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貧困と戦争もたらす政治に審判
参議院選挙の争点はなにか
               こそ泥のような争点隠し     2016年6月29日付

 7月10日に投開票を迎える参院選挙は、戦後71年を迎えたなかで、いよいよ安倍自民党が改憲に手を染めようという明確な目論見を持って挑んでいるのに対して、日本社会の進路をどうするのか重要な審判が問われている。改憲勢力の中心を為している自民党だけでなく、付属する公明党、維新、こころも含めた政党が七八議席を獲得すれば、近い将来に改憲の発議をすることは明白で、「戦争ができる国」「国民が戦禍に投げ込まれる国」にするか否かが最大の争点である。
 
 自民党は正々堂々会見を説明せよ 全政党縛る大衆世論と闘争を

 参院選挙の公示から3日後には、大手紙がいっせいに「改憲4党 3分の2うかがう」等等と1面トップで「世論調査」を掲載した。2年前の解散総選挙とまったく同じ手口で、自民党なり改憲勢力の圧勝を確定的に扱うことによって世論を幻滅させ、あるいは投票に行ってもムダだと思わせる効果を狙ったものである。限りなく低投票率にして有権者がそっぽを向かなければ、組織票依存の自民・公明は「圧勝」などできない。批判世論が強いなかで、野党のボロさ加減に辟易した人人が投票所に向かわないことを願望し、いかに「寝た子を起こさない」選挙にするかが頼みの綱になっていることをあらわした。

 米国と大企業が願う 「戦争できる国」作り

 深刻なる政治不信が蔓延していることを逆手にとって、低投票率で自民党・公明党が組織票で勝ち抜ける構図が続いてきた。その下で再登板した安倍政府がもっとも熱心に進めてきたのは、集団的自衛権の行使を認めた安保法制、米軍指揮下で自衛隊が地球の裏側まで出動することを定めた日米ガイドラインの改定、国家権力の秘密が暴露されることを恐れた特定秘密保護法、国民弾圧とつながったNSC設置など、一連の戦争体制づくりであった。メディアへの圧力もこれまでにない攻撃性を持ったものだった。憲法解釈の変更等等、先行して体制整備を進め、改憲は実質的に後付けのような格好でやろうというものである。
 この改憲で安倍政府が目指しているのはどのような国か。昨年来、安保法制を巡る斗争によって暴露されてきたのは、「戦争ができる国」にせよというのは第一にアメリカの要望である。グローバル化・新自由主義の破綻に瀕して内政も外交も行き詰まっているアメリカが、「世界の警察」として軍事力を展開する力を急速に失っていること、そのような事情を反映して中東やアフリカなどの紛争地帯に「自衛隊を送り込んだらいいじゃないか」と鉄砲玉にする意図を持っていることである。
 米国本国で軍事費が削減される代わりに日本の防衛予算が5兆円超えを果たし、米軍需産業からF35戦闘機やオスプレイ、迎撃ミサイルなどを売りつけられ、同時に民需に行き詰まった三菱など国内製造大手が戦争経済を渇望しているのをくみとって武器輸出三原則も解禁した。戦争なしには生きていけないアメリカの軍産複合体・ネオコンを養いながら、そのおこぼれに国内大企業がありつき、最前線の肉弾には日本人がかり出されるというものである。
 戦争ビジネスをやる者にとって、武器市場は「平和」のもとでは開けない。中東にしても、アフリカにしても、邦人の生命にとってどのように存立危機事態なのか「丁寧な説明」は先送りされたまま、要するにアメリカが引き揚げる地域に自衛隊が出かけ、あるいは海外進出した多国籍企業の海外権益を守るために動員され、命をかけて兵站も含めた最前線任務を担う関係にほかならない。そのための訓練を日米合同で繰り広げてきたし、自衛隊と米軍の総合司令部を横田基地に置き、陸海空が連動して作戦を展開する体制も秘密裏に進めてきた。学問分野でも軍学共同を強め、研究費を締め上げて軍事面の研究開発に科学者たちを動員していく方向が露骨なものになった。

