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被爆者と青年結び全市的盛上がり
長崎「原爆と戦争展」閉幕
             植民地支配覆す行動の熱気    2012年7月9日付

 長崎西洋館で開催された、第8回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、同広島の会、下関原爆被害者の会)は8日、最終日を迎え、大きな盛り上がりのなかで閉幕した。同展は、被爆市民と戦争体験者の思いを結び、若い世代へ、全国へ発信する行事として、全市的な運動となり圧倒的な市民の協力のもとでとりくまれた。会場には8日間で約1200人の参観者が訪れ、長崎の会の被爆者たちが集団で受付や体験証言などを担い、第2次大戦と原爆投下の真実とともに、そこから続く日本の植民地的な現状を見直し、核兵器の廃絶と平和と独立を求めて行動する世代を超えた交流がおこなわれた。
 参観した人人の多くが、初めて知る第2次世界大戦の事実に衝撃を受けるとともに、現代日本の閉塞した現状をもたらした原因を見出し、原爆投下者による日本の植民地的な扱いが今も続いていることへの怒りをあらわにしていった。
 また、そのもとで原発再稼働、消費増税、TPPの推進など国民世論からかけ離れた政党政治への怒りも共通して語られ、「戦前と同じようにだまされるわけにはいかない」「バラバラではなく、市民が力を合わせて全国に発信していこう」と運動へ合流する参観者の姿が目立った。なかでも学生や被爆2世、会社員、主婦、家族連れなど青年や現役世代の行動意欲が強く、会期中に新たに120人が原爆展運動への賛同者に加わった。
 戦時中、鹿児島の垂水に海軍属として派遣されていた80代の男性は、「近くに知覧や鹿屋の飛行場があり、いつも上空の戦斗を見ていた。初めのうちは日本軍が敵機を撃ち落としたり、新しい兵舎もどんどんできていたのだが、終戦が近づくと兵隊は年寄りや訓練のされていないものばかり。飛行機の性能も悪くなって次次に敵から撃ち落とされるようになった。設計技師をしていた私も、敵の上陸に備えて爆弾を抱えて突っ込んでいく自爆訓練にかり出された。全国どこも同じような状況で、負けることはすでにわかっていたのにアメリカは二発も原爆を落とした。今の日本を変えていくためには、この展示をもっとたくさん全国で続けていくしかない。私にできることはなんでも協力したい」といって賛同者になった。
 70代の婦人被爆者は、爆心直下の駒場町(松山電停付近)に実家があったため、そこにいた祖母や叔父は骨さえ見つからず、遺品の腕時計が見つかった辺りの灰を集めて埋葬したことを明かし、「私は爆心地から800bの油木町の防空壕に避難していて、突然襲ってきた爆風で壕の奧まで吹き飛ばされた。その後、負傷者が次次に避難してきたが、顔や手足が焼け落ちて真っ赤な肉がむき出しになっていたり、歩くこともできない黒こげの人たちで一杯になった。その後の地獄絵図は今も忘れられない」と五歳にして脳裏に焼き付いた経験を語った。
 「駒場町は、一家全滅の“死の町”とされて地図からも消えてしまった。戦後は、被爆者であることがわかると、いじめられたり、結婚を断られたりしたため、思い出したくない記憶としてずっと心の奥底にしまいこんで生きてきた。あれが私たちと同じ人間のすることなのかと、信じたくない戦争の残酷さに葛藤を抱えて生きてきたが、自分も70歳を超え、福島の原発事故が起こり、自分の人生観が変わった。長崎は“祈り”といわれるが、そんな甘いものではない。怒りそのものです」と語り、賛同協力者として今後も参加することを約束した。

