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広島「原爆と戦争展」が開幕
               全国や市内から続続と参観    2008年8月1日付

 広島市中区の広島市まちづくり市民交流プラザで7月31日、第7回広島「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる長崎の会)が開幕した。先月の長崎市に続いて開催される広島「原爆と戦争展」は、広島・長崎の被爆市民と戦争体験者の本当の声を結び、それを若い世代、全国、世界に発信して、原水爆戦争を阻止する国民的な力を結集する起点として強い期待を集めて取り組まれてきた。会場では、被爆地の思いを伝えるために被爆者、戦争体験者たちが体験を語り、現代の政治の変革を願う若い世代との強い響き合いをつくり出している。
 午前10時から、約30人の市民たちが参加して開幕式がおこなわれた。
 はじめに主催者を代表して、原爆展を成功させる広島の会の重力敬三会長のあいさつが代読された。重力氏は、開幕に至るまでの市民の協力をはじめ、共催する下関原爆被害者の会、長崎の会への感謝をのべ、「いま、平和で独立した豊かな日本を求める市民の声は強まっており、広島、長崎の本当の声を若い世代に、全国、全世界に広げて、国民的な規模で戦争を許さない平和の力を束ねることが切実に求められている。今日からの原爆と戦争展が大成功するようともにがんばりましょう」とよびかけた。
 続いて、ともに主催する下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる長崎の会、秋葉忠利広島市長からのメッセージが代読された。
 取り組みに関わってきた被爆者として真木淳治氏、大学院生の宮里幸氏が抱負をのべた。
 真木氏は、1月の廿日市からはじまり、広島大学医学部、修道大学、そごう呉店など各地での「原爆と戦争展」、地元の小・中・高校、修学旅行生、大学生との交流など半年間の活動を振り返り、「小学生の素直で純粋な反応に加えて、特に今年は学生さんたちが真剣に考え、意欲的に行動していることをうれしく受け止めている。しかし、この国では戦争反対、核廃絶といっても日本はアメリカの核の傘の下にあるといわれ逡巡しているという状況がある。そのなかで広島、長崎の市民の方方をはじめ、懸命に核廃絶の訴えを続けることで、アメリカ国内ですら核廃絶の世論が出るようになってきた」とのべた。
 さらに、「私たちの平素の努力がやがて大きな力になりうるという確信を抱いている。この八日間は積極的にできるだけ多くの人と話し合い、日本の現状を変えていくため、子どもたちの将来を見据えて懸命に訴えていきたい」と力強くのべた。
 宮里氏は、「1年前までは原爆といってもどこか遠い存在のようにしかとらえてなかった。パネルを見たり、被爆者から話を聞くなかで、自分の身のまわりに核兵器の存在があったり、戦争が身近に迫っていることなど、昔だけの問題ではないと感じた」と心境をのべた。そして、大学で原爆展をやることで同級生とも意見を交換しあうことができた喜びを語り、「パネルにはウソ偽りのない事実が書かれていて、再びこのようなことが起きるかもしれない、何かしなくてはいけないという危機感を強く感じる。自分も含め、同世代にもどんどん事実を知らせ、これから何ができるのか話し合いたい」とはつらつと意見をのべた。会場は大きな拍手で包まれた。