 自民党の改憲草案 現代版国家総動員狙う

 選挙が終わった後、安倍政府が改憲でやろうとしていることは何か。自民党が改憲草案で出しているのは「緊急事態条項」の新設で、内閣が必要であると見なせば非常事態を宣言し、国会やすべての法を超越して国民の権利や経済活動を制限するという戦前の国家総動員体制の焼き直しである。宣言を発した場合は国民は否応なしに従うことを義務付け、政府の判断如何で、平等権、思想、信仰、学問、集会・結社・表現の自由などの自由権、生存権、労働基本権などの社会権、請求権、参政権などのあらゆる人権が制限できるとしている。
 さらに憲法そのものは為政者を縛るものではなく、その遵守義務を「全国民が負い」、「国家」の方針に国民の権利を従わせるものへと変貌させている。基本的人権の尊重、主権在民の精神を覆し、平和的生存権の根拠となる「平和のうちに生存する権利」も削除。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という九条の規定から「永久に」を削除し、これらは「自衛権の発動を妨げるものではない」を追加して平和主義を空文化させている。さらに、憲法改正の発議の要件を従来の「各議院の総議員の3分の2以上」から「過半数」へと緩和し、国民投票も「有効投票の過半数の賛成」で可能とするものだ。
 ところが、改憲によって何をどうしようというのか、選挙においてはまったく黙ってしまい、目くらましの経済政策を持ち出したり、姑息極まりないのも特徴である。安倍晋三を筆頭に自民党や公明党、その他の付属政党も含めて正々堂々と改憲についての思いをのべなければならないが、世論の反発を恐れて「寝た子を起こさない」選挙に徹しているのである。国民世論を説得したり動員する力はないが、コソ泥のように国会の議席数を確保して権力だけは振り回すというものである。

 新自由主義破綻の下 米国と心中する道か?

 グローバル資本主義・新自由主義のもとで、アメリカを中心とした国際金融資本や多国籍企業が世界を股にかけて好き放題を繰り広げてきたが、リーマン・ショックまできて寡頭支配勢力のマネーゲームは行き詰まりを迎えた。資本が寄生し、バブルをひねり出していける余地は乏しくなり、限界に直面している。世界的に見ても過剰生産恐慌を背景にして貧困と失業が蔓延し、市場が狭隘化したもとで帝国主義各国の熾烈な権益争奪が激化している。ウクライナにおける米ロの衝突、中東におけるアメリカ覇権の凋落、中国を中心としたAIIB(アジアインフラ投資銀行)設立とイギリスの参加など、各国が二枚舌、三枚舌のだましあいで権益を守ろうと出し抜き、そのなかで第二次大戦後に世界覇権をほしいままにしてきたアメリカの地位が揺らいでいるのが重要な特徴である。こうした変化の著しい世界の矛盾とは別世界に棲息し、関係もないのに中東に出かけて恨みを買ったり、ODAをばらまいて嬉々としているような姿が如何に愚かであるかは論を待たない。どこまでもアメリカと心中するのか否か、国際社会とどう向きあうのか、日本社会にとってはこれも命運のかかった選択である。
 この間、金融破綻をとり繕うためにFRBやECBなど欧米の中央銀行が膨大なお札を市場に供給し、その真似事でアベノミクスがやられてきた。それは経済政策ではなく日銀がお札を刷り散らかして円安に導くとともに、国際金融資本に食い物にされただけであった。巨額のGPIF(年金基金)資金を注ぎ込み、これもどれだけ焦げ付いたのかわからない。アベノミクスによって膨大な資金が金融資本と日銀の間を行き来しているだけで、国民生活には回らなかった。大企業は低賃金労働を追い求めてみな海外に生産拠点を移し、利益が滴り落ちてくることもなかった。危機のなかでさらにグローバル化・新自由主義政策を徹底し、一層の自由貿易体制、資本にとっての自由を求めた労働市場の自由化や規制緩和を強め、さらに行財政改革を実行して福祉予算切り捨てや増税を実行してきたのも特徴である。法人税を減税された大企業は正社員を増やすわけではなく、むしろ安倍政府の下で非正規雇用は増大した。先進国でも飛び抜けて少子高齢化が加速しているのは、こうした搾取がいかに強烈なものかをあらわしている。子どもを産み育てることができない、閉塞しきった社会にしてしまっているのである。

