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原水禁全国実行委員が広島宣伝
広島の底力が動き始めた
              抑圧取り除き堰を切って語る被爆者   2002年8月6日付
「アメリカ政府に謝罪させ全国民的規模の運動を起こそう」とアピール署名と宣伝活動は、第三週目を迎え広島市民のなかで確実に反響が広がっている。三、四日とおこなわれた行動には山口県全県から教師や活動家約九〇人が参加。訪ねる家家で被爆者、市民が親しみをこめて話し、アメリカが落とした原爆によって一瞬のうちに夫、娘、息子、親族の生命が奪われた怒りや、悲しみ、悔しさなど、五七年たっても消し去ることのできない胸の内を堰(せき)を切ったように語りはじめている。それは「広島が語りはじめたら日本は変わる」という確信を強めさせている。四日の行動には、「原爆の犯罪擁護する加害者論 再び核使用を企む米国の主張」との長周新聞号外が市内全域に一万枚まかれ、市民を激励した。
 各所で被爆体験を長時間語り、「がんばってね」と実行委員のメンバーを激励する被爆者、地域で署名して回っている婦人とともにこれまで語りあうことのなかった被爆体験を語り、市民同士の交流も広がりはじめている。

 涙流し怒りをぶつける
 皆実町では、被爆当時女学生だった婦人が、四三歳で全身やけどで死んでいった母親の無念さを思い、何度もこみ上げる涙をこらえながら語った。人の代わりに家屋疎開に出ていた母親が雑魚場町で直爆を受け、全身やけどだらけで六日後に亡くなったこと、召集されていた四六歳の父は戦後、娘たちを一生懸命育ててきたこと、「お母さんが娘たちを残して託した言葉が思い出され、無念だったろう、生きたかっただろう、そのことを思うと許せないんです」と語り、「アメリカが絶対に謝罪するわけない」と五七年間の母の悔しさをぶつけるように吐き捨てた。しかし「あなたがたの運動は貴重です。この運動で伝えれるならやってほしい」と期待をこめた。
 父親が五九歳で被爆したという五〇代のある婦人は、五七年目の八月六日を迎えようとしているなかで、「毎年八時一五分を多くの被爆者が犠牲者への哀悼の意をあらわし目をとじて静かに迎えます」と前置きし、「母は、八時一五分のサイレンが鳴ると“まさお、かず子”とふりしぼるような声でわたしにむかって名前を叫ぶんです」という母親の姿を見ながら「アメリカに謝罪要求はそのとおりですよ」と署名、カンパした。

