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広島市民原爆展の準備すすむ
           8月1〜7日 メルパルクで開催  2005年7月9日付
 
 被爆60周年を迎える今夏、「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会と下関原爆被害者の会は8月1日から7日まで広島市中区のメルパルク(郵便貯金会館)で開催する広島市民原爆展の準備をすすめている。同じ被爆地・長崎で開催された峠三吉の原爆展で60年の沈黙を突き破って「祈りではなく怒りだ」と長崎市民が激しく語りはじめたことは広島の被爆市民のなかでも大きな喜びとなっている。そして世界唯一原爆を受けた広島と長崎が、もっとほんとうの思いをあらわすこと、原爆で親兄弟を殺されたことへの憤りを新たにその意欲を強めている。

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 広島ではポスター、チラシによる宣伝が開始され、賛同者や協力者をつうじて店先や町内会の掲示板へはられはじめた。5日現在で賛同協力者は153人となりさらに広がっていくすう勢となっている。
 爆心地近くの十日市町では当時2歳8カ月だった60代の被爆婦人が、原爆で兄と母2人を亡くしたと語った。「兄はその朝服を着替えているときに原爆にあった。兄は階段の下で下敷きになり、母も家の下敷きになっていた。母はそこからはい出したけれど、左のお腹のあたりに穴があいて、“お母ちゃん助けてー”と叫ぶ兄を助ける力もなく火が回ってきて兄を置いて逃げたそうだ。疎開させていた下の子も心配だったといっていた。父の弟のおじさんが己斐に住んでいて、そのおじさんが母たちを捜して大八車で母を迎えに行き、母はひん死の重傷で21日に亡くなった。兄は焼けこげが残っていたのでまたあとから焼いたそうだ。おじさんは亡くなるときに“しっかりと供養してくれ”といって亡くなった」と話した。
 また近所のおばさんは、市女にかよっていた娘さんが「行ってきます」といったのが最後で帰ってこなかった経験を持っていること、毎日娘を捜し歩いてとうとう骨も見つからず、おばさんはお地蔵さんを建てて、娘さんのかわりと思って供養していたと話した。
 「わたしは兄と母を原爆で殺された。いまのイラクの問題でも、なんでアメリカについて自衛隊を送らんといけんか。アメリカの機嫌ばかりとってからと思ってきた。八月になれば広島は騒がしくなるけど、わたしはあれが嫌いだ。8月だけ来て騒いで理屈をくっつけて話をされても、的がずれている。わたしは理屈もなにもない、兄と母と殺したアメリカが許せないという思いだ」といった。
 また「最近でもマンションを建てるときに骨が出てきて、お茶碗とかもいっしょに出てきた。原爆が広島の生活の上に落とされたんだなということを実感する。兄はさぞかし無念だったと思う」と語り賛同協力者に名をつらねた。
 皆実町に住む89歳の男性被爆者は、吉島本町の中国塗料で被爆し、その後市内を歩き回り人を助けていった経験、そのなかで見た無残な惨状を堰(せき)を切ったように語った。
 「工場から逃げ住吉橋まできたとき、山陽防腐木材があり、火の手が竜巻のようにして川の筏(いかだ)の上に避難していた人人をのみこむようにしていった。あとから見ると川の死体といっしょに流れたのか見えなくなっていた。建物疎開に出ていた中学生が帽子をかぶっている部分だけを残して顔面から身体中焼かれていたり、女学生がブルマのゴムひもだけを残して死んでいたり、見るのもかわいそうだった。2人の人が川岸から逃げて来てそれを助けようと背中に手を回すとズルッと皮がむけるようなひどい状態だった。義兄の兄の子どもも中学1年で建物疎開で大やけどを負ったが助かった。三篠の竹藪のなかにたくさんの被爆者が避難していたり、工兵橋の下に兵隊さんがやけどで膨れ上がっていてかわいそうじゃった」と話した。
 そして「岩国基地の問題でもアメリカが自分勝手、好き勝手なことをやっている。被爆におうたものは悔しがっているはず。戦前はあれほど鬼畜米英といってわしらもやってきた。戦後すぐのときは“鬼畜米英”と書いて、“この仇を絶対にとってやる”と電柱のあちこちに書いていた。みなそういう思いだった。ほんとうにつらい思いをしてきた者はそう簡単にアメリカに降伏できんですよ。そうやってみな60年も胸に思ってきているはずだ」と賛同し、子どもたちにも話ができればと話していた。

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