 安倍自民党に鉄槌 国のあり方決める闘い

 こうした情勢は、貧困になって戦争に訴えていったかつての経験と重なっている。過剰生産恐慌に見舞われ、最後は帝国主義同士が武力衝突に訴えて植民地再分割に乗り出し、破壊によって市場をひねり出したのが第一次大戦、第二次大戦だった。人民生活全般に窮乏化が押しつけられ、この貧困と戦争に投げ込んでいく政治との全面対決こそが迫られている。集団的自衛権の行使や改憲が見据えているのは、米軍の下請で戦争を肩代わりするのと同時に、海外進出した国内大企業の権益を守るものにほかならない。そのために日本の若者に「死んでこい!」というものである。
 3年前の総選挙をへて再登板した安倍政府は、TPP交渉参加を表明し、原発再稼働にも踏み込み、集団的自衛権の行使を閣議決定だけで解釈変更し、特定秘密保護法や日本版NSC設置、集団的自衛権行使を盛り込んだ安保法制、日米ガイドラインの改定など一連の戦争体制を進め、この選挙が終われば総仕上げで改憲にとりかかろうとしている。歴代の政府はみなアメリカいいなりで、対米従属構造こそ諸悪の根源であることは疑いないが、この輪をかけた売国性を問題にしなければならない。選挙は「関心がない」では戦争に投げ込まれることを意味し、ならばどう有権者として自民党政府を懲らしめ、その暴走を押しとどめるかが重要な争点になっている。
 「憲法」と「アベノミクス」や経済政策を天秤にかけて、どっちが中心争点かなどと論じることは意味がない。立憲主義か否かだけを観念的に論じることも同じである。かつての戦争で日本人民が経験したのは、ひとたび戦争になるなら、一人一人の暮らしはおろか、自分や家族の生命や家屋(マイホーム)も奪われ、焼かれ、虎の子だったはずの預金も封鎖されて新円切り換えがやられ、個人財産もみな没収されたことだった。目先の経済的利害、つまり小さな個人の幸せなどいとも簡単に吹き飛んでいったし、抗うことのできない国家権力の力でもって戦争に動員していったのが天皇制軍国主義だった。そして320万人の邦人が死んでいった。痛恨の体験が教えているのは、戦争を押しとどめることが第一義であり、それが目先の経済的利害以上に抜き差しならない重要問題だということである。
 70年にわたって非戦の国是を貫かせてきたのは、単純に憲法があったからというものではない。家族や知人を奪われた日本人民の痛切な体験に権力が縛られ、好きにできなかったからにほかならない。戦後71年を経て、戦争を知らない戦犯の孫が反省もなくあらわれ、今度はアメリカにみな国益を投げ出して戦争にかり出そうとするのに対して、有権者の側が明確にそれを否定する国民世論を突きつけることが待ったなしとなっている。
 選挙において、野党も含めて国政政党がみな親米派に成り下がり、目の前の選挙構図からして期待できるものが何もなく、どうしようもないというのも事実である。しかし、その条件性のもとで野党共闘であれ何であれ、安倍自民党に鉄槌を下す結果にすること、アメリカや財界の代理人に終わりを知らしめることが重要な課題である。
 日本社会の進路は、米軍の下請に成り下がり、武力参戦して世界で孤立していく道しかないのではなく、非戦の国是を貫かせ、アジア近隣諸国との友好を強め、変わりゆく世界のなかで反グローバリズム・新自由主義の国際的なうねりが台頭しているのと連帯しながら、貧困と戦争の連鎖を押しとどめる道以外に選択肢はない。個人の小さな幸福、いわんや一握りの独占資本や金融資本だけの幸福社会ではなく、万人の幸福を実現できる社会に向けて歩みを進めることが、選挙の後も問われることになる。それは選挙に勝ったから終わり、負けたから諦めなければならないというものではない。政治家依存の議会主義ではなく、大衆的な世論と運動を強めて政治を下から揺り動かすこと、個々の政治家たちが抗えないほどの基盤をもって政治構造を縛り上げ、大衆運動によって国のあり方を決定づけることが問われている。選挙はその一過程にすぎない。
 

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