 激しい共感渦巻く 米国の謝罪は当然 忘れえぬ体験重ね
 江波東に住む九一歳のおばあさんは、学徒動員に出ていた娘が原爆で奪われ、戦後は夫が働けずにたいへんだったと話した。そして「わたしらは原爆でお金をもらってもヒロちゃんは帰ってこない。アメリカには怨(おん)念ですよ」と激しい憤りを涙を流しながら語った。
 皆実町の老舗酒屋の店主は、己斐の三菱機械製作所で、広島市立商業の生徒として学徒動員で旋盤を動かし、スイッチを押したとたんに原爆が落ち、機械の横にいたためかろうじて助かった体験を語った。その後逃げる途中に、天満町の家の梁(はり)がつぶれ「助けてくれ」という若者たちの声を聞き、一生懸命瓦をのけ、助けようとしたがびくともせず、若い人が「この足をのこぎりで切断してくれ」と叫んで助けを求められたが、そんなことはできない「ごめん、ごめん」といい逃げたこと、そこまでくるとこみ上げてきた涙をこらえきれずに店先でおいおいと泣いた。また、知人、友人の多くは助かったが、食糧がなく栄養が足らずに死んでいったことを話した。
 さらに自分の心のうずきとしては「足をのこぎりで切ってでも助けてあげたかった。でもそれができなかった」という自責の念とあいまって五七年間ずっと心のつかえになっていた思いを時間を忘れ語っていた。そのとき、ハッとしたように「なんでわしはあんたのまえで話しているのか、孫にも話したことがないのに…」と話しながら「アメリカに謝罪を要求する」ことを実行委員が訴えると「絶対に製造させてはならない。いま原爆を製造するとはなにごとか」と原爆を投げつけたアメリカへの積年の思いを吐き出すように語った。
 被爆当時から千田町に住んでいたという八一歳の婦人は、「…広島のほんとうの声を全国へ広げよう…」と訴えたチラシをドアごしに見ると、ドアをあけ玄関に座りこみ、昨日のことのように語りはじめた。「死んだ夫と子ども二人がわたしのほんとうの家族なんです、それはいまでも変わりません」と思いを語りはじめた。
 洗濯物を干して下りたときに黄色い原爆の光を見たが、ケガ一つしなかった。父親は福屋デパート付近で半焼け死、鉄道局に出ていた夫は、無傷だったのに原爆で破れた水道管から噴き出る水を飲み、顔を洗うと鼻血が出、髪の毛がぬけだし九月一日に亡くなった。さらに二歳の息子はだんだん衰弱していき死亡し、胎内被爆し一一月に生まれた赤ちゃんは、生まれて四〇日目に死んだことなど、無念さをにじませながら当時の模様を語った。そして「わたしは原爆のときは二三歳だったが、一人ずつまわりが死んでいくんだからね…、今度は助けにゃと思ってもつぎつぎに死んでいった」と語った。
 その後は再婚して二人の子どもに恵まれたが、「あのとき死んでいった二人の子どものことがいまでも思い出され忘れられません、全部一人一人自分で焼きました。赤ちゃんは魚を焼くようにひっくり返したりして、子どもを焼く親の気持ちがどんなものかわかりますか」と孫にも話したことのなかったうっ積した思いをはじめて明かした。「当時は呉ばかりに空襲があって広島は落ちないからいいね、と話していたら広島全部がいっぺんにやられたんです」とアメリカが広島を計画的に狙って数十万人の命を奪ったことにふれた。最後に「被爆した灯籠を見ていきなさい」と新築の家の裏に置かれた傘が爆風で飛び半分に割れた灯籠を見せながら、「みんな死んで残されたんだからわたしも語らないとね…」とはじめて語る決意をしていた。
 岬町では、アピールを読んだ人が運動についてつぎつぎに質問したあと、「最近は広島から平和の発信力が弱まっている。アメリカに謝罪させるというシンプルな訴えは、深遠な内容をもっている」と原爆展運動で切り開かれ広島で広がっている内容に共感をもって署名・カンパした。
 また江波の中年の女性は、二〇代くらいまでは原水禁運動にかかわってきたが「禁や協」もあって離れていったことを話し、「純粋な運動なら…」と署名簿を預かった。

 隠せぬ原爆の犯罪 広島の本当の声表面に
 一方で「日本も悪いことをしたからしかたない」「原爆があったから戦争が終わった。原爆はよかった」などと原爆を正当化する意見もさまざまに出されている。そのようななかで出された長周新聞の号外は、公然とこれに反論するものであり、いいたくてもいえなかった人人を激励し、共感をもって受けとめられている。
 午前中に配られた号外を昼過ぎにいくと読んでいた退職教師は、「タイムリーないい記事だと思います」と共感をもって受けとめた。
 段原で被爆した婦人は、原爆でやけどしズルズルになった被爆者が助けを求めて家に来たことなどをなまなましく語り、戦後は何度も流産をくり返しやっと一人息子が生まれたが、原爆の影響と知らずに「あんたが悪い」といわれつらい思いをしてきたことを語った。そして「たくさんの人が殺され、わたしはずっと生かされている。生き残ったものがのほほんと生きていくんじゃなくて一人一人が原爆を絶対に許さないという気持ちで、この署名みたいに実行に移さないといけない」と署名簿を預かった。途中に出てきた息子は最初は不審がって“どこの団体か”と聞き、原爆展を各地でやり、アメリカに謝罪を求めていることを訴えると、多額のカンパを手に実行委員のメンバーに無言で手渡し意志表示を示した。
 一カ月近くのアピールのチラシ配布からはじまり、署名運動は広島市民みずからの運動として広がっている。ほとばしり出る被爆者の怒りのまえに、アメリカがどんな原爆投下の理由をつけようとも無意味であることを証明しており、アメリカの許しがたい原爆投下の犯罪性が、被爆者のほんとうの声によってますます暴露されている。また、「息子、娘を殺されて犯罪者のようにいわれるのはたまらない」という思いや、「原爆を落として殺したのはアメリカではないか」とうっ積した思いを抱いてきた被爆市民の思いは、五七年間の重圧をはねのけながらほんとうの声を表に出していくことが被爆者としての使命として語られはじめている。
 二日間の行動で署名は市民がやった回収もふくめて六〇〇人をこえ、カンパは七万円が寄せられている。

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