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被爆死兵士の碑がない広島
               「兵隊は犯罪者」でよいか    2006年9月1日付

 広島では原爆で非戦斗員20数万人が殺されたが、各地から召集され市内にいた多くの兵隊も被爆死した。その数は1万とも3万ともいわれる。被爆後救援に入った暁部隊などの兵隊も2次被爆し、多数が死亡したり原爆症に苦しんできた。しかし広島市には被爆死した兵隊の慰霊碑がない。「広島は軍都であったから原爆を落とされた」「加害責任を反省しなければならない」と宣伝され、原爆資料館もそのような基調で展示がされている。兵隊の被爆死者、兵隊経験者は犯罪者のような扱いをされ押さえつけられてきたが、それでよいのか。それは日本の平和のためによいことであるのか悪いことであるのか、積極的な論議が必要である。

 戦地では多くが餓死や病死
 第2次大戦中、日本中の男手は根こそぎ徴用され、中国大陸に、ビルマやマレーシア、フィリピン、さらにニューギニアなどの遠い南方諸島の絶望的な戦場にかり出されていった。徴兵制度のもと1銭5厘の、「赤紙」で問答無用に召集され、殺されにいったのである。広島の宇品港は、全国から召集された人たちが、家族や恋人、友人らと別れをおしみつつ、まともに武器も食糧もなく、輸送船の船倉に詰め込まれて、殺されることがわかっているのに送り出されたところである。
 広島には師団司令部があり、練兵場があり、宇品港があり陸軍の拠点であった。被爆当時、20歳過ぎの若者だけではなく、40歳を過ぎ妻子を抱えて召集された人たち、さらに15、6歳の子どもまで少年兵として召集され戦地に送られる状態であった。広島に残っていた兵隊は、武器はなく、軍隊としてはすでに力無いものであった。
 あの戦争で徴用された人人は1000万人、戦死者は320万人に上った。空襲などで殺された女、子ども、年寄り、勤め人、学生など非戦斗員は100万人近くに及び、兵隊としてかり出された2百数10万人が異郷の地で死んでいった。この戦死者の多くは、戦斗で死んだのではなく、補給もないなかに放り出されて、ほとんどが餓死であったりマラリアなどの病死という悲惨なものであった。そして日本中の家族、親族の身内のなかに戦死者がいないものはいないという、日本人全体に深い傷痕を残した。
 この戦争による痛ましく無惨な体験が戦後、平和を希求する原動力となった。戦没者の願いは、2度と戦争を繰り返して、人人が悲惨な目にあうことがないようにすることである。戦没者を犯罪者のように扱って平和の力を無力なものにしたり、または慰霊のふりをしてかつての戦争を美化する道具として使い再び戦争をやるというのでは、戦没者の死を冒涜し、まさに無駄死ににするものといわなければならない。
 戦後、戦争で犠牲になった戦没兵士、兵役体験者を「侵略者、軍国主義者、加害者」などと見なして切って捨てるのが「平和主義だ」というものがはびこってきた。戦没者を犯罪者と見なすなら、身内である戦没者に心を寄せる家族、親族すなわちほとんどの日本人民を犯罪者の共犯者と見なすことになる。それなら日本には平和を実現する力はないということになる。その流れはいまでは、イラク戦争になればイラク制裁を支持し、北朝鮮問題では、制裁を主張して、アメリカの戦争政策の肩を持っている。実際の姿は、この戦争の記憶を薄れさせるのと並行させて、いままた憲法を改定し、戦争をやる方向へと駆り立てているのである。
 そしてその一方で、表面上はそのようなイカサマ平和主義と対抗して戦没者を慰霊するという形で、実はそれによる平和の力を無力にすることに依存して、ブッシュのポチといわれる小泉をはじめとする歴代自民党政府などが、かつての軍と戦争を美化し、いまからの戦争に駆り立てるために利用するという政治をすすめてきた。

