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広島の空気が変わった
広島市民原爆展スタッフ座談会
              峠三吉の詩が市民の手に    2003年8月12日付

  広島に生き続ける50年8・6斗争の伝統
 峠三吉没50周年を記念して、7月31日から8月6日まで広島市の福屋デパートで開催された広島市民原爆展には7000人が参観、広島の被爆市民がつどいほんとうの声を熱をこめて語りあう感動的な場となり、画期的な成功を収めた。このとりくみを支えたスタッフに集まってもらい、この原爆展がどのようなものであったか、その概況ととりくみの教訓について語りあってもらった。

  戦後を画す被爆者の高揚
 司会 まず、とりくんだ広島の人たちの反応はどうだろう。
  ひとことでいって、喜んでいる。「会期中に多くの被爆者が会場に来て、資料提供もしてくれたし、体験と思いを語って協力してくれたのがうれしかった」「福屋でやれてよかった」といっている。「これで広島は2歩も3歩も前進した。大きく前進してよかったね」と、家族で喜びあっている人もいる。「これを土台につぎにどう発展させていくか」という問題意識も出されている。
 司会 市民原爆展の概況を描いてみたい。まず数字的な概況はどうか。
  会期中合わせて7000人が入場。アンケートが937枚寄せられた。最終日には1日で1400人以上が入場、200枚のアンケートとなった。会期中のカンパは29万円、書籍では『原爆と峠三吉の詩』パネル冊子が665冊、峠三吉の『原爆詩集』317冊が販売されている。
 司会 とりくみの経過や宣伝はどうだったのか。
 C 福屋で開催する原爆展をどのようなものにするのかを煮つめたのは、5月20日ごろで、「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会と下関原爆被害者の会が主催することになった。一昨年末の旧日本銀行広島支店での原爆展以後の市内各地の原爆展や平和教育の発展をふまえ、全国各地で1000カ所以上とりくまれてきた原爆展を広島に凱(がい)旋する形で市民が主体となった原爆展にすること、また峠三吉没50周年を記念して峠三吉を市民の手にとりもどすこと、そのために峠の詩業を紹介するパネルを新たに作製して展示することなどが確認された。5月30日付で重力敬三(「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会代表世話人)と吉本幸子(下関原爆被害者の会会長)の両氏による賛同協力の訴えが出された。
 6月14日、主催者の会合がはじめて持たれ、本格的な宣伝活動に入ったのは7月に入ってからだ。毎週土・日曜日に、山口県の平和運動の活動家の協力も得て広島市内全域でのポスター、チラシ配布がおこなわれ、この段階で市民から熱い歓迎を受けた。最終的には各界の280人が協力にこたえ、244人が賛同者名簿への記載を承諾した。その圧倒的多数が被爆者、それもこれまで体験を語ったことがなかった一般の被爆市民だ。また町内会、老人会、婦人団体、商店界・企業、県・市の医師会、日赤・原爆病院、保育園、幼稚園、小・中学校、大学教授、文化・ボランティアなどの団体まで幅広く網羅するものとなった。この賛同者の顔ぶれがまた、市民の信頼を集め、日銀以来の信頼もありポスターやチラシを自分たちのこととして受けとり広げてくれた。こうした市民世論の盛り上がりのなかで、秋葉・広島市長からのメッセージも届けられ、開幕となった。
  宣伝はチラシが合わせて13万枚。ポスター3000枚がはり出され市内をほぼ網羅した。学校関係も旧日銀以来の信頼があって子どもをつうじて家庭に配られた。そのほか峠三吉の詩「すべての声は訴える」を掲載した長周新聞の号外リーフ五万枚が配布され、平和公園でも7月に入って毎週土・日、8月1日から6日までは連日、パネル展示がおこなわれ盛況だった。ここでは、おもに全国・海外からの来訪者が参観し、福屋での原爆展への参観も呼びかけられた。
  会場の福屋が新聞1面を使った大きな刷りこみの宣伝をやり、垂れ幕もかなり大きいのを前日から下げた。最終日には普通つぎの催しの宣伝に移るが、当日だけのポスターもはられていた。最終日に一度はずされた垂れ幕も、元どおりに下がっていたと見た人が感動していた。店内放送はしょっちゅうやっており、そうとう力を入れていた。

