トップページへ戻る

被爆地の意志示す大交流を
長崎原爆と戦争展主催者会議
              再び核の戦場にさせぬため   2017年6月12日付

 長崎市で今月21日から開催される第13回長崎「原爆と戦争展」の第2回主催者会議が11日、長崎市中央公民館でおこなわれた。原爆展を成功させる長崎の会の被爆者、被爆二世、主婦などが参加し、全市的に広がった宣伝活動の反響や10日後の開幕に向けて意気込みを交流した。現実に戦争の接近を感じさせる空気が覆うなかで、被爆地の経験を若い世代に旺盛に語り継ぐ機運を盛り上げていくこと、二度とくり返させぬ強い使命で結束し、市民の行動の輪を広げていく大交流の場にすることを確認した。
 
 期待集め一週間後に開幕迫る

 はじめに長崎の会の河邊聖子会長代行が挨拶し、「原爆と戦争展を13年も連続して開催することは非常に大変なことだが、毎年支えてくれる下関のみなさんの一生懸命なご協力に感謝したい。私たち実際に体験したものが頑張らなければいけない。高齢になり、ガンや病気で仲間が倒れていくことへの悔しさもあるが、その悔しさを力にして頑張りましょう」と呼びかけた。
 続けて、原爆展事務局が宣伝活動の概況と反響の特徴を報告した。
 先月末から旺盛にポスターやチラシ配布などの宣伝活動をとりくみ、10日までに原爆と戦争展への賛同・協力者は、被爆者、被爆二世、自治会、商店主、自営業者、病院、寺院、看護師、大学教員、退職教員、会社員、郷土史家など約130人となり、ポスター約1600枚が掲示され、チラシは約4万枚が配布されている。また、市内42の小学校、28の中学校、18の高校で、合計3万2000枚のチラシが学校を通じて全校配布され、長崎大学や長崎総合科学大学などでも教員や学部が学生へ参観を呼びかけるなど、全市的な広がりを見せている。
 市民のあいだでは、最近になってガンや白血病で倒れる被爆者や被爆二世が増えており若い世代への継承が急がれること、朝鮮半島をめぐる米朝のミサイルによる威嚇合戦が加熱し、ミサイル避難訓練が始まるなど日本やアジアを戦場にした戦争の空気が不気味に漂い、「教育勅語」の復活や共謀罪の創設、また、原発再稼働や茨城県の原子力施設での被曝事故などが話題となり、「被爆国でありながら、長崎・広島の被爆被害が正しく伝えられぬまま第二、第三の被爆者を生み出している」「体験者がいなくなれば、ふたたび戦争を始める国になっていく」と警戒感が高まっていることを報告した。
 また、市民から被爆体験を描いた絵や当時の食器類、体験記、さらに東本願寺長崎教務所からは、被爆翌年から遺骨収集によって2万体もの被爆者の骨を納めた「非核非戦の碑」の記録をまとめた記念誌が展示物として提供された。記念誌には、浦上川周辺に散乱したおびただしい遺骨を進駐した米軍がブルドーザーで粉砕して飛行場を建設し始めたことを見かねた市民が手弁当で始めた遺骨収集の経験や、その後、遺骨を納めていた西坂の教務所が進駐軍命令で移転させられ、かわりにキリスト教の26聖人殉教碑が建てられた経緯も記されている。記録文書としてまとめたのは初めてであり、長崎市民のあいだでもあまり知られてこなかった歴史として注目されている。これらの被爆体験を風化させることなく次世代へ継承し二度とくり返させぬ被爆市民の頑強な意志を全国・世界に発信する場として強い期待を集めていると報告した。
 参加者は、みずから若い人たちに参観を呼びかけた経験やポスターが市内全域に貼られるほど宣伝が広がったことへの喜びを語り、同展を通じて若い世代に被爆者の思いを継承していく課題について論議を深めた。
 5歳で被爆した婦人は、「電車に乗っていると、見知らぬ人から“原爆展は今年はいつからかね?”と聞かれて驚いた。市民の中に浸透し、私も関係者として認知されていることを改めて実感した。最近、知人が亡くなったのでお参りに行くと、遺族の娘さんが“亡くなった日に母のタンスを開けると引き出しの中に原爆展のチラシが何枚も大切に保管されていた。被爆者でもあり、毎年会場に行っていたので、チラシも一緒に棺に収めたんですよ”と報告してくれた。たくさんの市民の思いを背負っていると思った」とのべた。
 また、「一方で、学生や若い人に声をかけると“原爆は怖くて見ることができない”という反応もある。自分も被爆のことを話してこなかったので、娘が初めて被爆写真を見たときは目まいがしたという。でも、“母ちゃんたちはこういう経験をしてきたのよ。現実から目を背けていたら、自分が同じ境遇にあったときに生きていけない。孫たちがこういう目にあわないようにあなたたちが頑張りなさい”というと、それからは態度が変わり、以前よりもよくいうことを聞くようになった。伝えることは大人の責任だと思う」とのべた。