 召集した側は延命 犠牲者に何の償いもせず・再び戦争企む
 兵隊を召集したものと召集されたもの、戦争を引き起こしたものと戦争にかり出されて犠牲になったものを同列におくことはできない。戦争は国民が好戦的であり、国民がやろうと思ってはじまったのではない。それは天皇を頂点とした国権の発動として引き起こされたものである。人人はその権力の力によって戦争に動員されていった。教育はこの戦争に駆り立てるために人人をだまし洗脳する役割を果たしたことはだれでも知っている。マスコミは真実を隠ぺいし、批判的なものには「非国民」などと徹底した攻撃を加えてものがいえないようにし、人人を戦争に駆り立てる積極的な役割を果たした。官僚行政機構は、総力戦といわれる戦時体制に人、物、金のすべてを総動員し、戦争を遂行するためにフル回転の役割をした。そして三井、三菱などの財閥・独占資本こそが中国・アジア市場を求め、戦争をやらせてボロもうけをしていた。
 戦後、A級戦犯として戦争責任を問われたのは、数人の政治家のほかは軍部だけであった。軍指導者に重大な戦争責任があるのは当然である。しかし軍部だけで総力戦といわれる戦争ができたわけではなかった。軍は天皇の軍隊であった。そして天皇、財界、政治家、官僚、マスコミや教育などの戦争責任者どもは敗戦後、「鬼畜米英」といっていたアメリカ占領軍にこびを売って、犠牲となり荒廃のなかで苦しんでいる人人には何の償いもせずに、まるではじめから平和主義者であったかのような顔をして、何の責任も負わずにそのまま生き延びた。
 それはかれらを目下の同盟者にして日本を従属国にするというアメリカ占領軍の意図によるものであった。この連中がいま日本の民族的な利益のすべてを売り飛ばし、アメリカのための戦争に日本を駆り立てようとしている。この連中が、かれらによってかり出され、無惨な死を遂げた多くの戦没兵士を犯罪者のごとく扱うのは、とてつもなく卑劣なことである。

 不可解な日米戦争 米国側も皇側も・冷酷な計画的意図
 第2次大戦は単純な戦争ではなかった。日本帝国主義の中国、アジアにたいする侵略戦争とそれに反対する民族解放戦争があり、それが進行するなかで米英仏蘭との中国・アジアの市場争奪をめぐる帝国主義強盗同士の戦争になっていった。日本国内でも、戦争をやる天皇制政府・独占資本と人民の鋭い矛盾と斗争があった。
 日米戦争は戦争としては不可解きわまるものであった。「血みどろの」「やみくもの」「死にものぐるいの」戦争というのは、戦争に投げ込まれた側にとっての実感であるが、戦争指導者の側からは、アメリカの側からも天皇制政府中枢の側からも、複雑な力関係のなかで、冷酷で計画的な意図が貫かれていた。
 アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。だが実際は、フィリピンなどの日本に奪われた植民地を奪い返すこと、さらにその前から蒋介石軍を支援して中国を植民地市場として日本から奪い取る戦略を持っていた。それだけではなく、日本に壊滅的な打撃を加え日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。
 天皇を頭とする日本の支配階級の側は、中国全土への侵略をはじめたが、予想を超えて中国人民の民族解放民主革命の力があらわれ、日米戦争開戦前までに18万もの戦死者を出しており、撤退・敗北は必至となっていた。第2次大戦における日本の戦争は、最初から最後まで中国との戦争が中心であった。それは敗戦時にも中国全土で100万、満州、朝鮮とあわせると200万の陸軍部隊が張り付けにされていたことがはっきり物語っている。日米戦争は戦死者は多いとはいえ、日中戦争の付属的な位置であった。
 天皇制政府の中枢は、米英との戦争を勝てると思って突入したのではなかった。むしろ負けるとわかっていてあえて突入したものであり、敗戦がはっきりしても継続した。それはなぜなのか、無謀で政治的に無力だったというだけの問題ではなかった。日米戦争は開戦1年後のガダルカナル陥落が転換点となって敗北つづきとなった。44年春のサイパン陥落で敗戦は必至となり東条英機内閣は倒壊した。しかし天皇ら中枢はなお戦争をやめようとしなかった。そして戦死者の大多数がその後の1年の無謀な戦争継続によって生まれた。50万人以上が戦死した年末のフィリピン戦、硫黄島の玉砕、ビルマ・インパール作戦、ニューギニア戦、そして南方では放置された兵士がつぎつぎと餓死していった。45年3月からは1夜にして10万人を焼き殺した東京にはじまる無差別絨毯(じゅうたん)爆撃の全土空襲、20数万が犠牲になった沖縄戦、瞬時に30万人が殺された広島、長崎の原爆投下とつづいてやっと終戦になった。