   被爆資料提供あいつぐ
 司会 会期中の特徴はどうか。
  市民からの被爆資料の提供があいついだことは大きな特徴だ。原爆展の準備と開催の過程で20人以上もの人から提供があった。期間中だけでも10人ほどが新たに提供を申し出た。
 佐々木忠孝さんは、最初は少年時の被爆写真3枚を出されたが、解説文を頼んだらさらに2枚持ってこられた。初日にその展示を見たあと、当時逃げ回った地域の地図や航空写真も寄贈された。自分たちはあとの命が短い、こういう運動にぜひ使ってほしいという気持ちで提供されたが、ほかの提供者にも同じような思いがある。
 E 学徒動員で行方不明になった生徒の遺品のかばんや教科書は、義理の妹さんからの提供だった。「主人もお母さんも原爆の話をほとんどしない。学徒動員に出るとき熱があるというのに行かせたことをいまでも悔やんでいる。桃を食べるからといって、井戸にほうりこんでいったまま帰って来ないので、桃はそのままにして帰って来るのを待っていた。掃除したら仏壇の底の方からかばんや教科書が出てきた」という。どう供養したらいいかと思っていたが、ここに展示してもらったら供養になるかもしれないという思いだ。
 その後、教科書を見た同窓生から「わたしも生き残った。教科書を交換していた」と、電話がかかるなど、波紋を広げている。
  竹屋小学校の復元図をコピーしてほしいといってきた婦人が、提供者と長く話しこみ、同窓生としての交友を強めるということもあった。
 A 原爆で亡くなった親族や友人を思い起こして、どこかに見つからないかという思いが展示資料をきっかけにわきあがってきた。
 D 資料を出している意味あいが違う。資料を見せようという心情は広島の人にはビンビン響く。広島商業のアルバムを熱心にめくって見る人も多かった。

   峠三吉関係資料も多数
 司会 資料には峠三吉関係の貴重なものも多かったが。
 A 峠三吉関係では、『原爆詩集』のガリ刷りの初版本は宇品の人が提供してくれた。当時、広大の学生のときに峠に詩の批評をしてもらったことがあり、ガリ刷りを手伝ったという。
  『原子雲の下より』の出版記念会の写真を提供してくれた人は、「自分の思い出ということでずっとアルバムにしまっていたが、こんなことになるとは思わなかった」と何十年ぶりかで公の場にふれる思いを感慨深げに語っていた。当時書いたものとして協力しなければという使命感で提供してくれた。『原子雲』関係の人に共通した思いだ。
  出版記念会の写真に載っていた人が、「当時詩はもらったが、写真までもらわなかった。どうにかできないか」と電話してきたこともあった。
  広島の一般の被爆市民がぞくぞく参加して語りはじめたことは大きかった。
  パネルを最後まで見た人が、「今年定年退職した被爆者だが、パネルを見て体験を語らねばならないと思った」といって、2つのグループに話していた。広島の会の人が「自分が話そうとしたら、はじめて来た被爆者にお株をとられてうれしかった」と顔をほころばせていた。被爆者が立ち上がって、若い人たちに語りはじめたことが一番印象深い。
 F 語らずには帰れないという感じだった。見終わった人で、しばらく去らないでいる。語りかけると、30分ぐらい話すというのはザラだった。
  被爆2世も自分の体験を語っていく人が多かった。また、被爆者で当時1歳、2歳、胎内だったので記憶がない。親はあまり話してくれなかったが、ここに来てみて親の苦労とか被爆した人の思いとかがわかった。親が生きているあいだにもっと聞いておけばよかったという話も共通して出された。
 B 峠三吉のパネルだから被爆者は語れるんだ。原爆投下の全体を知って自分の1つの体験が、全体の体験と結びつく。だれがなんのために投下したかというところまで来て、「そうだ」という認識の飛躍が起こっている。そして語らねばならないというもう一段の飛躍となっている。
 H 被爆した兄さんを58年間うらみつづけていたという婦人が来た。兄さんが原爆症で苦しんで、アル中で頭がおかしくなり暴れまわって、家族が崩壊して縁が切れたみたいになっていたが、5年まえに死んだという。パネルを全部見て「うらむ相手をまちがえていた。お兄さんがどんな経験をして生きて帰ってきて、それを死ぬまでみたお母さんの苦労がわかった」と心境の変化を語っていた。
 
