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広島の子どもに響く広島の心
広島・井口台小で平和教育
              広島の会の被爆者10人に学ぶ    2005年6月2日付

 広島市西区井口台の井口台小学校(広兼明子校長)は30日、4年生の平和学習のとりくみとして「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会の被爆者など10人を招き、少人数で被爆者の話を聞くはじめてのとりくみをおこなった。
 今回のとりくみは、義兄を原爆で失いその思いをひきついで原爆展運動にたずさわってきた井口台在住の主婦が、「原爆展にかかわっている被爆者の体験をぜひ子どもたちに聞かせたい」と、翠町小学校や皆実小学校での経験や資料を持って、同小学校を何度も訪ね実現の運びとなった。
 学校も毎年平和学習の一環として「語り部」を招き400〜500人の生徒を前に講演してもらってきた。しかし子どもたちは遠くで語られる話で、あまり印象が残らない状況もあり、身近で被爆者の話を聞けると、10人の被爆者を招くことになった。
 広島の会の被爆者たちは、南区仁保町、翠町、中区江波、西区井口、庚午、佐伯区五日市、廿日市市、大野町などから「広島の子どもたちに語るのなら」と
はじめて体験を語る人をふくめ、72歳から92歳までの10人が期待に胸をふくらませ参加した。
 井口台小学校は開校して22周年を迎え、被爆当時は山で、戦後新しく切り開かれた新興住宅街にある。比較的若い世代が多いことや転勤族が多く県外から来た親世代も多い。3世代で暮らす子どもたちも祖父母は60代でほとんど地域的に被爆の経験が伝わっていないといわれ、今回体験を語った被爆者たちは子どもたちにとっては曾祖父母世代にあたる。
 子どもたちが被爆について学ぶのは1年に1度の「語り部」の話を聞いたり平和学習で絵本や教材を使った授業が中心だった。教師たちも「語り部の話は聞いてきたが、個別に話を聞いたのははじめて」と話されていた。
 4年生の子どもたちは1時間目の授業で理科室に展示された「原爆と峠三吉の詩」パネルをクラスに分かれて見て回った。その後体育館や四年生の各教室、校長室、家庭科室など10カ所に分かれて被爆者に話を聞いた。

 熱がこもる被爆者の話
 車椅子で参加した92歳の岡谷イチノ氏は「こんなわたしの話でも聞いてもらえるならありがたい」と感謝するように子どもたちに話した。
 被爆当時33歳だった岡谷氏は、小さい子どもをかかえ、お腹にも赤ちゃんを身ごもっていた。鷹野橋の家の下敷きとなり、「おかーちゃん来てや」という助けを呼ぶ声で気づき、そこからはい出し、川の筏(いかだ)を使って逃げたが両側は火のトンネルで地獄だったこと、その逃げる途中の真黒焦げの死体、川に飛びこんだ人たちが裸同然で浮いていたことを話した。子どもたちも話を聞き漏らすまいと一生懸命に表情を見ながら聞いた。
 さらに岡谷氏は、逃げる途中に子どもをかかえて人に助けを求めたがだれも助ける人はいなかったことを語り、また「風呂屋の下敷きで首だけ出して助けを求める婦人を見て、自分は子どもをかかえているから人に“手を貸してください”と呼びかけてその場を去り、助けることができなかったことが、いまでも忘れられない」と痛恨の思いを話した。
 そして話の最後に子どもたちに「生きていくのに生存競争は激しい。勉強でも体育、野球でも競争がある。しかし戦争だけは人の殺しあい。なにも関係のない人の命まで失われていく。いま生きているのは大勢の人たちの犠牲があるから、そういう気持ちを持って生きてほしい。戦争になりそうなときは一丸となって反対してほしい」と思いを託した。話し終わると子どもたちも親しみをこめ車椅子の岡谷氏を囲むようにして校長室へ送り届けた。
 今回はじめて子どもたちに話をした加藤八千代氏は、持参した被爆当時の地図を見せながら話した。当時16歳で、動員で工場で飛行機の弾をつくっていたが、その日は休み。友だちと海水浴に行くため待ちあわせた己斐駅で爆風に吹き飛ばされた。友だち2人は電車の中で焼け死んだ。逃げる途中に悲惨な被爆者の姿を見てきた。「水をください」「連れて行ってください」の声を聞いてもなにもしてあげることができなかったことがつらくて、うつ病のようになり、「たくさんの人が死んだのに自分が生きていたのが申しわけなく思い、苦しみ、悩んできた」。そこから「自分に命があるということは、これから広島が復興していくために働かなければならない」と思いなおし生きてきたことを話した。
 そして「自分のことばかりいわずに、友だちの意見も聞いて、みんな仲よくして大きくなってほしい。友だちとケンカをしないこと、しても相手を理解しあえるようになってほしい」と訴えた。
 それぞれ体験者たちは、原爆、戦争の経験、当時の食料のこと、原爆を受けた日本がペコペコしていることへの腹立たしい思いを語り、誇りを持って生きてほしいと、広島の子どもたちに伝えたかった思いを話した。

 教師の中でも深い共感
 いっしょに話を聞いた婦人教師は「日常生活では多動の子どもも、よく集中していた。自分の手の届くところで被爆者の方たちが目を潤ませたり、さまざまな表情を見せながらの話は、子どもたちもなにかを読みとっていると思う」といった。また話に集中してほしいとメモをとらせなかったが、その後教室で聞いた話を文章にしている様子を見て、子どもたちがしっかり聞いていたことを感じたという。
 はじめて体験を語った加藤氏は、「子どもたちの目が輝いていて、死んだ目をしていなかったのがうれしかった」と、いまの殺伐とした時代にあって、子どもたちが素直に受けとめる心を持っていることに感動していた。「戦時中の苦しさ、つらさを子どもたちに味わわせたくないとの思いで話しました。いまは豊かな時代ですが、金持ちがいて、またホームレスがいる。金ほしさに強盗なども多いですが、がまんする心をどう育てるか。昔はものがなかったから分けあってきた。貧しさのなかでも家族の絆があった。今回話して子どもたちもなにかを感じてくれたら…」と話した。岡谷氏も「子どもたちはしっかり耳を傾けてくれていました。よかったですよ」と喜びをあらわした。
 参加したほかの被爆者たちは、また要請があれば「いつでも行きますよ」と広島の学校でのとりくみにさらなる意欲を見せている。
 井口台小学校では、4年生のとりくみを皮切りに、3年、5年、6年生も同じような形式で子どもたちに体験を学ばせようと準備がすすめられている。

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