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展示構成全面改定で合意
広島平和資料館
               「被爆の実相」中心に据える   2008年11月14日付

 「広島平和記念資料館」(広島市中区)の展示内容の見直しについての、基本計画検討委員会(委員長/今井亘・中国新聞特別顧問)が7日おこなわれ、これまで後半部に位置づけられていた「被爆の実相」を中心に据え、「爆風」「熱線」など原爆の威力で分類されてきた従来の展示構成を「人間(被爆者)の視点から」へと全面的に改めることで合意した。来年度中に基本計画をまとめ、早ければ2010年度から広島市が見直しに着手する。
 資料館の展示内容については市民や参観者から「悲惨な資料がなくなり、柔らかくなった」「原爆の威力だけが強調され、人間の苦しみや怒りが伝わってこない」「軍都・広島であり、原爆は落とされてもやむを得なかったという印象を与える」などの意見が多く語られ、広島市内では市民による峠三吉の原爆展が7年にわたっておこなわれてきた。今回の資料館の見直しは、原爆を投げつけられた市民の側から真実を伝えようとする被爆市民の世論を強く反映するものとなった。
 検討委員会では、「被爆までの広島」「核兵器の脅威」(東館)などの導入部が長すぎて、本来、資料館の中心である「被爆の実相」(本館)を観覧する時間がなくなることや、被爆の実相も「爆風」「熱線」「高熱火災」「放射能」など加害者(アメリカ)の視点で分類されていることへの意見があいついで出された。
 とくに、「軍都・広島」に象徴される「加害責任論」が、「原爆投下正当化」へとつながっていることが指摘され、「現行の展示では、外国人が見た場合、日本はたたかう気が満満であったので原爆が落ちても仕方がないという印象を受けるのではないか」「もし広島が本当に軍都であれば真っ先に攻撃されているはずであるが最後まで残していた。平和を求めて生活している人人がいるところに落とされたというのが、1番大事な叫びたいところであり、軍都だから原爆が投下されたという議論は必要ない」「原爆正当化論の存在が、核の軍縮や廃絶を拒む最大の要素だ」「アメリカからは相当な形での反論があるだろうが、しかしそれ(原爆投下正当化論への批判)はどこかで取り込む必要がある」など各委員が発言している。
 また、以前は原爆の被害そのものを強調していた資料館が、「熱線」「爆風」「高熱火災」「放射能」など原爆の効力で分類され、「理科の実験室」に入っているような気分にさせている問題なども指摘。見直し案として、廃虚となった広島市内や負傷者、救援救護、家族捜し、火葬などの状況を分かりやすく伝えたうえで、被爆者の視点を中心とした「魂の叫びの場」(遺品、被爆資料、市民が描いた原爆の絵、体験証言など)、「被爆者の今日までの歩み」(原爆症による健康被害など)を伝える場を設け、被爆者の苦しみや怒りを共有することが強調されている。
 資料館学芸担当の職員は、「資料館の展示については市民からも多数の意見が寄せられてきた。悲惨なものを隠しているわけではないが、さまざまな展示内容を増やしていったことが資料を薄める効果になっていた。とくに、軍都・広島についての扱いは大きな問題として議論されている。軍都であったことは確かだが、それが原爆投下の目的だったという因果報応論や“広島が悪かったから原爆が落とされた”という誤解を与えるような部分は改め、原爆投下は非戦斗員を殺し、その使用は絶対悪であるという点を前面に押し出す方向で進めている」とのべた。
 市民の中では、原爆投下者からの目線ではなく、「被爆者」を中心に据えることを歓迎する声は強く、期待を込めて今後の動きを見守っている。
 資料館の内容見直しを知った男性被爆者は、「広島の被爆資料は、ほとんどが1度アメリカに没収され、その後に返還された物。その過程では文部省が選別し、さらに資料館でふるいにかけられている。市民から寄贈された所蔵資料は数万点にも及ぶといわれているが、人骨がこびりついた瓦礫片など怒りをかき立てるような物は展示されずお蔵入りになっている。“三輪車やアオギリでは原爆の事実は伝わらない”と訴える被爆者もいる。この見直しを契機にそうした生生しい資料をもっと公開してほしい」と要望を語った。