  峠三吉が戻った実感
 D 被爆者には重しがかかっていた。「悪いことしたから落とされた」という「加害者」論が花盛りだった。それが峠三吉のパネルでとりはらわれ、いいたいことが語れた。
  「原爆は戦争終結のためには必要なかった」というパネルはみんな見ていた。第一声「アメリカがにくい」という。「戦争を早く終わらせるためというものではなかったんだ。なんの罪もない女、子どもが犠牲になった」と、パネルの内容そのものをいうのも反応の特徴としてあった。
 F そのパネルではイラク戦争のことを出して、「やっぱりアメリカが悪いではないか。原爆投下からそうだったんだ」といっていく人も多かった。
 呉の海軍に13年いて、戦艦大和を送り出した経験のある人が、峠三吉の「原爆はなぜ投下されたか」のところをじっくり読んでいた。そして、「知ってなければいけないことをいかに知らされてなかったかということに恥ずかしい思いだ。玉砕といわれていたが、日本政府はアメリカに敗戦の準備をしていた。アメリカはそれを知って原爆を落とした。これを読んでほんとに恥ずかしい思いがする」といっていた。
 また、「戦後は、アメリカに爆弾を落とされなくてもそれ以上のことをされてきた」と、松川事件とか下山事件のことを語って、「全部謀略だった。自分らはそれに乗せられてきたが、今度はイラク戦争といって日本が出ていかないといけないという。小泉は国民を守るのではなく自分の地位を守っている。自分らはそれを経験してきたから、よけい腹が立つ」と怒っていた。
  パネルがすごい重圧を飛ばして、広島市民の心を解放させている。ここが自分たちの居場所だと感じて、被爆市民がぞくぞく来た。
  5、6日目のアンケートになると知人、友人から聞いて知ったというのが多い。「行きなさい、すごい内容だといわれたので、時間をとってみようと思って来た」という。また、資料館の展示との違いをいう人が多かった。資料館への批判は強いものがある。
 D こちらは原子雲の下から、市民の側から、落としたものを暴露する。資料館は原子雲の上か横からではないか。原子雲はB29の写真だ。瓦礫(がれき)みたいなものばかりで人間がいない。原爆はすごい破壊力を持っているから逆らうなという威嚇がある。
  ある資料提供者は資料館に「使ってほしい」と持っていったが、「資料館には何万点もの資料があって眠っています。いつ見れるかわからないが、それでもいいんだったら預かります」といったので腹を立てていた。「資料館は瓦とか建物ばかりで、原爆にあったものがどれほど苦しい目にあったのか、その生身の人間がない。ほかのものはのけてもいいから、人間の苦しみがわかる写真を展示したらどうかといったが煮えきらない」といっていた。

   抑圧破った峠パネル
 司会 原水禁の大会などで来た全国の活動家の反応もあった。
  原水禁に来た九州の平和運動センターの年配の活動家が熱心に50年8・6のパネルにある「広島と長崎」を読んでいた。「福田正義という方が書かれた、あの50年にやられた集会をはじめて知った。自分は勉強不足だった。勉強したい」といって『原水禁・平和運動論』を買っていった。
 この活動家は、「峠さんのパネルや詩を読んで、広島の市民の思いというのがこんなものだったのかと恥ずかしい思いがした。労働運動もすごく弱くなってしまっている。自分たちの責任だが、若い者に継承されていない。わたしたちがやってきた運動は結局、経済斗争ばかりで、革新議員を何人送りこむかにすごく熱を上げた時期があった。県議会や国会に6人議員を送ったが、それが頂点までいったらいっきに急降下していった。なぜそうなったかよく反省しないといけない。明日も原水禁の会議があるが、展望がない。でも平和でないといけないというのはわたしの信念だからしっかり勉強させてもらいます」といっていた。
  作家や海外から来た人も、戦後をふり返った論議になっていたね。
  東京の出版界で仕事をしていたという作家が来た。長周新聞のバックナンバーを見て、「こんな新聞がまだ日本にあるということにわたしは励まされた。日本の商業マスメディアはとっくの昔に壊滅していると思っていた。わたしたち物書きが、いくら書いても本を出版しないと物書きの独り言でしかない。本を1冊出すことはすごいことだ。言論の自由といわれるが実際に自由はない」と話していた。
 この人は、「食うためにずっとふざけた文章を書いてきた。真実を伝えるといったものはなかった。広島に来たのは、時代が時代で、イラク戦争は終わったが有事法などをやるし、東京のまわりを見ても、政党は革新も保守も変わらない。どんどん戦争にいっている。まず被爆ということから正面からむきあって戦後58年を考えてみたいと思った」と語り、今後も関係をつづけたいと連絡先を教えてくれた。
 海外からの参観した人ではフランスから来た老婦人が、50年8・6斗争とアメリカの原爆投下の犯罪をあばいたパネルを見て「この2つのパネルが重要だ。これを世界に広げてほしい」と熱烈に訴えていた。
 D 「核の時計」を表紙にしている雑誌の編集長の夫人も訪れて、福田さんの『原水禁・平和運動論』に関心を示して求めていった。

