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被爆体験学ぶ授業広がる
下関市内の小学校
              真剣な子供、教師、父母    2013年5月22日付

 下関市内の小学校で、下関原爆被害者の会の被爆者を招き、被爆体験を学ぶ授業のとりくみが広がっている。5月に入り熊野小学校、安岡小学校、王江小学校の3校で、6年生が長崎への修学旅行に向けた事前学習として被爆体験を学ぶ授業がもたれた。再び戦争が近づくなかで、「二度と戦争をさせないために今、被爆体験を子どもたちに伝えないといけない」と、語る被爆者の側にも力がこもり、真剣に学ぶ子どもたちとの心通う交流となっている。年ごとに子どもたちや教師たちの真剣さが増し、とりくむ学校が広がっていることは、被爆者の大きな喜びと確信になっている。

 どの教室も食入る様に 安岡小学校

 17日、下関原爆被害者の会の被爆者4人は安岡小学校の6年生(4クラス、111人)に被爆体験を語った。
 同校では昨年の3月に卒業間際の6年生が体験を聞く授業をおこなったが、今回は今月下旬から修学旅行で長崎に出発する新6年生に聞かせたいということで、保護者もともに聞ける参観日に設定された。
 4カ所に分かれ、被爆者のそばには「原爆と峠三吉の詩」のパネルを数枚置いて、話を始めた。
 どのグループも被爆者の熱意を込めた体験談と、子どもたちがとても真剣に聞き入ったことが共通していた。また、父母をはじめ若い世代の教師自身が被爆体験を初めて聞く機会となり、どの教室もくいいるように被爆体験を聞く姿が見られた。
 大松妙子氏は、広島で20歳のときに被爆。13歳と15歳の妹が全身やけどや放射能の影響で数日後、苦しんだ末に亡くなっていった状況や、どこのだれだかわからないたくさんの人たちが亡くなり油をかけて焼かれていったこと、生きた人間に青カビがはえウジがわく生き地獄だと当時の状況を報告。「何十万人がいっぺんに亡くなってしまった原爆は絶対に反対」と語り、会を再建して二度と戦争も原爆もさせないようにするために体験を語りついできたとのべ、子どもたちにも戦争を絶対にしてはいけない、と呼びかけた。感想を女子児童が代表し「人人がどんな気持ちで亡くなったのか戦争の恐ろしさがわかった。二度と戦争は起こってはならない。事実と向きあっていきたい」とのべた。
 升本勝子氏は、学徒動員で広島・呉で働いていた当時と直後の体験を語った。子ども全員と教師からも活発な質問が出された。「呉からでも原爆の雲は見えたのか」「原爆が落ちた後黒い雨がふったのか」「食べ物は一日どれくらい食べたのか」「アメリカのことをどう思っているのか」「原爆の後、病気になったのか」など。升本氏はわかる限り丁寧に答えていった。
 河野睦氏は、下関で空襲にあったのち、広島に疎開し、女学生のときに被爆した体験を語った。パネルの説明もしながら、多くの犠牲になった人人の状況を伝えた。子どもからは「原爆を落としたのはB29か」と質問があったり、参観していた母親からも「電車が真っ赤だったのは鉄が焼けたからか」などと質問が出された。

 下関空襲の経験も重ね 王江小学校

 21日には王江小学校の6年生約20人が、長崎への修学旅行を控え、被爆者5人を招いて被爆体験を学んだ。同校では昨年おこなった授業が非常によかったと、今年もとりくまれた。
 6歳のときに長崎で被爆した平野兵一氏は、「生まれて3年後に戦争が始まり、終戦までの4年間は毎日のように空襲警報や警戒警報が鳴って防空壕に逃げ込む生活だった」と切り出した。兄弟と一緒に小学校のグラウンドで遊んでいるときに原爆が落ち、兄がかばってくれたことを語り、「空襲警報解除になったから、みんな防空壕から出て家に帰ってご飯を食べたり、赤ちゃんにお乳を飲ませたり、外で遊んだりしているときに、アメリカが爆弾を落としたから、たくさんの人が死んだ」と強調した。
 両親とともに田舎の親戚の家に疎開したが、3、4家族が牛小屋や網小屋に住み、食べる物も着る物もない生活だったことを語り、「兄のやけどにウジがわき皮を食い破っていく。それが背中の方まで広がり、私たちがウジを一つ一つとって捨てていたが、次次ハエが来るから間に合わなかった。“痛いよ、痛いよ、死にたいよ”という兄を見ていると、本当に殺してあげたいくらいだった。僕を助けてくれたばっかりに十何歳で亡くなった。そのときのことを思い出すと涙が出る」と思いを語った。パネルの写真も見せながら、「終戦より一年前に戦争をやめていたら広島、長崎にも原爆は落ちず、赤ん坊からお年寄りまでなんの罪もない者が死ななくてすんだのではないかと思う」「今の戦争はボタン一つで終わる。絶対に平和でないといけない」「食べ物だけは好き嫌いせずに感謝して食べてほしい」と語りかけた。
 原爆投下直後に主人を捜しに広島市内に入った石川幸子氏は、顔の皮膚が焼けただれてたれ下がった人、河原で体がパンパンにふくれた子どもたちがごろごろ死んでいたこと、電車の停留所に虫の息の中学生くらいの男の子に、耳元で「このかたきはきっととってやるから安心して死んでいけ」といっている人がいたことなど自身の体験を語り、「今度戦争になると、あなたたちやお父さんたちが行くようになる。だから絶対に戦争をさせたらいけない。そういうことに出会ったときは、絶対に反対してほしい」と思いを託した。
 子どもたちは展示しているパネルも見ながら、「キノコ雲はどんなだったのか」「食べ物や着る物はどうだったのか」「防空壕はどれくらいの広さか」など質問をしながら体験に聞き入った。
 王江小校区は昭和20年の下関空襲で焼け野原になった地域。祖父母から経験を聞き、「学校の近くに空襲で焼けて曲がっているところがある」「お父さんから学校の崖にも防空壕のような穴があってコンクリートで埋めたと聞いた」など地域のことを話す子どもや、満州に行った経験や原爆投下後の長崎に入った経験を聞いたことを話す子どももいた。「アメリカはなぜ原爆を落としたのだろうか」「今もアメリカが中東でウランを使った爆弾を使っているのは本当なのか」と現在のことと重ねながら意欲的に学んでいた。
 最後に全体で感想発表がおこなわれ、挙手して「戦争がおそろしいことは知っていたけど、今回生の声で改めて平和な世の中をつくらないといけないということがわかった」(男子)、「今は自分でやることもすぐに親に任せたりするけど、この時代の人たちは靴も自分でつくっていた。そういう経験を聞いたから、自分でやらないといけないことがたくさんあると思った」(女子)など元気よく感想を発表。
 最後に担任の教師が「今回被爆者の方方がわざわざ王江小学校まで来てくださった。ご高齢の方たちが、日本の未来を背負う子どもたちのために、日本人の後輩たちに伝えたいという思いをしっかり受けとったのではないかと思う。伝えるのは人から聞いた話になるが、思いをつないでいくことは絶対にできる。この1時間を忘れず、10年後、20年後にまた思い出して感じることがあると思う」と締めくくり、全員で被爆者にお礼をいって別れた。
 教師たちからは体験を聞いた直後の子どもたちの感想に驚いたことや、これを機に恒例行事にしていきたいと語られていた。

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