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広島で観音原爆展が開会
                 授業で小学生が参観          2003年6月7日付

 広島市西区の観音公民館で4日から「原爆と峠三吉の詩」観音原爆展がはじまった。同原爆展を成功させる広島の会と地元住民の手によって準備がすすめられ、広島市内での地域原爆展としては7回目となる。
  広島地域原爆展は7回目
 開会日の4日は、午前中から観音小学校5年、4年、2年生児童が授業の一環として参観したのもふくめ240人が会場を訪れた。子どもたちは目を丸くしたり、被爆者に質問をしたりしながら時間をかけて見ていった。
 地域のお年寄りなどが連れだって訪れ、おたがいの被爆体験や戦後の経験を語りあう姿が見られた。ある被爆者の婦人は、「わたしたちはこのなかを生きてきたんです。サミットでアメリカなんかが集まっていたけど憎いかぎりです。北朝鮮のことをいうけど自分たちはもっとひどいことをしているじゃないですか」と憤りを語っていた。
 5日は午後2時半から被爆体験を語る会が開かれ、観音地域に住む佐野文枝、井元フサ子の2氏が観音児童館の子どもたちを前に話をした。

  いまも残る腕の傷
  二度と起きぬように
 被爆当時、観音小学校の教師だった佐野フミエ氏は子どもたちを連れて避難した経験を語った。1年から4年まで14人のクラスを受け持っていた。あの日は子どもたちの出席簿をつけおわったとき、1年生の子が「先生、B29だ」「パラシュートだ」といっているときに原爆が光り、その瞬間に校舎が崩れ落ちてきて下敷きになった。教壇に立っていたために数十のガラスが突き刺さり体中に生ぬるい血を感じながら必死の思いでぬけ出して子どもも14人全員を助け出すことができたが、隣のクラスは声も聞こえずあとで全滅だとわかった。
 気になる母が無事であることを祈りながら崩れ落ちる家のあいだを「先生逃げないで」と教師である自分に頼ってすがる子どもたちを励ましながら避難したこと、避難先に訪ねてきた父が「お母さんはこんなになっていたよ」といって焼けたお母さんの骨を見せたときのことをたんたんと語り聞かせた。
 「あのときのガラスはいまもまだ腕に残っている。あのときの黒こげになった人を見たらこわかった。いまはあのときの原爆の何百倍の力がある爆弾がつくられているというし、みんなが大きくなって戦争しないようにいまから一生懸命平和運動してください。お願いいたします」と心をこめて話していた。
 21歳のとき原爆で夫を亡くした井元氏は、飛んできた家の壁に挟まれながらもはい出して、子どもをおぶって避難したときに見た生き地獄の惨状を鮮明に残る記憶をたどりながら話した。

母と子の悲惨な別れを思い
 顔や背中が焼けただれた人たち、その体で身内を捜し歩く人たちを見ながら避難した。五日市では、赤ちゃんが一声上げたきり死んでしまい、崩れた家の下敷きになって「お母さん助けて」と叫んでいた上の子どもを助けられなかったという母親が「自分まで焼け死ぬことはできないと思い“助けて助けて”の声を聞きながら逃げました。いまから骨だけでも拾ってきます」と泣きながら赤ん坊に飲ませるはずだったお乳を小川でしぼっていたことなど、原爆で広島の母親や子どもたちが悲惨な別れを強いられたことをつぶさに話した。
 最後に、戦争ほど悲惨なものはないこと、母親の死んだ子どもが「おかあさん」と叫んでいる姿が口に出せないほどかわいそうだったことを強調し、「けんかするのも話しあって仲よくしていくことが大事。戦争は絶対にいけない」と語っても語ってもつきない思いをしめくくった。
 2人の話に子どもたちは一言も声を立てずに聞き入り、「ぼくのおばあちゃんも被爆した」「とてもたいへんでしたか」「なぜ原爆が落とされたんですか」など話を聞いて自分で考えた質問を真剣に投げかけていた。
 被爆体験を語る会は、最終日の8日(日)午後2時からもおこなわれる。

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