  全国の活動家に展望
  峠の関係者もかなり出てきた。印象深かったのが、峠和子夫人から資料を見せてもらって劇をつくったという関係者だ。「できるだけ事実に忠実に劇にしていくなかで、最後の峠が死んだあと棺に赤旗をかける場面を描いたら、当時の“共産党”の筋からいけないといわれた。峠さんの作品は改ざんされているというふうに聞いている。それを詩集とか評論集とかで資料に忠実に出してもらっているのが、一番いい。そうでなくてはいけない」と強調していた。
 峠とのかかわりでは、且原純夫の親族がなつかしそうにパネルを見て感動して帰ったこと、「峠さんにどんな詩を書きたいかと聞かれて、恋愛詩を書きたいといったら笑われた」ことなどを思い出して語る婦人、峠三吉といっしょに活動して、福田さんを知っているという人が、ほかの書籍には目もくれず、『原水禁・平和運動論』を買っていったことも印象深かった。
 D 平和公園の原爆展の方でも、1950年8・6斗争で、福屋からビラをまいたという沖美町の元教師が「峠さんも福田さんも知っている」と名のり出て、「福田さんと峠さんが一番思想が鮮明で、路線的にしっかりしていた」など当時の状況を語り、いまの運動に強い期待をあらわしていた。峠が出てきたことへの安堵(ど)感、安心感とか喜びは、市民のなかですごい。
 F 当時、峠といっしょに被爆者運動をしていた人も喜んでいた。ある婦人は「峠さんの詩がこうやって受けつがれて生きているのがすごくいい。自分も体験記を書いているのでここにきてなにか学べるんじゃないかと思ってきたが、すごい迫力で迫ってきます」といっていた。吉川清の夫人も、峠パネルの被爆者の会結成の部分に「夫の文章が出ている」と喜び、「峠さんや夫などが平和の礎になったと思う。あの時期、広島から原爆反対ということで、運動を起こしていったから平和運動が盛り上がっていった」と話していた。
 峠の親族も、「あなたたちの2、3年間の努力というものがこういうふうに実ったんですね」とすごく喜んでいた。ちょうど平和式典で子どもたちが、峠の詩を朗読したこともあり、「国の式典で峠三吉の詩が読まれるということははじめてのことだ」とうれしそうだった。
 A 「8・6の式典で峠の詩が読まれたのは、あなたたちがずっと運動をしてきたからだ」と何人もの市民がいっていた。アンケートにもかなりそう書いたものがあった。
  当日の平和公園の展示でも、被爆者が涙をためてパネル見て、「子どもたちのちちをかえせ、ははをかえせが一番よかった。胸にジーンときた」と話していた。
  子どもたちの朗読・発言への感動は全国に広がった。小泉首相が元気なく、逃げるように帰ったことと対照的に語られている。
  峠が市民のなかにもどってきたことを実感する。準備段階でも、ある小学校の校長が「峠の時期の運動が原点だ。そのままいっていたらいまのようにならなかった」と語っていた。峠三吉がねじ曲げられて正しく顕彰されず、広島の被爆者が前面に出られないようになっていたところに、没50年でこんな思いが福屋の会場にあふれかえったという感じだ。
 D 峠については、「ちちをかえせ」は知っているが、ほかの詩はあまり知られていない。「すべての声は訴える」を読むと驚く。詩論などはほとんど紹介されてこなかった。詩論を中心にした峠パネルは新鮮だった。峠はこんなことを書いていたのかとびっくりしている。