 教育との関連も論議に 原爆から繋がる現代

 2歳で被爆した婦人は「当時の記憶がないので、同じ場所で被爆した人の手記を読んで勉強してきた。この原爆と戦争展には、原爆資料館や他の資料展にはないものがあって感動した。資料館だけを見て目を背けている若い人にも同じ感動をしてもらいたいと思い、娘たちに声をかけたり、近所のポストにチラシを配布している。1人の参観が、来年、再来年には10人、100人とつながるように届けていきたい」と話した。
 婦人被爆者は、「チラシにある“ふたたび核の戦場にさせぬため”という思いを力強く訴えたい。政治家は戦争も知らず、原爆のことはなおさら知らない。上に立つ者の考え一つで税金は上がり、法律も変えられる。国民には本当のことは教えない。みんなが賢くならなければ、また知らない間に戦争に引き込まれる。長崎県は来月、雲仙でミサイル攻撃を想定した実働訓練を全国で初めて国と共同でやるという。落ちた後のことを考えても防ぎようなどないのは原爆で実証済みだ。原爆の被害を周知して、落とさないために努力するのが政治の責任ではないか」と憤りを込めてのべた。
 関連して、退職教員の被爆男性は、「原爆の体験は日本人全体の経験のはずだが、国はアメリカの顔色をうかがって核兵器禁止の国際会議にも出席しないという。これでは被爆の被害が伝わるはずがない。1960年代から80年代は、長崎市でも教育委員会が“原爆は悲惨すぎるから学校では教えない”という態度をとってきた。だが、子どもたちは大人にははかれない感受性をもっており、原爆の被害を知っただけでくじけるような子どもはいないし、その感性を大人になって論理的に捉えられる力をもつ子どもを育てないといけない。悲惨な現実を見るからこそ逆に正しいもの、美しいものを自分で判断できるようになる。不正義がはびこる時代だからこそそれに負けない強い子どもを育てることが必要だ」と強調した。
 「この原爆展を初めて見たとき、近代の日本の歴史がすべて描かれており、戦争と人間の命との関係がひしひしと伝わってきた。これを見ることで日本の現代社会が抱えている見えない問題がはっきりと見えてくる。ただ悲惨さを知らせるだけでなく、一緒に戦争に抵抗する力をお互いに培っていくすばらしい展示会だと思う」とのべた。
 他の参加者も「学校評議員をしているが、最近は学校でイジメを目撃しても先生が“ダメだ!”と叱り飛ばすのではなく、“あなたのやっていることはイジメに見えますよ”と優しく指導するのだという。これでは自殺も弱い者イジメもなくならない。原爆や戦争を教えることで、悪いものは悪いと教える原点にしなければいけない」(男性被爆者)、「海外からの観光客も増えているが、原爆資料館だけでは大切なことは伝わらない。昔の話ではなく、現代に繋がることとして呼びかけていきたい」(被爆二世男性)など、旺盛に語りあった。
 初めて参加した80代の婦人は、被爆当時小学4年生で、長崎師範学校(現・長崎大学構内)の学生だった兄が体育の授業中に校庭で被爆し、背中をヤケドしながら裸足で諫早の実家に帰ってきたことを明かし、「薬もなく、母が柿渋をすって傷口に塗り、うなり声を上げる兄を毎日うちわであおいで看病していた。その兄は命をつないで校長先生になり、退職した今でも夏休みに学校に体験を語りに行っている。そんな兄を見てきただけに自分も頑張らねばと思っている」と意気込みを語った。
 さらに1週間宣伝を広げ、会期中は多くの市民の期待に応えられるように協力して運営を務めることを確認した。


 

トップページへ戻る