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全国に巨大な影響与え閉幕
広島市民原爆展5千人超える参観
             広島の本音を伝え外国人も心動かす  2004年8月10日付
 
 広島市中区基町のメルパルク(郵便貯金会館)で7月27日から開催されてきた「原爆と峠三吉の詩」広島市民原爆展は5、6日には2000人をこえる参観者で会場は埋めつくされ最高の盛り上がりとなり、8日には大成功のうちに閉会を迎えた。13日間で参観者は5000人をこえ、パネル冊子は1000冊、カンパは40万円が寄せられた。広島市民原爆展は、広島の被爆市民が使命感に燃えてその体験を若い世代、全国、世界の人人に語り、現実の原水爆戦争の危険性と運動の衰退のなかで、その打開を求める強い問題意識を持った人人がつめかけ、真に原水爆を禁止する平和運動の発展を確信させるものとなった。 

 確信に満ちた閉会の集い
 最終日の8日午後5時すぎから原爆展会場で、主催者とスタッフ、最後まで参観していた人人をまじえて閉会のつどいがもたれた。
 はじめに、主催者を代表して、原爆展を成功させる広島の会代表の重力敬三氏があいさつ。「13日間の連日の奮斗とさまざまな支援のもとで、5000人をこえる参観者を得て大成功した」と喜び、広島と下関のスタッフの労をねぎらうとともに、「この運動がさらに大きな力となって、世界平和の輪となって、世界の人人が安心して仲良く暮らせる日が来るようがんばらないといけない」と力強く訴えた。
 同じく共催者としてあいさつに立った下関原爆被害者の会の佐野喜久江副会長は、「広島の会の人人の尽力によって大盛況となり、下関のものも喜んでいる。わたしも語らせてもらったが、皆さんが熱心に聞いてくれた。今後とも広島と手をとりあって平和運動をつづけたい」と発言した。
 その後、全国、世界からの参観者に体験を語った被爆者や、実務を担ったスタッフから感想が出しあわれ、ともに市民原爆展の成功を喜びをもって確認しあい、この運動に確信をもって、さらに大きな運動へと飛躍させる決意があいついだ。
 連日会場につめて体験を語りつづけた真木淳治氏は、「原爆展をとりくむにあたって、地元広島の被爆者ががんばらねばならないと初日から語ってきたが、真剣な反応に励まされた。いまからも若い人たちのために語りつぐこの道をしっかりと見きわめていきたい」と確信こもる抱負をのべた。
 沖本繁雄氏は、「福屋のときより目的意識をもった人人が全国から訪れ、内容の濃い原爆展だった。いろんな人人がいること、その思いを知らされた。世界がたいへんになっているなかで、人人の意識がもりあがっている。これにお役に立ちたい」と語った。
 市内の婦人は、「炎天下のなかでチラシをまき、お世話する人人に感銘を受けた」こと、「この原爆展をつうじて広島の会の被爆者の精神力、廃虚からはいあがって生きてきた人間の力を感じた」とのべ、「全国から世界から多くみえ、大成功だと思う」と発言。連日世話をした神原島子氏は大きな成功を喜び、「今後ともみなさんとともにやっていきたい」と感動をこめて、あいさつした。
 最後に大学生の筆本聡氏が、「とりくみのなかで被爆者のパワーを感じた。戦後59年を生きぬいてこられた力だと思う。広島の若い世代がもっと知るべきだ。ぼくたち若い世代はもっとパワーを持っており、もっと力を発揮しなければいけない。自分の生まれた広島、日本という国になにがあったか、起こったか考えていけるようにしたい」とはつらつと感想をのべた。
 司会の竹村伸一氏は、「昨年以上に内容の濃い原爆展になったと思う。全国キャラバンもやられてきたが、市民原爆展はさらに全国的な影響を広げるものとなった。来年の大きな原爆展にむけて奮斗しよう」と訴え、広島の被爆者と若い世代がさらに連携を強めて力強く前進することを誓いあった。  