 解説・広島市民の本当の声が米国側からの主張打負かす
 広島市が平和記念資料館の展示内容の大幅な見直しをすすめている。資料館の展示は、市民の評判が悪いものだった。それはとくに、おじいちゃん、おばあちゃんたちが悪いことをしたから原爆が投下されたという印象を与えるものであった。東館が増築され、それ以前の展示内容も大幅に変えられてひどくなったといわれていた。
 その展示は、原子雲の下にいた被爆市民の側からどういう目にあったのかというのでなく、原爆の威力がやたら強調されたり、とくに広島が軍都であったことを強調して、加害責任があったから原爆を投下されたという印象を与えるものであった。それは原爆を投下したアメリカ側の主張が強まったものであり、また革新系と称する部分が加害者責任論を強く主張してきたことも影響していた。
 今回の内容改定は、広島市民の本当の声が抑えがたいものとして強くあらわれてきて、加害者責任論などのアメリカ側からの主張を打ち負かしてきたことを反映したものである。
 広島では、下関で1999年に始まった峠三吉の原爆展が、下関原爆被害者の会および下関原爆展事務局と、広島の原爆展を成功させる会が協力し合って、2001年に旧日銀広島支店で第1回の原爆展が開催され、以後毎年市民原爆展として開催され、全市民的な世論を喚起してきた。
 数年前の8月6日の式典で、小学生代表が峠三吉の「父をかえせ、母をかえせ」と発言したとき、市民の多くは、「あなたたちが峠さんの原爆展を何年もやってきたからだ」と喜んでいた。
 峠三吉の原爆展は、下関から始まって、広島、長崎で定着してきた。2004年からは原爆展全国キャラバン隊が活動を開始し、沖縄でも東京や大阪など全国で広がった。8月にはいると広島平和公園でも街頭展示を展開し、全国からも世界からも集まった人人の新鮮な共感を呼んできた。
 広島資料館の展示内容の改定は、このような地道な努力をしてきた広島市民をはじめとする全国の人人の大きな喜びである。それは人人の世論を結集するなら、あらゆる障害を突き破って、物事を変えることができるという確信を与えている。

 米国に謝罪させる事が亡くなった人人への鎮魂 原爆展を成功させる広島の会会長・重力敬三
 原爆資料館といえば、これまで原爆の威力というものに重点を置いて、被爆者は片隅に置かれていたという印象が強い。被爆前の「軍都・広島」という記述も「日本が悪かったから原爆が落とされた」というイメージだ。私も何度か中に入ったことがあるが、実際に被爆したものからすれば、「こんなものではない。こんなことで原爆は伝わらない」とずっと反感を感じてきた。今回、被爆者の視点で全面改定するということを聞き、とてもいい方向に進んできたと喜んでいる。
 「原爆と峠三吉の詩」のパネルを使った原爆展は、旧日銀広島支店での第1回目から8年間かけて、各地に普及してきた。この原爆展は、そのはじまりから原爆のために苦しんだ市民の思いを伝えてきたし、原爆を落とした側ではなく、落とされた市民の声を前面に出したことで、大きな効果があったと思う。私たちは原爆の被害を全国・世界の人たちに伝え、原爆を落としたアメリカに謝罪をさせることが、亡くなった人たちへの鎮魂であり、2度とふたたび原爆を使わせないことにつながると考えている。
 被爆したときは、私たちは原爆の存在すら知らなかった。いきなり地面に叩きつけられ、血まみれになり、全身を焼かれて何もわからぬままに死んでいった人がたくさんいた。顔が膨れて男女の識別すらつかない遺体が毎晩のように街角や河原で火葬されていた。あの悲しみは60年経った今も忘れられるものではない。被爆体験を語ることは原爆の威力を示すために語るのではない。
 背景には、アメリカのいいなりになる日本の政治が大きくかかわっていると思う。小泉のような政治家がアメリカに媚びを売って日本を売り飛ばしてきたが、原爆資料館もアメリカから圧力がかからないように「日本が悪かった」という色合いを濃くしてきたのだと思う。日本人は原爆実験のモルモットと同じだというのが今も変わらないアメリカの態度だ。原爆資料館が、そうしたアメリカの側からではなく、被爆者の視点に立って真実を伝える方向で改定されることを大いに期待したい。私たちも、これを追い風にしてこれからますますがんばろうと思う。

 全面改定は原爆展運動続けてきた1つの成果 呉市傷痍軍人会会長・被爆者・佐々木忠孝
 今回の原爆資料館の全面改定は、これまで原爆展を続けてやってきた1つの成果ではないかと思う。
 原爆資料館は、申し訳程度に写真や資料を並べてあるだけで、原爆の残虐さはまったく伝えられていないとずっと感じてきた。体験者が見てピンとこないものを経験のない若い人たちが見てわかるわけがない。被爆者のヤケドなども、穴の開いたコンクリート壁や凹んだ鉄の扉などと同じように並べられていて、ものめずらしさで表面的にしか受け止められない。
 私は以前、被爆した当時の私を写した写真と、現在のケロイドの体を撮った写真を寄贈しに資料館までいったが、担当の学芸員からは、「資料館には数万点の資料があるので、たとえ寄贈されたとしても日の目を見ることはないかもしれない。それを承知のうえであれば受けとる」といわれ喧嘩をしたことがある。その写真は、原爆展を成功させる広島の会へ寄贈し、あちこちの原爆展で活用してもらっている。そんな高飛車だった資料館も市民の声を無視できなくなったのだと思う。
 私は、広島城内にあった師団司令部の兵器部で被爆し、運ばれた基町の陸軍病院には約3万人の負傷した兵隊が収容されていた。そのうちの100人は家族に引き取られたが、生き残ったのは私を含めて25、6人だけだった。広島が軍都だったといっても実際には40〜50代の中年世代が家族から引き離されて集められていたし、兵器庫には武器はなく丸腰だった。
 資料館では、広島が軍都だったというだけでなく、否応なく集められて死んでいった兵隊の犠牲についてまともに扱うべきだと思う。
 アメリカを恐れることなく堂堂と原爆の犯罪を世に知らせることこそ被爆地として1番の責務だと思う。

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