   発動した50年8・6路線
 司会 広島の市民を発動した峠三吉と50年8・6路線。これを掘り下げて浮き彫りにすることが重要になっている。
  これまでの宣伝もふくめて峠三吉と50年8・6の路線が全市的に揺るがしている。「すべての声は訴える」が5万部配布されたという影響は小さくない。感謝の電話をかけてきた人、リーフをもっとほしいという人も出た。小泉も平和公園に来て顔色がなく、広島に1時間もおらずに一目散に帰っていった。マスコミもこのたびは峠三吉について、おかしなことを書けなかった。
 B いままで原爆のことを知っていたつもりだが、全然違っていたというアンケートが結構多かった。
 G 女学院の高校生が「広島の平和教育でずっと勉強して習ってきたことと違っていた」と2時間くら話しこんでいた。被爆者のなまの声にふれたことがなかったという。彼女は姉妹校の外国人といっしょに慰霊碑を回っていて、たまたま懸垂幕を見て入ってきたが、「ずしっと訴えるものがある。外国人もふくめてこれを見た方がわかる。自分の学校でも全校に見せてほしい」と話していた。
  広島出身の大阪芸大の学生も、「おばあさんから体験を聞くが、これまで習ってきたものと全然違う。悲惨さばかり習って、戦後廃虚のなかから復興してきた力とか、生きた人間がいないと思ってきた。原爆ドームの前での子どもたちの写真や、“廃虚の苦しみから”パネルを見て、「ぼくは生きた人間を演劇に生かしたい」といっていた。
 B 関西大学の広島出身の女子学生が、卒論で「原爆は風化したか」をテーマに書くために来たという。「原爆は風化していない」というとびっくりして「広島にいて風化したと思っていた」と語っていた。彼女はビデオを持って8・6集会にも来ていた。広島の被爆者不在の「平和教育」だ。
 
  教師の参観目立つ 教育の原点見いだす
 司会 教育界の問題意識もとりくみ過程でかなり出ていたが、会場にも教師はけっこう参加していた。どんな問題意識だっただろうか。
  佐々木禎子さんの死をきっかけに原爆の子の像の建設運動を発展させた50年代の「平和をきずく児童・生徒の会」のニュースが展示されたが、中学校の国語の教師がコピーしてほしいといってきた。「いまの平和教育は年中行事化していて、内容が薄れている。あの新聞を見て、当時の平和教育の原点がありそうだと思った。この資料を同僚と研究したい」という。「50年ごろは米軍占領下でもっといまより抑圧があっただろうが、体をはってのびのびやっていた。当時の人たちは純粋で燃えていた。いまの教組は平和教育というと監視がきて抑えられるので、ものすごくちぢこまっている。生徒会も抑圧されているが、当時の子どもの書いている文章はのびのびしている」と語っていた。
  あの時期に平和教育の原点があるということは、1つの世論になっている。
 B 当時の子どもの作文は読まれているが、それを指導した教師がどのように指導したのかはあまり知らされていない。当時作文指導をしていた西原忠先生が書いたものを見ると、原爆で親や家族、兄弟が全然いなくなってみなし子になるという状況のなかで、子どもたちに生きぬいていく力を与える綴り方教育の指導がある。子どもたちにそういう力を与えてやるのが教師の使命だとすごい愛情を持ってやっている。そういう指導がやられたことが広げられないといけない。西原先生も峠三吉の方向に感銘して、子どもを指導している。そして『原子雲の下より』までいった。いまの子どもたちもすごい状況に置かれているが、広島の教師がそこを原点にしてやっていけばいまの状況を変えられる。
 D 峠らが運動していたちょうどその時期、禎子の原爆の子の像建設の運動があったが、大衆的な基盤をもって発展していった。
 F パネルにある荒神小学校の青空教室で教えていたという女の先生が来ていた。長田新の『原爆の子』の手記を子どもに書かせたという。「当時は教師も戦争体験者で、子どもたちも戦争体験者だった。だから、絶対戦争はいけないというのは自分たちの信念だった。いまは言葉では“平和、平和”と出るが信念がない。当時は“平和”という言葉はほとんど使わなかったが、先生の生き方に戦争反対の思いがあった。いま変な子どもが生まれてくるのも、教育のなかに信念がないからだ。先生自身が言葉でいうだけでなく生き方としてシャンとしておれば子どもはついてくるんじゃないか」といっていた。
 現役の方では、広島市内の40代後半の小学校教師が「いまの平和教育は教育委員会から予算がおりてこない状態になっている。いままでは、語り部のお礼にいくらなどと予算でおりてきていたので予算を使わないといけないとやっていた面もあったが、いまは伝えていくことをどれだけ踏んばって守っていけるかという良心が問われている」といっていた。「資料館から資料を借りて子どもたちに見せていたが、それだけではいけないと思って、きょうは見せてもらった。平和教育もこういうパネルの内容、角度から子どもに教えていかないといけない。学校での展示を来年にでも考えたい」といっていた。
  平和公園で、京大の学生がものすごく暑いなかをずっと見て回って、「自分はいままで支配者の側の歴史しか知らなかった。受験勉強で覚えやすいものだけをやっていた。それがショックだった」といって、その足で資料館を見に行った。帰ってきていっていたのが、「資料館は全然違っていた。いっぱい平和という言葉はあったけど、それにぼくはうさんくささを感じた。平和ならアメリカも平和という。このパネルは思いが違っていた」といって、その後、福屋に行きつぎの日の小中高生平和の旅で体験を聞いていた。