 最高の盛り上がりとなった5、6日
 広島では5、6日と地域や学校での慰霊祭がおこなわれ、親、兄弟、肉親の墓に花を手向けて厳粛な面持ちで会場を訪れる被爆者、遺族も多かった。亡くなった母親を慰霊したあとに痛む足をひきずりながら会場に来た被爆婦人は、「アメリカが憎い、許せんですよ。アメリカは謝罪もしないで、イラクでもまた人を殺している」と激しく語り、「峠さんだけはわたしらの気持ちを書いてくれている。峠三吉さんの詩が好きで去年も福屋へいったんです」と冊子を買い求めた。
 当時、広瀬地区に住んでいたという70代の男性は、家族全員で光に疎開する予定が、光工廠の空襲で危ないということになって広瀬に残り、自分だけが学童疎開で三次にいったことを話し、「お母さんがズルズル剥けでひどかった。自分は学童疎開で会えず、弟も亡くなっていた。戦後は忘れよう忘れようと思い、ずっと逃げてきた」とふり返っていた。しかし「逃げてはいけない。むきあっていこうと思う」と3年前の旧日銀原爆展や福屋原爆展をみてきたことを語り、「衝撃的だったのがなぜ下関の人たちがやって、広島がやらないのかということだ。これからの若い人たちのためにやらないといけないし、若い人たちにがんばってもらわないといけない、前前からこの運動はすごいと思ってきた」と心底の思いをはき出すように語った。
 夫婦で花を片手に参観していた70代の男性被爆者は、「修道中学2年だった弟を毎日のように捜しつづけた。雑魚場町の建物疎開に出て被爆したことを聞き、毎日、毎日転がっている死体をひっくり返して名前を確かめて回った。五日目にやっと弟をみつけたが、カボチャのように唇は膨れ上がり、わたしに“ピカッ あっB29だ!”と当時の様子を語ろうとして、そのまま死んでしまった。こんなむごいことはない」と無念さをにじませ、「アメリカに謝罪を求めることは当然だ」と激しく憤りをぶつけた。
 展示品を丹念にみていた70代の男性は、勤労動員で1・6キロ地点から爆風で飛ばされたこと、斑点、血便、血尿が出てピカの毒が出たのだろうと今日まで生かされたことを語った。「原爆を落としたものも、落とされたものもほんとうのことを知っていたのに隠した。アメリカの残虐にたいして被爆者のなかで風化なんかありえなかった」と言い残し会場を後にした。
 会場には、5、6日に開かれた原水禁、原水協の世界大会に参加した全国の人人が多く参加した。とくに六日には、「この原爆展はぜひ見に行けといわれた」といって参観し、自分たちの運動の行き詰まりのなかで、広島の被爆者が積極的にとり組んでいることなどへ衝撃を受け、平和運動の展望を得たという反響がおこった。

 50年8チ6斗争のパネルに注目
 全国からの参観者のなかで共通して語られたのは、無表情な資料館とは違い、被爆市民の痛みや苦しみが胸に迫ってきて、わき上がるような感情で原爆投下への許せない思いがふつふつとわいてくること、このような運動でないといけないということが共通して出されていた。
 「戦争終結のために原爆投下は必要なかった」パネルは、今日のイラク戦争や自衛隊派遣問題とも重ね参観者が釘付けとなり、原水爆禁止の運動がビキニ事件に先立つ1950年の広島のたたかいに原点があったこと、その内容の新鮮さが衝撃を持って受け止められた。
 静岡県から原水協大会のために来ていた婦人は、「第5福竜丸をめぐって毎年のようにとりくんでいるが、人人の関心が薄い」と孤立感を語った。「静岡でも党利党略がひじょうに左右していることを感じる。50年代の運動を勉強したい」と書籍を購入した。
 岡山から訪れていた20代の青年労働者は、パネルが胸に突きささるほど衝撃的だったことを語ったうえで「アメリカは無力な市民を無差別にやった。いまのテロといっしょで無差別テロだ。いちばん強いことを印象づけ、世界でトップでないといけないという姿はいまとかわっていない」と語り、「いま何ができるのか、何をしたらいいのか、どこかで歯止めをかけないでどこかに頼っていていいのか」と50年代の原点に立ち返り、戦争を阻止する力ある運動を切望していた。
 地元広島にすむ60代の婦人は、鳥肌が立つような思いだったと語り、「黙っていてはいけない。黙らされてはいけないと感じた。広島で運動が2つにわかれているのをみるとひいてしまう。原爆投下以後、アメリカによってすごく巧妙にやられてきたことをはじめて知り、いまもまたおかしな時代になっているから、ほんとうに黙らされてはいけないという気持ちがわきあがってきた」といい、自分も1歩を踏み出したいと語った。
 全国から訪れた大学生などが真剣に被爆者の話を聞く姿も連日のようにつづき、被爆者のなかでもそのことが喜びと同時に確信に変わり、語る被爆者の意欲も日を追うごとに強まっていった。
 平和式典に参加し会場を訪れていた50代婦人は、「式典で小泉首相が発言したが一つの拍手もなかった。“被爆者のために尽くしてきた”といいながら、戦争をすすめ、憲法を改定することをやっている。普通の感情の持ち主では恥ずかしくて広島にこれない。この被爆者の思いを知ったら絶対にそんなことはできないはずです」と思いを語った。
 広島市民原爆展は、市内からも全国からも、外国からも、強い問題意識を持った参観が相次ぎ、被爆市民の奮闘と結びついて、「広島の本当の心を若い世代に、全国、全世界に伝え」、平和勢力の大結集にむけて画期的な成功をした。

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