 行動開始する現役世代 被爆2世や教師も

 被爆2世の40代婦人は、「今福島原発のことなどで原爆が注目されているが、福島は騒ぎすぎだ。テレビであれはだめ、これもだめといっているがそれを見るたびに姑が“私たちは葉っぱでも生えているものはなんでも食べたし、原爆が落ちてすぐに畑も作って生きてきた”と笑っていて原発騒動を疑問に思っていたが、その答えが書いてあった。長崎も広島もこんなに復興している。追い出すだけでは復興にならない。福島をチェルノブイリのようにしたいのか。そしてこれだけ放射能で大騒ぎしているのに、再稼働はする。矛盾しすぎている。会社でも計画停電は“政府と電力会社の罠だ”と話になる。今まで自分1人がいってもなにも変わらないと思っていたが、今東京で抗議行動が起きているようにおとなしかった日本人が声を上げ始めている。声を上げなければ変わらない」と話した。
 被爆2世の会の立ち上げにかかわった50代の男性は、「戦争というものの悲惨さは、理屈で物事を考える現代人の想像をはるかに超えた世界だと感じた。この現実を前にして、戦争をするべきだといえる人間はだれもいないと思う。私も原爆症で母を失い、自分も60歳近くになるなかで平和活動をしなければいけないと感じて2世の会に入った。だが、この戦争の中心にあったのはアメリカによる植民地支配であり、それは現在もさまざまな形で続いていることを知り、すべてが解けた気がした。アメリカの植民地支配との対決なしに個別の問題は何一つ解決されないと思う。そこに向けてみんなが心を一つにするときだと思う」と語り、今後、原爆展と連携して長崎で運動を広げていくことを申し出た。
 50代の中学校教師は「今教師はみんな戦争を知らない世代だ。教師のなかにも意識の差があり、平和教育も形骸化しているところが多くある。しかし体験者はどんどん減っていく。この事実をどうやって生徒に伝えていくのかが私たち教師の使命だと思う」と真剣に話し、「長崎の怒り」の冊子を買い求めた。
 また、大学生たちも被爆者の思いを受け継ぐ強い意欲を語り、次次に協力を申し出た。
 沖縄出身の女子大学生は、「沖縄戦の体験は聞いてきたが、写真などの資料を見るのは初めてで知らないことばかりだった」と驚きを語り、「沖縄の高校生のあいだでも米軍基地はいらないとみんないっている。普天間基地の問題でもオスプレイ配備の問題でも日本の政府は沖縄県民や国民を説得するのではなく、アメリカを説得するべきだ。日本中どこに米軍基地を持っていっても反対運動が起こるのだから、米軍基地はいらないというのが政府の本来の役割だ。おかしいと思う。今、沖縄戦にしても、被爆者にしても体験者がどんどん少なくなっている。私たち若い人がもっと意識を強くしていかないと大変なことになる」と語った。被爆者の体験を真剣に聞き、「私にできることはなんでも協力します」とスタッフの活動に参加することを申し出た。
 20代の女性は、「祖父は、原爆で奥さんと生まれたばかりの子どもを一瞬にして亡くした。原爆が落ちた後に家に戻ると奥さんが子どもを抱いたままの格好で炭になっていたという。祖父は右半身にガラスが刺さったまま奥さんの実家の大村に逃げて来た」と父から伝え聞いた話を語った。
 「このパネルは本当に衝撃的だった。なぜこんなにもたくさんの人が死ななくてはいけなかったのか。信じられない思いだが、私たちが伝えていかなければ忘れられてまた同じことが起こる。犠牲になった人たちの上に今の日本があるし、その人たちに恥ずかしくない世の中にしていかないといけない。ぜひ協力したい」とのべ、また会社の同僚を連れて来ることを約束し賛同者になった。
 今回のパネル展を見てスタッフになった女子大学生は、最終日にスタッフとして受付を担い、被爆者の交流会にも参加。「小さな子どもや若い人が多くて、この展示に関心を持っている人が多いことを実感した。交流会にも参加し、当時の状況を聞かせてもらい胸に来るものがあった。戦後六七年になるが、被爆者の方方が体験したことは風化させてはいけない。そのためには若い人が自主的にこういった活動に参加したりすることが大切だ。また機会があればぜひ参加したい」と力強く話した。
 参観者が続くなかでおこなわれた閉幕式は、1週間毎日のように会場に駆けつけ参観者に体験を語ったり、受付を担った長崎の会の被爆者たちが参加しておこなわれた。
 はじめに吉山昭子会長が、「今年も原爆と戦争展が無事に成功し、幸せな気持ちでいっぱいだ。広島や下関からの資料もたくさんあり、いかに平和が大事か多くの人たちにわかっていただけたと思う」と挨拶した。
 続いて、被爆者を代表して佐藤佐知子、菅源寿、金子カズヱの三氏が今回の感想と決意を力強くのべた。
 17歳のときに被爆し、母親を亡くした佐藤氏は、「原爆と戦争展に参加するようになってから今回で3回目だ。今年もここでみなさんと交流することができて本当によかった。母は死ぬ間際まで“アメリカを絶対に許さない”と振り絞るように語って息をひきとった。若い人にその体験を語り、この会に参加していただくように努力することが母の供養になると思っている。命の続く限りこれからも頑張っていきたい」と決意を語った。
 菅氏は、「8日間無事に終えることができたことが喜びだ。80歳を過ぎたが、これからももっと体験を語り、来年も今回以上の開催にしていきましょう」とのべ、参加者とともに万歳三唱をして思いを共有した。
 金子氏は、「どうしてもこの会に参加したくて所用を断って駆けつけた」とのべ、「ともに活動する広島や下関の方方と交流することもできてとてもよかった。この会場の雰囲気も大切にして、私たちが生きている間はしっかり後世に引き継ぎ、残していきたい」と決意をのべた。
 参観者の強い反響を確信し、長崎でさらに運動を広げていくことを誓い合い、大きな拍手で会は閉じられた。

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