 学習に来る教師の姿も

 会場にはポスターやチラシを見て開幕を待っていた市民をはじめ、全国から訪れた親子連れ、教師、会社員、中学生、学生など幅広い人人が訪れて、真剣にパネルに見入り、会場につめている被爆者らと交流した。第2次大戦の真実に触れて、日本の現状を変えていくために行動を求める若い世代の姿が目立った。
 自ら書いた体験記を携えてきた年配婦人は、空襲警報も警戒警報も解除され、生まれたばかりの子どもを寝かしつけようとしていたときに吹き飛ばされ、そのまま家の下敷きになった経験を語った。前歯は折れ、唇はまくれ上がり、主人とも名を名乗らなければ分からない姿になったこと、その幼子も数日後に亡くなった悲しみを語り、「88歳になり、残された時間が少ないと思い、私たちが体験を語らなければ原爆を伝える人はいなくなる」といって、今後も会場で体験を語ることへの意欲を告げていった。
 土浦の予科練にいた70代の男性は、「予科練でも米軍の機銃掃射を受けて200人が殺された。低空飛行の爆撃で10b四方の大穴があけられ、防空壕も血の海になった。その後死体を積み上げて露天焼きした。海からも艦砲射撃を受けたが、撃たれることがあっても撃ち返すだけの力はなかった。予科練にはその後も、10代の若者が全国から集められ自爆の訓練を2、3カ月やらされて特攻隊として出撃していった」と語り「今の日本はアメリカに教育を握られ、自由をはき違えて人を殺しても平気という精神にされている。若い人がもっと真剣に考えてほしい」と被爆者たちと思いを交流しあった。
 また、学生や親子連れが被爆者の体験を食い入るように聞く光景や、全国から集団で学習に訪れる教師の姿が目立った。
 滋賀県から集団で訪れた小学校の教師たちは、3年前から修学旅行で広島の会の被爆者たちから体験を学んでいることへの感謝をのべ、「空襲などが少なかった滋賀県では生の体験を聞く機会は限られている。広島で小グループで間近に市民の方から体験を学ぶことで平和学習の中身が変わってきた。教育現場でも価値観が多様化しているといって自己中心的な考え方が増えているし、被爆者から学ぶことはとても大きい」と、子どもたちの成長に大きな影響を与えていることを実感を込めて語った。
 教師の1人は、「第2次大戦の経過がわかることで、アメリカが原爆を落とす必要はまったくなかった事実や、アメリカに占領された時期の日本の姿がすごく新鮮だった。大津市でも陸軍の基地に米兵が乗り込んできたときの様子を年寄りが話してくれたことを思い出した。いまも教育予算は削られるのに、米軍にぼう大な思いやり予算を払っていることに教師はみんな頭に来ている。日本がダメになっていく原因を探ればすべてアメリカが関わっている。このパネルがただの昔話ではなく、現代に向かって方向性が定まっていることがすごくいい」と語り、教師みんなでパネル冊子を買い求めていった。
 神戸から訪れた中学校教師は、じっくりパネルを見た後「なぜここに展示されているような悲惨な事実が教科書や報道に出てこないのか。それはどこで統制されているのか。アメリカがまた戦争を起こすのではないかと感じる。岩国基地問題のようにすべてアメリカのいいなりになっていくのはなぜなのか」と被爆者に質問を浴びせた。
 男性被爆者は、「広島の原爆写真はアメリカがすべて没収してプレスコードをしき、悲惨な事実を表に出さないようにした。その後、プレスコードがはずされたが、今度は資料館や文部省などが真実を出さないようにして二回目の制限をやられた」と経過をのべ、市民の側から真実を伝えていくために原爆展を開始したことを告げた。
 男性教師は「学校教育でも、自分で考え、行動できる体力のある子どもを育てるのではなく、ひ弱で軟弱な人間にしようとしている。修学旅行も東京などが増えて、沖縄に行くプランを提出すると“刺激的すぎる”と教育委員会からストップをかけられる状態だ。“みんなが貧乏になって、また戦争になっていく”というパネルがものすごく胸に突き刺さってきたが、貧弱な子どもではなく、立ち向かえる体力をもった子どもを育てないといけないと思う」と思いを語って被爆者に礼をいい、連絡先を記していった。
 福井県からきた20代の非常勤講師は「あまりに衝撃的で何度も涙が出た。体験がなくても、ここにある事実を子どもたちに伝えていかないといけない」と衝撃の面もちで語り、「福井でもパラシュート工場が空襲にあい、たくさんの人が殺されたことを祖父から聞いていたので、沖縄や広島に行って学ぼうと思ってきた。教師である自分が平和ボケしていてはいけない」と真剣に話して、パネル冊子を買い求めていった。
 広島市内の2人の女学生は、1時間にわたって被爆者と交流し、広島市内で学生を対象におこなっている交流会に参加する意欲をのべた。「国際学科で学んでいるが、実際の体験を学ぶことが一番の勉強になる。これからも勉強していきたいので、ぜひ大学にも被爆者の人たちを招きたい」と強い意気ごみを伝えていた。その他、東京や茨城などからきた中学生や親子連れなどが長時間にわたって被爆体験を学んだ。

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