トップページへ戻る

記事の一覧へ戻る

市民原爆展の勝利に確信
峠の復権と共に市民が語る
                 広島市民原爆展主催者会議      2003年8月23日付

 原爆詩人・峠三吉没50周年を記念して広島市内のデパート福屋で開催された「広島市民原爆展」(主催「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会・下関原爆被害者の会)のとりくみを総括する主催者会議が20日午後2時から、東区の二葉公民館で開かれた。会議には、このとりくみの中心を担った被爆者を中心に、会期中受付や案内などを担当したスタッフや、下関原爆被害者の会の被爆者、下関原爆展事務局のメンバーら25人が参加。市民原爆展の成果や課題について活発に論議し、市民原爆展の成果のうえに広島での継続した運動をさらに発展させる方向について語りあった。
  
  市民から大きな喜び 連絡や手紙相次ぐ
 冒頭、主催団体の原爆展を成功させる広島の会の重力敬三代表世話人があいさつ。「“石の上にも三年”というが、旧日銀での原爆展や各地域での原爆展を開催し、広島の面目を一新してきた」とのべ、「福屋本店での開催は、7000人が参観し大成功した。広島の人たちが立ち上がってきたが、これからどうしていけばよいか考えていきたい」と訴えた。
 下関原爆被害者の会の伊東秀夫副会長は、下関からはじまった「原爆と峠三吉の詩」原爆展が全国1000カ所で開催され、広島の尽力によって福屋で大成功した。広島の市民がアメリカの原爆投下の残虐非道な仕打ちを心から憎み、平和を願っておられることをハッキリと示した。これを出発点に今後とも協力してやっていきたい」とのべた。
 とりくみの実務を担当した下関原爆展事務局の杉山真一氏が「広島市民原爆展の概況報告」をおこなった。杉山氏は、とくに「被爆者がこれほど一堂に集まって語ったことは戦後はじめてのことといえる」「峠三吉を市民の手にとりもどすうえで寄与することができた」ことをあげ、「広島全体が動きはじめた」ことを具体的にとりあげて強調した。
 論議ではまず、広島の会事務局から、市民原爆展のあと主催者に「よい催しをやられた」という連絡がひっきりなしにかかるなど、市民のなかで大きな喜びとなっていることや、岩手県から寄せられた、「かならず東北の地で原爆展を開かせていただきたいと思います」という手紙も読みあげ紹介された。
 さらに、会場でくり広げられたエピソードや感想がつぎつぎに出された。
 大野町の被爆者は、「原爆展会場に来てその被爆者の思いをはじめて知った」と語っていた女子学生からお礼の手紙が届いたと報告。「大学生に気持ちが伝わった」と喜びをあらわした。
 南区の被爆者は、原爆展開催中に県立工業学校時代のカバンや教科書が遺族から資料提供されたが、教科書の裏に一学年上の同級生の名前があったことから、他の同級生たちも誘いあって参観、その場で遺品を提供してくれた婦人と話になったことを紹介。友人が送ってきた手紙と写真を参加者に回覧しながら、「つぎの同窓会でも、写真とあわせて話そうと思う。少しずつでも輪を広げていきたい」と感動の面持で語った。
 開催中に毎日のようにスタッフとして受付を担った80代の女性は、「たくさんの被爆者のみなさんが来て話してもらってよかった」と話し、「下関からたくさんの子どもたちが来たが、もっと広島の子どもたちにも来てほしかった」と地元の子どもたちに語りつぐことを今後の課題としてあげた。
  
  “もっと伝えたい”確信深める被爆者
 ここから、これまで語ってこなかった多くの被爆者が体験を語りはじめたことについて論議が発展した。
 中区の70代の被爆者は、「自分もそうだが、みんなが口を開き出した。このことが一番大きな成果だ。まだまだたくさんの被爆者がいるし、口伝えでも広げていきたい」と感慨深げに語った。廿日市から参加した被爆者は、「これまで語ることへの重圧がすごくあった。被爆のことをかくさなければ結婚、就職できない時代だった」とのべ、被爆者であることを知られないようにしてきた実情を語り、「残りわずかな命、語り残すために多くの被爆者が語り出している」と発言した。
 はじめて体験を語った西区の婦人被爆者は、「子どもができるときは、内心原爆症が出るのではないか」と不安を持ちつづけながら生きてきたことを語った。南区の被爆者は、子どもたちに語ることのむずかしさを感じながら、「語ってよかった、今度はもっと伝えていきたい」と今後も積極的に原爆展運動に参加する意志を示した。
 これに関連して、府中町の被爆者は、「原爆の経験を話すことによって同情を得たいのではないかととられるのがいやで話さない人もいる」とみずからの経験とも重ね話した。そしてアンケートに記入されていた「これ(原爆)もアメリカの侵略の手段であったことを日本人は明記すべきです」という一文を読みあげ、「アメリカは日本になんの大義名分もなく戦争はできないから、画策した。その結末が原爆だと思う」と語り、アメリカの原爆投下の目的をハッキリさせなければならないと強調。さらに「イラクも同じだ。このような時代になって、被爆者のなかで波風をたててでも語りつがねばならないとなっている」と話していた。
 その後の論議では、原爆への怒り、アメリカへの憎しみを胸に秘めて五十数年語らずにきた被爆者が会場に来て、被爆市民の思いを代表してうたった峠三吉のパネルにふれることで、「自分1人の思いではないんだ」と堰(せき)を切ったように語ったこと、パネルを中心にした会場全体が安心して語られる雰囲気だったことも語りあわれた。
 事務局スタッフからは、パネルを見終わった被爆者が「自分もなにかしなければいけない」という思いにかられ話したそうにしていたので声をかけると、平和の旅の子どもたちに語るようになったこと、「中学1年生のときに動員に出されて被爆した。その当時のことを思い出すと涙が出てうまく語れずにきていたが、その気持ちを子どもたちに伝え、“自分のことばっかり考えたらいけない、人のためになることをやらないといけない”と訴えると子どもたちに響いたみたいで、感想にもそのことが書かれていた」とのべていたことが紹介された。