  影薄かった文化知識人 現実離れの転換が急務
 司会 インテリや文化人はあまりめだたなかったようだが、影が薄かった。
 F 県立女子大の教授が岩手大学の教授を連れて来ていたが、あまり感想は聞けなかった。
  修道大学の平和学会の研究会に参加していた教授もあまり話さないで、評論集と詩集とパネルを買ってスーと出ていった。
 C 元広島大の教授は「すごい人ですね、あんなに見に来ているんですね」といって驚いていた。
 G とりくみの前段で大学を回ったときの反応も、「有事法もできて、反対する勢力もいないし、全然ダメで真暗だ」というイメージを持っている。賛同者の名簿を見て「被爆者がこんなに出ているのか」とビックリしていた。
  被爆体験が風化しているという認識なわけだ。
  音楽大学で英語の教官をしていたという人が来た。「自分の母も被爆者だが、アメリカに留学したときに、日本が悪いじゃないか、真珠湾をやったじゃないかといわれていた。わたしはそれは違うと思ってアメリカ人に説明してきた。結局イラク戦争にもなって、8月6日が来るたびに絶望していた。当時のアメリカの学生は食って寝てチョンの生活だったが、日本人の学生もそうなってきた。音楽大学にはピアノしか弾ききらないものがおり、絶望していた。礒永さんの“豊かさは豚の腹”を読んで、そのとおりだと思った。これだけ賛同人がおられることにビックリした」と帰っていった。
 D 峠がいう「山上に奏でる孤独な自我の歌」の世界になって現世離れしている。インテリも、文化人も影が薄くなっているのは1つの問題だ。
  短歌の会のおばあさんらが来たが、峠三吉に感動して元気がいい。底辺のサークルのばあちゃんらは、上でやっている先生方をぼろくそに批判していた。

