにまたずるずると戦争に向かっている気がしてならない。黙っていてはいけないと思い、体験を語りはじめた」と話している。
 宇品にいた船舶司令部の所属部隊(暁部隊)として市内の救援にあたった男性(82歳)は、「暁部隊は、日本中の各部隊からよせあつめの部隊だった。鋼鉄製の船はすべて米軍の魚雷で沈められた。瀬戸内海などで民間の木造船を船員ごと徴用し、それで中国やシンガポールまで物資を運んだが、ほとんど行き着くまえに撃沈されていた。原爆投下のころにはすでに衣服も食料も武器、弾薬もなくなって、船だけが港につながれていた」と語る。
 被爆直後、唯一被害をまぬがれた暁部隊(推定約1万人)が、動員学徒や挺身隊の女学生たちとともに市内の被災者の救援、看護にあたった。中国地方各地から応援も駆けつけた兵隊たちも原爆症で亡くなっているが、その実態や数も明らかでない。
 前述の男性は、「宇品港に暁部隊の慰霊碑ぐらいあってもいいものだが、跡地を示す石碑があるだけ。宇品港は“軍都”の象徴のようにいわれ、勝てば官軍のアメリカが“軍都に落とすのは当たりまえ”という世論形成をしてきた。ここから送られ、帰ってこなかった数百万の兵隊とともに慰霊されるのがほんとうではないか」と話した。
 市内で唯一、軍人の慰霊碑がある比治山陸軍墓地も、戦後乗り込んできた米占領軍が、1949年、ABCC(現・放射能影響研究所)の移転のために、墓地はブルドーザーで破壊された。掘り返された遺骨や墓石は、南側の斜面に捨てられたが、プレスコードにより一切報道されなかった。砕かれ散乱したままの無残な光景に心を痛めた地元住民の努力によって、15年後の1960(昭和35)年に整理され、いまも住民の手による管理がつづけられている。
 原爆によって何人の兵隊がどのようにして亡くなったのかさえはっきりせず、慰霊碑もなく、兵隊犠牲者の存在は影に追いやられたままとなっており、関係者は長年胸を痛めている。

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