  “峠を前面に出し安心して語れた”とも
 中区の被爆者は、「会場に来る大半の若い人が峠三吉について知らなかった。そのことを再認識し、そのつもりでもっと広げなければならない」と、峠三吉がこれまで知らされてこなかったことへの反省を出した。同時にこのとりくみをつうじて広島市民のなかで峠三吉への理解と認識が段階を画して深まり、浸透したことも大きな成果として論議になった。
 「わたしも、峠三吉については“ちちをかえせ”ぐらいしか知らなかったが、よくもあれだけ被爆の惨状がどうであったかを書けたものだ」(府中町・被爆者)、「峠三吉を普及、紹介することにも重圧があった。それは被爆体験を語ることへの抑圧と一体のものだった。このたびの原爆展で、峠三吉を前面に出したことで安心して語れるようになった」(下関原爆展事務局)などの意見も、参加者の共通の思いとしてかわされた。
 これとかかわって、「峠三吉を顕彰する」と称して峠三吉の作品と業績が市民のなかに広く普及されることに反対する一部の潮流の妨害もあったが、「すべての声は訴える」のように峠三吉の詩を忠実に再現し、広く宣伝することで峠三吉についての市民の信頼と尊敬がいっそう強まり、詩集も300冊余りが普及されるなど、市民の世論で福屋での原爆展を成功させたこと、8月6日の祈念式典で、子どもが峠三吉の詩をはつらつと朗読したことに市民が喜びを語りあっていることも論議になった。
  
  峠の時期の運動へ 純粋な継承広げる
 その後この市民原爆展の成果から、今後運動をどのように広げていくのかにも論議が発展した。
 広島の事務局から、「峠三吉のパネルで原爆展を継続して地域、職場、学校で広げること、被爆体験を若い世代に語りつぎそれを記録に残していくこと、峠三吉の作品を鑑賞し広げることが求められている。その運動の中心に立つ人は、党利党略を排して、全体の利益のために私心なく運営することが重要だ」と今後の運動の方向を提起、新たな活動母体のあり方について意見が出された。
 ヘルパーの仕事をしている26歳の女性は、「原爆や過去の戦争について学ぶが、そういうことを話す相手がいない。20代、30代が意見をいえる場をつくることも重要になっている」と指摘。さらに「学校教育では近現代史は教えられない。わたしたちのルーツである日本人としての歴史を知らなければならない、もっと勉強していきたい」と語った。
 また、被爆者から共通して原爆展に広島の子どもの集団参加がなかったことが反省として語られ、「広島の教育」の問題についても「子どもたちにほんとうのことを語り伝えることができるように運動をすすめることがたいせつだ」「学校現場でも校長にたいする圧力がある」など、活発に意見がかわされた。
 婦人被爆者も「わたしたちが話していかないと伝わっていかない。そのために語らなければいけないですよね」と葛藤(かっとう)しながら話す姿も見られた。
 府中町の被爆者は、原爆展を広げることで、継承し、平和への道を広げることと、アメリカの原爆投下の目的をハッキリさせなければならないと再度、強調した。
 参加者からは「原爆展で広がった影響を大きくしていきたい」「諸団体との連携も広げていったらいいのではないか」などの意見も出された。この点とかかわって、「被爆者といって要求するばかりで、不純性を感じさせる団体が多い。純粋に原爆展をつうじて伝えることをやっていきたい」「広島では原水禁や原水協が被爆者のなかでダカツのごとく嫌われている。それは原爆反対の運動を党利党略に利用してきたからであり、そうではない純粋な峠三吉の時期の運動をやっていくことだと思う」などの意見が活発に出された。
 また、50年代の純粋な時期の運動を経験し、その後の分裂を見てきた南区の被爆者は、「禁や協がやった、あのような忌まわしいことは、この会には持ちこまないでほしい」と切実に訴え、峠三吉の原爆展を軸に継承活動を積極的に広げていく今後の会の展望ともかかわって大きな方向性を示すものとなった。

トップページへ戻る

記事の一覧へ戻る