  全広島代表した斗い 平和の敵アメリカ暴露
 司会 とりくみの教訓と今後の展望について出してほしい。
  「禁」や「協」に代表される平和運動が総瓦解するなかで、たいへん元気よく力強いものがここで出てきたという全市的な喜びがある。どうしてこんなに発展していったのか、平和運動の路線としてはっきりさせることが重要だ。
 峠が体現している50年8・6の路線は、被爆した市民の側に立っているということと、原爆を投下した敵を真正面から暴露して糾弾している。この点が鮮明だ。平和運動のなかで親米潮流がはびこってきていた。市民の側には立たず、アメリカ擁護と美化を平和運動と称してやられてきたということだ。
 「加害者」論に代表されているが、平和教育から資料館からみんなその基調でおおってきた。そして被爆市民が語れないような抑圧になっていた。それを何年間かの努力でとり払ってきた。徹底して市民のなかに入ってその意見を聞き、真の敵にむかってみんなを団結させていくことをやってきて、その頂点が福屋原爆展になった。
 大きくふり返ったとき、第1回下関原爆展が九九年にあって、翌年「原爆と峠三吉の詩」のパネルをつくって旧日銀でやる。さらに全国でもやって福屋に凱(がい)旋した形だ。下関の第1回原爆展も熾(し)烈な斗争になった。原爆展をやるということだけでJRがあれほどの妨害をやる。騒いだおかげで大成功したが、そこからここまできている。
 B 第2回原爆展も斗争だった。峠のパネルを使うのか、資料館のパネルを使うのかが鋭く問われた。被爆者の会のなかでも原爆投下をあばいて語りつぐ使命で団結するのかどうか、すごい斗争になった。
  このたびも峠三吉をかかげて峠が市民のなかに広がることに反対する潮流が飛び出してきた。マスコミもこれを口実に市民原爆展を完全に黙殺した。あれほど大評判になって、運動になっていることを報道しないということは、そうとうに意識していたということだ。
 ことはパネル展示だが、ひじょうに鋭い斗争だ。原爆展というものの質は、平和の敵とのあいだでものすごく鋭いものだ。敵は必死になって策動するが、大衆の方が心を動かしどんどん押していっている。
 政党、政派をこえて平和のために全市民が団結するというのが運動のもう1つの特質だった。大衆の根本利益のためにみんなが団結してやるような、純粋なものでないとダメだというのが全市的な要求になってきた。そういう勢力として受け入れられはじめた。とりくんだ被爆者も、政党や宗教を見ても千差万別だ。しかし、原爆の問題ではみんなで協力してやっている。このような運動が強い。
 運動を党派で利用するということにたいしては、広島では特別にアレルギーがあり、みんながそのいやらしさを思っている。原爆を売りものにして飯を食うというのがはびこってきた。そうでない純粋さ、小集団の利害優先でなく、大衆の利益を実現していく、平和のための運動を純粋にやっていくものが渇望されている。それに市民がものすごく賛同していく。この点で、活動家の体質がもう一皮むけていきはじめると全国的にかなりの運動になってくる。
  ある被爆者が被爆者交流会で「こんな集会に来たこともなかったが、この数カ月間でやらないといけないと思うようになって、哲学が変わった。福屋に参加して、体験を語って新しい出会いを学ばせてもらった」と発言していた。こういう人もふくめて、とりくんだ被爆者は共通して峠三吉には絶大な信頼を寄せ、「禁」「協」は大嫌いという。

  純粋に大衆のために   
  被爆者がほんとうに主人公になったということと、組織力を持った勢力が自然な形でピシッと一致している。ポスターをくまなくはりめぐらしたり、チラシを戸別配布したりするのは、組織力を持ったものでないとやれないということと、そのなかで市民の勢力が主人公になってやっていく。別にあれこれ、差し出がましいことはいわないで、それぞれがみんな自分の思いでやっているが、峠のパネルの方向で一致してやっていく。福屋についても、福屋の意志をおおいに尊重して、それに合わせた。むりやりひき回すことは全然なかった。そういう型でやっていくと、市民の支持を受ける。
 徹底的に大衆のなかに足を置いて、大衆の利益を具体的に代表して原爆投下者アメリカと真正面からたたかう。しかも現在のアメリカによる原水爆戦争を押しとどめる力にする。これを政党政派をこえて、全体の利益を代表してやっていくことだ。1950年の斗争も大衆のなかでの活動を基盤に置いている。たんに中国地方からデモ隊が集まってやったというものではない。その前段で、街頭での写真展示や、ビラ配布などもすごくやっている。あの当時配布された『平和戦線』原爆特集号は5万部印刷された。そういう基盤のうえで、討論をしながら労働者が動いた。当時はまだ、被爆者はほとんど表面には出ていない。差別も強いし抑圧、弾圧も強いから、原爆についてはいえなかったが、心ではものすごく喜んでいた。いまや、市内中の被爆者が語りはじめている。戦後の歴史上、これほどのことはなかった。広島の戦後史を画するところにきている。
  当時の関係者はとりくみ段階から、「50年当時は被爆者はまだ登場していなかった。これはすごい情勢になっている」と語っていた。
  広島ではいまの会を充実させたいというところから、運動方向への関心が高まっている。
  1つは、この峠のパネルの原爆展を地域、職場、学校などいろんなところで、もっと広げていくことをみんな望んでいる。それは同時に、被爆体験を語り伝えるというのもみんなの願いだ。峠の詩を広げよう、鑑賞しようというのも共通している。そういう方向で発展させようとなっている。そういう事業を無数にやっていくうえで、党利党略をいっさい排し、純粋に私利私欲なくみんなのため、平和のためにやるものが運営するというのも合意できることだ。被爆者がそうとうに本気になってきているし、若い人たちも、スタッフとして登場してきている。

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