 支配層は共通利害 米国は単独占領天皇は延命の為・残虐な皆殺し
 米軍は日本人を人間とは見なさず、虫けらと見なしてむごたらしい皆殺し作戦をやった。戦争を指揮する大本営も、武器も食糧も与えず輸送船に乗せ数千人を丸ごと海に沈めさせるなど、わざと殺させるようなデタラメな作戦をつづけた。なぜそうなったのか。
 結果としてはっきり言えることは日本全土の空襲、沖縄戦、広島、長崎の原爆投下まできて、中国、ソ連を排除し、アメリカが日本を単独占領する条件ができたということである。天皇側がそれ以前に降伏したのでは、日本が占領した外地はお返ししますとはなっても、アメリカが日本を単独で占領することはできなかった。
 天皇をはじめとする支配層が考えていたのは、国体護持ができるかどうか、すなわち自分たちの地位が維持できるかどうかだけであった。そのためにどういう形で降伏するのがよいかということであった。1945年2月の近衛文麿の上奏文は、“もっとも恐るべきは敗戦よりも敗戦にともなって起る日本人民の革命である”こと、“米英は国体の変革まで求めていないから頼りにできる”というものであった。近衛は、空襲で国民が犠牲になることは終戦にとっては都合がよいとまでいっていた。天皇らは、中国やソ連の戦後処理への影響を排除し、日本人民の反抗を押さえつけ、自分たちの地位を温存するために、アメリカが単独で占領することに望みをかけていたのである。
 そして原爆投下は、戦争終結にはまったく必要はないものであり、アメリカが8月9日と決まっていたソ連の参戦に焦って、6日と9日におこなったものであり、ソ連指導部や天皇を脅しつけて、日本を単独で占領するためにやったものであった。天皇もまた、原爆投下を、日本国民を救うような顔をして戦争を終結させ、アメリカに命乞いをする格好の機会とした。
 本土空襲が始まる半年前か、サイパンが陥落し東条内閣が倒れた1年前に降伏していたら、まだ戦死者も半数以下であり、国土も破壊されず、国の独立を維持する可能性も大きかった。しかしそれではアメリカの単独占領にはならず、天皇らが戦争責任をとる羽目になっていた。これが日米戦争、ことに敗戦必至となっても戦争を継続して数百万の国民を殺させた要因であった。アメリカは日本人を虫けらのように殺していったが、天皇ら日本の支配層もまたいく百万の命は自分らが生き延びるための「生けにえ」であった。アメリカが占領する上でも、天皇側が地位を守る上でも、日本人民をさんざんに殺し、反抗する力をつぶすという面では共通の利害に立っていた。

 戦争体験の継承を 本末転倒の犯罪者扱い・不戦の誓いとして
 100万の非戦斗員とともに、2百数10万の戦没兵士はそのようにして無惨に殺されたのである。この痛ましい体験を闇に葬ることはできない。しかもそのようにして日本を占領したアメリカの下請になって、再び日本が戦争をはじめようというとき、召集され死んでいった兵士たちの無念はどれほどのものであろうか。
 アメリカの言いなりになって日本を植民地のようにしてしまい、さらにアメリカの戦争のために日本本土を核戦争の戦場にし、若者を肉弾に仕立てようとしている小泉らが、戦没兵士の慰霊を装って靖国に参拝するのはインチキであり、戦没者への冒涜である。それは朝鮮、中国などへの侵略戦争は開き直って正当化し、アメリカと戦争したことだけは反省するというインチキである。
 原爆で破壊された広島が、「軍都だから落とされた」というアメリカのペテンにもみ手をして従う都市ではあってはならない。かつて召集令状を送りつけたり、戦争動員をあおり立てた広島市行政や新聞社などが、それによって殺された戦没兵士を犯罪者のように扱って、自分たちは平和主義者のような顔をするなら、とんでもない本末転倒である。
 戦没兵士の体験を闇に消えさせてはならない。日本人民全体の忘れてはならない不戦の誓いとして末長く慰霊をし、その無念の体験を語り継ぐことはきわめて重要である。かつてどのようにだました連中が、今どのようにだまそうとしているか、声を大にして語り継ぐ運動を起こさなければならない。

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